噛みつき評論 ブログ版

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「鳩の恩返し」

2010-08-30 10:05:16 | Weblog
 鳩山由紀夫前首相は8月27日、小沢氏を支持する理由として「私は小沢氏に総理にまで導いていただいた。ご恩返しをすべきだ」と申された(鳩山氏流のユニークな敬語表現)そうです。

 「友愛」の前首相が、政治資金疑惑で苦労を共にした盟友に「恩返しする」という、まことに感動的な美談であります。しかも、鳩山氏が受け取ったものは首相という日本一の権力の椅子であり、鳩山氏が恩返しとして小沢氏に贈ろうとしている物も首相の椅子なのです。首相の椅子を個人間の贈り物にするとは、まったく驚くほかありません。

 鶴と人間の交情を美しく描いたお話は「鶴の恩返し」ですが、男どうしの友愛を描いた「鳩の恩返し」は世にも珍しい「社会派」の童話になるかもしれません。まあこれはひとまず措くこととしましょう。

 首相の選任には数百億円が必要な選挙を含め、面倒な仕組みが用意されています。首相は強大な権力をもち、国家・国民の命運を託されるわけですから選任には慎重な仕組みが必要なのは当然です。そして選任には国家・国民の利益が最優先されるのがあたりまえであり、そこに私情をはさむことなど論外です。情実の関与は国民の利益が最優先でなくなることを意味します。

 鳩山氏が恩返しのために小沢氏を支持することはまさに情実によって首相を選ぶ行為であり、それは現行の政治制度を台無しにすることです。さらに驚くべきことは私情を公言して憚らない鳩山氏の見識です。「抑止力の必要性を学んだ」という発言と同様、正直な点は認めますが、キングメーカーになるかもしれない立場の方が首相を選ぶ際に、情実を公言することなどとても考えられないことです。これは鳩山氏の政治家としての資質をまたまた強く疑わせるものです。

 鳩山氏は首相という立場にありながら株取引の譲渡益、巨額の贈与税を申告せず、納税モラルの低下に手を貸しました。そして今回は情実人事を堂々と公言することによって人事におけるモラルにも悪影響を及ぼすことでしょう。そしてこれは鳩山氏を首相に選んだ民主党にも大きな責任のある問題です。民主党には首相にふさわしい人材がいなかったのか、あるいは人材はいるものの選抜システムが「故障」していたのか、私の知るところではありませんが。

 実はキングメーカーと称された森喜朗元首相も08年9月8日、同派の臨時総会で「自分は麻生さんをやる。麻生さんには大変お世話になったことは忘れてはいけない」と公言し、自民党総裁選で麻生太郎幹事長を支持するよう呼びかけた例があります。これも恩返しであり、情実による首相選びにほかなりません。

 しかしこのような情実を交えた首相選びに対し、マスコミによる批判はほとんどありません。このことはさらに深刻な問題です。恐らく、首相は与党内の少数のグループの内部事情で決まることが常態化し、マスコミの記者らはそれをあたりまえのことと思っていたのでしょうが、情実で首相を選ぶことを異常と感じない見識こそ恐ろしいと思います。

 批判をしなければ、情実によって首相を選んでもいいですよ、というメッセージを出すのと同じです。感覚の鈍磨したマスコミは森氏、鳩山氏の異常な発言と見識を生み出した温床であると言えるでしょう。たとえ青臭いと言われようと、正論を忘れるべきではないと思います。

 森氏の恩返しによって生まれた麻生氏、また理由は不明ながら鳩山氏が恩を感じたという小沢氏の導きによって誕生した鳩山氏が首相として適格であったでしょうか。そして「友愛」あふれる恩返しのために鳩山氏が国民多数の意思に反して推す小沢氏ははたして首相としての適格性があるのでしょうか。

 1年程度で馬脚を露す首相が次々と登場してくるのは、こんなところに一因があるのかもしれません。

信頼を失う不合理な規制

2010-08-26 13:10:04 | Weblog
 1年ほど前の話ですが、女高生が踏み切りで電車の通過した直後、遮断機をくぐり抜けて線路内に入ったところ、反対側から来た電車にはねられ死亡するという痛ましい事故がありました。むろん過失は当人にあって、よくある事故として片付けられたことと思います。

 しかし彼女の過失以外に別の問題があったのではないかと思います。彼女が降りたままの遮断機をくぐり抜けたのは、遮断機が動作は遅いので上っていなくても大丈夫だという判断があったものと推定できます。

