噛みつき評論 ブログ版

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国債増発の基準額は33兆円か44兆円か?

2009-09-29 11:30:52 | Weblog
 来年度は国債を増発しないと鳩山政権は宣言しています。ところが産経の社説(主張9/24)に

『新政権が「増発」の比較基準を今年度当初予算時の33兆円ではなく、補正後の44兆円に置いていそうなのは気になる』

と書かれているように、その基準が明確ではないようです。差は11兆円、どっちでもいいという金額ではありません。

 補正後に44兆円と膨れ上がったのは「未曾有」の危機に対応する一時的な緊急措置のためであり、これを継続的な予算の基準にするのは問題だと思いますが、それを曖昧なままに放置しているマスコミの仕事ぶりが気になります。

 国債発行の上限を33兆円とするか、44兆円とするかは新政権の経済政策の根幹にかかわる重要な問題です。そして新政権が基準を33兆円か、44兆円かを決めずに発行枠を表明することは考えられないことで、それを明確にするのがマスコミの仕事でしょう。そのために記者会見の質問権があるわけです。

 多くの新聞・テレビがありながら、未だに明確にされないことは腑に落ちません。主要なマスコミは国債発行額に、つまり財源問題や財政問題に関心がないのでしょうか。あるいは他に何らかの事情があるのでしょうか。

 ところで、マスコミにはアジェンダ(検討課題)の設定という役割があるとされています。社会の問題に光を当て、解決を促すという役割です。当然のことながら重要な問題ほど大きく扱われる筈です。

 昨年末、派遣切り問題はマスコミの重要課題となり、集中報道によって選挙にまで影響を与えたと思われます。吉兆事件も同じように大きく扱われましたが、料亭がひとつ消えただけの結果となりました。扱いの大きさは、問題の重要性よりも興味を引くかどうかで決まるようです。

 バブルの成長過程で、バブルの存在が報じられることはまずありません。金融機関の破綻など危機が具体的な形になって初めて大きく報道され、そのことが危機を余計に拡大させます。多くの場合、少数の人は早い段階で気づいているのですが。

 昨年度の国債発行額は25兆円程度ですから44兆円だとすれば大変な増加です。それが一時的ならともかく、継続するならばさらに大きな問題になります。GDP比で終戦直後の混乱期に匹敵すると言われる巨額の政府債務にもう少し光を当ててもよいと思います。せめて、連日一面トップを飾った吉兆事件の十分の一くらいでも。

 マスコミは警察の事件発表のように、動きのあるものに対して敏感に反応します。カエルの目と同じです。しかし静かに進行する問題を調査・解析することには不向きのようです。財政投融資や特殊法人、年金などの問題が明らかになったのは猪瀬直樹氏や岩瀬達哉氏らの地道な努力の結果であって、多数の記者と強力な情報網をもつマスコミでなかったことはたいへん象徴的です。
(参考拙文 マスコミ主権と財政危機)

毎日社説のレベル

2009-09-24 08:12:29 | Weblog
 以下は9月23日の毎日新聞社説からの引用です。
『公共事業の全面的な見直しを政権公約に掲げた民主党が政権を握った。八ッ場は最初の一歩である。
 (前略)すでに約3200億円を投じており、計画通りならあと約1400億円で完成する。中止の場合は、自治体の負担金約2000億円の返還を迫られ、770億円の生活再建関連事業も必要になるだろう。ダム完成後の維持費(年間10億円弱)を差し引いても数百億円高くつく。単純に考えれば、このまま工事を進めた方が得である。
 だが、八ッ場だけの損得を論じても意味はない。全国で計画・建設中の約140のダムをはじめ、多くの公共事業を洗い直し、そこに組み込まれた利権構造の解体に不可欠な社会的コストと考えるべきなのだ。「ダム完成を前提にしてきた生活を脅かす」という住民の不安に最大限応えるべく多額の補償も必要になるが、それも時代錯誤のツケと言える。高くつけばつくほど、二度と過ちは犯さないものである』

