噛みつき評論 ブログ版

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女性の一流政治家の出現率

2018-09-30 21:55:28 | マスメディア
 2001年5月1日、北朝鮮の金正日の長男、金正男が出入国管理法違反により東京入国管理局に身柄拘束された。当時の外務大臣田中真紀子氏は「テポドンが飛んできたらどうするのよ」とパニックになり、結局、丁重に送り返したとされる。この判断には強い批判があり、その通りだと思う。一方で、何故こんな人物を外相にしたのかという疑問が残る。認識の不適切さに加え、感情に強く影響された判断である。

 女性政治家は、例えば野田聖子総務大臣や小池都知事、福島瑞穂社民党副党首、蓮舫立憲民主党副代表、辻元清美立憲民主党国会対策委員長、山尾志桜里民進党政務調査会長、と著名な方々がいらっしゃる(国会議員では衆院45名、参院49名)。これらトップクラスの方々はメディアの露出が多く、よく発言を耳にするが、残念ながら政治家として感心するような人物に見えない。

 近いうちに新しい内閣が誕生することになるが、数名の女性閣僚の入閣が慣例になっているようだ。メディアもそれが当然であるかのように報じる。女性枠があるのと同じである。これは閣僚にふさわしい女性がいなくても、誰かを無理やり大臣にさせることを意味する。つまり適材適所でも実力本位でもないのである。その点、東京医大と同じでいる。

 サマーズ元ハーバード大学学長はその前にアメリカ合衆国財務長官を務めたほどの輝かしい経歴の持ち主だが、2005年、女性は統計的にみて数学と科学の最高レベルでの研究に適していないという発言が騒動を引き起こした。このため学長は辞任に追い込まれた。これを裏付ける次のような説がある。集団の中で横軸を知能の低い方を左に、高い方を右に並べ、その人数を縦軸にとるグラフを描くと、左右が低く中央が高い山型を描く。ところが女は中央に多く集まり、男は左右に長く広がる傾向があるという。男は分布のバラつきが大きいことを示し、極端な低知能と高知能が女より多く出現するという説である。これは最高レベルの研究には最優秀が多く存在する男が適しているというサマーズ説に合致する。

 サマーズ説は統計から導き出されたものとされ、恐らく事実だろう。ところが学長辞任を余儀なくさせられるほどの強い力が働いた。男女の差別に反対するグループの影響力は強い。このような運動は単純なスローガンに支配され、性差の細かい部分は無視されることが多い。

 政治家に要求される資質は数学者や科学者のそれとは違うので、サマーズ説が適用できるとは思わない。しかし政治家が感情過多では困るし、すぐパニックになっても困る。広い視野を持ち冷静沈着な性格が要求される。企業の役員は圧倒的に男が多いことを女性差別のせいだとする議論がある。それもあるだろうが、それが理由のすべてではないと思う。生来の特性による現実の結果でもある。女性差別を無理やりなくそうとすれば適材適所でなくなる。女性閣僚枠という考え方がおかしいのである。

 女性政治家を否定しているわけではない。優れた女性政治家の出現率が低いかもしれないということだ。アルゼンチン軍がイギリス領フォークランド諸島を占拠したときに、軍の派遣に慎重であった内閣に対し、「この内閣に男は(私)一人しかいないのですか」と言い放った鉄の女、サッチャー元英首相のように男以上の女もいるわけである。

気象庁の(国語)リテラシー

2018-09-23 23:44:05 | マスメディア
 京都は三方が山に囲まれているため、比較的風が弱い。台風の上陸地から遠いこともあり、過去に何度かやってきたが、風による被害は少なかった。というわけで9月4日の午後に接近した台風21号の際も多くの人はあまり心配しなかった。私は嵐を見るのが好きで、少々期待もあった。

 ところが風は予想外に強く(市内の最大瞬間風速は39.4m/s)、一時は風雨の中での防護作業を強いられ、見物どころではなかった。周りの人達も予想外の強さに驚いていた。事前に気象庁の発する情報が間違っていたのではない。気象庁は最大限の警戒を求めていたわけである。ただいつも気象庁は最大限の警戒を求めているので、今回も同じようなもので大したことはない、と考えていだけである。この強風は第二室戸台風以来の強さで、通常は30m/s程度にしかならなかったのに比べ、1.3倍ほどであるが、風圧力は二乗に比例するので1.72倍となる。倒木は数知れず、住宅や配電設備の被害も少なくなかった。

