噛みつき評論 ブログ版

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日本の三流政治は揺るがない

2011-08-29 00:32:56 | マスメディア
 次期首相候補者、つまり民主党のエリート7名の頭文字を並べれは「また馬鹿のかお」になるという週刊文春の記事が話題になっています。品がよいとは言えませんが、見事な着想です。

 日本の政治は三流だと言われて久しいのですが、民主党政権になっていよいよそれが確定した観があります。日本は押しも押されぬ三流の地位を確立したようです。

 マスコミは権力の監視役として、政府を批判し、また様々な注文をつけてきました。もっともらしい批判や意見が何万回も繰り返されましたが、政治のレベルは上るどころか、下がる方向に向かっているようです。マスコミの批判を受けて政治家が優秀になったりするなどと期待しない方がよいでしょう。

 マスコミは政治家に対しては見るべき効果をあげることがなかったわけですが、その反面、選挙民に対しては強い影響を与えました。政権交代に甘い期待を持ち、民主党政権の誕生に手を貸して、皮肉にもより低レベルの政権を実現させました。

 何十年も同じことが繰り返されてきたわけですが、この先、同じことをして政治がよくなると考えるのはいささか楽観的に過ぎると思われます。百万言を費やして批判したり、嘆いてみても変ることはないでしょう。

 政治のレベルを決めるものは、国民の見識、マスコミの見識、選挙などを含めた政治制度が主なものだと考えられます。これらの要素が変らない限り政治レベルも変らないと思われます。このうち、国民とマスコミが急に賢くなったりすることは期待できないので、現実に変えることができるのは政治制度だけということになります。

 しかし残念なことに、政治に対する議論は世にあふれていますが、政治制度の改革に関する議論はほとんどお目にかかりません。三流とは言われなかった司法制度は大きく改革されました。三流の部分を直すほうが先だと私は思うのですが。

 機能不全が長期間続き、枠組み内での解決ができないとき、枠組み自体を見直すのは当然のことです。政治の低迷に対しては政治制度改革の議論が必要だと思いますが、そのためにはマスコミがその必要性を理解することが必要です。課題の設定(小難しく言うとアジェンダセッティング)はマスコミの重要な役割だからです。

 例えば、小選挙区制では人物で選ぶより、党で選ぶ傾向が強くなります。また公認が当選の決定的な条件になり、党や党の権力者に忠実な人物が当選しやすくなります。どちらも政治家の質を下げる方向に作用するのではないでしょうか。これは現在の状況を見ると納得できそうです。

 また、間違って選ばれた政権の無能ぶりが露見して国民の支持を失った場合、総選挙をすれば敗北するので解散はまず行われません。不人気な政権ほど安定するという好ましくない現象が起こり、結局4年間もその政権が続いてしまうという制度上の問題も明らかになりました。

 一般に、枠組み内の改善は容易ですが、枠組み自体を変えることはなかなか困難です。外圧や誰の目にも破綻が明らかな場合には枠組みの変更が見られますが、それには急激なショックが必要なようで、事態が緩慢に進む状況では難しいようです。

 マスコミが政治制度の改革を重要な課題として取り上げ、改革への気運が生まれればと思うのですが、過去の実績をみれば、それは無理な話かもしれません。

信用ない人の言葉は逆効果を生む

2011-08-22 09:56:30 | マスメディア
 信用のない人の意見は、たとえそれが正しくても(後でわかることですが)、疑ってしまいます。その意見が当人の利益になるといった下心が見える場合は、なおさらです。

 左翼政党の反原発運動への関与は古くからあり、そこには党の利益になるという思惑があったものと思われます。かつて、核兵器を否定する運動が、共産党系の原水禁と社会党系の原水協に分裂し、平和運動が党利のための道具とされたことが思い出されます。

 非武装中立などにみられるように非現実的な見識をもつ政党が反原発運動に関れば、反原発の主張も信用できないものと受け取られます。また政治色が強まることによって、その主張はわかりやすく、情緒的なものになります。地道な安全性の向上よりも原発全廃を訴える方がインパクトがあり、わかりやすいわけです。

