噛みつき評論 ブログ版

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インフルエンザは空気感染? 読売新聞の誤報

2009-04-30 09:00:27 | Weblog
インフルエンザは空気感染? 読売新聞の誤報

 マスコミは新型インフルエンザ一色になっていますが、その中でいち早くインフルエンザの感染の問題を取り上げた読売新聞の4月13日付科学コラムではインフルエンザは空気感染するという、怪しい話を伝えています。空気感染を理解している人がこの記事を読めば、必要以上に深刻なものと受けとる可能性があります。この機会に飛沫感染と空気感染の違いを知っておかれるのもよいかと思います。

 『飛沫感染は、直径5μmより大きい飛沫粒子により感染を起こすもので、咳やくしゃみ、会話、気管吸引など、約1mの距離内で濃厚に感染を受ける可能性がある。飛沫感染を起こす微生物は、インフルエンザ菌、髄膜炎菌、ジフテリア菌、百日咳、ペスト菌、溶連菌、マイコプラズマ、インフルエンザウイルス、麻疹ウイルスなどがある。

 空気感染は、病原微生物を含む飛沫核が直径5μm以下と飛沫感染での飛沫核に比べて小さく、そのため長時間空中を浮遊し、空気の流れにより広く伝播されるのが特徴である。空気感染を起こす微生物は、麻疹ウイルス、水痘(帯状疱疹)ウイルス、結核菌がある』

 以上は京大病院 ICTニュースからの引用です。ここにわかりやすく説明されているので、興味ある方はご覧になるとよいでしょう。

というわけでインフルエンザは飛沫感染なのですが、飛沫感染については
・特別な空調や換気は必要ない
・ドアは開けたままでよい
・患者1m以内に接近する時は外科マスクを着用する
などとされているのに対し、空気感染に対しては
・病室の陰圧空調維持
・排気に際し高性能フィルターの設置、
と、厳重な対策が必要であることがわかります。ただ空気感染する微生物は限定されています。

 蛇足ながら4月26日、読売新聞の「お問合せ」に、空気感染は間違いですという内容のメールを指定フォームに従って送ったのですが、30日現在、返事はなく、科学コラムの当該記事も訂正されていません。

 間違った情報は記事という商品の瑕疵(かし)であり、すぐに訂正するのが当然と思うのですが、どうも読売新聞はそうではないようです。電機メーカーなどは商品に問題があると連絡すれば翌日にも訪問してくれるのに比べ、非常に大きな差を感じます。1000万人に間違った情報が届いているのですが。

 間違いを指摘したメールが担当まで届かなかったのか、あるいは届いていながら放置されたのかわかりませんが、新聞社としての機能に疑問が残ります。もちろん、間違いを書いた記者、それをパスした校閲部の見識も含めてですが。

*5月2日14時45分、上記の読売新聞「科学コラム」(ウェブ版)の記事は訂正されました。記事の訂正が遅れたのは、私からのメールが読売の担当者に遅れて届いたためとのことです。

「最低の人間」発言の背景・・・裸騒動

2009-04-27 09:12:53 | Weblog
 たかが裸になったくらいで大騒ぎして、なんとも大人気ない話です。日本が平和であることの証なのでしょうか。硬い筈のNHKまでがトップニュースで取り上げました。NHKの民放化が言われていますが、これはもうスポーツ紙化と呼んだ方がふさわしいように思います。私はNHKが視聴率を気にせず良質の番組が作れるようにと、視聴料を払っていたつもりですが、どうやらこの考えを変えなくてはならないようです。

 裸になった草なぎ氏の受けたダメージはとても大きなものです。報道の大きさは罰の大きさです。逮捕と誇大報道は、物理的暴力を伴わない集団リンチ事件のような印象があります。リンチは大声の扇動者、野次馬のように興味本位で続く者、対象者に対する潜在的なコンプレックス・妬みなどの要素によって成立します。

