「小学5年の子供が校庭でゴールに向けサッカーボール蹴ったところ、ボールが門扉を超えて道路に転がり、運悪くバイクで通りかかった80代の男性がボールをよけようとして転倒して足を骨折。直後に認知症を発症し、約1年半後に誤嚥性肺炎で死亡し、遺族が約5000万円の賠償を求めていた裁判の判決が大阪高裁でありました。判決は一審と同様、「ボールがゴールを外れ、道路に飛び出ることは予想でき、男児は交通を妨げないようにする注意を怠った。両親にも監督義務違反があった」としてその両親に1180万円の支払いを命じた(一審より300万円減額)」
これは6月8日の朝日と日経の記事を要約したものですが、両紙とも扱いは小さく、事実を簡単に述べるだけのものでした。つまり判決にあきれたり、批判するようなものは感じられません。新聞社の「良識」からすればこの判決は妥当、あるいは許容範囲のものであるのでしょうか。他でも騒がれないところを見ると驚くような判決ではないのかもしれません。しかし、記事を見た限りですが、私には強い違和感があります。
古いと言われるかもしれませんが、学校の塀からボールが飛んでくることは日常茶飯事であり、事故の危険があるからと厳しく子供を叱ったりすることは想像できません。仮に飛んできたボールのために被害が生じても、まあ子供のことだからしょうがないなあ、と諦(あきら)めるのが普通であったように思います。少なくとも子供の親に5000万円も請求するというような発想はまずありませんでした。
ボールをよけようとしてバイク転倒→足を骨折→直後に認知症→約1年半後に誤嚥性肺炎で死亡。これが恐らく被害者側(の弁護人)が考え出し、裁判所が認めた因果関係ですが、なんやら「風が吹けば桶屋がもうかる(*1)」に近い屁理屈に見えます。
乱暴な仮定であるのは承知の上ですが、ボールが飛んできてバイクが転倒する確率を1000分の1、転倒による骨折の確率を2分の1、骨折が原因で認知症になる確率は難しいですがまあ100分の1、認知症のために誤嚥性肺炎で死亡する確率を10分の1と仮定すれば、すべてが実現する確率は200万分の1となります。
この数値はいい加減なものですが、裁判官は蓋然性つまり確率をどう判断して判決を下したのか、気になります。蓋然性の評価なしで判決が確定できるとは思えないからです。このような判断が認められるのなら、もしもこの80代の男性の死によって老齢の家族が失意のために死亡した場合、それも子供の責任とされることになりかねません。死亡に至った理由は高齢など被害者側の事情が大きいと思われ、子供側が責任を負うとしても骨折までが限度のように思います。
道路上で遊んでいたのならともかく、校庭に設けられたサッカーゴールに向かってボールを蹴ってこんな高額を賠償させられるとはずいぶんおかしな話です。プロの選手でも外すわけで、子供が外すのはあたりまえです。ずいぶん子供に不寛容な社会になったものです。
事故があるとその責任者を厳しく追及することが世の流行となった観があります。現在の厳罰傾向もそのひとつの現れでしょう。大きな事故がある度に、マスコミは正義づらをして事故の過失責任を、そしてその責任者を徹底して糾弾します。これは泣き寝入りや再発の防止に役立つ一方、過失に対して不寛容な社会を招きます。
上記の判決はこのような時代の風潮に迎合したものと思われます。この迎合的判決はこの風潮を法の立場から追認することで、これを固定化する意味を持つでしょう。裁判所は僅かな因果関係をたどってでも損害賠償を求めるという諦めの悪い社会を目指しているようです。
生老病死と言いますが、生まれた境遇、素質、天災による被害など諦める以外どうしようもないことは山ほどあります。理不尽なものに対して諦めたくない気持ちもわかりますが、執心が過ぎれば前向きの姿勢にはなれません。諦めが悪い、は潔(いさぎよ)いの反対語と言ってよく、あまり格好いい姿には見えません。
一方、加害者側に悪意や重大な過失がない場合、以前は裁判をしてまで賠償を取ろうということにはためらいがありました。損害や不幸をお金で埋め合わせるという方法にはいささかの抵抗感があったわけです。市場原理主義はこの抵抗感を弱める方向に働いたと思われます。市場原理から導かれる価値観は伝統的な価値観やモラルの一部を駆逐してきたと考えられるからです。カネが中心の価値観が徐々に広がってきたような観があります。
ギリシャの哲学者プロタゴラスは「人間は万物の尺度である」と言いましたが、今の世ならきっとこう言うでしょう、「カネは万物の尺度である」。
