総務省は司法試験合格者を年間3000人程度とする政府目標を見直すよう法務省と文部科学省に勧告したそうです。合格者の急激な増加は質の低下や、弁護士の就職難が懸念されるというわけです。大幅な増員を始めてから数年しか経っておらず、なにをいまさら、という感が否めません。
法曹界などの権威あふれる「偉い人たち」が大勢集まり、何年もの時間をかけて、なぜこのような誤りを犯したのかは、とても興味あることです。また社会に大きな影響を与えたものであり、このままウヤムヤに済ませてよいものではないでしょう。
司法試験合格者「激増」させる企みは裁判員制度と同じく司法制度改革審議会によって生み出されました。司法制度改革審議会は憲法学者、佐藤幸治近畿大学教授(当時)を会長として中坊公平氏ら6名の法律家と曽野綾子氏ら7名の非法律家で構成されています。(委員名簿)
会長の佐藤幸治氏は司法制度改革を引っ張った人物といわれています。ウィキペディアには「全体的に観念論的・法実証主義的な理論を展開する。そのためその内容はあたかも観念論哲学の様相を示し・・・」と書かれています。まあ観念論的な人は現実性に乏しいと考えてもよいでしょう。
また彼は「社会のすみずみまで法の支配を」と主張しましたが、これは元検事総長の但木敬一氏が主張する「法化社会」とも符合します。法化社会とは但木氏によれば「究極的に紛争のすべてが裁判所に持ち出され、あるいは持ち出されることを前提に準備しなければならない社会」と定義されます。それを実現するための法曹の大幅増員が必要というわけです。法は彼らの生業とはいえ、ここまで法を崇める姿勢は信仰に近く、原理主義と呼んでもよさそうです。
このような主張の裏には現在の法の支配が十分ではないという認識があるのだと思われますが、はたしてそうでしょうか。弁護士が街に溢れる米国などと異なり、わが国では紛争の多くは当事者間の話し合いで解決されてきました。これは第三者に事情を説明する手間もなく効率的な方法です。
反面、下請け関係など、立場の強弱により弱者が泣き寝入りをすることも少なからずあると思われます。しかしこれを法的な解決に委ねればいいと言うほど簡単ではありません。そんなことをすれば取引関係の継続が難しくなります。また一時的な関係であっても資力によって雇える弁護士の能力に差があれば公平にはなりません。法は決して万能ではないわけです。
法による徹底した支配を目指す姿勢はジョージ・オーウェルの「1984年」を連想します。たとえ善意によるものであれ、支配が徹底した社会は息苦しさを感じます。ある程度のいい加減さ、寛容さが必要です。法がのし歩く社会より、法の出番が少ない社会の方が私には好ましく思えます。モラルの低い社会は嫌ですが。
司法試験合格者の急拡大という無謀な企ては失敗に終わりそうですが、それは合格者の質の低下や弁護士の需給という現実の問題を軽視したためでしょう。その背景には観念論的な、法に対する過剰な期待があるように感じます。たとえ善意であるとしても観念論に凝り固まった人間による押し付けは確信犯と同様、有難迷惑であることがしばしばです。
この審議会から生まれた裁判員制度も被告人が適正な裁判を受けられるということより民主主義という理念の方が重視された観があります。拙文「算数のできない人が作った裁判員制度」に述べましたが、ここでも現実を軽視する観念論的な傾向が強く見られます。
司法試験合格者を司法制度改革審議会の答申時から一挙に3倍、それ以前は500人程度が長く続いていたのでそれからすれば6倍にするような乱暴な案に納得できるような根拠があるように思えません。失敗が容易に予想できるにもかかわらず、国会を通ってしまったのは国会にもチェック機能がないことを示します。
昨年の受験者は8765人で、合格者は2063人、不合格者は76.46%の6702人に上ります。法科大学院への国費の投入が無駄になるだけでなく、法曹を目指す若者の進路を誤らせ、司法試験崩れを大量に生み出すことになりました。得をしたのは法科大学院とその教職員ということになりますか。
このような大きな失敗に対して誰も責任を取らないことも腑に落ちません。審議会の委員や委員を任命した政府に責任があるのは明らかだと思いますが、マスコミは知らん顔です。問題を起こした会社の幹部などがよくやるように、テレビカメラの前で首をそろえて謝罪する程度のことはやった方がよいではないでしょうか。そうすれば今後の審議会はもっと責任ある議論が期待できるでしょう。