 結局、気象庁がさんざん呼びかけた注意は視聴者には十分伝わらなかったことになる。7月の西日本豪雨では11府県に大雨特別警報が出たがその意味が十分周知されていず、効果が限定的で多大の被害が出たと言われている。予報精度はよくなったが、それが正しく理解されていなければ意味がない。そこで気象庁の情報伝達リテラシーを考えたい。

 気象庁は台風を強い台風、非常に強い台風、猛烈な台風と3種類に分けている(弱い台風というものは実在するが分類にはない)。これは風速による分類であるが(他に大きさによる3分類がある)、3段階とはちょっと粗雑にすぎるように思う。米国のハリケーンは5段階である。中心気圧や中心付近の風速も発表されるが、素人にわかりやすいのは段階的表記であろう。

 また、用語がわかりにくい。大雨注意報や大雨警報は分かるが「記録的短時間大雨情報」というのはわかりにくい。短時間とはどれくらいの時間なのか、長時間ならどう表現するのだろうか。また数十年に一度起きるという場合の特別警報もあるが、数十年に一度起きると言われてもわからない。数値や段階で表せないのかと思う。必要なのは文学的表現ではなく客観的表現である。

 最上位の特別警報は昨年まで府県単位の発令であった。限られた地域にどれだけ大雨が降っても発令されないこともあった。大雨は府県全体に降ることなどあまりないのに、なぜこんなことに決めたのか、気象庁の考えていることは理解できない。しかし、昨年から市町村単位になった(あたりまえでしょ)。

 表現が客観性に欠け、油断させないためだろうが誇張された表現が多いことも気になる。台風は日本の南海上で最も発達し、日本に近づくにつれて徐々に衰え、上陸後は急速に衰えるのが普通である。しかし気象庁は「衰える」という言葉をまず使わない。よく使うのは「勢力を維持したまま」という表現である。事実を伝えない姿勢が信用を失わせる。

 実験室で20m/sの風速はこれほどすごい、といった映像をテレビは毎回のように見せるが、たいてい誇張がある。それよりも風速が2倍になれば風圧力は4倍になるということを知らせるべきである(テレビ局も知らないのだろう)。それがわからないと予想風速が何m/sと言われても意味が正確に伝わらない。40m/sなら20m/sの4倍の力となる。相当な違いである。

 気象庁にすれば過少な予報のために被害が出ると責任を追及されるかもしれないので、誇張方向へのバイアスがかかるのだろうが、それを続けるとオオカミ少年となる。それは気象庁の信用が低下するのと同じである。それを避けるには予報を客観的な表現にするのがよいと思う。予想降雨量や最大風速はすでに数値化されているが、それでは素人にはわかりにくいので、A~E、1~5などのように段階的な表記がよいのではないか。

 また、台風や大雨が予想されるとき、気象庁の予報官などがテレビに登場する。彼らはとても優秀な人達なのだろうが、なぜか説得力という点では感心しない。凄いことを言っても印象が軽いのである。説明が上手く、かつ信用のありそうな人物を広報担当にされてはどうか。その方がよく伝わるだろう。

ケースバイケースと原理主義

2018-09-16 22:21:32 | マスメディア
 塩野七生氏「ローマ人の物語」にはローマ人の特質としてケースバイケースの考え方があると書かれている。ケースバイケースの考え方とは、極論すれば、その場その場で原則や理念にとらわれない方法で解決を図るということである。これの対極にあるものが原理主義である。どちらも極端な形は一般に現実的でない。原則や理念があまりに軽視されると法さえも機能しにくくなり、無法者の天下となりかねない。原理主義はイスラム原理主義が示すように厳格な息苦しい社会となりやすい。まあ両者の中間に適切な位置があるのだろう。

 ケースバイケースの考え方は現実重視の考え方でもある。逆に原理主義は現実を軽視しても理念を守ろうとする立場である。身近な例を挙げると、時代が変わり、国際情勢が変わっても憲法9条を死守しようとする考え方があるが、これはもう原理主義と呼んでもよいと思う。ある環境保護団体は標高約1000mの比良山にある鉄筋コンクリート3階建ての宿泊用建物を廃業に際して完全の原状回復するよう強硬に主張した。業者は仕方なく全部を破砕の上、半年かけてヘリで麓まで運んだが、多量の燃料を使い(ヘリは1時間で数百リットルのガソリンを食う)、約4億円かかったという。これが自然に優しいか、ちょっと考えればわかることである。これも原理主義に近い。

 民主主義、環境保護などの抽象的な理念を作り、様々な事柄をそれに照らして是非を判断していくことはとても有効な方法である。個々の事象に対する判断が機械的にできるため、頭の負担が少ない。頭を使うことが嫌いな人に向いている。ただ一部の人達は極端に走り、現実を軽視してまでそれを頑なに守ろうとする、困ったことがしばしば起きる。思い込みやこだわり傾向が強い性格の人によく見られる現象で、度が過ぎると非現実的な判断をしやすい。従って生来的なものかもしれない。

