噛みつき評論 ブログ版

マスメディア批評を中心にしたページです。  姉妹ページ 『噛みつき評論』 もどうぞ(左下のBOOKMARKから)。

報道の雪崩現象が民主を潰す

2010-05-31 10:02:30 | Weblog
 食品の消費期限や賞味期限がひとたび問題となるとメディアの関心はそれに集中し、それまで見過ごされていた些細なことまで大きく報道されます。産地偽装問題も然(しか)り、環境ホルモン問題もまた然りであります。産地偽装は良くないことですが、騙されているとも知らずに美味いと満足している客もいるわけで、一面トップで大騒ぎするほどの大問題ではありません。

 ひとつの問題に関心が集まると同種の問題はニュース価値が増加し、大きい報道がさらに関心を呼ぶという、増幅していく循環現象(ポジティブフィードバックといい、不安定化の要因になります)が起こります。その結果、ひとつのテーマに報道が集中する現象が生じるわけです。

 このところの報道を見ていると、鳩山政権は失態に次ぐ失態という印象があります。少しくらいは良い点もあるのでしょうけど、報道ではあまり見えません。現在は「ダメな鳩山政権」というテーマに最大級のニュース価値があるためでしょう(むろん良いことがまったくなしということも考えられますが)。

 鳩山政権が1日でも早く潰れる方が日本のためになると思っている私には、ネガティブな報道はいっそう耳に心地よく響きます。

 最近の調査では鳩山内閣の不支持率は支持率の3倍以上であり、視聴者の大部分は鳩山内閣を支持していません。このような状況では政権の失策などのネガティブなニュースが視聴者に「受ける」わけであり、メディア各社はこれでもかとばかり、ネガティブ報道を競います。

 これがさらに支持率の低下を推し進め、最終的に支持者として残るのは鳩山政権や民主党を「信仰」する層だけとなるでしょう。こうなると余程のことがない限り、逆転は難しくなります。

 昨年の衆院選の前、多くのメディアは民主党に好意的な報道を続け、それに乗せられた国民は期待感をもち、民主党大勝の一因になりました。そして8ヶ月後の今、民主党に加担したメディアは鳩山政権批判を繰り返しています。鳩山政権批判は当然のことですが、結局のところ、メディアは粗悪品を素晴らしいものに見せる無責任な広告屋の役割を果たしたに過ぎず、我々はメディアに振り回されただけということになります。

 無能というより有害というべき鳩山政権の誕生に大きな力を貸したマスメディアが責任を感じて、いま政権批判をしているのならばたいへん殊勝なことですが、恐らくそうではなく、力を貸したのは単なる評価能力の欠如、政権批判は読者・視聴者に「受ける報道」という骨の髄まで染みついた性癖の現れと見るべきでしょう・・・困ったことですが。

党首として沖縄訪問は子供の理屈

2010-05-27 10:01:39 | Weblog
 抑止力に関する自らの「無学」が招いた結果とは言え、鳩山首相は基地移設問題で激しく燃え上がった沖縄住民の反応によってはなはだ困難な状況に陥っています。その最中、閣僚である福島大臣が沖縄訪問して、まだ火勢が足りぬとばかり「火をつけて回って」いらっしゃるそうです。これは基地の辺野古移設を決めた政府の足を引っ張ることであり、閣僚としての鳩山内閣への背信行為です。

 社民党党首として沖縄を訪問したので問題ないというのが福島党首のご主張のようですが、小学生の理屈のようで、どうもこれが納得できません。ひとつの人格を党首と閣僚という二つに都合よく「分割」できるものでしょうか。

 この場合、党首としての職務を優先すれば閣僚としての職務を損なうことになります。逆も同様です。二つの職務の要請が相反する状態、つまり利益相反ということになるわけです。原発を推進する立場で仕事をしている人間が原発反対運動にやってきて「今日は市民運動家として参加します」と言っているようなものです。A社の役員が競合関係にあるB社の役員を兼ねるようなものと言ってもよいでしょう。利益相反行為は一定の範囲内のものは不法であるとされ、法による規制対象にもなっています。

