噛みつき評論 ブログ版

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情報操作

2013-10-28 09:45:38 | マスメディア
「やっぱり芝エビは旨いね」「このレッドキャビアは最高」「冷凍の魚はまずいけど鮮魚は味が違うね」「さすが、違いがわかるのですね」
ホテルのレストランではこんな会話が交わされていたことでしょう。

 この料理偽装事件によって、実は「違いがわからない」ひとであることが証明された例は少なくないでしょう。食通ぶりを自慢していた方々は恥をかかされたわけですから、怒るのも無理はありません。

 しかし、メディアの騒ぎ方は少し度が過ぎるようです。他からの告発ではなく、ホテル側の自主的な発表なのに、ホテル社長の3時間にも及ぶ記者会見はまるで吊るし上げ大会のようです。メニューと料理に食い違いがあっても、客が料理に満足していたのなら、それでいいのではないか、という考えもあります。また、客にわからないのならば、もともと意味のない情報であると言えます。

 23日の朝日新聞は朝夕刊とも一面トップ、社会面でも大きく取り上げました。一面の小見出しに「景品表示法抵触か」と書き、違法行為の疑いがあることを訴えています。このように書かれれば役所は法の適用を検討せざるを得ないことになります。過ぎたバッシングをすれば、今後、自主的に過誤を発表しようとする者はいなくなるでしょう。クビが飛ぶのであれば私は自分から発表しません。

 さて、この23日にはもうひとつ重要な記事がありました。朝日の4面に小さく「除染だけで年1ミリシーベルト、短期には不可能」という見出しがついています。この見出しからは除染の困難さを示す記事かと受けとれますが、内容は全く異なります。初めの部分を引用します。

『国際原子力機関(IAEA)の調査団が21日にまとめた除染に関する報告書は、年1~20ミリシーベルトの追加被曝線量は国際基準で許容されるのに、住民の関心は年1ミリシーベルトの達成に集中している現状を危惧する内容だった。日本政府に対して、除染の実際の活動と住民の期待とのギャップを埋める努力が必要だと指摘した。
 調査団は、報告書に盛り込んだ8項目の助言の中で、除染を行っている状況では、年1~20ミリシーベルトは許容できるとして、被曝線量の国際的な基準や国際放射線防護委員会(ICRP)、世界保健期間(WHO)、などの国際組織の同意に沿っていることを国民に広く知らせるべきだと指摘。長期的な目標として政府が掲げる年1ミリシーベルト以下の被爆線量は、除染だけで短期間に達成できないと住民に説明する努力をすべきだと求めた』

 つまり、IAEAは、除染中は年20ミリシーベルトまでの被曝は許容できるので、年1ミリシーベルトにこだわることはない。神経質になりすぎであり、そのことを国民に知らせるべきだというわけであります。別の助言では、そうすれば除染の費用の一部をインフラの復旧に回せるとあります。

 これは政府だけでなく、メディアに対しても言うべきことでしょう。原発反対の立場から被曝許容量を恣意的により厳しく見せていると思えるからです。

 それにしてもこの見出し「除染だけで年1ミリシーベルト、短期には不可能」には驚きます。内容と見出しの見事な不一致、文句なしの落第点です。記事の内容をなんとか正反対に誤解させたいというお心だけは十分に伝わりますが。

 IAEAの記事を小さく報じるだけでなく、その内容を故意に誤解させるような見出しをつけた記事に比べれば、料理メニューの誤りなど、どうでもいいことに思えます。

 情報操作は政府がやるものと思っていましたが、この新聞も負けず劣らずです。ご親切にも、情報操作によって国民が判断する手間を省いてくれるというわけです。自分達は正しいのだと、完全な自信がおありなのでしょう。

嫉妬

2013-10-21 00:22:12 | マスメディア
 シェイクスピアの「オセロー」は嫉妬を主題にした悲劇です。イアーゴーの奸計によって、オセローはその若妻デズテモーナの不貞を疑い、遂に殺害してしまいます。やがてイアーゴーの計略、そして妻の無実を知ったオセローは無念の自決を遂げます。

