噛みつき評論 ブログ版

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「街の声」の欺瞞・・・新聞業界の常識

2009-07-30 23:41:49 | Weblog
 朝日、日経、読売の三社が運営している「あらたにす」の中に「新聞案内人」というコラムがあります。07月23日は『「街の声」記事にウジウジする私』という題で、元朝日新聞「天声人語」執筆者・栗田亘氏の興味深い内幕話が載っています。

 『遠い昔、社会部の若手記者だった頃、私の苦手というか、気が進まない仕事の一つは「街の声」取材だった』とし、その理由のひとつとして

 『こうした「声」がどれだけ社会総体の意見を反映しているか、メディアが手前勝手に意見をこしらえているのではないか、という後ろめたさが、どうしても払拭できなかったからだ』と書かれています。

 また大事件などの際に載せられる「識者の談話」についての記述があります。

『ある社会部デスクは勉強家で、どんな人がどんな意見を持っているか、実によく知っていた。○○について、これこれこんな意見を言ってくれる人、という問いに、彼は即座に答えることができ、私たち若手の記者は指示に従って電話取材すればコトが足りた。
 こうして出来た紙面は、取材の成果というよりは編集の成果だった。
 こういう紙面をつくりたい、との編集方針がまずあって、予期通りの紙面をつくるのである。(中略)「街の声」も、私の体験では一定の編集方針が立てられ、方針に沿った意見を集める傾向があった』

 栗田亘氏の「ウジウジ」という気持ちはわかりにくい表現ですが、新聞作成者としての良心の痛み、後ろめたさを曖昧に表現したものと理解すればよいと思います。街の声や識者の談話は新聞社の意見を広めるための材料とされているわけです。反対の声が取り上げられることはまずありませんから、読者には偏った情報が伝えられる可能性があります。同様に、読者投稿欄も編集者の恣意的な取捨選択や内容の変更によって、同じように利用されているものと思われます。私は以前、編集者の大幅な書き換えによって主題まで変更された経験があります。

 食品の産地や期限の偽装事件では連日一面トップに取り上げるような報道をし、「何を食べればよいかわからない」といった不安や怒りに満ちた「街の声」を載せて、追い討ちをかけると共に、自社の意見の正当化を図る手法です。「食べて満足しているならよいではないか」「大騒ぎするほどのことではない」といった意見もあると思うのですが、掲載されることはまずありません。

 新聞社の意見でありながら、それを街の声、すなわち一般の意見として紹介するのは自らの意見に対する責任を逃れようとする、卑怯な方法です。また読者を欺くものであります。これが批判の対象となりにくいのは業界の伝統であり、常識であるからなのでしょう。

 しかし汚い(ダーティ)方法であることに変わりなく、メディアの職業倫理のレベルを示すものと言えます。産地偽装に関する食品業界のモラルは社会を揺るがしましたが、メディアのモラルの問題がこれより軽いものとは決して思えません。情報はメディアの商品そのものであり、偽りがあってはならないからです。表面的には「街の声」であっても恣意的に編集されたものの「産地」はもはや「街」とは言えません。

 かなり昔の話ですが、市民の声としてある人物の意見がよく載っていた時期がありました。その人物は一般市民ではなく、左派の活動家であり、朝日新聞からときどき電話で意見を尋ねられていたと聞きます。現在も識者の談話として、高村薫氏がよく登場します。彼女の変わった見識にはしばしば違和感を覚えますが、それは編集者の意見の代弁と考えると納得がいきます。何らかの意図が含まれることがあり、代表的な意見だと素直に受けとるのは適切ではありません。

 栗田亘氏の批判は内部から出たものであり、信頼できるものと思われます。ただ、「ウジウジ」という表現から想像できるとおり、栗田亘氏の文章は穏やかなもので、古巣に対する配慮が感じられます。誰しも古巣のことを悪し様に言うことにはためらいがあるでしょう。しかし、もしこの配慮を取り去り、ありのままに書けば、実態は何倍もひどいということになりはしませぬか。