 ローマ軍は兵站(ロジスティクス)で勝つ、と言われたそうだ。兵站とは武器や糧食など戦争に必要なものの補給のことであり、そこにはローマ人の現実的な考え方がある。これに対し、旧日本軍は精神で勝つとされ、兵站を軽視したと言われた。精神で勝てればこんな安上がりなことはないが、たいていは成功しなかった。妙な精神論のために現実を正確に認識できなかった例と言ってもよい。

 憲法9条を素直に解釈すれば自衛隊は違憲と思う。合憲という解釈は実に無理やりだと思うが、防衛の現実的な対処法となっている。一方、9条死守の立場は憲法を重視して自衛隊を違憲とし、非武装などを主張する。それを正当化するため日本を攻撃する外国はあり得ない、などと現実の方を歪めてしまう。現実を憲法に無理やり合わせようとするのだから面白い。

 〇〇主義、〇〇教を強く信じる人たちは少なくない。信じ過ぎると現実との乖離が生じ、滑稽に見えることもある。彼らにこそ、ローマ人のケースバイケースという考え方を知ってもらいたいものである。まあ、ふだんは法や原則に合わせる、しかし時には違法・反則をするというくらいがいい。なぜなら〇〇主義や法に100%の完全はないのだから。とはいうものの真面目な人、頭の固い人にはちょっとハードルが高いかもしれない。

コンクリート詰め殺人事件、再犯を報じないメディア

2018-09-09 22:23:49 | マスメディア
<戦後最悪の少年犯罪と言われる29年前の「女子高校生コンクリート詰め殺人事件」の犯行グループの1人が、殺人未遂容疑で逮捕された。ネット上では、少年犯罪の厳罰化、匿名報道への異議が叫ばれている。海外では、そうした声に応えるような動きも見られるがー> これは8月27日付ニューズウィーク日本版(電子版)に載ったリード文である。

 逮捕された湊伸治容疑者は「女子高校生コンクリート詰め殺人事件」で懲役4年以上6年以下の不定期刑が下されている。但し、この量刑からは想像できないほどのおぞましい犯罪を犯している。当時16~18歳の4名の少年が、見ず知らずの17歳の女子高生を拉致し、40日間にわたり監禁、強姦、暴虐の限りを尽くした上、殺害し、遺体をドラム缶に入れてコンクリートで固め、遺棄したという事件である。女子高生は食事も十分与えられず、51kgあった体重は35kgとなっていたという。まさに悪魔顔負けの所業である。

 東京地検は「稀に見る重大・凶悪な犯罪で、犯行の態様も極めて残虐・冷酷である。人の仮面をかぶった鬼畜の所業」としたが、東京地裁の判決は「家裁や少年鑑別所・弁護人・両親や鑑定人の接触によって人間性に目覚め、罪の重大性を認識し、その責任の自覚を深めている」として実に寛大な判決を下した(後に東京高裁によって一部は少し重く変更)。ところがこの4名の内、3名までが釈放後に刑事事件を起こしている。その一つが上に挙げた殺人未遂事件である。

 更生を重視する少年法に基づいた判決なのであろうが、更生という点では一人を除いて破綻したと言える。4名のうち3名、75%が失敗である。再犯の可能性は十分あると考えられるし、新たに犠牲者が出る可能性も否定できない。29年前の犯行は凄惨極まりないもので、40日間という長きにわたって想像を絶する激しい苦痛と恐怖を与え続けた残虐行為は他に例がない。そして被害者家族まで破壊した。未確認ながら被害者の親御さんは自殺されたとの話もある。一生背負うには重すぎる十字架である。私がその立場でも同じように考えるだろう。但しその前に連中をこの手で始末したい。

 長くなったがここからが本題である。主要メディアはこの8月に起きた湊伸治容疑者の殺人未遂事件をほとんど報道しなかった。調べてみたが報じたのは日経と産経、それもコンクリート詰め殺人事件には触れない報道であった。朝日、毎日、NHKは検索したが記事さえ見つからなかった。恐らくコンクリート詰め殺人事件のとき未成年であったことに配慮したのだろうが、それほど大事な問題であろうか。伏せることによる不利益の方がずっと大きいと思う。