 閣僚が内閣に背く行為をする場合は、閣僚を辞してからするのがあたりまえのやり方です。鳩山首相もずいぶん甘く見られたものです。そして、それに呼応するかのように鳩山首相は福島党首のご期待に十分お応えになっています。

 福島氏の背信行為に対して鳩山首相は不快感を示しながらも「私としては、党首としての発言はわかります」と理解を示しています。公然と内閣の足を引っ張る行為に対してこの寛容さはちょっと理解できません。党首の立場であろうが、内閣の仕事を妨害する人間はクビにするのが普通の社会のやり方です。

 正々堂々と背信行為を働く閣僚、それに対しクビも切らず、逆に理解を示す首相、範となるべき政治のトップレベルでこのような異様なモラルの有り様を見せられるといささか不安になります。「友愛」あるいは「みんななかよく」なのでしょうけれど、どこかで見かけた「鳩山幼稚園」という言葉が浮かびました。

裁判員の理解能力は3/115なのか

2010-05-24 10:11:53 | Weblog
 入院中の娘の点滴に水を入れて死亡させたとして母親が傷害致死などの罪に問われ、9日間の日程で行われた裁判員裁判で、京都地方裁判所は懲役10年の判決を言い渡しました。常識では考えにくい異常な事件であり、被告の精神状態は重要な要素であると考えられます。

 精神鑑定が行われたのは、刑法第39条の「心神喪失者の行為は、罰しない」あるいは「心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」に該当する可能性があったと判断されたからでしょう。精神科医によって結果は115ページの鑑定書にまとめられました。しかし、裁判員にわかりやすくするため、115ページの鑑定書は3ページに要約され、それだけが証拠として採用されました。時間の制約もあるのでしょうが、たったの3ページとは一般市民の理解能力はずいぶん低く評価されたものですが、これは裁判所の姿勢を示すものと考えられます。

 裁判の資料として3ページの要約で十分とされたわけですが、元の115ページの鑑定書には事実やその解釈、結論に至るまでの理由が詳しく書かれていたことと思われます。要約は恐らく結論が中心で、そこに至る過程が大きく省かれたと考えられます。裁判員は鑑定書の結論が妥当性であるかを判断することができたのでしょうか。これでよいのなら今までの詳細な鑑定書は無駄であったことになります。

 精神鑑定はその結果によって死刑にも無罪にもなるほど重要なものですが、鑑定者によって結果が大きく異なることが珍しくなく、高い信頼性のあるものとは言えません。曖昧な領域に無理やり線を引くという作業であり、主観性を排除することは困難です。従って結論に至る過程の開示は重要だと思います。

 裁判員裁判では裁判員にわかりやすいこと、予め決められた短い期間に終わらせることが要請されます。そのための簡便化が3ページの要約なのでしょうが、裁判の本来の機能である被告を正しく裁くという点が軽視されているように思われます。裁判員にとっては数日間の問題ですが、被告にとっては数年、場合によっては命にもかかわる問題です。

 裁判員裁判が台風の襲来のため3日間の予定が2日間に、4日間が3日間に短縮されたことはありますが、数百件の裁判の中で審理が思わぬ方向へ進み、確認のためなどで延長されたという話は寡聞にして存じません。時間管理が優秀なのでしょうけど、審理途中での期間延長が裁判員の不満に結びつくことを恐れたためという心配はないのでしょうか。

 裁判員制度開始からほぼ1年、裁判員経験者の「良い経験になった」などの意見を載せるなど、マスコミには同制度に対する好意的な評価が目立ちます。しかし多くは裁判員など、裁く側からの視点であり、裁判の主人公である被告側の利益という視点に立つものがありません。裁判は裁判員が「良い経験」をするためのものではなく、被告が公正に裁かれるためのものです。

 最高裁の裁判員に対するアンケート調査でも「弁護士や検事の説明がわかりやすかったか」という問いはあっても、「弁護士や検事の説明が十分理解できたか」という問いはなく、裁判員が十分理解した上で評決を行ったかという重要な疑問に答えていません。

 裁判員制度を維持するための効率化を重視するあまり、十分な審理を受けずに判決を下されるようなことがあっては本末転倒です。効率化には当然負の部分もある筈で、それが裁判の本来の機能を損なっていないかという視点をマスコミは忘れているような気がします。