 日本中に聞こえる声で「最低の人間」と叫んだ政治家は扇動者の一方の雄でしょう。もう一方はもちろんマスコミです。その政治家はマスコミの非難姿勢を世論と読み違え、ここで世論に迎合することは得策と判断され、「最低の人間」声明となったものとお察ししていました。ところがすぐあとで「はらわたが煮えくりかえり、言ってはいけないことを言った」と前発言を取り消されました。とすると簡単に頭が熱くなる性格ゆえの軽率発言であって、政治家とは冷静に状況を判断ができる人間という見方は変更を迫られることになります。

 一方、橋下知事の「ほめられた行為ではないが、人間、それくらいのことはする。これだけ大騒ぎされ、かわいそうで仕方がない」という発言。はるかに若い知事の発言の方がよほど大人っぽく感じるのは興味あることです。なによりも「最低の人間」とは逆に健全な寛容さがあり、私はこのような受け止め方をする社会の方が好ましいと思います。

 サンケイスポーツの調査によれば、草なぎ氏に同情的な回答が全体の92%を占めたそうであります。警察・マスコミ(先ほどの政治家も)と一般の人たちの間には大きな認識のズレがあると思われます。もっとも警察・マスコミが厳しいモラリストぞろいであるためだ、などと単純に信じる人はあまりいないと思いますが。

 警察とマスコミの関係にも触れたいと思います。
『情報の味付けによって記事の扱いが大きくなれば、それが(警察の)広報担当者ないしは警察幹部の点数になるのである。東京の各警察署は警察記事の切り抜きにはげみ、扱い件数の多さと扱い段数の大きさを競っている。少しでも扱い段数を大きくしようとして「明日の夕刊、紙面のあき具合はどうですか」と記者クラブにたずねてくる広報担当などもめずらしくはない』-「新聞記者 疋田桂一郎とその仕事」より

 つまり事件を大きく報道することは警察とマスコミの利害が一致するところなのです。その結果、犠牲になるのは草なぎ氏のような立場の人ですが、それだけではありません。権威者や有名人の逮捕という、面白おかしい、あるいは溜飲が下がるような報道を国民が楽しむ代償として、社会から寛容さが失われていくように思います。
(参考) 書評「新聞記者 疋田桂一郎とその仕事

意味不明、朝日新聞のトップ記事

2009-04-23 08:56:08 | Weblog
 新聞の朝刊トップ記事はもっとも注目されるものであり、新聞社は十分な吟味を経て掲載するものだと考えられます。数千人の組織が作る代表作品というわけですから、トップ記事には新聞社の見識や力量が強く反映されていると言えるでしょう。

 『生活習慣病 高校生4割 予備軍』。これは4月11日の朝日新聞朝刊大阪版の一面トップの見出しです。リード文も「高校生の4割超が、高血圧や高中性脂肪、高血糖など何らかの基準値を超え、生活習慣病の予備軍になっていることが、厚生労働省研究班の調査でわかった」とあり、衝撃的な調査結果に驚かされます。ところが本文を読むと、この記事は中学生レベルにも達しないものであることがわかります。

 調査は中性脂肪や空腹時血糖、空腹時インスリン、尿酸、善玉コレステロールなどのデータが得られた高校生の男女1257人について行われ、各項目の値の悪い方から1割を「生活習慣病」と定義したと書かれています。ずいぶん乱暴な定義であります。その結果、内臓脂肪、高血圧、高中性脂肪、低善玉コレステロール、空腹時高血糖の五つで、男子の44%が一つ以上で基準値を超え、三つ以上超えた人も5%いて、女子ではそれぞれ42%、3%といたとされています。

 44%という数値の意味を考えてみましょう。上の調査方法をわかりやすくするため、100人の生徒が、5つの項目の検査を受けたとします。5×100=500個の検査結果が得られ、そのうちの1割、50個のデータが「生活習慣病」に分類されるというわけです。もしこの50個が100人に分散(1人1個で50人に配分)すれば、50人が生活習慣病に該当し、「50%が基準値を超える」ということになってしまいます。逆にこの50個が10人に集中していれば「10%が基準値を超える」となる筈です。少なくとも1割に集中するよりは5割に分散する方が問題が少ないと考えられます。したがってなぜ「高校生4割 予備軍」となるのか、まったく理解できません。