 遮断機は電車が通過する数十秒前に降り、通過後、数秒後に上ります。通過後の時間は一定ではないと思いますが、近所の踏切では4~5秒間あります。電車が通過した後、すぐに開けるのが合理的だと思うのですが、この通過後の遮断時間の理由は理解できません。電車に乗り遅れそうになったとき4~5秒間あれば数十メートル走ることができますから、この時間は貴重です。

 おそらく彼女は電車通過後の遮断時間は意味がないと考えていたのでしょう(私もそう思っています)。そして踏切の遮断方法に不合理さを感じ、信頼していなかったと推定できます。つまり踏切に対する不信が生んだ不幸な事故だと言えるでしょう。

 踏み切りは道路交通を一定時間遮断するものであり、その時間はできるだけ少なくあるべきものです。にもかかわらず、通過後の遮断時間を設けるのはそれなりの必要があるのかもしれません。もしそうならその理由を周知させるべきです。

 一般に、不合理な規制はその信頼性を損う、と言ってもよいと思います。信頼性の低い規制の代表格は道路の速度規制でしょう。ようやく警察庁が規制を緩和する方針を発表しましたが、速度基準の見直しは実に42年ぶりだそうです。

 理由のひとつとして阪神高速の北神戸線の調査結果を挙げています。そこでは規制速度60km/hに対し実勢速度は80~100km/hで事故が多くなかったとしています。阪神高速の実勢速度が規制より20~40km/hも上回る事実は30年以上前からありました。ほとんどの人が速度違反をするようでは規制が信頼されるわけがありません。また全員が違反者であれば、警察による恣意的な摘発を可能にします。

 先ず規制ありき、ではなくまず自由ありきです。先ず強い規制をかけて、徐々に緩めていくという発想は本末転倒です。規制の必要性はもちろん認めますが、できるだけ少なくという遠慮が必要です。

 電動アシスト自転車は動力の2/3を電気の力によりますが、自転車扱いで手軽に乗ることができます。ところが電気だけで走るフル電動自転車は便利なものですが、普及し始めてすぐ禁止されました。車重が同程度で最高速度が20km/h程度なら、自転車と安全性に違いがないと思われますが、古い規制に基づいて原動機付自転車として扱われ、保安部品、運転免許、ヘルメットの着用、強制賠償保険などが必要で、普及の障害になっています。

 最高速度が20km/h程度以下のものは一度「野放し」にして、必要に応じて規制を加えていくのが本来の方法でしょう。
(参考拙文 フル電動自転車の公道使用を認めよ)

新聞が作る現代の迷信

2010-08-23 10:43:06 | Weblog
 少し前になりますが、8月2日の日経に「体験格差が生む年収格差」という記事がありました。寄稿者は国立青少年教育振興機構の研究会座長を務めた明石要一千葉大学教授です。朝日も5月25日『外で友達と遊ぶ子ほど「高学歴・高収入に」 独法調査』という同様の記事を載せています。元ネタは同じで、その詳細は同機構の「子どもの体験活動の実態に関する調査研究」です。日経に載った明石要一氏の寄稿の要旨をご紹介します。

『経済格差が学力格差を生むことは、多くの教育社会学者の研究で明らかになった。親の年収で、子供の学力に「差」が生まれている。同時に経済格差が体験の「差」も生んでいる。経済的に余裕のある家庭では、「夏は海、冬はスキーに行くことができ、子供は自然体験を満喫できる。(引用者注 この屋外体験は国立青少年教育振興機構の目的とも合致する)
(中略)
この体験の差が学力格差を生んでいる。図式的に示せば、「家庭の経済格差」→「子供の体験格差」→「子供の学力格差」という筋道が描ける。
このような問題意識から、研究会は子供の頃の体験が、その後の人生にどのような影響を与えるかという問題設定で、昨年11月に20歳以上の大人約5千人を対象に全国調査をおこなった。
(中略)
自然体験や友達との遊びなど、子供時代に豊かな体験をした人ほど、高学歴を取得し、高収入を得ているのである』

 調査は、子供の頃の体験が多い、中程度、少ない、の3群に分け、将来との関係を調べたものですが、「体験が多い」群の最終学歴は大学・大学院50.4%50.4%中学・高校が26.1%なのに対し、「中程度」群ではそれぞれ48.6%、27.6%、「少ない」群では45.4%、30.8%であるとし、「子供の頃の体験が豊かな人ほど明らかに高学歴者が多い」「体験格差が学歴格差を生んでいると言っていいだろう」と結論づけています。