(参考拙文 算数のできない人が作った裁判員制度)
(参考拙文 最高裁の欺瞞)

(上記の傷害致死事件の鑑定書に関する記述はNHK京都放送局の放送に基づいたものですが、現在見ることができません。参考までにNHKの放送内容をまとめたものと思われるサイトを挙げておきます。 Sousyoku News Networkwww)

私の辞書に恥という言葉はない

2010-05-20 09:59:32 | Weblog
 「私の辞書に不可能という言葉はない」といったのはナポレオンですが、わが首相もなかなか非凡なものをお持ちのようです。前回、日本を「恥の文化」であるとするルース・ベネディクトの「菊と刀」に触れました。「恥を知れ」という言葉もあるように、恥の意識が日本人の行動を強く規定しているのは確かであると思います。しかし、日本の代表である鳩山首相は例外のようです。

 鳩山首相が「力強く」繰り返してきた「普天間飛行場の移設問題は5月末に決着する」という約束は、「6月以降になっても、詰める必要があるところがあれば当然努力する」というご自身の発言によって事実上、反故にされる見通しとなりました。

 「職を賭す」「命がけでやる」とまで言ってきた5月末決着の帰結として気の抜ける思いがします。「5月末決着」は「5月未決着(みけっちゃく)」のことかと揶揄した新聞がありましたが、なかなか上手いですね。

 それにしても「職を賭す」とまで言った約束を平然と破ることのできる神経は驚異的です。しかも、米側の同意、移設先の同意、与党の同意、すべてがメドさえ立たないという完全反故です。「平然と」ということが鍵になりますが、首相の頭には恥という回路が存在しないようです。宇宙人と名付けた人はなかなかの慧眼だと思います。

 鳩山首相がオバマ大統領に「Trust me」と言ったのは有名ですが、昨年末ルース駐日米大使にも「任せてください。時期が来れば現行計画に戻します」と言ったそうです(文芸春秋6月号「台風の目はみんなの党か舛添か」)。昨年末の時点で最終の決着を現行計画だと考えていたのならば、ずいぶん不誠実な話です。

 日本を代表する人物はいろんな意味で「範」となる宿命を負っているといってもよいと思います。その人物が約束を平然と破れば社会のモラルに悪影響を与えることは自明です。既に株取引で数千万円、贈与税で約6億円の申告を「漏らしっぱなし」にして平成の脱税王という異名を与えられ、納税モラルを低下させた実績があり、まさにモラルの反面教師です。

 対外的な国の信用を失うことも大きい損失ですが、政治家はウソをつくものだという諦念、政治への不信感の広がりは後々まで影響を及ぼす深刻な問題だと思われます。

 どこの世界でも、重大な約束を反故にした者は辞めていただくのがあたりまえですが、何故かマスコミは寛容です。一応の批判はしているものの、取るに足りない事件を起こした吉兆や不二家への攻撃などと比べると質・量とも雲泥の差があり、まったく理解に苦しむところです。

  5月17日の読売新聞はつぎのように報じています。
『平野官房長官は17日午前の記者会見で、月内の閣議了解を目指している、沖縄県の米軍普天間飛行場移設に関する政府の対処方針について、「閣議了解にするか閣議にかけるのか方法は別にして、政府の考え方は明確にする。首相発言ということでペーパーを出して、それで了解するという方法もある」と述べた』

 なるほど、いつもの平野氏に似合わずなかなかの深謀遠慮に基づく発言です。首相発言ということにしておけばきっと誰も信じないので罪が軽い、ということなのでしょう。

付和雷同と小選挙区制

2010-05-17 09:53:22 | Weblog
 第二次大戦中、日本軍の捕虜となり死亡したアメリカ兵の割合は38.2%に上ります。これに対してドイツ軍の捕虜となったアメリカ兵の死亡割合は1.1%という数値(*1)があります。日本軍の捕虜の扱いはたいへん苛酷なものであったようで、この大差に驚きます。

 これに対し、日露戦争におけるロシア兵捕虜や、第一次大戦におけるドイツ兵捕虜はある程度の自由が与えられ、丁重に扱われたとされています。第一次大戦から30年足らずで、同じ国がなぜこんなに変わってしまったのか、大変興味を惹かれる問題です。