 どうやらダムは意味がないものと、この筆者は確信しているようです。「八ッ場だけの損得を論じても意味はない」という発言は八ッ場ダムを建設・中止を判断するのに経済的・社会的な議論は不要という考えを示しています。また「時代錯誤のツケ」を払うのは税金ですが、その認識があるのでしょうか。

 ダムには良い点も悪い点もある筈であり、この社説のように全面的に「悪」と単純に決めつけてよいわけがありません。何故、多くの公共事業を洗い直し利権構造を解体するために八ッ場ダムを中止しなければならないのでしょうか。公約実行の象徴として血祭りにあげられたのでは地元住民はたまったものではありません。

 八ッ場ダムの建設・中止は完成までの追加費用と完成後の便益を比較考量して判断されるべきものです。また政策の連続性や地元と国との約束の履行という問題、翻弄された地元民に対し補償金で解決できるのかという問題もあります。

 公約の実行を世に示すためだと思いますが、前原国交相は着任早々に中止を明言しました。これは検討もせず決定したと思われても仕方がない粗末なやり方で、 川辺川ダム計画の蒲島知事のように一定の検討期間を設けるのが当然です。いきなり中止を決めるという強権的な姿勢は反発を招きます。強行する政府と犠牲者である住民との対立という図式は政権にとって痛手になることが予想できなかったのでしょうか。

 問題は八ッ場ダム建設の中止が公約実行の象徴としての意味が優先され、地元の利益が軽視されたことです。民主党は党利のために地元住民を生贄にしたということもできるでしょう。

 世界を善悪二元論で見るのは小学生にもわかりやすい方法です。しかしオピニオンリーダーであるマスコミがダムを「悪」と決めつけるような一面的な単純思考をすることはたいへん危険です。

 むしろ国民が単純に考えないように、多面的な見方を提供するのがマスコミの役割だと思います。社説は新聞社のエリートが書き、その新聞のレベルを表します。この社説の価値はその内容にあるのではなく、この一流(?)新聞のレベルを天下に示すところにあるという皮肉なことになりそうです。

官僚会見禁止が意味するもの

2009-09-22 14:13:42 | Weblog
  『鳩山新政権の発足を受け首相官邸は16日、報道機関への対応について、〈1〉各省庁の見解を表明する記者会見は、閣僚など政治家が行い、官僚は行わない〈2〉次官らの定例記者会見は行わない――との内容の指針をまとめ、各省庁に通知した。
 指針は、閣僚が適切と判断した場合には、官僚による記者会見もあり得るとしているが、「国民の知る権利」を制限するものとして論議を呼びそうだ』(2009年9月17日 読売新聞より)

 つまり鳩山新内閣は官僚の会見禁止を決めたわけで、情報はすべて政府というフィルターを通して発表することを意図したものと考えられます。これはどう見ても政府による情報統制であり、不都合なものは隠蔽するという大本営発表を思わせるものです。産経社説は「民主主義社会の根幹である言論報道の自由に反すると指摘せざるを得ない」としています。

 官僚主導から政治主導への転換は本来の方向であり歓迎したいのですが、たとえそれに役立つとしても官僚の口を封じる情報統制という手段は時代の流れに逆行するものであり、民主党の体質に強い疑問を感じます。

 さらに意外であったのはこの官僚の会見禁止という新政権の方針に対するマスコミの反応です。情報統制という重大な危険性を孕む政府の方針に対して、思ったほどの反応はありませんでした。一部を除く新聞は社説で取りあげたものの、記事としての扱いは芸能人の覚せい剤所持事件よりはるかに小さいものでした。

 日経は先行した岡田克也氏の発言を受けて15日の社説に、読売と産経は18日の社説で反対意見を述べ、毎日は19日になってから同様に取りあげました。朝日は社説で取りあげることはありませんでした。NHKの反応も鈍く、ようやく25日になって「おはようコラム」で取りあげました。

 官僚の会見禁止が実現すればマスコミは有力な情報ルートを失います。当然、官僚に質問して情報を引き出す機会もなくなります。その結果、国民が知り得る情報は政府によって管理された情報が中心になります。そうなればマスコミは報道の役割を十分果たせなくなる可能性があります。