 一方、原発の事業者側には、過去に津波対策の堤防の嵩上げや、全電源喪失時でも冷却ができる重力式の給水装置が検討されたことがあったが、それを実行すれば今までは安全ではなかったのかという追求を受けることになり、実現しなかったという話があります。安全神話がより高い安全性を目指す技術的改良を阻んだというわけです。

 むろんこれは事業者側の弁解・言い逃れという感が強いのですが、まったくそればかりとは思えません。この安全神話の成立には情緒的な反対論が関係しているように思えるからです。

 一部のまともな学者達を除いて、反対論の多くは原発を詳細に理解したものとは思えず、彼らに対し理をもって説得するのは非常に困難な状況であったと思われます。誰が作ったのか知りませんが、本来あり得ない絶対安全という安全神話の成立にはこのような背景があったと推定できます。

 また、新潟県中越沖地震では柏崎刈羽原発から問題にならない微量の放射性物質を含む水が漏れましたが、大きく報道されて風評被害を招きました。数値の意味を理解せず、微小値でも大騒ぎするマスコミの反応も完全な安全・安心を求める風潮を作り出し、この神話成立の背景になったと考えられます。

 こうして事業者側の絶対安全に近似した議論と反対側の全面廃絶という妥協の余地のない議論の対立となって、安全性の向上という現実的な選択が難しくなった面があると思われます。むろん福島原発の事故の第一原因は大津波であり、その背景には地震学者らの誤った想定に基づいて津波を低く見積もったこと、事故直後の管理体制などがあったわけで、上記の問題はその背景の一部に過ぎません。

 事業者側は情緒的な反対論への対応には大きな努力をしてきたと思われますが、全電源喪失の問題や過去の大津波は一部で指摘されていたにもかかわらず、対策がとられることはありませんでした。また事故直後、一号炉の非常用復水器を手動停止させたことを所長が知らなかったり、死命を制するほど重要なベント弁の操作マニュアルがなく操作に手間取ったことなどを考えると、事業者側自ら安全神話を信じてしまっていたのかもしれません。

 今回の事故で、安全神話が崩壊したなどと言われますが、もともと絶対の安全などあるわけがなく、必要なのはどうすればより安全になるかという議論であった筈です。白か黒かの二項対立が現実的な対応策を遠ざけた、と言うことができましょう。

中国新幹線事故の過熱報道

2011-08-18 10:34:07 | マスメディア
 中国国内の反日デモや反日教育、昨年の尖閣諸島事件、そして新幹線技術の特許申請などによって、中国を快く思わない人は多いことと思います。そんな折に起きた中国の新幹線事故ですが、ちょっと考えられない追突や事故直後に車両を埋めるという当局の対応ぶりにあきれると共に、溜飲を下げた方も少なくなかったろうと想像します。

 しかし、この事故は他国での出来事であり、事故原因や事後処理について、自国の基準に基づいてあれやこれやと当然のように批判するのには少し違和感があります。中国は、天安門事件の際、小平が「中国では100万人が死んでも、大きな暴乱とはいえない」と言ったほどの国であり、現在も世界の死刑数において圧倒的シェアを有する国であります。贈収賄でも金額が大きければ死刑だそうです。

 事故車両を埋めるという処理方法も中国の流儀なのでしょう。もちろん中国流のやり方がよいとは決して思いませんが、もう少しお国柄の違いを意識する必要があるのではないでしょうか。

 朝日などが連日一面トップで扱うなど、日本のメディアがこの事故を必要以上に大きく報道した裏には読者・視聴者を喜ばそうという下心、つまり迎合姿勢があったように感じられます。「ひとの不幸は蜜の味」とばかりに。

 ワイドショーのコメンテーター達は中国の事故処理について、そろってあきれた顔をしていましたが、彼らのあきれ顔には中国の後進性に対する嘲笑が含まれているような気がします。

 むろん溜飲を下げたのは読者・視聴者だけでなく、メディアの人間も同様であったでしょうから、報道にいっそう力が入ったのだと思います。つまりメディアと読者・視聴者が一体となった国家的マスターベーションと言ってもよいでしょう。