 歴史をみても日本民族が他の民族に比べて残虐性が強いという印象はなく、むしろ世界でも有数の犯罪率の低さ、治安の良さを考えると、日本国民は比較的温和な性質を備えているようにも感じられます。

 捕虜の扱いだけでなく、組織的な自爆攻撃つまり特攻や、補給の軽視による日本兵の大量餓死・病死なども特異なことと思われます。なぜ日本にこんなことが起きたのかを説明することは複雑で、私などにはとてもできませんが、以下の二つのことは関係がありそうに思います。

 ルース・ベネディクトが著書「菊と刀」で日本文化を「恥の文化」と述べたように、日本人の行動を規定するものは西欧のように罪の意識ではなく恥の意識であるということが関係しているように感じます。罪は内面の神に対するものであり、その制御効果は普遍的です。これに対し、恥は所属する集団内のものであり、その集団内で恥とされない行為には制御効果はありません。軍という集団内で非道な行為が広く行われたのは恥の意識が生じなかったためではないでしょうか。

 もうひとつは明治期の東京帝国大学の教師であったチェンバレンは日本人の特徴として「付和雷同を常とする集団行動癖」を挙げています。これは現代のマスメディアの横並び集中報道にも見られるとおりで、メダカの群れのように一斉に同じ方向に走りだす性質です。

 日本軍の特異さは罪よりも恥が規制する文化と付和雷同気質に関係があるのではないか、というお話ですが、まったくの私見なので決して信用あるものでないことを付け加えておきます。

 さて、皆が同じ方向に走り出すという特性、つまり付和雷同気質は組織や集団による仕事には好都合なのですが、同時に暴走の危険も包含します。国民もマスコミも付和雷同であれば、気になるのはこの気質と小選挙区制の組み合わせです。

 昨年の総選挙では、小選挙区での得票率は民主党が47.4%、自民党が38.7%に対し、当選者は民主221、自民64となっています。得票の比は1.22倍ですが、当選者の比は3.45倍です。小選挙区制は1.22倍→3.45倍という増幅効果をもち、付和雷同傾向をより強めます。日本を不安定化させるという意味で、危険を孕む制度であると言えそうです。

(*1)これは鳥飼行博研究室の「War」→「総力戦における動員」→「連合軍捕虜POWと日本軍捕虜の死亡率」から引用しました。ここでは豊富な写真を含む膨大な戦争資料を見ることができます。
加藤陽子著「それでも、日本人は戦争を選んだ」には日本軍の米兵捕虜死亡率37.3%、ドイツ軍では同1.2%という数値が出ていますが、大きな差はありません。

もうひとつの豊かさの基準

2010-05-13 09:56:12 | Weblog
 半世紀ほど前、多くの家庭では4~5人の子供がいて、母親の多くは専業主婦でした。働き手は父親だけで、ひとりで全員の生活費を稼いでいたわけです。むろん当時の生活は貧しいものでしたが、たいていは1人の働き手が多人数の家族を支えることができました。

 一方、豊かな時代である近年は少子化が顕著で、合計特殊出生率は1.3前後で推移しています。そして子供を多く生まないのは経済的な理由が大きいとされています。経済的に豊かになった筈なのに経済的な理由で子供を少数しか生めなくなったとは何かおかしい気がします。

 現在は豊かな暮らしを享受していますが、その多くは生産性の飛躍的な向上によるものです。例えば従来10人かかっていたものが1人で生産できるようになったというわけです。またそれに加え、女性が社会で働くようになったことも寄与しているでしょう。

 しかし得られた豊かさの多くは衣食住や遊びに費やされ、子育てに充てられる部分が相対的に少なくなった結果と考えられます。むろんそれと関連して教育費の高さも大きい理由になるでしょう。

 20世紀は大量生産の時代であり、需要喚起、つまりそれを消費者に買わせるためのメディアによる広告が大きい役割を果たしたとされています。産業とメディアはライフスタイルに支配的な影響を与えてきたわけで、子育てよりも車や住宅、衣料などへの支出を多く配分するひとつの要因になったと考えられます。