 またすべての項目について悪い方の1割を「生活習慣病」という乱暴な定義をした根拠についての納得のいく説明がなく、悪い方の1割を選ぶ境界値の表示もありません。このやり方では仮に全員が正常値でも10%~50%が基準値を超えることになるわけです。また見出しでは同じ1割を「生活習慣病予備軍」とする用語の混乱が見られます。

 学校成績の相対評価のように、1割を病人とするような調査の価値はよくわかりませんが、少なくともこのような形で一般に発表するのにふさわしいものではないでしょう。グーグルで「生活習慣病 高校生 調査」をニュース検索したところ、朝日以外にこれを掲載したメディアは皆無でした。朝日の「完全独走」であります。

 記者も校正者もこの調査の発表をよく理解しないまま記事にしたものと思います。新聞記事のうち、政府などの発表を伝える記事が8割と言われます。これは調査報道の少なさをも示していますが、発表を右から左へ伝えるだけの仕事が多いため、「考える習慣」がなくなっているのでしょうか。あるいは「ゆとり世代」の進出のためでしょうか。

 この記事自体は高校生の健康について誤解を与える程度で、それほど大きい問題ではありません。より深刻な問題は、この記事を生み出した朝日新聞社の「体質」にあります。もっとも念入りにチェックされている筈のトップ記事がこのレベルでは、生産体制に問題があると思わざるを得ません。

 このような体制から生み出される多数の記事が世論を作り、それが政治を動かす、と考えるとあまり楽しい気分にはなれませんね。
(参考 朝日新聞の読者信頼度、3位転落)

朝日新聞、ご都合主義の責任逃れの変身術

2009-04-20 08:54:54 | Weblog
 『賞味期限切れだって食べられる』-4月18日の朝日新聞に載った記事であります。1ページの半分以上を使い、賞味期限切れ食品を「モッタイナイ商品」と称して市価の半値程度で販売しているスーパーマーケットの経営者の話を載せています。一部の要約を紹介します。

 「7年ほど前、大手冷凍食品メーカーの冷凍トラックが店にきて、タダでいいから引き取ってくれないかと。4年を過ぎているのもありましたが、引き取らなければ捨てるしかない、というので、試しに調理して食べてみたらおいしかったので、期限切れと表示して市価の1割で売ったところトラックいっぱいの商品が一日半で売れました」

 「表示が義務化される前の時代は、私達は自分の目と鼻と舌で食べても大丈夫かということを判断していました。きちんと殺菌された上で缶詰や真空パック詰めされた食品が多少時間が経ったからと言ってすぐに食べられなくなるとは考えられません。
 賞味期限というのは元々、おいしく食べられる期限の目安として表示したもので、それを過ぎると悪くなって食べられなくなるというものではない筈ないですね。
 日本では毎日、賞味期限切れの食品が大量に廃棄されているという話を聞くと、本当にもったいないなあと思います。
 おなかをこわしたという苦情は一度もありません。ほとんどの食品は事前に試食して出しています」

 保健所は2回来たそうですが、賞味期限切れと表示していれば法的な問題ないとのことです。前の晩に店頭に出すと翌日の午前中に9割程度は売れるそうで、購買者に支持されていることがうかがえます。

 最後に取材を担当した記者がこのスーパーで期限を3ヶ月過ぎた真空パック詰めの煮豆を買って、食べてみたら、味も匂いも問題なく子供たちも食べたがおなかをこわすことはなかったと述べています。

 この記事は賞味期限切れ食品の販売を好意的に紹介しています。経営者のオピニオンという形をとっていますが新聞社の意向を反映するものと見てよいでしょう。内容も妥当なもので、我々が持ち続けてきた健全な常識に沿うものです。

 しかしただひとつ違和感を覚えるのはこの記事が朝日新聞によって書かれたことです。2年余り前、朝日は他のメディアとともに食品の期限問題で大騒ぎし、いつもの「全員参加」で不二家などを激しくバッシングした「経歴」をもっているからです(参考 不二家への理不尽なバッシング)。