 年収との関連では、「体験が多い」群では年収750万円以上が16.4%、250万円未満が26.9%であるのに対し、「中程度」群ではそれぞれ12.7%、32.5%、「少ない」群では11.0%、35.3%であるとしています。

 まず学歴の場合、3つの群の差は大学・大学院では50.4%、48.6%、45.4%であり、とても顕著な差とは言えません。それは年収においても同様です。そしてこの差が子供の頃の体験によるものという結論は大いに疑問です。なぜなら豊かな体験を子供に提供する家庭は教育にも熱心であったり、親の教育程度が高かったり、あるいは親子の遺伝的な要素が関係していたりと、「体験」以外の要因が影響している可能性が高いからです。

 統計に現れた見かけ上の相関関係をそのまま信じるのは危険です。昔のことですが、統計学の本の最初に「車を所有している学生は就職率が高いことが統計に表れている。このことから車を所有すれば就職に有利になると言えるか?」と書かれていたのを覚えています。答えは有利にならないであり、理由は子供に車を与えるような親は経済力があり、コネや地位を利用しての就職が可能であるからです(車がまだ珍しい時代のことです)。

 車の所有と就職率の間には直接の因果関係は認められないわけで、この場合、親の経済力という第3の要因が車の所有と就職率の両方に影響を与えていて、それは交絡因子と呼ばれます。従って子供の頃の体験と学歴や年収の関係を求めるには考えられる交絡因子の影響を除く作業をしなければ体験の豊かさと学歴・年収の関係は明らかになりません。交絡因子を除くためには子供の頃の体験の多寡だけでなく、親や家庭の状況も調査する必要がありますが、それはアンケートの質問に含まれておらず、交絡因子の排除は不可能であると思われます。

 以前、朝食を食べる子供は成績が良いという調査結果が発表され、あたかも朝食を食べれば成績がよくなるかのような報道がなされました。これも同様で、朝食をきちんと食べさせるような家庭は教育環境が良好ということが交絡因子として考えられます。

 また「体験格差が生む年収格差」の記事では調査がウェブアンケートによるものという事実が記載されていません。ウェブアンケートではサンプルの偏りが避けられず、それは結果の信頼性を低下させることにつながるので、断りを入れないのは不誠実です。

 国立青少年教育振興機構は青少年にいろんな体験をさせるための組織なので、豊かな体験が学力や年収に対しプラスに働くという調査結果は願ってもないものでしょう。その動機が影響したかどうかはわかりませんが、公的な資金を使って意図的な調査をすることは許されないことです。また子供に多くの体験をさせれば将来の年収が増えるといった怪しい認識を世に広めてしまう恐れがあります。この程度の調査でそこまで言えるとはとても思えません。

『体験格差が生む年収格差』(日経)
『外で友達と遊ぶ子ほど「高学歴・高収入に」 独法調査』(朝日)

 この見出しは担当記者が明石要一氏らの調査結果に何ら疑問を持たず、掲載したことを示しています。マスコミが彼らの意図にまんまと乗せられたわけで、マスコミの見識や能力に疑問を抱かせるものです。別に統計など知らなくても常識とちょっとした注意力があれば疑問を感じる筈です(私も統計の素人同然です)。

「外で友達と遊ぶ子ほど高学歴・高収入に」「あるいは朝食を食べる子供は成績が良い」などの「迷信」が広がってよいわけがなく、極端な理解をする一部の親達は朝食を食わせて外で遊ばせれば、勉強せずとも高学歴・高収入になると思うかもしれません。

 ここまで書いて明石要一氏なる人物のことをちょっと調べてみる気になりました。氏名によるグーグルの検索で1番目はWikipediaで2番目、3番目は次のとおりです。
「明石要一氏の名前に反応した理由 - とらねこ日誌」
独法と明石要一氏のあきれたアンケート調査 - とらねこ日誌

『偏食の激しい大学生はいま、どんな青年になっているのだろうか。
嫌いな食べ物が6個以上ある人は、「わがまま」「頑固」「やきもち焼き」「根にもつ」「諦めやすい」「泣き虫」「怒りっぽい」という行動特性をもつ。(食生活2007年5月号)』