 日本の大きな報道は中国社会に好ましい影響を与えるかもしれません。しかし報道が純粋な動機だけから行われたとは思えず、それはあまり趣味のよいことではないと思った次第です。

記者の「安全・安心」が第一?・・・原発周辺の空白域

2011-08-15 10:03:31 | マスメディア
 3月末から、立ち入り禁止になった4月22日まで約3週間、福島第一原発の20キロ圏内で取り残された犬や猫の救出活動を行った広島のNPO法人犬猫みなしご救援隊理事長・中谷百里氏の記事が文芸春秋6月号に載っています。

 20キロ圏内は事故直後に避難指示区域に指定され、ほとんど無人となった街には置き去りにされた犬や猫が多く残され、既に餓死していたものも多かったそうですが、中谷氏らによって約300頭が保護されました。

 保護活動は原発から500メートルの地点まで及んだそうです。危険とされているエリアで作業して「怖くないのか」とよく聞かれることに対して中谷氏は次のように述べています。

「私は、もう子供を産むような年齢でもありません。悶々として『あの犬や猫を連れて帰ってくればよかったな』と思って日々を暮らすぐらいなら、放射線を浴びて十年後に白血病死んだ方がいいと思っています。(中略) 実際、犬や猫たちと一緒にスクリーニング検査は受けていますが、特に問題のある数値は出ません。せいぜい靴底や手のひらに多少の反応があるぐらいです」

 一方、マスコミの取材活動は対照的です。原発から20キロ圏内は警戒区域になった4月22日までの1ヵ月半近く自由に出入り可能であったにもかかわらず、記者達がその圏内に入ることはほとんどなかったのではないかと思われます。その地域の状況を伝える報道があまりにも少なかったからです。

 大企業の不祥事や有名人のスキャンダル、深夜の公園で芸能人が裸になったというだけの事件ですら、腐肉に群がるハエのようなマスコミの記者達は一体どうしたのでしょうか。文芸春秋7月号の「忘れられた町・・・救援も報道もこない町がある」という江川紹子氏の記事には10キロ圏内の浪江町や馬場町が情報の空白地帯になった様子が描かれています。

 原発報道に関しては、マスコミは政府や東電発表に頼りすぎていたという批判があります。記者らが20キロ圏内に入らないことはそれを裏付けているようです。記者が群がっていたのは政府や東電、原子力安全・保安院の記者会見場でした。

 緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)の予測結果が伏せられ、多数の住民がより放射線量の高い地域に避難するという事態が起きましたが、記者らに線量計を持たせて現地へ行かせたり、周辺の線量情報を集めさせたりして、政府とは別の情報を提供していたならば避けられたかも知れません(無理な望みかもしれませんが)。

 放射性物質の拡散事故では風向きが極めて重要な要素であることは素人でもわかることです。なぜマスコミは事故直後、政府に対しSPEEDIの予測結果の発表を迫らなかったのか、不思議です。

 前回、安全・安心がすべてに優先するという風潮がある、と書きましたが、もしかするとこの風潮にもっとも染まっているのは現場に行かなかったマスコミかも知れません。放送業11社の生涯給与平均額は4億4287万円(06年)で他業種に比べ突出しており、新聞も含め、恵まれた「階級」になりました。

 彼らには、「衣食足りて礼節を知る」というよりも、「衣食足りて、我が身かわいさを知る」といった方がよさそうです。

 日本のマスコミは記者クラブなどでの発表ものがほとんどを占め、独自の調査記事が大変少ない、と以前から指摘されていますが、この原発報道でもどうやら実証されたようです。

無理が通れば道理引っ込む・・・五山送り火を巡る古都の騒動

2011-08-11 10:06:31 | マスメディア
 津波に流された陸前高田市の松を、京都の五山送り火の護摩木として燃やす計画が、放射性物質の汚染を心配する数十本の抗議電話によって中止となったニュースは大きな反響を呼びました。抗議には、燃やせば琵琶湖が汚染されるといった妄想まであったそうです。