 当時、朝日は食品の賞味・消費期限問題(*1)で食品企業をバッシングし、不二家などを経営危機にまで追いやりました。ここには食品の期限超過は危険という前提があった筈です。少々期限が切れていても大丈夫という認識では激しいバッシングが成り立たないからです。

 その同じ新聞社が「賞味期限切れだって食べられる」を載せるのでは、「あのバッシングはなんだったの?」と訊きたくなります。新聞社が「多様な意見」を持つことはよいでしょう。しかし「多様な認識」は困ります。その時々の都合に応じてころころ「変身」するようでは読者は何を信じてよいか、わからなくなります。

 一連のバッシング事件は途中から、誰かを血祭りにあげるということが主な目的になってしまい、期限問題はその口実に使われたに過ぎないという見方すらできます。その後の吉兆事件でも朝日は数日にわたって一面トップで報道しました。扱いの大きさは常軌を逸したものでした。

 読者の興味を惹くことを最優先するあまり、食品の期限に関する理解もないままの報道は、読者にその危険を過大に伝えることになりました。その反省としてこの記事を書くのはよいのですが、第三者のオピニオンという形で表明するのはいささか責任逃れの感があります。

(*1)賞味期限、消費期限は区別されるのですが、バッシング当時はかなり曖昧に使われていました。消費期限は5日以内に急に品質が悪くなる食品に適用されます。

痴漢事件、罪と罰の不釣合い

2009-04-17 16:14:53 | Weblog
 「李下に冠を正さず」、これは疑われるようなことをするなという意味ですが、電車の中ではこれだけでは不十分なようです。さらに積極的に「両手を上げていろ」といわれています。痴漢の冤罪被害に遭わないための箴言というわけです。なんとも住みにくい世の中になったものであります。この背景には誰(女は?)でも冤罪被害に遭う可能性があること、その場合のとりかえしのつかない被害の大きさとがあります。

 痴漢行為を疑われた防衛医科大教授を無罪とする最高裁判決がありました。電車内の痴漢事件は被害者の証言だけに頼ることが多く、冤罪の可能性の高いことが指摘されてきましたが、この判決はそれに好ましい影響を与えるものと期待されます。

 痴漢事件に思うのは罪と罰のアンバランスです。今回の防衛医科大教授の一審、二審判決は懲役1年10ヶ月の実刑でした。体に触れたという罪に対してずいぶん重いと感じます。そして法による刑罰に加え、仕事を失い社会的な生命までも失いかねない社会的な罰との大きさは、どう考えても罪の重さと釣り合わないと思えるのです。

 防衛医科大教授が問われたのは強制わいせつ罪ですが、これは親告罪であり6月以上7年以下の懲役刑となっています。電車内という衆人の中、数十秒という限られた時間内での行為は限界があり、懲役1年10ヶ月は妥当といえるでしょうか。

 また、冤罪被害のあまりの大きさのために、無実なのに犯行を認めて罰金刑に応じたり、示談に応じる人も少なくないとされています。争って負けた場合との差が大きすぎるのです。そのため無実の人がやむなく犯行を認めてしまう、これは法制度の歪みといってよく、こんな馬鹿げたことを放置してよいわけがありません。

 体を触られることによって一生消えない傷を負う、といった議論があるのは承知していますが、大変個人差の大きい問題であり、あまり気にしない人もいます。精神的なダメージの最大と最小には大きな開きがあるわけですが、少なくとも刑罰の重さは最大のケースに対応すべきでないと思います。

 加害者の人権や更正が重視され、被害者の立場が軽視された時代が長く続いてきました。十数年前からだと思いますが、その反動ともいえる現象が起き、被害者重視の傾向が強くなりました。同時に加害者に対する重罰化の傾向が出てきたといわれています。痴漢摘発の強化はその流れに沿ったものでしょう。

 一方で、被害者だけの証言で有罪とされるケースが多いこと、刑が重いことがでっちあげ事件の温床になっているのも事実です。電車内ではでっちあげ事件にも注意を怠るな、ということになりますか。