社民党リスク

2009-07-27 12:52:21 | Weblog
 共通の敵と闘っている仲間は結束が強いのが世の常です。しかし敵が消滅するや否や仲間割れが始まることもまた世の常であります。自民党という共通の敵が消え去ろうとしている今、次の記事はこの先の民主党と社民党の関係を暗示しているようです。

『社民党の福島瑞穂党首は23日、民主党が衆院選のマニフェストにインド洋での海上自衛隊による給油活動中止を盛り込まないことについて「野党がみんな反対した法律だ。なぜマニフェストから落としたか理解できない」と述べ、民主党の対応を批判した 』(23日 NIKKEI NET )
 また非核三原則をめぐり民主、社民両党の不協和音が大きくなってきたとも伝えられています(24日 中国新聞)。

民主党が政権獲得を意識して現実路線に転向することは止むを得ないことです。しかしそれは多方面から批判されているように、過去の反対が反対のための反対であったことを露呈することになりました。

 それはまあ措くとして、民主党が次の選挙で単独過半数をとれなかった場合、参議院と同様、社民党の協力が不可欠という状況が考えられます。社民党がキャスティング・ボートを握る状況では、社民党は民主党と協力して国政を担うという責任感を持って現実路線に妥協できるのでしょうか。両者が連立すれば事態は少しましになると思われますが、連立の協議はこれからのことでどうなるかわかりません。

 連立できなかった場合、社民党は民主党に反対することによる自党のプレゼンスを優先する可能性はないでしょうか。責任を負うことなく、反対することが最大の「存在理由」であったような党だけに不安が残ります。

 社民党の公式ホームページには党の理念が載っています。その中に「非武装の日本を目指す」「在日米軍基地の整理・縮小・撤去を進める」などの文言があり、国際情勢の認識の点においても、政策の現実性においても疑問を感じます。長年にわたった朝鮮労働党との友党関係はいまだ解消されず、凍結されているだけです。非現実性が特徴である社民党と民主党の連立は簡単ではありません。もとより左から右までの寄り合い所帯と言われている民主党はさらに撹乱要因を抱え込むことにもなります。

 もし何らかの形での協力が不可欠となれば、民主党の選択の幅は狭くなり、左へ傾斜する可能性があります。その結果、民主党が掲げるマニフェストは実行が難しくなることが考えられます。

 社民党は1%前後(7月のNHK調査では0.6%)の国民に支持されている政党ですが、キャスティング・ボートを握れば1%が政治を大きく左右する状況が生まれます。次回の総選挙は自公か民主かの選択ではなく、場合によっては自公か民主・社民の選択と捉えることが必要です。

 政権党としての責任感のない立場では、民主党のバラマキには賛成しても、増税には大反対ということはあり得ます。政権が終わってみれば、国債残高が大きく増えただけ、ということが杞憂であればよいのですが。

民主的「言論弾圧」

2009-07-23 13:52:25 | Weblog
 ローレンス・サマーズ元ハーバード大学学長は「理数系の分野で活躍する女性が少ないのは、男女に生まれつきの違いがあるからだろう」という意味の発言によって学長を辞任することになりました。

 脚本家・評論家の石堂淑朗氏はクラシック音楽の愛好家でもありますが、生得的な性差の例として、作曲家に女はいないと述べています。確かにバロック以降の西欧音楽で大作曲家と言われるのはことごとく男です。

 江戸期の儒学者、貝原益軒であったと思うのですが、女の聡明さは満月の明るさであり、男は愚かでも曇天の明るさがある、という意味の言葉があったと記憶しています(調べたのですが確認できませんでした)。満月の明るさとは、明るいけれども影という見えない部分が存在することを表しています。

