噛みつき評論 ブログ版

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暗い顔の威力

2015-01-26 09:03:17 | マスメディア
 笑顔は人の気持ちを和ませます。食卓を囲う笑顔の家族は幸せの象徴です。しかしここに仏頂面の暗い顔が一人でもいればたちまち雰囲気は暗転し、不幸な家族の象徴になりかねません。暗い顔の威力はたいしたもので、たった一人でも周囲を不愉快にさせることができます。

 家族ほどではないにしても、テレビに映る顔や表情にも我々は影響を受けるようです。娯楽番組には暗い顔や低い声はあまり登場しません。もし暗い顔をいくつも並べれば、観る方も暗い気分になるので、明るい笑顔や高い声の人間を登場させるのでしょう。暗い顔といっても生来の暗い顔と、意図的な暗い表情があります。両方がそろえば最強です。

 しかしニュース番組では様相が異なります。とりわけ政府や社会に対する批判を売りものにしている左派系のテレビ局では笑顔で批判するわけにはいきません。したがってニュースショーでは明るい顔やふざけた顔は不向きであり、クソ真面目な暗い顔や暗い表情の人物が好まれるのでしょう。

 しかし暗い顔を長時間見せられる側はいささか迷惑です。暗い顔で社会問題や将来への不安を聞かされれば、多少なりとも暗い気分になります。これが毎日積み重なると、将来に対する明るい希望は減少し、世の中には閉塞感や不安感が広がることになるでしょう。

 少なからぬ人々が閉塞感や将来への不安感をもっているようです。むろん個々には多くの問題があるものの、全体として日本はずいぶん恵まれた社会です。暗い顔が話す、暗いニュースや批判ばかり見ていれば、閉塞感や不安感は必要以上に大きく膨らみます。逆に世の中に対する肯定感は小さくなります。肯定感が大きすぎれば慢心に、小さすぎては暗鬱となります。

 NHKは夜9時からニュース番組をやっていますが、この大越キャスターが交代するという話があります。このキャスターは人気がおありだそうですが、隣の女性キャスターの方を含めて私は明るさを感じません。個人的なことですが、私は気分が暗くなるので、この番組をほとんど観ません。交代されるなら観る人の心が明るくなるようなキャラクターを望みたいものです。どちらにせよ影響力の大きいNHKなので、世の風潮にも少なからぬ影響を与えるでしょう。

朝日問題の核心

2015-01-19 09:07:36 | マスメディア
 昨年8月の問題発覚後、朝日新聞は謝罪と反省を繰り返してきました。発覚した事実が新聞社として如何に深刻な問題であるか、ちゃんとお分かりのようで、これはたいへん喜ばしいことです。

 当初の、謝罪なしの記事取消しから、謝罪付きの反省、つまりチェック機能が働かなかったといった組織問題への反省、外部の意見に耳をかさない傲慢な体質への反省へと進化してきました。指摘された問題は「朝日の常識」から遠いものであったため、理解するのにも多くの時間がかかったということでしょう。

 1月6日付けの朝刊に「朝日新聞社 信頼回復と再生のための行動計画」と題する記事が載りました。その中に「これまでのわたしたちは、自ら伝えたい思いにとらわれるあまり、時に事実に対する謙虚さを失い、社外の意見・批判に虚心に耳を傾ける姿勢をおろそかにしていました」という一文があります。

 朝日の問題にいっそう踏み込んだ、また的確に表現された文だと思いますが、より根源的な問題に触れていません。それは「自ら伝えたい思い」の是非、またそれが如何に形成されたかという根本の問題です。「自ら伝えたい思い」の異常な強さ、異常な方向性が朝日問題の核心であると思うからです。事実を伝えるという報道機関の基本的なモラルを破ってまで「伝えたい」と思ったのは何でしょうか。記事に「角度をつける」(朝日流の言い方。一般には記事に色をつける)までして伝えたいものとは。