 刑事裁判では「疑わしきは被告人の利益に」が原則とされています。被害者の証言だけで有罪とされるのであれば、少なくとも一審、二審ではこの原則は有名無実化していると考えざるを得ません。つまりこの原則が厳密に満たされているのであれば、一審、二審及び最高裁の2人裁判官は全く疑いがないと判断したことになります。一方だけの証言を完全に信用できることなど、そうそうあり得ることではありません。

 実際上、この原則は「疑わしい」と「疑わしくない」との間に明確なラインを引くことが難しいため、あまり意味のない原則になっていたように思います。また判断のラインは人により様々であり、あてになりません。

 14日のクレーン横転事故では、目撃者が「突然すごい風が吹いてきてクレーンが倒れてきた」とテレビが伝えていました。その後、突風があったという話はなく、吊り上げの方法が事故原因と考えられているようです。証言は目撃者の頭の中で再構成されたものだという可能性があります。直前に起きた事実に関する悪意のない証言でも信用できない場合があることを示唆しています。

 逮捕と30日に及ぶ勾留、無罪判決が出るまでの3年間の心労、休職を余儀なくされた損失、不名誉、など重大な被害は回復できるものではなく、そして責任をとる者はいません。せめて3年という時間を短縮する司法の努力くらいあってもよさそうですが。

 冤罪の恐ろしさ、理不尽さを描いた映画「それでもボクはやってない」は今回の判決に好ましい影響を与えたかもしれません。しかし時流に乗って被害者寄りの報道を続けてきたマスメディアが冤罪の深刻さを十分伝えたという印象はありません。だからこそ映画には新鮮な魅力があったのでしょう。

 今回の最高裁の判決によって、「電車の中では両手を上げていろ」というような異常な状況が改善されることを期待したいですね。

検察の理系音痴を暴露した高裁判決・・・東京女子医大事件

2009-04-13 10:00:47 | Weblog
 01年に東京女子医大で心臓手術を受けた女児が死亡した事故で、3月27日、東京高裁は業務上過失致死罪に問われた佐藤医師に対し、無罪とした一審判決を支持し、検察側控訴を棄却しました。そして検察側は上告を断念し、上告期限が過ぎた4月11日、医師の無罪が確定しました。

 しかし一審と二審は同じ無罪ながら、判決理由はまったく異なったものであり、解釈の混乱が見られます。裁判の争点は医療の専門的な問題であり、その理解には科学的な理解力が必要な領域であったことがその理由と思われます。

 事故の発生から8年を経てようやく無罪が確定したわけですが、この事件から検察とマスコミ、東京女子医大に関する様々な、そして重要な問題を読み取ることができます。次は東京高裁の判決の一部です(佐藤医師のブログ 紫色の顔の友達を助けたいより)。

『検察官は、非科学的な東京女子医大の報告書に安易に立脚し、その論理と結論を無批判に受け入れた。このことは、学会で全く支持されることがなかった「吸引ポンプの回転数を上げたことが陽圧をもたらした」との結論、さらには物理学の初歩も弁えない「圧の(不)等式」が東京女子医大の報告書と検察官の冒頭陳述要旨だけに現れていることからも明白である』
『しかも、検察官による過誤による被害を受けたのは佐藤医師とその家族だけではない。事案の真相が明らかになることを望む患者家族と社会も、佐藤医師の無罪が確定すれば、本件手術の責任を誰が負うのかという点について何らの回答も与えられないこととなる。このような状態をもたらした検察官は、その捜査と公判について真剣に反省すべきである』

 検察の科学的な無知・無能を強く批判し、佐藤医師ら関係者に多大な被害を与えた起訴の結果についても厳しく批判した結論はまことに適切なものと思います。私は、検察の無思慮な行動が医療崩壊の大きな原因になったこともこれに付け加えたいと思います。

 福島県立大野病院事件など、医師の逮捕が相次いだ背景にはマスコミが常に被害者の側に立ち、医療側の責任を追及することに熱心すぎたことがあります。軽率にも警察・検察はそれに乗せられ、医療を理解する能力を持たないまま逮捕・起訴に踏みきりました。これらが医療崩壊の大きな要因になったことは以前述べました(医療崩壊を推進するマスコミ報道)。