 これらはいずれも生得的な性差の存在を示すもので、身体的な性差と同様、私には当然のことと思われます。そして日常の経験と矛盾することもありません。

 性差の存在がさほど明確でなかったのは様々な分野における男女間の平均能力差が個人差に比べて小さいためと言われています。数学、空間能力、言語能力、知覚能力など各分野における性差の研究が行われていますが、性差を肯定する研究も多いようです。

 一方、シモーヌ・ド・ボーヴォワールは代表作「第二の性」において「人は女に生まれるのでく、女になるのだ」と主張しました。この本は広く読まれ、女性らしさは社会的に作られるものであるという考えは社会に大きな影響を与えました。

 生得的な性差はあってあたりまえと思うのですが、それを認める発言は仕事を失うほどの危険を伴うようです。それはフェミニズムが依然として強い影響力をもっていることを示唆しています。

 「第二の性」において主張されたことは、女らしさは生得的なものであるという従来の考え方の否定です。それがフェミニズム運動と相俟って社会に強い影響力をもち、生得的な性差を認める考えを排除してきたと考えられます。

 本来、科学の領域である性差の問題は社会的な思想から自由であるべきですが、実情は必ずしもそうではありません。これは科学の問題が科学以外のところから曲げられる例として理解すべきであると思います。こうあって欲しい、こうあるべきだという願望が事実の理解を曲げたと言ってもよいでしょう。

 言論弾圧は政府によるものばかりではありません。「民主的な言論弾圧」は性差問題だけでなく、など様々な分野に存在するようです。

仕組み債の魔術

2009-07-20 13:26:21 | Weblog
 神戸市など、地方自治体が様々な基金でハイリスクの仕組み債を購入し、多額の評価損を出していることが判明しました。仕組み債を購入していた自治体は全国24市町村に上るそうです。また少し前、駒澤大学や立正大などでデリバティブ取引による巨額損失が表面化し、全国で75の大学で同様な金融取引の行われていたことが発覚しています。

 堅実な資産運用があたりまえの地方自治体や大学がハイリスクの取引に手を出すのはまことに異常なことです。それが例外的な少数ではなく、多くの自治体や大学に及んでいたことは問題の深刻さを示しています。単に、知識の乏しい自治体や大学の運用担当者が証券会社にカモられたというだけでの説明では不十分のように思います。

 仕組み債はオプションやスワップなどを組み込んだ債権(*1)で、その複雑な仕組みのために投資家は内容を理解するのが難しく、リスクとリターンが見合っているか、証券会社の手数料が適正か、などの判断が簡単ではありません。中にはハイリスク・ローリターンといわれるものもあるようです。証券会社にとっては高い収益性が魅力であり、販売に力が入ります。

 仕組み債の例として以前個人投資家に大量に売られたEB債(他社株転換可能債)があります。(EB債とはやや高めの金利のついた債権で、転換対象銘柄の株価があらかじめ決められた基準価格以上なら額面金額が償還されますが、株価が基準価額を下回っていると株式で償還されます。金利が高い理由はその株を一定期間後に基準価格(行使価格)で売る権利「プットオプション」の売却によるものです。そのため購入者はやや高い金利を得ることと引換に大きく損をするリスクを抱えます)

 興味ある方はEB債のからくりについての説明をご覧下さい。推測を交えた説明ですが、なるほどと思わせるものがあります。ここではEB債はサギに近い商品だとされています(オプションについての知識がないとちょっとわかりにくいかもしれませんが)。

 複雑化により投資家が適切な判断をすることができないような商品を販売することはフェアな行為とは言えません。一般の企業は顧客の満足のために努力し、それが企業の利益に結びつくのですが、証券業界の努力は専ら顧客から吸い上げることに傾くようです。米国の証券業はグリード(貪欲)との非難を受けましたが、証券業の体質は万国共通なのかもしれません。