 主要紙の多くがこれをコラムで取り上げました。地元の保存会と京都市がすべての薪を検査して、放射性物質がないことを確かめたにもかかわらず、抗議に屈したのは数百本の護摩木に託された亡き家族への思いなど傷つける残念な行為だという論調が多かったようです。

 この騒ぎは単なる偶然ではなく、起こるべくして起こったという気がします。騒ぎを構成する要素として、
①放射性物質に対する不合理というより病的ともいうべき恐怖心、あるいは
②数値に対する理解能力の圧倒的な欠如
③自分達の健康がすべてに優先するという考え方
④被災した人々の心情への無関心
⑤主催者側の情けないほどの定見のなさ
が挙げられるでしょう。①~④は風評被害の成因とよく似ています。ついでに言うと⑤の定見のなさは菅首相をお手本にしたかのようです。

 近年、ダイオキシンや環境ホルモン、BSE、食品の消費期限問題などによる騒ぎが繰り返されました。マスコミの期待にもかかわらず、これらによって実際に健康被害が生じた例は聞きませんが、この度重なる騒ぎによって健康問題は決して侵してはならない聖域として定着したように思われます。

 むろん健康被害が出てはなりませんが、健康に対する安全だけではなく、安心までも重視される風潮が出来上がりました。安心もまた大切なことですが、困ったことにそれは人によって感受性が異なります。鈍感な人もいれば病的なほどに過敏な人もいるわけで、極端に過敏な人にまで安心してもらおうとすると、今回の陸前高田の護摩木使用を中止するといったことになります。

 五山送り火の騒ぎでは、一部の人たちの不合理な意見のために、まともな人たちの行為が曲げられたわけで、実に理不尽な結果となりました。「健康に対する不安」と言われればそれが如何に根拠のない話でも逆らえない、といった風潮が広がっているように感じます。健康不安は、誰もが黙る水戸黄門の印籠のようなものとなりました。

 安心は意識の問題です。十分に安全であるにもかかわらず、安心できない人に対しては安全の理由をきちんと説得するのが道理です。汚染牛肉の問題で政府は方針を転換し、放射性セシウムの値が基準値以下の場合であっても、買い上げて焼却処分することにしましたが、このような安易な方法は基準値の意味を失わせるだけでなく、政府自ら不合理を認めるものです。まあモンスターペアレントの言い分に対し、ご無理ごもっともと、お追従するようなものです。

 このような風潮は、健康被害の恐れを強調することによって不安を煽ってきたマスコミの姿勢と無関係ではないでしょう。不安を煽らなければ不祥事の原因者を激しくバッシングできません。また不安そのものがマスコミの商売に欠かすことのできない大切なものです。

 一方、自分で煽った不安を自分で否定することは困難です。その結果、マスコミは根拠のない不安に対して、毅然たる態度をとることができなくなったのでしょう。陸前高田市の護摩木を使わないという情けない決定はこのような風潮が生んだひとつの例として理解できます。

 先に述べた主要紙のコラムは他人事のようにもっともらしいこと述べていますが、その遠因に自分達も加担しているという自覚があって欲しいものです。ただひとつ、8月8日の毎日のコラム「近事片々」には反省の気持ちが見える一節があります。

「私たちメディアも何を報じてきたのか。木片が問う」

 その後、京都で陸前高田市の松を護摩木として用いる計画が中止されたことに対して、多数の抗議が寄せられたことは、まともな意見も依然として健在であることを示しており、まあ一安心というところでしょうか。

メディアの裏の顔・・・英盗聴事件

2011-08-08 10:04:12 | マスメディア
「市民の味方を装っているが、実際は犯罪者と手を組むメディア集団だ」

これは、ルパート・マードック氏が支配する英大衆紙ニューズ・オブ・ワールドの盗聴事件についてのブラウン前首相の言葉です。

 見慣れてきた表の顔とは似ても似つかぬ裏の顔を突然見せられた戸惑いが感じられます。メディアは発表の手段を自ら所有し、都合の悪いことは沈黙するため、裏の顔が現れることは滅多にありません。それだけに今度の事件は氷山の一角という疑いが残ります。