 物語の軸になるのはオセローの嫉妬ですが、イアーゴーのオセローに対する恨みもまた嫉妬によるものと考えてよいと思います。シェイクスピアは嫉妬という動機が普遍的なものであり、時にはそれが重大な結果をもたらすものであることを示したかったのではないでしょうか。「嫉妬」という文字は両方とも女偏であり、嫉妬は女の特性かと思いがちですが、これは男の嫉妬の物語です。

 嫉妬は女のものであると思うのは男の嫉妬が比較的目立たないためだと思います。嫉妬は本来、見苦しいもの、格好悪いものですが、男の嫉妬はいっそう見苦しいという認識があって、男は嫉妬心を必死で隠してきたからでしょう。

 シェイクスピアは嫉妬を「人の心を食い荒らす緑色の目をした怪物」と呼びつつ、人間の数ある動機の中で重要な位置を与えています。しかしとても不快で見苦しい動機なので、現実の世界ではひたすら隠され、あまり表面には現れません。だがそれは人の主要な動機のひとつであり、不可解な行動の裏には強い嫉妬が隠れている例が少なくありません。

 同じような貧しい暮らしをしていた隣人が急に金持ちになったりすれば、嫉妬心が起きる条件ができます。嫉妬心は身近の者、同列の者の幸運に対してより強く生じ、遠い者、質的な差の大きいものには起きにくいと思われます。また相手が嫉妬の暗い炎を燃やしていても、嫉妬される側はそれに気付かないことが多いようです。嫉妬を表に出す人はあまりいませんから。

 さて、お隣り国々との関係ですが、何かと話が噛み合わず、友好的な関係が築けません。我々から見ると、彼らの行動は理解し難いものに見えます。歴史的な被害者意識や文化・国民性の違いから説明されますが、必ずしも納得できものではありません。国と国の関係にも嫉妬があると考えれば、理解できる部分が少し広がるかもしれません。

朝日のエリートは凄い

2013-10-14 10:43:59 | マスメディア
「昨年10月、橋下徹大阪市長の出自を取り上げた連載記事で編集長が更迭され、存続の危機に陥った週刊朝日(朝日新聞出版)。今度は、その立て直しに就任した小境(こざかい)郁也編集長(53)=朝日新聞社から出向=が8日付で「重大な就業規則違反があった」として懲戒解雇処分となった。違反内容は明らかにされていないが、女性記者へのセクハラ行為が原因とされる。伝統の「週朝」が、わずか1年で2代続けて編集長が交代するという前代未聞の事態に直面している」(10.09 ZAKZAKから引用)

 採用試験に来た女性に対し、私的な交際を採用の条件としたり、5名の女性記者が連名でセクハラ被害を訴えたりと「余罪」が続出しているそうです。たしかに「凄腕」の編集長のようです。編集長と言えば雑誌を意のままにでき、社会に影響を与える重要な立場です。その人物が破廉恥な行為に及んだことは、本来ならばワイドショーなどの格好の餌食になる筈ですが、今のところなぜか「不発」のようです。

 しかし週刊朝日、編集長、懲戒解雇、でグーグルで検索すると67万件余りがヒットします。比較のためにメディアで大きく騒がれたJR北海道の事故について、JR北海道、脱線事故、で検索すると26万件余りです。この事件はネットにおける関心の高さと比べても、大手メディアの関心の低さが目立ちます。

 有名な雑誌の編集長、目に余る色好み、不当な職権使用、と三つ揃えばニュースバリューは十分です。しかし出版社系の週刊文春以外の大手メディアはこの問題に対し冷淡なのが気になります。報道を自粛しているように感じます。

 鉄道や電力、食品などの会社をどれだけバッシングしても自分達が反撃されることはまずありませんが、同業のメディアを批判すれば反撃を受ける可能性があります。大手メディアにはバッシングは弱者に対してのみ行い、反撃力のある相手は行わない、という暗黙の了解があるのでしょうか。しかしそれでは、大手メディアは安泰である反面、批判が封じられ、旧弊が改まらないということになります。