 他方、「貯蓄から投資へ」という国の方針、それに加担して風潮を作り上げたメディアにも大きい責任があると思います。勝間和代氏の「お金は銀行に預けるな」という本はこの流れに乗ってずいぶん売れたようで、アマゾンのカスタマーレビューには173件もの書き込みがあります。有用性の高い順でレビューを見ると酷評が並び、この本を読んで投資信託を買い、大損をしたという記述も目につきます。リーマンショック後の記述ということを考慮しても、酷評の多くにうなづくことができます。

 「お金は銀行に預けるな」は多くの「被害者」を出したと思われるのですが、勝間氏の釈明はいまだ聞き及びません。その後、勝間氏は「転進」をされ、別種の本を大量に売りまくっておられます。勝間氏の商才には感服する次第です。

 むろん勝間氏ひとりの問題ではなく、勝間氏の本が売れるという背景を作り上げたマスメディアの問題でもあります。依然として個人向けの仕組み債は販売されており、内容が十分理解できないまま購入している人は少なくないと思います。

 仕組み債は一見、有利に思えるように作られていますが、そのリスクを評価するのは簡単ではありません。危険性を含め、この仕組みをきちんと周知するのはメディアの役割でありましょう。一部の仕組み債はその不透明さのため、個人向けに適した商品とは言えず、一定の規制をすべきであると思います。
(参考拙文「貯蓄から投資へ」に騙されないために)

過剰反応という迷惑

2009-07-16 10:56:38 | Weblog
 数年前のことですが、北アルプスの山中で同行者が傘を紛失したことがありました。休憩中に置き忘れたかもしれない、などと話していると、近くで聞いていた中高年の登山者から「そんなことをするから、山の環境が汚染されるのだ」と非難されました。

 天候が急変しやすい山では、傘は雨合羽ほどではないにしても必需品に近いものです。こちらには置き忘れたという非はあるものの、環境のことしか頭にないと思われるその登山者の発言には当惑しました。

 次は「環境信仰」が集団的な運動となって現実に影響を与えた事例です。

 滋賀県の比良スキー場は04年3月に廃止され、その後1年半をかけて撤去工事が行われました。山上には鉄筋コンクリートの宿泊施設があり、数千トンに上るだろうと思われる破砕された瓦礫は、連日大型ヘリを使って運ばれました。2トン程度の荷物を運べるヘリは1時間飛ぶと600L~700Lほどのガソリンを食うそうで、数ヶ月間に消費されたガソリンは膨大です。

 破砕した瓦礫を山中に埋め、覆土して植林すれば簡単なのですが、環境保護運動はあくまで原状回復を要求したわけです。「比良八雲ヶ原アピール」と称した「勝利」宣言文があり、一部を紹介します。

『廃業したスキー場の跡地を原状に回復させると言う他にあまり例を見ない事業を事業者、県そして自然を愛する私達が連携して成功させ、自然回復の先例として全国に発信するべきだと思います』

 大量の石油を消費してCO2を撒き散らし、50年前に原状復帰することにどんな意味があるのでしょうか。負担したのは途中から経営を引き継いだ電鉄会社ですが、おそらく環境保護という「錦の御旗」には抵抗できなかったのでしょう。こんな不合理なことは確かに「他にあまり例を見ない」ことです。環境保護と教条主義がひとつになった例です。

 環境問題に限らず、思想や宗教、特定の考え方などにとりつかれ易い人間が存在することは否定できないと思われます。一旦とりつかれると一方に偏り、バランスを欠いた認識を示すようになります。

 多くの場合、彼らはその考えなどが正しいと確信し、周囲にまでそれを広げようとします。それだけに余計に始末が悪いわけです。宗教はこの性質をうまく利用したものとも言えます。

 狂信的な人間によるテロリズムは歴史を動かす場合さえあります。5.15事件の実行者達は自分達の行動が正義だと確信していたことでしょう。しかしこの事件は政党政治に大きな打撃を与えたといわれ、悲惨な敗戦への道筋をつけました。