 これは上記の「とらねこ日記」に引用された明石要一氏の「ご高説」です。偏食を正せば良い性格になると思わせたいようですが、ちょっと信じることはできません。つまり「わがまま」や「頑固」であるからこそ偏食がおきやすかったという解釈が可能だからです。これもアンケート調査の見かけの関係をそのまま取り上げたのだと私は推定します。

 明石要一氏を批判したサイトだけ挙げるのはフェアではないのですが、ざっと見たところ肯定的な評価は見あたりませんでしたのでご勘弁を。


バブル本の被害者

2010-08-19 11:11:19 | Weblog
 ブックファーストの遠藤店長のブログが話題になっています。とても面白いものなのでご紹介します。(文中「池上バブル」とあるのは池上彰氏の本のバブルのことです)

『いま書店界で一番話題なのが、いつ「池上バブル」が弾けるかということです。最近の書店バブルに「茂木バブル」「勝間バブル」があります。書店の中の、新刊台やらランキング台やらフェア台やらいたるところに露出を増やし、その露出がゆえに書店員にあきられ、また出版点数が多いためにお客さんに選択ばかりを強い、結果弾けて身の丈に戻っていくのが書店「バブル」です。

「茂木バブル」は出版点数が増えるにつれて1冊1冊のつくりがスピード重視で雑になり、文字の大きさが大きくなり、内容が薄くなってきて、でもそれに対して書店での露出は増え、そして点数が多いことでお客さんが何を買っていいか分からなくなり、バブルが弾けました。

「勝間バブル」ははじめの切れ味のいい論旨が、出版点数を重ねるにつれて人生論や精神論のワールドに入り、途中「結局、女はキレイが勝ち。」などどう売ったらいいか書店界が困る迷走の末、対談のような企画ものが増え、結果飽和状態になり、弾けました。

書店「バブル」になった著者は、自分の持っている知識なり、考え方が他の人の役に立てばとの思いで本を出すのだと思うのですが、そうであるならばなぜ出版点数を重ねる度に、「なんで、こんなにまでして出版すんの?」と悲しくなるような本を出すのでしょう。

すべて「バブル」という空気のせいだと思います。このクラスの人にお金だけで動く人はいないと思います。そうでなくてせっかく時代の流れがきて、要請があるのだから、全力で応えようという気持ちなのだと思います。

けれどそれが結果、本の出来に影響を与え、つまり質を落とし消費しつくされて、著者本人にまで蝕んでいくことは、悲しくなります。著者もそれが分からなくなってしまうほど、「売れる」というのは怖い世界なのかも知れません』

 ここで名指しされた茂木健一郎氏と勝間和代氏はそれぞれご自分のブログで感想を述べておられますが、これがまた興味深いものです。茂木氏のブログから一部を引用します。

 『ぼくは、今まで通りのやり方を変える気はないし、刊行点数を絞ろうとか、そんな知恵を働かせるつもりもない。本の出版は、出版社の方々の企画や、編集者の創意工夫、その他のパラメータで決まっていくもので、著者が意図して仕掛けられるものではない。
(中略)そもそも、ある本がバブルだとか、浮ついているとか、そんな評価をするのは、一緒に仕事をした編集者(生活がかかっており、時には社運をかけて、一生懸命やってくださっている)に失礼だし、何よりもお金を出して買ってくださり、読んで下さった読者に申し訳ない』

また勝間氏は8月13日のブログで以下のように書いています(一部を引用)。

『私の考えは、結論から言いますと、後から見ると「バブル」といわれるものの正体は、私は「将来へのオプション投資が一点に集中すること」だと思っています。

あとから振り返ると過剰投資と思えることでも、なにかチャンスがあった場合には、まずはそのオプションを買ってみよう、ということです。それは、関係者も当事者もということです。ですので、1人1人は真剣にそのオプションに投資をして、成功をさせようとしています。

なぜなら、バブルと言われようと、その投資を行った方が、単にバブルでないところで投資を行うよりも、それでも成功確率が高いと事前に判断しているからです』

 遠藤店長のテーマは、なぜ質を落としてまで出版を続けるの?というものですが、茂木氏はバブル現象は出版社や編集者などの条件で決まるものとし、勝間氏は価値があるという期待があるからこそ生じるものだ、とします。お二人に共通するのは「質の低下」を全く認めないことです。なんとも羨ましくなるほどの強烈な自信ですが、私のような凡人にはその根拠が理解できません。