 もし赤ちゃん関連の産業が巨大であったなら、世の中に子育ての夢をばら撒いて、出生率はそれほど低下しなかったかもしれません。教育産業は巨大ですが、出生率が増えても彼らの売上に寄与するのはずっと先の話であり、あまり広告の動機にはなりません。

 一方、社会の仕事が複雑化しているため、ある程度の教育費の増加は止むを得ませんが、高等教育の需要を満たすことによって肥大化した教育産業が高額の費用に見合っただけの役割を果たしているかというと、たいへん怪しいと思います。昔に比べ、教養豊かな人が多くなったという話もあまり聞きませんし、書籍の販売は低下の一途です。

 現在は生産年齢人口の3人が1人を支えていますが、合計特殊出生率が変わらなければ2055年には1.2人が1人を支えることになると試算されています。福祉の大幅な低下は避けられず、社会の維持すら難しくなるでしょう。

 社会の維持に必要な次の世代を育てる余裕がないというのでは、半世紀前より豊かな社会になったとは必ずしも言えません。子供手当てなどの弥縫(びほう)策がなければ子供が減少する社会はやはり不自然であり、どこかでボタンを掛け違えたような気がします。

 参考拙文誰も触れたがらない大事なこと

本当は頭の悪い人

2010-05-10 09:39:22 | Weblog
 与謝野馨氏は街頭演説で、同じ東大卒の鳩山由紀夫首相を「本当は頭の悪い人」と発言されたそうです。よくぞ言われたと思います。私も半年ほど前からまったく同じことを思っていましたが、個人のHPと言えども文字にするのは憚られました。バカ呼ばわりとあまり変わりませんから。

 与謝野氏の演説は「試験の答案は書けるけど、責任感を持ってモノを考えることができない人。弟の邦夫さんもそう言ってました」と続きます。これにも納得できますが、「本当は頭の悪い人」や「平成の脱税王」発言は与謝野氏の強い危機感を示すものと思われます。

 鳩山氏の首相としての資質に問題があるということはもはや議論の余地のないことと言ってよいでしょう。しかし腑に落ちないのはなぜ資質に問題のある人物が民主党の代表に選ばれたのかということです。メディアが伝える鳩山氏の言動からでも容易にわかることが、身近にいる議員達にわからなかったというのは不思議です。

 また、普天間問題だけでなく、高速道路料金問題、郵政問題などのたび重なる首相の不手際に対して与党内から目立った批判が出ないことも不思議です。なにか鳩山氏を批判できない事情があるのでしょうか、それとも誰かの言論統制が効いているのでしょうか。

 与謝野氏は文芸春秋5月号で民主党の政治を「悪しきアマチュアリズムによる権力の乱用に過ぎない」と総括されていますが、なかなか的を射た言葉だと思います。頂点に立つ鳩山首相自身が「学ぶにつけ、沖縄に存在する米軍全体の中で海兵隊は、抑止力が維持できるという思いに至った」と、今、学ばれている最中であることを公然とお認めになっており、アマチュアリズムを証明したことになります。

 十分に学ばれてプロの政治家になられるまではたして何年くらいかかるのでしょうか。その間に財政破綻や外交の失敗などの取り返しのつかない重大事が起こらないとは限りません。

 9日の日経の「風見鶏」は対米戦争に大きくかかわった近衛文麿と鳩山首相の類似を指摘し、政治不信の後、米英との戦争に走った過去の教訓を今こそ肝に銘じるときだと、危機感を露わにしています。

 漢字の読めない首相や、「申される」というように尊敬語と謙譲語を混ぜて使われる首相が続きました。政治に必須のことではないとは言え、かつてあまり見られなかった現象です。お二人に共通することは豊富な資金力ですが、それにものを言わせて首相になったという勘ぐる人もいることでしょう。それを否定するためにも月1500万円の「子供手当て」の使途を明かして欲しいものです。もし使途が公正なものと判明すれば、選んだ側の目がひどく曇っていたということなるでしょう。まあどちらも歓迎できるものではありませんけれど。