 英国では新聞発行部数の4割がマードック氏の支配下にあり、大きな影響力を持っていたとされます。そして政府や警察もこの騒動に巻き込まれました。「犯罪者と手を組むメディア集団だ」が政府や警察と「親しい関係」にあったこともバレたわけで、「激恥」です。そして、英米豪の主要メディアを支配し、強い影響力をもつマードック氏の素顔が見えたようで、いささか不気味です。

 BBCのダイク元会長は「過去30年、英国政治は大衆紙、特にニューズ社系紙との関係のために劣化した」と指摘したそうですが、新聞発行部数の半数近くが特定の資本に支配される状況は由々しい事態です。英国では今、メディアの集中を規制する動きが出ていると報道されていますが、いささか悠長な気がします。

 たいていの国にはマスメディア集中排除原則があるように、多くのメディアが特定の資本に支配されることの弊害はよく知られています。とりわけ戦前、資本ではないにせよ軍部に支配されたメディアがどのような役割を演じたか、メディアは骨身に沁みている筈です。ならばメディアに対する独占的支配の結果である英国の事件には重大な関心を払ってしかるべきだと思いますが、これが大きく報道されることはなく、ましてメディア支配の問題に切り込んだ報道はなかったようです。同時期、中国の鉄道事故の詳細な報道に比べると雲泥の差です。

 日本でもメディアの裏の顔が見えたことがあります。2005年、多数の主要紙やキー局が傘下の地方局の株式を第三者名義を使い、上限を超えて実質保有していることが発覚し、厳重注意処分を受けました(参照)。これらは地方局を違法に支配しようとする悪質な行為であるにもかかわらず、あまり報道されず、世に知られていません。

 日本の新聞とテレビは実質的に同一資本(クロスオーナーシップ)なので互いに批判することはほとんどありません。メディアの独立性を損なう大事な問題なのですが、再販制度の特殊指定と同様、ほとんど報道しないのは世間に知られたくないのでしょう。これは実質的な隠蔽です。報道がなければ人は知ることがなく、知らなければ問題が存在しないのと同じです。

 英盗聴事件の根底にはマスメディア集中の問題があるため、この事件が騒がれると我が身にも累が及びかねないわけで、そうした配慮があったのではないかと勘ぐりたくなります。

 表の顔と裏の顔が多少なりとも異なることは人の場合でもよくあることです。しかしメディアの場合、高邁な理想論の社説などに現れる表の顔がご立派すぎて、裏の顔との差が際立ちます。だから裏の面を見られまいと、ことさらに神経質になるのでしょう。

性善説と性悪説を反面教師に

2011-08-04 09:52:13 | マスメディア
 性善説は人の本性は善であるとし、性悪説は悪と説きます。同じものについてまったく逆の説明をするわけですから、どちらかが誤り、あるいは両方が誤りと考えるのが道理です。

 どちらも紀元前の中国の思想ですが、その時代には他方で、人の本性は善でも悪でもない、善の人も悪の人もいる、あるいは善と悪が入り混じっているという考えもあったそうです。私にはこれら中間派の考えの方がより適切だと思われますが、にもかかわらず、今日まで生き残っているのは何故か極端な、性善説と性悪説です。

 性善説も性悪説も一面だけを強調し、そして複雑なものを単純化して理解しようとする点で共通します。それらはしばしば誤った説を作り上げる原因となります。世の中には〇〇説とか〇〇思想とかが山ほどあり、それぞれが「近親間」で対立を続けていますが、その対立の多くは一面だけの強調や、粗雑な単純化による誤りのためでしょう。

 性善説も性悪説も単純化のおかげで非常にわかりやすく、しかもインパクトがあります。そのために両者とも広く受け入れられたのだと思われます。その理由のひとつとして、白か黒かで判断することを好み、白から黒の連続した灰色の中に最適な点を見つける面倒さを避けたがる我々の性向が挙げられるでしょう。中間派の説はより現実に近いものであるにもかかわらず、灰色のためにインパクトに乏しく、あまり知られていません。