 ある流れの中では、インパクトのある過激な考えが一時的に支持を集めることがあります。これを商機と捉えるのが商売上手のメディアですが、それによって流れが行き過ぎてしまう現象はよく見られます。メディア自身が過剰反応型の特質を備えているかのようです。最近では経済における新自由主義の興亡もその例に数えられるでしょう。

 ベトナム戦争を指導したロバート・マクナマラ氏は先日なくなりましたが、人生で得た教訓の一つが「人は善をなさんとして悪をなす」だったそうです。山本夏彦氏の「正義は国を滅ぼす」と符合するところに興味を惹かれます。

JR西日本社長起訴と処罰の希望

2009-07-13 09:36:32 | Weblog
 神戸地検は山崎正夫JR西日本社長を7月8日、業務上過失致死傷罪で在宅起訴しました。朝日の9日朝刊には、「明石のトラウマ」を抱える神戸地検は、今回の捜査で被害者全員にどんな処罰を求めているかを尋ねる手紙を送り、面談を希望する人には担当検事らが直接応じてきた、と記されています。

 「明石のトラウマ」とは01年7月花火大会で混雑する歩道橋上で11人が死亡した事故で明石署長らを不起訴としたことに対する負い目という意味のようです。この負い目のために神戸地検は被害者全員に「処罰の希望」を尋ね、「難易度の高い捜査」に対し4年間も頑張ってきたということが読み取れます。

 検察が被害者に「処罰の希望」を尋ねたそうですが、それが捜査に影響を与えなかったと言えるでしょうか。マスコミや世論に対する検察の過剰な迎合は医療事故における医師の逮捕に結びつき、医療崩壊の一因となりました。強すぎる迎合姿勢は法の恣意的な運用に結びつく危険があり、司法への信頼性に影響を与えます。「被害者とともに泣く検察」という言葉は感情的な迎合姿勢を象徴したものと私には思われます。

 被害者の「処罰の希望」が妥当なものとなるためには、事故原因の明確な解明と理解が前提となります。事故が予想困難な原因による不可抗力、またはそれに近いものであれば処罰を要求する気持ちは小さくなります。逆に必要な注意義務を怠っていたとなれば処罰要求は大きくなるでしょう。

 JR側の過失がどんなものであったかはこれから争われることで、それが決まらない段階で処罰要求を尋ねることには問題があると思います。仮に検察側の主張に影響された認識の上での処罰要求ならば、これは意味のあるものとは言えないでしょう。

 もうひとつ気になる点があります。

 今後の裁判では事故の予見可能性が焦点になるとされています。96年にカーブを半径600mから304mに付け替えた、函館線のカーブでの脱線事故が例になったはず、など危険性を予見できたのに新型ATSを設置しなかったというのが検察側主張の要点とされています。

 一方、事故の直接の原因はスピード超過のままカーブに進入したこととされています。70km/hのところを116km/hですから1.66倍です。転覆の時に働いた遠心力は速度の2乗に比例しますから2.75倍となります。

 私達は車を運転していてカーブにさしかかるとき、このカーブは半径何mであるから時速何kmで進めば安全だ、などとは考えません。目前のカーブの曲率と速度との関係を直感的に判断して安全な速度に落とします。1.66倍というような大幅な超過には恐らく恐怖を感じるでしょう。この場合の体感速度は2乗の2.75倍の方に近いように思います。速度規制に加え、このような仕組みがあるので数千万台の車が転覆やはみ出しをせずに通行できているのだと思います。

 鉄道と同様、高度の安全を求められる公共交通機関であるバスでも同じで、大幅な速度超過で転覆することはないという前提で走っています。つまり運転者への信頼性は現在の交通体系の基本的な条件です。

 運転士のエラーに対する予見可能性は現在の交通体系に於ける運転者への信頼性に関係します。つまり速度超過による転覆事故が時折あるという認識では予見可能性はあったとなりますが、信頼性が十分でまず起こらないという認識であれば予見可能性はないと言えるでしょう。