 今回、二つの問題が明らかになったと思います。官僚の会見禁止は民主党幹部が十分検討した上の決定だと推定できますから、それは民主党の体質の反映と考えられます。批判を封じ、国民の耳目を塞ぐという不透明な方向への無頓着さ、「知らしむべからず、寄らしむべし(*1)」といった強権的な手法が打ち出されたことに不安を覚えます。

 もうひとつは既に述べたようにマスコミの見識の問題です。情報統制に対する反応の鈍感さ、必要な情報を国民に知らせるという自らの役割に対する職業意識の低さであります。情報統制に対してより強いメッセージを発しなかった事実は今後に影響を与えないかと懸念します。

 余談になりますが、各紙の社説では日経と産経が手厳しい内容で、読売がそれに次ぎ、毎日も穏やかながら批判しています。しかし朝日新聞は批判なしです。民主党に対する批判のレベルは同党に対するスタンスと強い関係があるようです。

 たとえ仲良しの政党でも権力を握る与党となれば、情実を排して厳しく監視するのがマスコミの役割の筈です。こんなところで「友愛」精神を発揮していただくのは大変困ります。これでは不偏不党の看板が泣きはしませぬか。

(*1)論語の「民は之に由らしむべし之を知らしめるべからず」の略で、民に理由を理解させるのは難しいので黙って従わせよ、という意味だそうですが、為政者は信頼を得るようにせよ、という解釈もあるようです。

脱官僚依存は実現可能か

2009-09-17 09:37:01 | Weblog
 このところ、官僚は諸悪の根源のようにみなされている感があります。もっとも、官僚が主導権を握ることによってさまざまな弊害が生じていたのも多分事実だと思います。

 民主党は、政治の下に官僚を置くことによって、官僚依存からの脱却を掲げています。そのために100人の国会議員を政府に送り込むなどの対策を進めているようです。現在は70人だそうですから、約5割増しということになります。

 官僚支配が続いてきたのにはいろいろな理由があると思いますが、最大の理由は政治家が官僚を支配・指導できるだけの知識と能力を持たなかったことではないでしょうか。国交省や厚労省などで長年仕事を続け、十分な知識をもった官僚に、それまで部外者であった政治家が対等に立ち向かうことはもとより大変困難です。

 さらにここ数年、大臣の平均寿命は1年程度ですから、その間に担当する省庁の仕事を理解し、問題点を把握するのは余程の人物でない限り、無理でしょう。1年程度でころころと変わり、それが問題ともされないのは初めから大臣としての役割をさほど期待されていないのでしょう。それは官僚主導体制を認めていることになりますが。

 1年程度で首が飛ぶ役職のために懸命に勉強をする意欲が起きるかも疑問です。また中途半端な知識で政策を強行して失敗をするより、無難に任期を終える方がよいという気持ちにもなるでしょう。むろん、思うところの政策を実行するため、懸命な努力が感じられる大臣もいますが、決して多数ではありません。

 大臣が官僚の作成した答弁書を国会で読み上げる姿は官僚依存の象徴です。それは半ば慣習化されているようでニュースにもなりません。誰にでも大臣が務まるように配慮された親切な仕組みなのでしょう。

 脱官僚依存を実現するためには官僚を従わせるだけの知識と能力をもつ政治家が必要であって、人数だけで解決できる問題ではないと思います。

 今回の選挙では民主党のうら若い議員が大量に生まれましたが、投票した有権者は彼・彼女らが官僚を凌駕するだけの識見と能力をいずれ持つことを期待したのでしょうか。

 脱官僚依存の第一歩は官僚の記者会見を禁止して、官僚の口を塞ぐという情報統制から始まったようです。しかしこの強権的とも言える手法は的を射たものとは思えません。官僚の口を塞いでも、大臣が十分な識見を持たずして政策を強行すれば混乱を招くだけでしょう。