 「これだけ社会問題になると、誰かが悪者にならなきゃいけない。賠償金も遺族の言い値で払われているのに、なぜこんな難しい事件を俺たちが担当しなきゃいけないんだ」
 佐藤医師は警察でこのように言われたと記しています。被害者側に立ち「処罰されるべき犯人がいる筈だ」という認識がマスコミによって作られ、それを動機として動く警察の本音が見えます。まるで魔女裁判です。

 事故の中には予測不可能なものや因果関係が不明なものが数多くあります。誰かが悪者にならなきゃいけない、と無理に加害者を作ることは言語道断です。時にはわからないものは仕方がないというあきらめも必要です。「仕方がない」ということを認めず、何がなんでも責任追及というマスコミの姿勢は社会から寛容さを奪います。

 医療に関する判断能力のない人間によって、裁判に引きずり出されるのは大変恐ろしいことです。判断能力のない者が判断するのは実質的な無免許運転と同じです。今回は高裁の聡明な裁判長の判断で最悪の事態は免れたものの、検事並みの科学リテラシーの低い裁判官ではどうなっていたかわかりません。また理不尽な逮捕を続ければ、医療側に事故を隠したいという動機と正当化の理由を与えることでしょう。

 悪者に仕立て上げられた医師の8年に及ぶ心身の負担など、被害は察するに余りあるものがあるでしょう。ご自身のブログなどに書かれた文章の膨大な量は理不尽なものに対する怒りを物語っているように感じます。

 今回の事件が深刻なのは、これが一検事の暴走によるものでなく、数年間にわたる検察全体の意思がかかわったと考えられることです(10名以上の公判検事が交代して担当)。被害者(遺族)の立場に偏ったマスコミの正義面(つら)をした報道に検察が動かされたと見ることができ、マスコミと警察・検察を動かしたものは軽率な「子供の正義感」だといえるでしょう。「汚職は国を滅ぼさないが、正義は国を滅ぼす」という山本夏彦の言葉をまた思い出します。

 科学を理解する能力が低いこと、能力がないまま無理やり罪人を作ろうとしたことが露呈したわけですが、それらは警察・検察の体質に根ざしたものであるだけに重大です。何のペナルティもなしで済ませてよいものでしょうか。この高裁判決は簡単に報じられ、上に引用した、検察批判の部分は私の知る限りマスコミでは問題にされていません。

 検察の大失態をなぜ大きく報道しないのか、まったく不可解です。この事件に関しては、マスコミと警察・検察はいわば共犯関係ですから、検察を叩くと矛先がマスコミ自身に向けられることを心配しているのでしょうか。しかしマスコミが沈黙すれば、検察を強く批判したせっかくの高裁判決の意味が薄れてしまいます。いつもの横並び一斉報道こそが検察の体質を変えるのに有効です。

 マスコミはこの事件を大々的に報道して警察・検察介入の下地をつくっただけでなく、実名報道によって医師に甚大な被害を与えた一方の当事者でもあります。その経緯を考えれば当然事件の最終的な判断が示された理由を詳細に報道し、医師の名誉を回復する責任があります。

 また医療全体への影響を考慮せず、軽率にも自分で理解不能な事故を立件するという検察の体質を放置してよいとは思えません。問題の重要性が理解できていないのか、それともよってたかって弱いものを叩くのは得意だが、強いものは別、ということでしょうか。どっちにしても困ったことであります。

参考サイト
(読売新聞)手術死、2審も医師無罪…東京女子医大事件
(読売新聞)[解説]東京女子医大事件2審も無罪、医療ミスの立証困難
日経メディカルに掲載された医師による記事

正常性バイアス

2009-04-09 07:39:16 | Weblog
 むかし経験したことですが、交通量の少ない直線道路を70km/h程度で走っていたとき、前方からの対向車が徐々に左に寄ってきて、そのままセンターラインを超え、接触してすれ違いました。被害はサイドミラーの端が壊れただけで済みました。