 結局、予見可能性は事故確率とそれの許容限度の問題と言えるでしょう。しかし絶対的な基準があるわけでなく、航空機の事故率などを参考にして求めるしかないと思われます。裁判では確率を含めた客観性の高い議論を期待したいところです。

 もし判決が予見可能であったと認めれば、国や事業者はバスなど他の交通機関にも速度超過による転覆の可能性を見込んだ対策を迫られる可能性があります。速度超過による転覆事故に於いて、列車とバスを区別する合理的な理由はないと思われるからです。バスならたまには転覆してもよいというようなことはあり得ないでしょう。カーブの曲率に応じた速度制御信号を送信する機器を道路側に設置し、バス側に受信機と警報装置や制御装置を取り付ける方法は技術的には可能と思われます。

 9日の日経は「結果の重大性から、誰かを起訴しなければならないという結論ありきの捜査ではなかったか」という松宮孝明氏のコメントを載せています(逆に起訴を評価する土本武司氏の意見も同時に掲載)。また「米国などでは航空・鉄道事故で経営者個人の刑事責任を問わないのが原則。高度な技術が複雑に絡み合っているケースが多い上、訴追される可能性があると当事者らが真相を明かさず、原因究明や再発防止の妨げになるとの考えからだ」と記しています。

 責任追求は民事だけにして、被害者の報復感情より再発防止を優先するというのもひとつの見識だと思います。

裁判官の国民審査という儀式

2009-07-09 11:02:48 | Weblog
 総選挙が近づき、マスメディアの騒ぎが続いていますが、同時に行われる最高裁判所裁判官の国民審査は話題にもなりません。個々の裁判官に関する情報がほとんどない状況で国民審査が機能することは考えられず、これまでにこの国民審査によって罷免された裁判官は皆無だそうです。歴代最高不信任率の裁判官、つまりワーストワンでも15.17%です。

 5月に始まった裁判員制度の導入理由のひとつは国民主権を司法の場に実現するということでした。国民主権を司法の場で実現するもののひとつが最高裁判所裁判官の国民審査であったはずですが、司法改革審議会では無視された形です。

 国民主権を司法の場に実現する必要性があるというのなら、なぜこの国民審査を有効なものにするという努力が払われなかったのでしょうか。有効に機能するならば、司法の頂点に君臨する裁判官の可否を国民が決定することができるというのは国民主権を実現する優れた制度になり得ます(国民の判断を信じるならばですが)。

 そうした努力もせず裁判員制度を導入したのでは、国民主権を司法の場に実現するという理由がウソっぽく見えます。

 日本経済新聞(7月8日)の「大機小機」はこの国民審査の問題を取上げています。そのなかで、一票の格差問題について「最高裁は、格差が衆議院は3倍、参議院は6倍を超えなければ憲法違反ではないという判断を長年続けている」と批判しています。たしかに票の格差は民主制度の根幹を左右する問題ですから、それが3倍や6倍までOKという最高裁の見識には驚きます。

 選挙区や定員の変更によって、できる限り1倍に近づけるのが当然だと思うのですが、3倍や6倍という数にはどんな根拠があるのでしょうか。裁判官の方々の「数」に関する見識はわれわれ凡人の理解の及ぶところではなさそうです(参考拙文 「算数のできない人が作った裁判員制度」)。

 「問題は判断材料がろくにないことだ。本来であれば、裁判官就任前に、公の場で国民の関心がありそうな事項についての見解や信条をただすプロセスがあるべきだが、そういう制度にはなっていない」と述べています。

 まったくその通りで、国民審査制度が有効に機能するようにするのは政治の怠慢であり、またなぜか沈黙を守っているマスメディアの責任でもあると思います。メディアが取上げなければ存在しないのも同じです。第9条に向ける注意の100分の1、殺人事件に割くスペースの1000分の1でもあれば形骸化は避けられたかもしれません。