反原発報道の教育効果

2009-09-14 09:07:00 | Weblog
 原子力発電ほど、その重要性に見合った評価がされて来なかったものはないと思います。日本の電力供給の約3割占め、CO2排出がほとんどないため温暖化の防止にも有効であることが再評価されていますが、原発に対する国内世論は必ずしも好意的とは言えません。

 このたび与党となった社民党は今も「脱原発」を掲げています。同時に2020年にCO2排出を90年比で30%減を主張していますが、はたして両立できるのでしょうか。長い野党時代に染みついた「非現実性」が通用するかが試されることになりそうです。

 過去の原発に関する報道は事故や危険性に関するネガティブなものがほとんどであり、その多くが過大であったと思われます。柏崎刈羽原発の中越沖地震での報道は、変圧器から煙の出る映像が執拗に流され、ラドン温泉の約30立方cmに相当する微弱な放射能漏れが大きく報道されました。そのため風評被害が生じ、イタリアのサッカーチームが来日を中止するというおまけまでつきました。

 一方、原発の意義や有用性が報道されることはあまり記憶がありません。原発は電力の安定供給と価格の安定に大きく寄与していますが、われわれはそれに感謝することはほとんどないと言えるでしょう。

 そのような報道の結果、原発は重要な役割を担うものというより、危険で迷惑なものとみなされる傾向が強くなりました。原発の新規設置は困難になり、原子力学科を志望する学生数は大きく減少しました。僅かな放射能漏れで日本中が大騒ぎするようなところで働きたくないのは当然です。

 経産省の調査によると、1994年度に1739人と最多を数えた国立大学の原子力関係学科の学生数は、2006年度に137人と、10分の1以下にまで落ち込みました。学科再編で学科名から「原子力」が消えて統計から抜け落ちた影響もあるものの、人材供給の先細り傾向は既に「危機的な状況」とされています。

 すべての原因がマスコミにあるとまでは言えませんが、マスコミが作り出したイメージは若者に原子力の夢ではなく、悪夢の方を与えてしまったようです。志望者の減少は理系全体でも起きていて理系離れと呼ばれ、また学力の低下も明らかになりました。

 ある高校のクラスの半数が「科学技術は役に立っていない」と認識し、全員が「科学技術が環境を壊している」と考えていると、新聞に紹介されていました(拙文参照)。このような、科学技術に対するネガティブな認識はマスコミとマスコミに影響された教育の産物と考えられます。また日教組と社民党は親密であり、その影響も否定できないでしょう。

 マスコミはほぼ文系出身者で占められます。履修している筈の高校レベルの理科をほぼ理解している人はどれだけいるでしょうか。紙面を見る限り、彼らが科学技術に対して十分な認識をもっているという印象は残念ながらありません。

 原発だけでなく科学技術全体にとっても優れた人材が不足する事態は長期的には大変深刻な問題です。マスコミや教育がその遠因になっていることは十分考えられることであり、それらが徐々に日本の基盤を蝕んでいくことを憂慮します。将来、科学技術の優位性なしに日本が食っていく方法があれば別ですが。

記者クラブの罪状

2009-09-10 10:20:04 | Weblog
 羽織を着たゴロツキ、羽織ゴロ。
新聞記者はかつてこのように呼ばれていたと山本夏彦氏は書いています。取材先に対し「書き方次第でどうとでもなるんだぞ」という強みをちらつかせながら、いろいろなものを要求したので、この不名誉な名前を頂戴したのでしょう。

 現在では、さすがにこのような露骨なものはないと思いますが、「伝統」は形を変え、近代化されて生き続けているようです。

 記者クラブの経費はほとんどが官庁や企業などの発表者側が負担しています。少し古い資料ですが、岩瀬達哉著「新聞が面白くない理由」には詳細な調査資料が載っており、それによると96年度の記者クラブの経費は総計約107億円と試算され、その多くは税金による負担です。

 記者クラブの負担を発表者側に押し付けることができるのは発表者側が弱い立場にあるためでしょう。メディアは排他的な記者クラブを形成することによって情報の流通を独占的に支配し、発表者側に対して有利な立場を得ることが出来ます。記者クラブという仕組みを通してしか発表できない発表者側は悪く書かれないようにするため、彼らの機嫌をとらざるを得ないというわけです。