 一方、遠藤店長の指摘に対して内田樹氏は、名指しはされていなくとも自分のことと受け止め、このお二人と対照的な態度をとられています。内田氏は今年に入ってから既に6冊を出版し、まもなく出るのが2点、校正待ちのゲラ7点、進行中のものが6点という超バブル状態なのですが、ご自身のブログで次のように書かれています。

『もちろん私が嬉嬉としてこれらの本を書いていると思われては困る。
ずいぶん以前から、新規出版企画は全部断っているのである。
にもかかわらずこれだけ大量の企画が同時進行しているのは、編集者たちの「泣き落し」と「コネ圧力」に屈したためである。
彼らだって、べつに私を「バブル」状態に追い詰めて、どんどんクオリティを下げて、読者に飽きられて、「歴史のゴミ箱」に投じられることを願って、泣き落としているわけではあるまい。
ひとりひとりはまごうかたなく善意なのである。
「よい本」を「いま読まれるべき本」を(そして「できれば利益のあがる本」を)出したいとつよく念じておられるのである。
編集者としては当然のことだ。
しかし、その「善意」も数が揃うと、「バブル」になる。
「なんで、こんなにまでして出版すんの?」とブックファーストの遠藤店長はおっしゃるが、それを言いたいのは私の方である。
バブルがはじければ(いずれ必ずはじける)、そのときは「善意の編集者」のみなさまもみな「ババ」をつかむことになる。
何を措いても「バブル」だけは回避せねばならない。
というわけで、この稿の結論はもうご理解いただけたであろうが、「ゲラは編集者のみなさんの手元には、ご期待の期日までには決して届かないであろう」ということである。
申し訳ないが、しばらく「塩漬け」にさせていただく』

 翌日(8/14)のブログには
『私の場合は、日程がタイトであれば、書きもののクオリティはあらわに下がる。
十分に推敲する時間がなければ、文体もロジックも例証も、どれにも瑕疵が生じる』
と書かれています。これは茂木氏と勝間氏は急いで書いてもなぜクオリティが落ちないのですか?という問いかけとも受けとれます。

 読者の立場で言えば、本のクオリティこそがもっとも大切であり、遠藤店長と内田樹氏を支持したいと思います。バブルの最大の被害者は本の購入者です。代金だけでなく、時間をも失います。そして、なかには誤った考えに「感染」する人もいるかもしれません。

特攻と新聞

2010-08-16 10:07:21 | Weblog
 毎年、8月のこの時期になるとメディアには戦争モノが目立つようになります。これを8月ジャーナリズムと呼ぶそうです。無難な定番ネタという理由が大きいと思いますが、かつて戦争に協力したという贖罪意識も少しはあるのでしょう。しかし戦争の悲惨さを個人体験などを通じて感情的に訴えるものはあっても、なぜあのような負け戦を始め、破滅に至るまで止めなかったのかという疑問に答える報道はあまり見あたりません。

 さて、日本の戦法のなかで米国から見て異様、あるいは理解できないとされたものに特別攻撃隊、つまり特攻があります。自爆攻撃はイラクなどで有名になりましたが、一般的には自爆死することで天国へ召されるなどといった強い宗教的な動機でのみ可能になるものだと思われます。近代的な行政機能を備えた国家が組織的に大規模な自爆攻撃を実行したのは日本以外に恐らく例がないでしょう。一説によると特攻攻撃による戦死者数は4449名(人間魚雷回天による80名を含む)とされています。

 特攻は主として航空機を使った自爆攻撃であり、スーサイド・プレーン(自殺飛行機)とも呼ばれます。その結果は自爆死とは呼ばず、散華という美化された言葉が使われます。全滅を玉砕と呼んだり、借金をローンと呼ぶのと同じであり、言葉ひとつでずいぶん印象が異なります。

 特攻が組織的に行われたことは当時の日本社会には特攻を受け入れる素地があった可能性を示し、宗教の強い情熱に匹敵するものが存在していたことを示唆します。現在から考えると狂気の沙汰としか思えないことですが、それを正当化するものが社会を包んでいたのでしょう。

 国家が戦争するとき、国をまとめるために民族主義やリーダーのもつ求心力が利用されるのはよくあることです。日本でも同様であり、国の存亡を訴えて民族主義を鼓舞したり、天皇が利用されました。注目したいことは、組織的な特攻や、玉砕という大規模な集団自殺が行われたのは日本以外には見られないことです。