 両車の相対速度は140km/h程度あったと思われ、タイミングが少しずれていればかなりの事故になるところであったのに、私は回避行動をとりませんでした。回避のための1秒ほどの時間を無駄にしたのは、そんなことは起こるはずがない、相手が避けるに決まっている、という思いでした。

 これはたぶん正常性バイアスと呼ばれるもので、異常な事態に直面したとき、認識が正常性の方向に引っ張られる現象だと思われます。正常性バイアスは、火災の警報などを訓練と考えるなど、非常時の対応が遅れる原因のひとつになるといわれています。多くの犠牲者を出した大阪の個室ビデオ店火災で危うく難を逃れた人は、「部屋にいると天井のすき間からうっすらと煙が入ってきた。約2分間ぼんやりしていると照明もテレビも消えたので、ようやく火事だと気づいて逃げた」そうです。

 秋葉原の通り魔事件でもまさかこんなことが起こるはずがないという気持が適切な対応を遅らせ、被害を大きくしたのかもしれません。

 正常性バイアスは合理的な判断を妨げる方向に働くことがあるわけですが、これにはすぐにパニック行動をとることを防ぐという合理的な意味もあります。前に取り上げたヒューリスティクス(参照)は合理的な認識よりも処理時間の短縮を目的としたものでした。

 両者とも存在の理由があり、たぶん情報処理の機構にショートカットのような回路があるのでしょう。これらは瞬間的な情報処理には有用なことがある反面、合理的な認識を曇らせることがあるのも確かです。

 社会には合理的に理解できないものが数多く存在します。「水からの伝言」、民主党の山根議員が国会で大真面目に質問したUFO問題、同じく民主党の藤田幸久議員が質問した9.11テロ陰謀論(詳細参照)など、少し考えるとその荒唐無稽さがわかるものがまかり通っている現象はとても不可解なものです。

 数百万年の間、自然選択によって環境に適応してきた人間の脳ですが、他にも合理的な認識を妨げるメカニズムをいくつか備えているのかもしれません。認識の違いは紛争の主要な原因であるだけに大変困ったことであります。

評決の棄権が許されない裁判員制度

2009-04-06 09:38:23 | Weblog
 裁判員制度では評決に於いて、病気などの正当な理由がある場合を除き、棄権は許されません。つまりいくら考えてもわからないという場合でも無理やり決断を迫られることになります。

 被告人が犯行の事実を否定している事件、つまり否認事件の場合の事実認定では、検察側、弁護側とも辻褄が合うように「物語」を作り上げるわけですが、裁判員はどちらがウソをついているかを判断しなければなりません。司法試験をパスした優秀な方が練り上げたウソを見破るのは簡単ではないでしょう。

 評決のとき、どうしても「決められない」というケースが出てくるのは当然のことと思います。そこでこのような場合の対処法を裁判所に問うたところ、次のような回答を得ました。

①裁判長の訴訟指揮によって判断できるようにするので心配ない
②確信が持てない場合、「疑わしきは罰せず(疑わしきは被告人の利益に)」の原則を適用する

①の訴訟指揮とは、特定の事実・証拠を思い起こさせたり、事実の解釈やその関係性を提示したりして、決断を促すことが考えられますが、裁判長が中立の立場から決断を促すことは大変困難であり、実際はどちらかに誘導することになると思われます。裁判長の意向が指揮に反映するなら、裁判員の存在理由は薄弱になります。

②の確信ですが、否認事件に於いて100%の確信などほとんどあり得ないと考えられ、厳密な意味で「疑わしきは罰せず」を実行すれば有罪にすることはほとんどできなくなるでしょう。もとより裁判は蓋然性の上にしか成立しないもので、数学のような厳密さは望めません。したがって職業裁判官であれば、例えば90%の確信度であれば「疑わしくない」というような基準を持っているかもしれませんが、初めての裁判員は「疑わしくない」というのがどの程度のことを指すのか、わからないと思います。