 多数の食中毒者を出した雪印乳業は、社長の「私も寝ていない」発言などで、マスコミの反感を買い、巨額の損失と5工場の閉鎖、1300人の解雇に追い込まれました。このときは会社幹部に対する記者の横柄きわまる態度も問題になりました。不二家事件(参考拙文)では社内消費期限が1日過ぎた原料を使ったために、中毒患者の発生もないのに経営危機に追い込まれました。マスコミに血祭りに上げられることの恐怖は徹底的に周知されたことと思います。

 この恐怖は記者クラブの力の源泉であります。そして記者クラブ制度は発表情報を独占して新規参入を防ぎ、既存メディアの権益を守ってきたと言えるでしょう。

 そこで提案ですが、記者クラブの非効率と弊害を軽減するためには、発表者側がホームページでの発表に比重を移せばよいと思うのですが、どうでしょうか。

 8月28日、各紙の朝刊には3回目の全国学力・学習状況調査(学力テスト)の結果が掲載されました。この結果は文部科学省が27日に発表し、翌日の新聞に載ったというわけです。ところが文科省のホームページでは28日付の報道発表資料にありました。つまり新聞各紙の発表に合わせるように、文科省はホームページでの発表を遅らせたと見られます。

 朝日、毎日、日経はそれぞれ様々な点を取りあげ、解説をしています。しかし、ざっと見た限り、そこには文科省のホームページに掲載された内容以外のものも含まれているようです。恐らく文科省はホームページに掲載したものに加え、別の資料を記者達に用意したのでしょう。ホームページを見ただけでは十分なものとならないよう、そして各社の味付けができるよう、配慮が感じられます。これでは癒着と見られても仕方がありません。

 発表者側が記者発表と同時、あるいはより早くホームページに掲載することは十分可能な筈です。情報の流れが記者クラブ経由の単一チャンネルから複数のチャンネルとなれば、発表者側の立場も強くなります。上記の学力テスト結果では29ページの詳細な資料がホームページに載っていて、量では新聞を圧倒します。

 記者クラブに依存していた官公庁などの発表者側がホームページに十分な情報を掲載すれば、国民はメディアによって加工されていない情報を素早く手にすることができます。官房長官の会見などはリアルタイムの動画がよいでしょう。発表者に対する質問も工夫すればオンラインでも可能だと思います。

 新聞やテレビは重要なものについて味付けした記事や解説を載せればよいわけで、そうなれば読者は元ネタと比較することが可能になります。メディアというフィルターを通って情報が曲げられることは日常茶飯事です。

 それらの発表を集め、重要度別・分野別に分類し、リード文や簡単なサマリーをつけたようなニュースサイトができれば、ずいぶん便利になることでしょう。記者クラブと発表ものに寄りかかっている既存メディアにとって、それは強力な競争者になり得るでしょう。

 うまくいけば、新聞は調査報道や記事の質を重視せざるを得なくなるという期待は甘すぎるでしょうか。高給を食み、高い知性を備えておられる記者の方々には、右から左という情報の運び屋ではなく、その知性にふさわしい仕事をしていただきたいと願うものです。

語るに落ちる

2009-09-07 09:34:16 | Weblog
 以下は09年8月10日、毎日新聞大阪夕刊の「憂楽帳」に載った麻生幸次郎記者の記事からの引用です。

 『16年前、カンボジアの国連平和維持活動(PKO)中に襲われた文民警察官が亡くなった。出身地の支局記者だった私は、彼の親族に会った。「父の死を感じているみたいで、急に黙り込むんです」。突然訪問した私にその人は、「無邪気」と報じられていた幼い遺児2人の悲しみを切々と語った。一種の特ダネだ。

 しかし、戻った支局に電話があった。「影響も考えず、ついしゃべってしまった。記事にしないでください」と、それこそ切々と訴えられた。再取材と説得を試みたが、二度と遺族の門戸は開かなかった』