 日本だけに狂気のような攻撃が見られたわけですが、これには従順で真面目、付和雷同傾向という日本人の特性もあるのでしょうが、新聞の積極的な協力が不可欠な要素であったと思われます。多くの新聞がそろって、戦争に向けて国民を鼓舞する報道を繰り返さなければ、特攻攻撃までは実現しなかったと思われます。嘘も100回繰り返せば真実になる(ナチの宣伝相ゲッペルス)といわれますが、新聞はまさにそれを実行し、特攻の素地を作ったと考えられます。

 新聞が軍部にすり寄ったのは満州事変の勃発直後とされています。軍部の圧力に屈し、仕方なくそれに従ったと戦後になって説明されていますが、実情はかなり違うようです。少なくとも新聞が積極的に国民を戦争へと鼓舞したことの説明にはなりません。ほとんどの新聞がそろって積極的な協力をしたようです(参考文献 前坂俊之著「太平洋戦争と新聞」)。

 新型インフルエンザが流行ったとき、マスク姿が街にあふれたのは日本だけの特異な現象であるとされました。それは洪水のような横並び報道によるものであり、今も昔も日本のマスコミが一色に染まって横並びの報道をするという特性は変わらないようです。この特性があってこそ宗教の情熱に匹敵する狂信的な情熱を国民に広めることができたのだと私は思います。

 かつて「日本の新聞はまるでプラウダだ」と横並び報道が批判されたことがあります。社会をある方向へ誘導することに於いて、付和雷同が得意な日本のマスメディアの能力は突出していると思われます。・・・もっともメディアが賢明でさえあれば問題ないのですが。

 日本は船体に対し不釣合いなほど大きい舵を持った船のようです。明治維新後の近代化、戦後の高度成長など、舵がまともな方向に向けば大成功を収めますが、ひとつ間違えると破滅に至るほどの大失敗を招きます。この不安定さは近隣諸国から不安視される理由のひとつなのでしょう。

 ゲッペルスが登場したので、ついでにヒトラーの「名言」を。

「大衆の受容能力はきわめて狭量であり、理解力は小さい代わりに忘却力は大きい。この事実からすれば、全ての効果的な宣伝は、要点をできるだけしぼり、それをスローガンのように継続しなければならない」

「彼らは熟慮よりも感情で考え方や行動を決める。その感情も単純であり、彼らが望むのは肯定か否定か、愛か憎か、正か不正か、真か偽か、のわかりやすさだ」

「肝要なのは、敵をひとつに絞り、それに向けて憎悪をかきたてることだ。言葉は短く、断定と繰り返しが必要だ」

 一世紀近く前に書かれたものですが、なんか今のメディアの手口を明かされたような気がしますね。

長寿と老残

2010-08-09 09:58:43 | Weblog
09年の日本人の平均寿命は女性86・44歳、男性79・59歳で、08年より女性は0・39歳、男性は0・30歳延びたそうで、延びの頭打ち傾向は依然現れず、まだしばらくは延び続けそうな気配です。長寿は良いことなのでしょうが、手放しで喜べることばかりではありません。

 次に紹介するのは文芸春秋8月号の巻頭随筆、90歳を目前にした阿川弘之氏の「老残の身」と題する小文の一部です。

「凡ゆる事が面倒くさい。会合に出たくない。人と言葉を交わしたくない」
「脚腰の筋肉が衰へて、とぼとぼと一歩々々摺り足で歩かなくては何処へも行けない。ステッキを頼りに用心しながら歩いてゐて、路上で一度、家の中で三度倒れ、骨折こそせずに済んだものの、突き指だの擦過傷だの、あちこち怪我をした。外出が億劫になる所以で、運動不足の結果、便秘がひどい。皺だらけの腹の皮が太鼓を張ったやうに張ってゐるのに、ガスも便も出ない。担当医処方の薬を規定通り服用してみても、全く効果があらはれない。癇癪を起こし、漢方の便秘薬を定量の倍以上飲んで寝てゐたら、数時間後突然便意を催した。慌てて起き上がり、入るべき場所へたどり着こうと、心は焦ってもよぼよぼの足が思うように前へ出ず、廊下の途中、下着の中へどッと排泄してしまった。82歳の女房に手伝わせて後始末しながら、『こんな無残なこと二度とやるまいぞ』と自分に言ひ聞かせたのに、実はその後再三再四失禁を経験してゐる。
(中略) よだれが垂れる。手先が震える。眼はかすんで、目尻にいつも涙と目脂がたまってゐる」