 審査は任命後最初の総選挙ということなので今回の審査対象者は15人のうちの9人だそうです。日経記事は「審査対象の9人の裁判官に対し質問し判断材料を提供していただけないだろうか」と述べています。

 私は9人にテレビ出演してもらって、一票格差が3倍や6倍まで合憲とする根拠など、様々なテーマについて意見を求める、あるいは討論をしてもらえば、さらに有効な判断材料が得られるのではないかと思います。逆に判断材料を提供せずしての国民審査であれば意味がなく、やめた方がよいでしょう。

思いやりの宗教報道

2009-07-06 11:21:50 | Weblog
 いままで、殺人事件や食品偽装事件などに関するマスメディアの過剰報道を取り上げてきましたが、今回は反対に、報道されないものに注意を向けたいと思います。過剰な報道や誇張された報道は見聞きする側が適当に割引して実像を推定することができますが、報道されない事実には対処のしようがないので、これはメディアの悪質な職務放棄と言えましょう。

 以下は創価学会に関する記事の増減に触れた文章で週刊新潮03年11月13日号からの引用です。
 『99年10月に公明党が与党入りしてからこの方、各誌記事の激減ぶりはすさまじい。
例えば、95年から97年の3年間に、第1位の「週刊新潮」が122本の学会関連記事を掲載し、最近3年間でも71本の記事を掲載しているのに対し、第2位だつた「週刊文春」は、108本の記事を掲載していたのに最近3年間では、わずか16本。第3位の「週刊ポスト」は同じく80本から12本に激減している。(中略) 新聞、放送の大メディアでも、驚くほど似たような現象が起きているのだ』

 記事の減少と公明党の与党入りとの関連は不明ですが、日本で第3位、約550万部ともいわれる聖教新聞は他の新聞社に印刷を委託していて、毎日新聞などの経営を支えていると言われています。また「潮」など創価学会の出版物の広告費も多額に上るとされ、これらのために、メディアは創価学会に大変あたたかい配慮をしていると推定できます。さらに新聞社にとっては不買運動もきっと脅威なのでしょう。

 たしかに、新聞・テレビで創価学会関連の報道に触れることはほとんどありませんから新潮記事は納得できます。しかし創価学会は与党の一角を占める政党の母体であり、約800万世帯の信者を抱える巨大宗教団体です。その動向は社会に大きな影響を与えますから、国民が知らなくてよいということにはなりません。

 96年、フランスの国民議会は報告書の中で創価学会はカルトと認定したそうです。カルトとはマインドコントロールを行ない、個人の自由意志を奪う、全体主義的体質を持った反社会的団体ということのようです。また2000年6月8日、フランスの国営放送は創価学会に批判的な60分の番組(日本語字幕付)を放送しました(*1)。

 厳しい姿勢にはルモンド紙の批判があるそうですが、私には知らないことが数多くありました。日本に住みながらフランスのテレビに初めて教えられるという奇妙な経験です。日本のメディアが協力して作り上げた巨大なブラックボックスをフランスの小さな窓から垣間見た気分です。

 創価学会だけでなく多くの宗教団体は寄付や退会などに関するトラブルを抱えています。ネット上で検索すれば多数の情報が得られますが、既存のメディア、新聞・テレビにはほとんど見られません。こうした「思いやり報道管制」が布教活動に手を貸していると言ってもよいでしょう。

 将来、強大な政治権力となるかもしれない宗教団体の内実が外部に知らされないという現状は政治的な危険を孕むものであり、また第二のオウムを生む温床にもなるでしょう。田中角栄は池田大作氏を「法華経を唱えるヒトラー」と言ったそうですが、たいへん意味深長な表現です。