 慰安婦報道は正義感が動機のひとつであったかもしれませんが、その顕在化は日韓の対立を深め、両国民の不利益となりました。報道に携わるものとして、紛争の種をほじくり出すことによる副作用を予想できる筈です。日中関係に於いても同じことが言えます。それよりも「伝えたい思い」が優先したということでしょう。

 また、戦争を避けたい、という気持ちは誰も同じです。しかし朝日は日本が仕掛ける戦争だけに目を向け、仕掛けられる戦争の危険を常に軽視してきました。抑止力は仕掛けられる戦争を防ぐのに重要ですが、それには冷淡でした。現実を認識する能力に問題があると思われます。また無能な民主党を持ち上げて、政権に導いたのも見識に大きな問題があった故といえます。

 「自ら伝えたい思い」がなぜこうも異常なものになったのでしょうか。朝日の認識能力になんらかの問題があったことは間違いないでしょう。認識を狂わせるものは知性の低さ、知識の乏しさ、特定の思想・宗教の影響、あるいはそれらの複合でありましょう。思想や宗教によって認識がおかしくなるのはオウムや連合赤軍のように若年者に多く見られることで、分別ある大人の集団ではたいへん珍しいことです。頭の固まった大人だけに「改宗」は困難であろうと思われます。なぜ朝日だけが前世紀の思想を引きずる特別な集団になったかは興味あるテーマです。

 朝日すべてが知性や教養が低いとは思いません。昨年12月8日「会社に異を唱える記者は次々と編集の現場からいなくなっている」という社員証言を紹介したように、編集には会社の方針に沿った認識のおかしい人間だけが残されたと考えられます。

 いかに外形を改めても、「自ら伝えたい思い」が残る限り、つまり会社や編集のアタマの問題に手をつけない限り、根本的な解決にはならないと思います。あからさまな捏造や偏向記事はなくなっても、扱いの大小や記事の黙殺で「思い」を伝える可能性が残ると思うからです。

宗教の怖さ

2015-01-12 09:02:21 | マスメディア
 1991年7月11日、五十嵐一筑波大学助教授が大学のエレベーターホールで首を切られ殺されました。五十嵐助教授は1990年にサルマン・ラシュディの小説『悪魔の詩』を日本語に翻訳した人物。1989年2月にイランの最高指導者、ホメイニー師はイスラムを冒涜したとし「悪魔の詩」の発行に関わった者などに対する死刑宣告を行っていたので、イラン政府の関与が強く疑われました。

 この事件の少し前、ミラノでイタリア語の翻訳者がイラン人と名乗る男に襲われて重傷を負う事件があり、さらに1993年にはトルコ語翻訳者の集会が襲撃され、37人が死亡しています。イスラム教が関係するテロ事件は長い歴史があり、残虐性は当時から見られます。ずいぶん変わった文化です。

 パリで起きた新聞社襲撃事件はごく一部のイスラム過激派によるものであって、一般のイスラム教徒とは無関係である、という解説がよくされています。直接的にはそうかもしれません。しかし上記のようにイランというイスラム国家までがテロ行為をやっていたとなると、イスラム教とテロとの関係が強く疑われます。

 高名な生物学者で反宗教の第一人者、リチャード・ドーキンスはイスラム過激派が生まれる理由について次のように述べています。

『穏健派の信仰心は、それ自体では害をなすことはないものです。しかし、教義を敬うべきだという考えはイスラム世界においてイスラム教寺院学校の子供達に刷りこまれています。それは過激派ではなく、立派で分別のある教師やイスラム教の師によって教えられますが、彼らが成長した時にはそのうちのごく一部はかつての教えを思い出し、聖典を再び手に取り、それを心の底から信じてしまいます。(中略)そしてそれは、ごく一部の人に聖典 -- 旧約聖書、新約聖書、コーラン、他の全て -- に書かれていることを信じさせるという結果を生みます。もしもそこに書かれていることをそのまま信じてしまったのなら、あらゆる非道な行いの歯止めが存在しないことになります』(The flying spaghetti monster 2006より)