 実際はこの例のように確信度を簡単に数値で表すことができませんから、基準を教えることは難しく、裁判員によってこの確信度の基準はバラバラになると考えられます。したがって確信度に言及せず「疑わしきは罰せず」という理念を持ち出すのは現実的な有効性に疑問があります。

 60%の確信で有罪の判断をする裁判員もあれば、「疑わしきは罰せず」を厳密に考えて99%の確信でも無罪とする裁判員もあり得ます。

 以上のように①も②も棄権を認めない理由として十分なものではありません。裁判員は確信が得られず、判断に迷ったとしても最後は判断を迫られます。時間が限られる中での苦しまぎれの判断は果たして信頼できるものといえるでしょうか。

 そしてこのような状況での判断の強制は真面目な人にとっては精神的な拷問になるでしょう。被告人の生命にかかわる場合などはなおさらで、安い日当にとても引き合うものではありません。裁判員制度の理念を貫くため、あるいは裁判の効率や運営上のための仕組みだと思いますが、棄権が認められないということは深刻な問題を孕みます。裁判員には棄権を認め、裁判官には認めないという現実的方法も検討の余地があると思います。全員が棄権しても従来の裁判になるだけですから。
(参考拙文:算数のできない人が作った裁判員制度)

(ここで確信度90%とは10回の判断で1回間違えるという程度の予想ができること、というほどの意味です)

景気対策の不可解さ

2009-04-03 07:34:59 | Weblog
 今回の不況はまず自動車や電機などの輸出が大きく落ち込み、その影響が多方面へ波及したと考えてよいでしょう。自動車産業は裾野が広く、それを含めるとGDPの1割ほどを占めるといわれています。自動車生産は半分程度にまで減少し、電機の減産とともにその影響は甚大です。

 一方、国内の新車販売台数も2月は前年比32.4%減と大きく減少しましたが、これは百年に一度の不況だと騒がれたための心理的な影響が大きいでしょう。

 これに対してドイツの2月の新車販売は前年同月比で21.5%増加しました。9年以上使用した車を最新の排ガス規制対応車に買い換えた場合に約32万円(2500ユーロ)の補助する制度を実施した結果であると見られています。当初の枠は60万台分、1900億円でしたが効果があったとして、さらに制度を拡大するそうです。

 わが国でも75兆円の景気対策が計画されていますが、その多くは銀行への資金注入などの金融面の対策と国民給付金のように広く薄くばら撒かれるのに使われ、自動車に対しては環境対策車の重量税・取得税の減免だけです。自動車・電機という「火元」に水をかけるのではなく、全体に広く薄くかけるような効率の悪さを感じます。

 自動車と電機の需要を回復させることができれば効果的な対策になる可能性があります。高速道路割引分の5000億円を、あるいは愚策との評判が高い国民給付金の4分の1をドイツのように使えば約150万台の国内販売増加が期待でき(大雑把で楽観的ですが)、輸出の減少分を大きく補える可能性があります。電機でも省エネ機種に補助をすれば同様の効果が得られるでしょう。

 この場合、5000億円の政府支出に対してその数倍の需要創出効果が期待でき、公共事業の不確かな乗数効果よりよほど確実です。特定業種の保護だという批判には環境問題に貢献するという錦の御旗を立てれば誰も反対することはできないでしょう。

 以上は実際に独や仏・伊などで実施されているように、誰でも気づきそうな案であります。なのに、わが国ではこのような案がなぜ俎上(そじょう)にも載らないのでしょうか、そこが私の疑問に思うところです。国会や論壇、新聞紙上、どこにも見あたりません。

 新聞社やテレビ局の学識豊かな経済記者様、あるいは数多(あまた)の経済評論家様、どうか私のような凡人にもわかるように説明していただけないでしょうか。

 まあ、以上のことから、予算を取り込むことが仕事の道路族や農林族は存在しても自動車族とか電機族は存在しないか、存在したとしても政治的な力がないことだけは推定できます。これらの産業がいままで政治に頼らずにきたことの傍証ともいえますが、そのことが災いして合理的な対策がとられないとすれば残念なことです。