 余談になりますが、憲法20条は「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」とされています。つまり現在は、宗教団体の政治への参加は政治上の権力の行使にはならないという解釈されているそうです。現在、与党の一角を公明党が占め政治的影響力をもっていますが、これは権力の行使にはならないという解釈は無理があるように思います。もし公明党が過半数を獲得し、公明党内閣ができても政治上の権力の行使にはならないという解釈が成り立つのでしょうか。

(*1)放送番組の他の部分はフランス国営放送の『創価学会――21世紀のカルト』で見ることができます。
(*2)仏国営放送における創価学会批判番組

政党の軽量化

2009-07-02 12:55:03 | Weblog
 東国原英夫宮崎県知事が次期衆院選への出馬要請に対し、自らを自民党総裁候補とすることを条件にした話は大きく報道されました。

 その後、東国原知事は、28日午前のテレビ討論番組で、自民党にこだわらず、民主党など他の政党であっても、「どちらでも良い」と述べ、自らの政策を評価してくれる政党で、次期衆院選への出馬意欲を示唆したと報道されました(6月28日ブルームバーグ)。

 また、昨年の熊本県の知事選挙では蒲島郁夫氏が当選しましたが、その選挙を蒲島氏自らが分析した論文が中央公論(08-06月号)に掲載されました。そこで蒲島氏は支援してくれる政党が自民の場合、民主の場合のどちらが選挙に有利かを分析した上で決めたという話が載っており、少し違和感を覚えました。

 これらの例からは、政党は選挙に利用するものという考えが感じられます。いささか青臭いと言われそうですが、政治的な志を同じくするものが集まったもの、これが本来の政党である筈です。政党に加わるとき、あるいはその支持を受けるとき、その思想・信条はたいして重要な要素ではなくなっているのでしょうか。

 一方、7月1日の朝日新聞(大阪版)の一面トップは民主党「鳩山代表 虚偽献金2177万円」で、社会面にもトップで関連記事を載せています。これに対し、民主党がガソリン税など道路特定財源の暫定税率の2010年4月からの廃止を政権公約に盛り込む方針を決めたことは7面の目立たない記事となりました。

 この日の朝日新聞は政党の政策よりも不祥事を格段に重視してきた従来の一貫した姿勢を象徴しています。このような傾向は他のメディアも似たものであろうと思われます。このようなメディアの姿勢によって、政党を政策で評価するという観点が失われてきたのではないでしょうか。

 では何をもって政党が評価されるかというと、大きいポイントは不祥事の多寡でしょう。前回の参院選における自民の敗北は閣僚の政治資金問題が相次いだことが大きい原因とされています。最近でも野党幹部の政治資金問題が政党支持率を大きく左右しています。

 政党が掲げる将来の展望や方向性、それを実現する政策に比べ、政治資金問題などの不祥事はいかにも卑小な問題です。その卑小な問題が政局の行方を決めるとすればなんとも残念なことです。また政局が不祥事によって決められる現状に批判や反省が見られないことはさらに深刻な問題です。

 政党の政権公約が大きく報道されなければ、政党もそれに大きい努力を払おうとしなくなるでしょう。どのような社会を目指すのかということはとても重要なことですが、政党は明確に提示してきたでしょうか。逆にそれがしっかり根づいていれば不祥事ごときで支持率が大きく左右されることもないと思うのですが。

 メディアの関心が低ければ、予算の裏付けが不明など、実現性が怪しいマニフェストが出されても、徹底した議論があまり行われなくなります。例えば昨年、民主党は高速道路の無料化など、多くの歳出の増加を要する政策を掲げましたが、その財源の裏付けは曖昧なままにされました。

 政党の掲げる政策の実現性と共に、そのよい部分だけでなく影の部分をもわかりやすく説明し、有権者が判断するための情報を提供することがメディアの本来の役割でしょう。不祥事の多寡が投票を大きく左右するという、政党政治の理想とはほど遠い現状を裏で支えているのはメディアの報道姿勢である、というわけであります。