 橋下徹大阪市長の出自を取り上げた記事を見てもわかるように、朝日は政治的な意思が特別に強いメディアです。それは自身の意図に沿って事実を取捨選択・加工して記事にし、思惑通りに誘導する度合いが強いということです。

 それは善意に基づいたことでしょうけど、その裏には国民はバカだから我々エリートが正しく判断して指導するのだと驕りを感じます。しかしいくら善意であっても鳩山政権誕生に尽力するようなレベルでは困るわけです。

 編集長と言えばさらに選ばれたエリートです。一度なら偶発的な出来事という言い逃れも可能ですが、二度も出来損ないの編集長を続けて輩出したことは組織全体の問題だと思わざるを得ません。またこれは朝日のエリートがどの程度のものかを判断する有力な材料となるでしょう。

 メディアの報道だけではわかりにくいので、信用できそうな記事を下に掲げます。①と②は朝日出身者によるものです。

週刊朝日編集長の「セクハラ懲戒解雇」から透ける、朝日新聞の内部崩壊
週刊朝日編集長が懲戒解雇...セクハラを生みやすい土壌があった?
クビの「週刊朝日」編集長、セクハラ疑惑と悪評の数々 再建どころかブチ壊し

伝統と前例踏襲

2013-10-07 09:51:30 | マスメディア
 伝統と言えば価値あるもの、守るべきものというように肯定的に受け止められのが普通です。しかしすべてがそうとは限りません。伝統には時代を超える価値があるゆえに長く続くものがある一方、形式的に前例を繰り返しているうちに形骸化し、その意味が失われたものが少なくありません。後者は価値ではなく組織の存続や関係者の利益が主な理由となります。

 また後者は延々と続く前例踏襲の結果です。前例踏襲は役人の「伝統的」な行動指針ですが、その弊害もよく指摘されるところです。同じことを繰り返していれば批判される心配が少ないかわりに、環境の変化に対応できず、徐々に現実との不適合を生じます。伝統の美名の下に、意味があるかどうかの判断から逃げるわけで、アタマを使わなくてもよいことが利点です。

 伊勢神宮の62回式年遷宮が話題になっていますが、その予算は570億円、使われる檜は1万3千本だそうです。千二百年余りの間、20年毎に繰り返されてきました。長く続いた伝統行事だと思う一方で、実に膨大な浪費を続けてきたものだという「感慨」を覚えます。

 社会や国家の中に宗教が大きな位置を占めていた時代においては、伊勢神宮の式年遷宮はそれなりの意味を持っていたのでしょう。しかし現在、宗教の役割は格段に小さくなっている上、明確な教義を持たない神道は宗教と呼ぶのさえもためらわれます。

 多くの神社は実質的に宗教としての意味を失い、形だけを留めているといえます。連綿と前例踏襲を繰り返した結果であり、明確な意味を見出せない式年遷宮はその象徴と言えるでしょう。千年以上やってきたから、というのは理由にはなりません。

 しかしこの式年遷宮に対する表立った批判はほとんどありません。伝統を無条件に肯定するという誤った認識のためか、あるいは批判をすればバチでも当たると思っているためでしょうか。「伝統的」にマスメディアは宗教に対する批判を避けているような観があります。

 式年遷宮が20年ごとに行われる理由ははっきりしないとされています。それは現在において、説得力のある理由がないことを意味します。あるとすれば観光業者や建設業者の利益でしょう。資源の浪費をやめ、これからは法隆寺のように千年以上もたせるようにすることも可能な筈です。

 神社が勝手に寄付を集めてやっていることに口出しは無用という考えもあるでしょうが、これだけの規模になるとそう言い切れるものではないと思います。震災復興を持ち出すまでもなく、一国の資源配分の問題とも言えるからです。膨大な資源消費に見合うだけの意味があるのか、と問う視点が少しはあってもよさそうです。

 宗教活動による収入は非課税という実態に合わなくなった問題も含め「触らぬ神に祟りなし」では困るわけです。