 しかしLOOPYなどと言われ、資質まで酷評されても職を投げ出さず、発言はころころ変わっても「決して変わることのない権力への執心」はまったく尊敬に値します。もっとも単なる「厚顔無恥」と解釈することも可能ですが。

 困ったことに、制度上、この政権はあと3年あまりも続く可能性があります。そのことに対し、マスメディアの危機感はいささか少なすぎるように思う次第です。

テレビと選挙制度が生んだ無能政権

2010-05-06 10:11:08 | Weblog
 鳩山首相の言葉の軽さは既に指摘されている通りですが、沖縄でのお言葉はその頂点を示すものでしょう。政治の劣化がいわれて久しいですが、ここに極まれりの観があります。あちこちに紹介されているので気が引けますが、引用します。

「私は、海兵隊が必ずしも抑止力として沖縄に存在しなければならない理由にはならないと思っていた。ただ、学ぶにつけ、沖縄に存在する米軍全体の中で海兵隊は、抑止力が維持できるという思いに至った。(認識が)浅かったと言われればその通りかもしれない」 (首相は責任の生じない「思い」という言葉がお好きのようです)。

 胸中を吐露された正直さはわかりますが、これでは安全保障の初歩的知識もないままに、首相が重要な決定をしていたことを暴露したことになります。同時に、判断を助ける有効な仕組みもなかったことが露呈したわけで、政府としての機能不全を意味します。

 子供手当や高速道路無料化など様々なバラマキを約束しておられますが、こんな調子では「学ぶにつけ、実現は不可能だという思いに至りました」ということになりはしませぬか。

 米政府の要人は「鳩山政権は政府の体をなしていない」と言ったそうですが、まことにごもっともというほかありません。鳩山政権は国民多数の支持を得て成立した政権であるだけに、一国民として少し恥ずかしいという「思い」に至りました。

 マスコミは政権を批判するだけでなく、選挙という民主的な制度がなぜこのような政権を生んでしまったか、ということにもっと注目してもよいと思います。放置すれば繰り返される可能性があり、「再発防止」を考える意味があると思います。

 鳩山政権を生んだ要素はいろいろあるでしょうが、テレビと小選挙区制が大きな役割を果たしたのではないかと考えられます。ニュースはその解説によって受け止め方が大きく変わります。ニュースが娯楽のネタとして扱われるニュースショーは大きい影響力を持っていますが、白と黒、正と邪というようにわかりやすく単純化される傾向があります。

 例えば後期高齢者の医療問題や福祉予算2200億円削減問題では本来の目的である財政支出の膨張を抑制するという意味はほとんど報道されず、不利益ばかりが強調されました。福祉予算2200億円削減は毎年の自然増加分約1兆円を2割程度抑制するということなのに、予算そのものを減額するような印象を与えた報道がありました。

 最近ようやくマスコミは財政問題に関心を持ち始めましたが、当時はほとんど関心を持たなかったようで、とても残念なことです。財政に対する無理解が民主党マニフェストの非現実性を、それが絵に描いた餅だということを指摘できなかった理由でありましょう。

 小泉政権時代の郵政選挙や昨年の総選挙では世論が一方に大きく振れましたが、これはマスコミの横並び体質とニュースショーの影響なしには考えられないと思われます。この影響力は個々の立候補者ではなく、第一義的には政党の人気に対して働くことに注意したいと思います。

 一方、小選挙区制は投票の差を拡大し、世論の振れをいっそう大きくして一方に圧倒的な勝利を与えました。小選挙区制は不安定化要因となります。また小選挙区制では党の公認が死命を制するほどの意味をもつので、政党の影響力が強くなります。

 昨年の選挙では政治家としての資質や能力が未知の小沢チルドレンが大量に当選する一方、政治家としての実績がある自民党の議員が多数落選しました。これは議員の資質や能力があまり重要な要素ではなくなったことを象徴する出来事です。党に忠実なだけの凡庸な政治家が大量に生まれる危険があり、政治の劣化を加速するでしょう。

 以上、思いつくままに書きました。仮説とまでも言えない代物ですが、政治の「不作」が続くのはたいへん不幸なことであり、選挙制度などの政治制度、テレビなどメディァのあり方などに関する議論が行われてもよいと思った次第です。

参考拙文 テレビ民主主義