(*1)「風が吹けば桶屋がもうかる」
風が吹けば砂ぼこりで盲人がふえ、盲人は三味線をひくのでそれに張る猫の皮が必要で猫が減り、そのため鼠の数が増えて桶をかじるので桶屋が繁昌するという、現実にはあり得ない因果関係を表す。
これは6月8日の朝日と日経の記事を要約したものですが、両紙とも扱いは小さく、事実を簡単に述べるだけのものでした。つまり判決にあきれたり、批判するようなものは感じられません。新聞社の「良識」からすればこの判決は妥当、あるいは許容範囲のものであるのでしょうか。他でも騒がれないところを見ると驚くような判決ではないのかもしれません。しかし、記事を見た限りですが、私には強い違和感があります。
古いと言われるかもしれませんが、学校の塀からボールが飛んでくることは日常茶飯事であり、事故の危険があるからと厳しく子供を叱ったりすることは想像できません。仮に飛んできたボールのために被害が生じても、まあ子供のことだからしょうがないなあ、と諦(あきら)めるのが普通であったように思います。少なくとも子供の親に5000万円も請求するというような発想はまずありませんでした。
ボールをよけようとしてバイク転倒→足を骨折→直後に認知症→約1年半後に誤嚥性肺炎で死亡。これが恐らく被害者側(の弁護人)が考え出し、裁判所が認めた因果関係ですが、なんやら「風が吹けば桶屋がもうかる(*1)」に近い屁理屈に見えます。
乱暴な仮定であるのは承知の上ですが、ボールが飛んできてバイクが転倒する確率を1000分の1、転倒による骨折の確率を2分の1、骨折が原因で認知症になる確率は難しいですがまあ100分の1、認知症のために誤嚥性肺炎で死亡する確率を10分の1と仮定すれば、すべてが実現する確率は200万分の1となります。
この数値はいい加減なものですが、裁判官は蓋然性つまり確率をどう判断して判決を下したのか、気になります。蓋然性の評価なしで判決が確定できるとは思えないからです。このような判断が認められるのなら、もしもこの80代の男性の死によって老齢の家族が失意のために死亡した場合、それも子供の責任とされることになりかねません。死亡に至った理由は高齢など被害者側の事情が大きいと思われ、子供側が責任を負うとしても骨折までが限度のように思います。
道路上で遊んでいたのならともかく、校庭に設けられたサッカーゴールに向かってボールを蹴ってこんな高額を賠償させられるとはずいぶんおかしな話です。プロの選手でも外すわけで、子供が外すのはあたりまえです。ずいぶん子供に不寛容な社会になったものです。
事故があるとその責任者を厳しく追及することが世の流行となった観があります。現在の厳罰傾向もそのひとつの現れでしょう。大きな事故がある度に、マスコミは正義づらをして事故の過失責任を、そしてその責任者を徹底して糾弾します。これは泣き寝入りや再発の防止に役立つ一方、過失に対して不寛容な社会を招きます。
上記の判決はこのような時代の風潮に迎合したものと思われます。この迎合的判決はこの風潮を法の立場から追認することで、これを固定化する意味を持つでしょう。裁判所は僅かな因果関係をたどってでも損害賠償を求めるという諦めの悪い社会を目指しているようです。
生老病死と言いますが、生まれた境遇、素質、天災による被害など諦める以外どうしようもないことは山ほどあります。理不尽なものに対して諦めたくない気持ちもわかりますが、執心が過ぎれば前向きの姿勢にはなれません。諦めが悪い、は潔(いさぎよ)いの反対語と言ってよく、あまり格好いい姿には見えません。
一方、加害者側に悪意や重大な過失がない場合、以前は裁判をしてまで賠償を取ろうということにはためらいがありました。損害や不幸をお金で埋め合わせるという方法にはいささかの抵抗感があったわけです。市場原理主義はこの抵抗感を弱める方向に働いたと思われます。市場原理から導かれる価値観は伝統的な価値観やモラルの一部を駆逐してきたと考えられるからです。カネが中心の価値観が徐々に広がってきたような観があります。
ギリシャの哲学者プロタゴラスは「人間は万物の尺度である」と言いましたが、今の世ならきっとこう言うでしょう、「カネは万物の尺度である」。
(*1)「風が吹けば桶屋がもうかる」
風が吹けば砂ぼこりで盲人がふえ、盲人は三味線をひくのでそれに張る猫の皮が必要で猫が減り、そのため鼠の数が増えて桶をかじるので桶屋が繁昌するという、現実にはあり得ない因果関係を表す。