 また、志賀直哉が亡くなる3年くらい前、阿川氏にした話を紹介しています。
「もう生きてるのがいやだ」と、居間のカーテンの紐を首に巻きつける格好をして「これでこうやってしまえば簡単なんだかね」「とにかく、老年といふのは実にみじめないやなもんだ」

 長々と引用しましたが、この種の話は命の尊さ、あるいは窮状を訴えるという意図をもって発表されることはあっても、下着の中へどッと排泄などという無残なことが「自然な話」として公開されることはあまりありません。誰でも最後には経験するかもしれないことが妙な意味づけなどされず、ごく自然に、若干のユーモアを交えて書かれています。

 まさに陰陰滅滅でありますが、寿命のすべてを健康に過ごせるわけではありません。介護などが必要な不健康期間は男6.5年、女8.6年(WHO調査2003年)となっています。これは人生の最後に待ち受ける、本人にとってもまた周囲にとっても厄介な「通過儀礼」です。

 ピンピンコロリ(元気な時に急死すること。但し周囲はいささか迷惑。PPKとも)願望は根強いものがありますが、有効な手立てはなく、運まかせです。英国の指揮者、Edward Downes卿夫妻は昨年、自殺ツアーでスイスへ行き、Dignitas(自殺幇助組織)によって目的を遂げましたが、これは一般的ではありません(09年までにDignitasで自殺した英国人は114人になるそうで、終末期の人ばかりではないようです)。

 作家の吉村昭氏「もう死ぬ」と言って、点滴の管とカテーテルを自ら引抜き、元に戻そうとする看護師に強く抵抗し、亡くなったそうですが、誰もが彼のように格好よく死ねるものではありません。吉村氏は自宅であったからできたという事情もあったわけで、病院では恐らく不可能だろうと思われます。また強い意思と引き抜くだけの体力があればこそで、これらの条件がそろうのは珍しいことでしょう。一歩間違えれば自殺幇助罪に問われます。

 何が言いたいかといいいますと、とりわけ不健康期間に於いては、人の在り様は実に様々であり、自らの意思で死期を決めたい人もいれば、すべて他力本願の人もいるわけです。そこでは「命の尊さは何ものにも代え難い」式の単純なきれい事では解決できないということです。

 本人の意思の遂行を阻むのは自殺幇助罪や嘱託殺人罪などですが、自殺の違法性を問わずそれに協力した者だけが処罰されるという理屈は誰もが納得できるものではありません。自殺幇助を認めるいくつか国が存在するのはその反映でしょう。

 これは森鴎外の「高瀬舟」の主題ともなった古典的な問題ですが、現実にはこの領域において、法は自殺幇助を装った殺人などのごく少数の悪意ある犯罪を防ぐために、非常に多数の自由を犠牲にしているように思われます。

「揺らぐ長寿大国」という偽装的見出し

2010-08-05 11:02:18 | Weblog
 8月5日の朝日新聞大阪版の一面トップは「揺らぐ長寿大国」という見出しで、不明高齢者が各地で続々と判明していると伝えています。3日付の韓国夕刊紙、文化日報は、1面で「『日本=長寿国』は虚構?」との記事を掲載したそうですが、この朝日の記事はこの夕刊紙に同調する形となっています。もしかすると朝日はこの韓国の夕刊紙を尊敬しているのかもしれません。

 本当に「長寿」が揺らぐほどの事件なのでしょうか。非常に大雑把ながら計算してみます。

 100歳以上の人は約4万人とされているので大きい目にみてこの半分、2万人が既に亡くなっていると仮定します。身元不明死者の資料が1万7千人分あるそうですが、これがすべて不明高齢者としても2万人は十分大きい数値です。死体を隠したり、行方不明になってもらったりするのは簡単ではなく、実数はもっと少ないでしょう。

 平均寿命は国民ひとり一人の寿命を総計した数値(約100億 年・人)を国民の数で割ったものです。上記の2万人が実際の寿命より10年長く算定されていたとすると、寿命を総計した数値を2万×10で20万(年・人)だけ減少させることになります。割合で言うと20万/100億、つまり0.002%です。平均寿命を83年とすると、その影響は0.0017年に過ぎません。前年に対する昨年の増加分0.3~0.39年に比べても無視できる数値です(たいへん大まかな計算です。誤りがあったらご指摘ねがいます)。