 もし、主要メディアが過去の事件にも触れて報じれば凶悪事件に関する少年法の是非の議論に火をつけることになったであろう。現行法に基づいた少年たちへの対処が失敗したことも問題になる。主要メディアがこの事件を伏せることで少年法がもつ問題は放置されることになる。メディアの見識次第では制度の改革もできないわけである。欧米では再犯率の高い性犯罪者を地域に公表したり、GPSの装着を義務づけたりしている。社会防衛という視点からも論ずるべき問題である。少年犯罪の厳罰化、匿名報道は慎重に考えなければならない問題だが、少なくとも議論まで封じるべきではない。

 更生を重視する少年法の趣旨は理解できる。だが少年法が想定していた少年とはここまで残虐な少年ではなかったのではないか。更生の可能性が極度に低い少年に対して更生を前提にした対処法は意味を失う。法の常で「少年」と一括りにするが、コンクリート詰め事件の犯人たちを一律にその括りに入れるのは無理があると思う。海外の重罰化の議論は少年による想像を絶する凶悪犯罪の発生がきっかけと聞く。

 ここまで残虐な、非道な人間がいるのかと、改めて考えさせられる。あるいはミルグラムの実験で示されたように、一定の条件下では普通の人間も残虐になれるのだろうか。いや、ミルグラム実験では被験者には指示が与えられ、スイッチを入れるという動作であったのに対し、少年たちは自らの手で生身の人間を死に至るまで殴るという強い現実感がある筈だ。普通の人間にはできそうもない。

スポーツ貴族の権力

2018-09-01 23:22:21 | マスメディア
 人間とは、権力を好む生き物らしい。近代以前、政治組織は王政が中心で単独の権力者による支配が主流であった。ギリシャ・ローマの民主制は数少ない例外である。小は部族の酋長から大は14億人の頂点に立つ習近平国家主席まで、今でも世界には様々な古典的な権力構造がある。スポーツ界も例外ではなさそうである。

「体操よ、お前もか」である。次から次へとスポーツ界から美味しいネタが出てくる。メディアにとっては実に喜ばしいことだと思う。それにしてもスポーツ界の小さな出来事がこれ程大きく報道されることには違和感がある(携帯電話会社の適正利益についてもこれくらいやって欲しい)。

 日本体操協会のように、スポーツの各種目に応じて様々な〇〇協会があるようだ。その中に会長、副会長、理事長、副理事、理事、…とか多くのポストがある。さらに下部の府県組織があり、多くの役員が存在する。それだけの人数が必要なのか、私にはわからないが、彼らはスポーツ界の貴族である。選手の海外派遣の選定、強化選手の選定、オリンピックなど競技会出場の決定、そして各種資格の授与・剥奪などを行う権限をもつようである。

 以前、マラソンなどでオリンピック出場選手の決定が客観的なデータだけによらず、役員の主観が入る方法で行われていた(現在は知らない)。これは役員に気に入られなければオリンピックに出られない可能性を思わせる。客観性やルールより情実が重視されてきたわけである。情実による決定権は権力の源泉である。

 何年もスポーツ競技に打ち込んできた若者は少なくない。〇〇協会の権力者はその若者の前途を自由にできるのである。逆らえばオリンピック出場が不可能になるだけではない。永久追放、つまりその世界にいられなくするほどの強い権限を持つ。アマチュアスポーツといっても将来は職業としてコーチや監督になる人は少なくない。追放は(将来の)職業選択の自由をも奪うのであるが、これも権力の源泉である。他の世界にこんな過酷なことがあるだろうか。例えばある会社の社員が不祥事を起こしたとしよう。社員は会社をクビにはなっても、業界から追放されるということはない。永久追放に対して人権派の弁護士はどう考えるのだろうか。

 人が集まれば古典的な権力構造ができるのは自然なことでもある。近代以前はそれが普通であったが、これはまずいということで起きたのがフランス革命に代表される市民革命である。国民主権・法の支配・権力の分立などの理念が重要になるのは学校で学んだ通りである。つまりこうした民主制の理念を強く意識的しなければ組織は古典的な独裁的権力構造になりやすい、ということである。

 法の支配に対するものは情実支配であり、国民主権に対するものは役員ファーストである。スポーツ団体といってもこれら民主制の理念と無関係ではいられない。スポーツ団体を支配している人たちの多くは過去にそのスポーツで優れた成績を修めた人達である。若い頃はスポーツに打ち込み、民主制の理念などを学ぶ時間がなかったのかもしれない。

 このように考えると現在のスポーツ業界で次々と問題が噴出するのは当然なのかもしれない。これを機に膿を出し切らなければならないという議論があるがその通りである。膿を大量に含んだ組織の頂点に立つのがIOC、国際オリンピック委員会である。IOC自体も不祥事では決して引けを取らない。