参考資料司法制度改革審議会意見書
法曹界などの権威あふれる「偉い人たち」が大勢集まり、何年もの時間をかけて、なぜこのような誤りを犯したのかは、とても興味あることです。また社会に大きな影響を与えたものであり、このままウヤムヤに済ませてよいものではないでしょう。
司法試験合格者「激増」させる企みは裁判員制度と同じく司法制度改革審議会によって生み出されました。司法制度改革審議会は憲法学者、佐藤幸治近畿大学教授(当時)を会長として中坊公平氏ら6名の法律家と曽野綾子氏ら7名の非法律家で構成されています。(委員名簿)
会長の佐藤幸治氏は司法制度改革を引っ張った人物といわれています。ウィキペディアには「全体的に観念論的・法実証主義的な理論を展開する。そのためその内容はあたかも観念論哲学の様相を示し・・・」と書かれています。まあ観念論的な人は現実性に乏しいと考えてもよいでしょう。
また彼は「社会のすみずみまで法の支配を」と主張しましたが、これは元検事総長の但木敬一氏が主張する「法化社会」とも符合します。法化社会とは但木氏によれば「究極的に紛争のすべてが裁判所に持ち出され、あるいは持ち出されることを前提に準備しなければならない社会」と定義されます。それを実現するための法曹の大幅増員が必要というわけです。法は彼らの生業とはいえ、ここまで法を崇める姿勢は信仰に近く、原理主義と呼んでもよさそうです。
このような主張の裏には現在の法の支配が十分ではないという認識があるのだと思われますが、はたしてそうでしょうか。弁護士が街に溢れる米国などと異なり、わが国では紛争の多くは当事者間の話し合いで解決されてきました。これは第三者に事情を説明する手間もなく効率的な方法です。
反面、下請け関係など、立場の強弱により弱者が泣き寝入りをすることも少なからずあると思われます。しかしこれを法的な解決に委ねればいいと言うほど簡単ではありません。そんなことをすれば取引関係の継続が難しくなります。また一時的な関係であっても資力によって雇える弁護士の能力に差があれば公平にはなりません。法は決して万能ではないわけです。
法による徹底した支配を目指す姿勢はジョージ・オーウェルの「1984年」を連想します。たとえ善意によるものであれ、支配が徹底した社会は息苦しさを感じます。ある程度のいい加減さ、寛容さが必要です。法がのし歩く社会より、法の出番が少ない社会の方が私には好ましく思えます。モラルの低い社会は嫌ですが。
司法試験合格者の急拡大という無謀な企ては失敗に終わりそうですが、それは合格者の質の低下や弁護士の需給という現実の問題を軽視したためでしょう。その背景には観念論的な、法に対する過剰な期待があるように感じます。たとえ善意であるとしても観念論に凝り固まった人間による押し付けは確信犯と同様、有難迷惑であることがしばしばです。
この審議会から生まれた裁判員制度も被告人が適正な裁判を受けられるということより民主主義という理念の方が重視された観があります。拙文「算数のできない人が作った裁判員制度」に述べましたが、ここでも現実を軽視する観念論的な傾向が強く見られます。
司法試験合格者を司法制度改革審議会の答申時から一挙に3倍、それ以前は500人程度が長く続いていたのでそれからすれば6倍にするような乱暴な案に納得できるような根拠があるように思えません。失敗が容易に予想できるにもかかわらず、国会を通ってしまったのは国会にもチェック機能がないことを示します。
昨年の受験者は8765人で、合格者は2063人、不合格者は76.46%の6702人に上ります。法科大学院への国費の投入が無駄になるだけでなく、法曹を目指す若者の進路を誤らせ、司法試験崩れを大量に生み出すことになりました。得をしたのは法科大学院とその教職員ということになりますか。
このような大きな失敗に対して誰も責任を取らないことも腑に落ちません。審議会の委員や委員を任命した政府に責任があるのは明らかだと思いますが、マスコミは知らん顔です。問題を起こした会社の幹部などがよくやるように、テレビカメラの前で首をそろえて謝罪する程度のことはやった方がよいではないでしょうか。そうすれば今後の審議会はもっと責任ある議論が期待できるでしょう。
参考資料司法制度改革審議会意見書