 この程度のことを「揺らぐ長寿大国」と騒げば読者は誤解することになるでしょう。しかしより深刻な問題はこのような記事が一流紙といわれる新聞のトップを飾ることです。書いた人が中学生レベルの算数を理解できないためなのか、あるいは理解していながらセンセーショナルな報道を優先するという不誠実さのためなのか、わかりませんが、このような方々が強い影響力のあるメディアの中枢部におられることはちょっと気がかりです。

 (実は100歳以上の高齢者のうち半分くらいはこの世にいないといううわさは以前からありました。また年金のために親の死を何年も隠してきたという事件も何度かありました。それが今回、東京都の最高齢者ということでほとんどのメディアに火がつきました。報道って、実に気まぐれですね)

政務三役の指示に納得1% 厚労省職員調査

2010-08-02 09:45:05 | Weblog
 厚労省の本省職員を対象にしたアンケート調査結果が発表されました。それによると厚生労働省政務三役の指示に納得している職員は1%に過ぎず、政務三役に「驕り」を感じる職員はなんと48%もいたとされています。

 次はこれを報じた7月29日の朝日新聞の記事の一部です。

『調査は、長妻氏が厚労省改革のため省内公募した若手職員によるプロジェクトチームが6月に実施した。本省勤務の約3200人が対象で、省内LANを通じて749人が回答。28日に公表された。
 上司の評価は、課長級、局長級以上、政務三役など役職別に調べた。「現実的なスケジュール感の観点から、納得のいく指示が示されている」という評価は、課長級38%、局長級以上29%に対し、政務三役は1%。「厚生労働行政に対する思いやビジョンが伝わってくる」では、課長級が29%、局長級以上が31%で、政務三役は15%だった。一方、「おごりを感じる」のは、課長級、局長級以上ともに6%だったが、政務三役は48%に上った』

 組織のトップが「徹底的」に信頼されていない姿が見えるようです。就任後1年近くになってなおこの有様では行政機関としてちゃんと機能するのか、心配になります。

 アンケートには好悪の主観が入ることは避けられず、長妻氏が厚労省の嫌われ者であったことも少しは影響があるのかもしれません。しかし、いかに嫌われ者であっても、蓼食う虫も好き好きという如く、たいてい2割や3割の賛同者はいるものです。したがって1%という数値は主観の影響よりも、現実の姿を反映していると見てよいでしょう。

 1%という数値から推定できることは政務三役が厚労省の仕事を理解していないということです。つまり仕事をほとんど理解していない人たちが無理な指示を出しているという姿です。少なくともこのような状況下では一所懸命に仕事をしようという動機は損なわれるでしょう。

 また半数が政務三役に「驕り」を感じているという事実は今後、政務三役が謙虚な姿勢で仕事を学び、立場にふさわしい指導者になる可能性が極めて低いことを示唆しています。驕る者に努力は似合わないからです。しかし新たな世界に入って早々と「驕り」という評価を頂戴するような「軽い」方々には残念ながら資質の問題を感じざるを得ません。

 この「絶望的」なアンケート調査結果を発表された大臣の勇気には敬意を表したいと思いますが(隠蔽が困難だったのかも)、他省の方はどうなんだろうか、と気になります。企業でも役所でもトップが信頼されていなければ組織が効率よく機能しないのは同じです。企業であれば結果は業績に現れますが、役所の場合、結果はなかなか明確にならず、長期にわたって国民に不利益を及ぼします。

 政治主導を掲げて各省庁に君臨した政務三役の能力に関して、官僚側から彼らをバカにするような匿名発言がしばしば聞こえてきますが、このアンケートはそれを裏付けるものと考えられます。

 この件については朝日は他紙と比べるとまだ詳細な記事を載せています。といっても5面の下の方であり、目立つものではありません。このあと発覚した大阪の2児遺棄事件の扱いは厚労省アンケートの数十倍、数百倍の大きさです。扱いの差はメディアにとっての重要性の差を示します。メディアの価値判断の結果、遺棄事件は細部まで読者に記憶されますが、厚労省の問題はほとんど記憶に残らないでしょう、たいへん困ったことですが。

 厚労省の調査結果は政治主導という民主党の大スローガンの下に行われていることの実態を知るのに貴重な材料を提供してくれます。これは政治の根幹にも関わることであり、小さな記事で済ませるものではないと思われます。他省についても同様の調査をする価値があるのではないでしょうか。