 子供時代の宗教教育が過激派を生む大きな要素になっているのは間違いないでしょう。しかし宗教教育はキリスト教でも行われていますが、キリスト教過激派によるテロはあまり聞きません。イスラム過激派にテロが多いのはイスラム教の性格が関係しているのかもしれません。

 911ニューヨークの自爆テロやイスラム国など過激派による被害は莫大です。過激派が生まれる背景には貧困などの社会・経済的な要因もあるとみられますが、イスラム教が過激派の母体になっている以上、責任がないとはいえません。一般のイスラム教徒はむしろ被害者で責任はありませんが。

 ドーキンスは宗教と教育の関係についても述べています。『宗教と学習到達度あるいは IQ の関係を調べた 43 の研究です。そして 43 のうち 39 の研究において IQ と学習到達度に相関関係が見られました。さらに教育を受ければ受ける程、あるいは知的になればなるほど、無神論者に近づいていきます』

 宗教の害を防ぐには教育が有効であることはわかりますが、教育まで宗教に支配されている国では絶望的です。イスラム過激派は価値観や考え方が異質で、容易に話ができない相手であり、まことに厄介です。フランスのイスラム教徒は7%あるいは10%とされますが、出生率(合計特殊出生率のことと推定されます)はなんと8.1だそうで、39年後には人口の半数を占め、イスラム政権ができるという話もあります。オランダやベルギーも似た状況であるとされています。当然それを阻止しようとする勢力が現れ、大きな紛争の種になるでしょう。宗教は最大の課題になりそうです。

巨大賽銭箱の品格

2015-01-04 23:09:14 | マスメディア
 初詣客で賑う明治神宮の賽銭箱はなんと400畳もあるそうです。超大型の賽銭箱、なんとも壮大なものですが、それにはこの神宮の「御心」つまり本心が表れているような気がします。参拝者の便宜を図るという表向きの理由の裏に、何よりも賽銭を切望するお心が透けるようです。「謙虚」や「奥ゆかしさ」とはほど遠い世界です。

 人はお金を受け取るときでも、ちょうだいとばかりに手を相手に差し出しはしません。そんなことをすれば下品な人間とみなされます。早く出せと、お金を要求することは無作法な行為とされてきました。借金を取り立てることがお仕事の方は別ですが。

 お金は欲しいけれど、その気持ちを表に出すのはためらわれる、人にはそうした屈折した気持ちがあります。本心とは裏腹に、お金を卑しいもの、不浄なものと考える傾向もありました。

 明治神宮の巨大賽銭箱はこのような伝統的な文化、美意識を変えるものでしょう。メディアも面白いものを紹介するという態度で、浅ましいといった否定的な報道はありません。メディアの感覚も既に変わっているのでしょうか。

 古い伝統の上に存在する筈の神社が、お金に関しては伝統を否定するという面白い現象です。背に腹はかえられないということでしょうけど、儲かればよいという新自由主義に都合よく染まったようにも見えます。

 神社に参拝する人が何千万人あったとしても、宗教の信者と呼べるような人はほとんどいないと思われます。それは寺も同様で、葬式仏教といわれる所以です。原価ゼロの戒名を数十万円で販売する宗教商法は健在であっても、本来の仏教はすっかり形骸化しています。その多くは、形は宗教団体であっても実態はほとんで営利団体でしょう。

 このような宗教団体ですが、依然として非課税の優遇措置が続けられていますが、課税が実現すると税収は4兆円にもなるともいわれています。非課税の根拠として宗教の公益性など、様々に理屈がつけられていますが、実質的に宗教団体でないものまで優遇するのは筋が通りません。

 逆に、熱心な布教活動をしてきたオウム真理教や統一教会、幸福の科学などを公益性がある宗教だからと優遇してよいものか、考えさせられます。まあ宗教団体が母体である政党が与党である限り、改善は難しいでしょうが。