 たしかに、遺児の悲しみが大々的に報じられればPKO活動は少なからぬ影響を受けていたと思われます。当時は自衛隊の派遣に対して社会党などの反対が強かった時期であり、自衛隊派遣に逆風を送ることが麻生記者の思惑であったのでしょう。

 遺児の悲しみを特ダネ記事にして、政治に利用しようとする新聞記者と、きわどいところで踏みとどまり、利用されることを避けた賢明なご親族、という図式が浮かびます。交通事故などの死と違って、特ダネとするのは政治利用の価値が高いからです。

 皮肉なことにこの記事はその意図とは裏腹に、新聞の姿勢を暴露したものになりました。遺児の悲しみを利用して、国民の感情を煽り、特定の政治的な目的を実現する、あるいは特定の政党の利益を図る、という姿勢です。不偏不党とか中立公正とかいう言葉が空しく聞こえます。

 それにしてもこのような記事を平然と書く記者の無邪気さにはちょっと驚きます。あるいは、このような手口はどこの新聞社でもごくごくあたりまえのことなので、「常識」として気にもされなかったのでしょうか。

 今度の選挙における自民党の大敗にはマスコミのこのような努力が少なからず寄与したことでしょう。むろん自民党の身から出た錆によるところも大きいと思われますが。

インフルエンザと狼少年

2009-09-03 09:37:51 | Weblog
 一昨日、久しぶりに京都で電車に乗ったのですが、マスクをしている人の少ないことに驚きました。乗った車両にマスク姿は隣の席の1人だけで、しばらくすると盛んに咳こみ始めました。少し失礼とは思いながらも、我が身かわいさで、離れた席へと移動しました。

 最近1週間の推計感染者数は15万人と既に報道(8/28)されているわりには驚くばかりの冷静な対応です。5月、数人の感染者が出ただけで、ものものしい検疫の光景を交えた連日の大報道が起き、街がマスクだらけになったのに比べ、とても同じ国のこととは思えません。

 5月の騒ぎでは当初、致死率が過大に伝えられたことを考慮する必要がありますが、早い段階で修正された後もマスコミの大騒ぎは続きました。これは世界でも珍しい現象とされ、日本のマスコミの「異常性格」が指摘されました。

 5月の報道が虚報に近いものであったことが判明した結果、現在の本格的流行が報じられても、「またか」ということになってしまったのでしょう。皆、新型インフルエンザに飽きてしまったのかもしれません。マスコミはまさに狼少年です。季節性と変わらない病状とはいえ、感染の脅威はこれからなのですが。

 一週間の感染者が15万人と推定され、感染の機会は格段に増えているのに、マスコミのこの冷静さも不思議です。マスコミもまた飽きて、ニュースバリューがないと考えたのでしょう。しかしその結果、必要のないときにマスクを着用し、必要があるときに着用しないという逆さまの対応が起きてしまいました。大変不合理なことです。

 報道機関の役割は読者・視聴者に必要な情報を過不足なく伝え、適切な対応を促すことにあります。マスクの着用という感染予防対策の実施状況から見る限り、マスコミの果たした役割はむしろマイナスの方が大きかったのではないかとさえ思われます。

 食品の消費期限問題、ダイオキシン、環境ホルモンなど、例を挙げればきりがありませんが、誇大な報道が過剰な反応を招くことを学習する機会はいくつもありました。情緒に訴える興味本位の報道によって、読者・視聴者に迎合することが優先された結果なのでしょうが、そこには商業主義の「完成度」の高さを感じます。

 藤原正彦氏はベストセラー「国家の品格」で、論理を否定し、情緒を大切にせよ、と教えました。まさかそのせいではないでしょうけれど、報道は情緒を大切にしているように見えます。たしかに迎合には情緒が欠かせません。しかしもともと情緒に左右されやすい国民に対して、マスコミが情緒中心で動けば、付和雷同の先導をするようなもので、碌なことはありません。

 あたりまえのことですが、報道機関の役割は適切な反応を引き出すような情報提供であり、反応の適否を検証するまでが仕事の範囲であるべきです。流し放題、あとは知らん、という無責任体制では困るのであります。