 善と悪という単純な二項対立にも問題があります。これに関しては1999年の蓮実重彦元東大総長の入学式式辞における発言が参考になります。あくまで一般論としてですが。
『そうした混乱のほとんどは、ごく単純な二項対立をとりあえず想定し、それが対立概念として成立するか否かの検証を放棄し、その一方に優位を認めずにはおかない性急な姿勢がもたらすものです。そうした姿勢は(中略)、現実の分析を回避する知性の怠慢を証言するのみであります』

 〇〇説を作り出すのも、それを対立する××説を出して批判するのも学者の仕事です。極端な議論には怪しいものが多く、無用の混乱を招いているのですが、反面、それらは多くの学者センセイ方のメシのタネになっているわけで、簡単に辞められない事情があります。出版やマスコミもそのお相伴にあずかっていますが。

 こうしてみると性善説と性悪説から様々な問題が見えてきます。学校ではその内容を簡単に習うだけですが、性善説と性悪説は人が真面目に考え抜いた上で間違いを犯す典型例であるとして教えてはいかがでしょうか。

 またもう少し一般化して、〇〇主義や〇〇思想というものは誤りに陥りやすい性質を本来的に備えていることを教えてはどうでしょう。教育によって、主義や思想に熱くなって冷静さを失う人間が減れば、世の中の平和に少しは役立つかもしれません。

ワルとバカとズルの民主党

2011-08-01 10:00:58 | マスメディア
「この世で一番悪い小沢と、この世で一番バカな鳩山と、この世で一番ずるい菅を、世の中にさらしてしまった」

 渡部恒三・民主党最高顧問は今回の一連の騒動に対し、このように発言されたそうです。この世で一番などというと、冗談に聞こえますが、誇張を差し引けば、なかなかよくあたっていると思います。

 小沢氏、鳩山氏、菅氏は民主党のトロイカ体制の枢要部を占めているわけですから、ご三方の特質は民主党の特質だといってもよいでしょう。つまり悪くて、バカで、ずるいのが民主党の三大特質ということになりましょうか。

「三人寄れば文殊の知恵」といわれます。その一方、山本夏彦は「バカが三人寄れば三倍バカになる」と言いました。どちらになるかは三人の人物次第でしょうけど、さてこのトロイカ体制の三人がどちらになるかといえば、少なくとも文殊の知恵の方ではなさそうで、どちらかというと夏彦流に近いような気がします。

 ご三方についての多くの情報がマスメディアから流された現在、渡部氏の名言は多くの人が納得するものと思います。しかし2年前はそうではなく、政権交代を夢見たメディアが流す人物像はおよそ違ったものでした。それ故、民主党が政権を獲得できたわけで、メディアは民主党政権の生みの親と言うことができます。つまり製造者の片割れであり、それならば製造物責任を負わなければならない立場ですが、反省の弁すらほとんど聞こえてこない現状では、無理な高望みと言うほかありませんが。

 またダメだったかと、首相に選んだのが間違いであったことが、やらせてみて初めてわかるということが繰り返されました。1年程度しかもたない首相の輩出はこの事情を物語ります。党の、あるいはメディアの事前評価は決してあてにならないということがわかりました。あるいは適任者が全くいなかったのかもしれませんが。

 もうひとつわかったは、野党というのは一流の人材がほとんどいなくてもやっていけるものだ、ということです。大雑把な言い方ですが、野党の主な仕事とは、非現実的な理想論を、あるいは支持団体の利益を擁護する主張を声高に言うことであり、実際に責任をもって国の運営をする立場とは大きな隔たりがあるということです。好き勝手をいう評論家と責任ある実務者との違いに似ています。当然、要求される資質も大きく異なるわけです。

 まあもともと無責任な評論家の集まりのようなものであったのが、突然の政権交代で、急に責任ある仕事を請け負うことになり、バラバラになって右往左往しているといった観があります。

「民主党には政権担当能力がない」というかつての小沢氏の発言は卓見です。党代表の、自党に対する発言だけに信用できる筈であり、いま思えばもっと謙虚に耳を傾けておくべきであったと、メディアの方々は思っておられるのでしょうか。