噛みつき評論 ブログ版

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ALS患者への善意の押し付け

2020-07-26 21:22:50 | マスメディア
 地獄の苦しみというものはあるに違いない。回復の希望もなく、それが何年も続くとしたら、もう逃れるすべは死しかない。このとき、死は救済である。病苦のときだけのとは限らない。戦争、あるいは社会生活に於いても、もう死んだ方がマシという極限の状況は起こり得る。幸せな人々にとって死は悲しいことだが、不幸な人々にとっては死は救済でもある。筋力を失ったALS患者の場合や自分で動けないほどの重病者の場合、死ぬのも他人に頼らざるを得ない。

 京都で起きた嘱託殺人事件で、医師二人が逮捕された。大きく報道されたが、報道の多くは医師の犯罪という表面的な問題に焦点が当てられ、この事件の背景にある、より重要な問題にはあまり言及されないようである。嘱託殺人であるとか、自殺ほう助であるとか、東海大の安楽死4条件にある、すぐに死が迫っている状況ではないとか、いろいろな人がごちゃごちゃ御託を並べているが、そんな理屈よりALS患者の最後の希望に応えて、何年も続く地獄のような生活を終わらせることこそ最優先されるべきことではないかと思う。法やらモラルやら知らないが、何かと理由をつけて苦しむ人を放置することはまともな人がすることではない。法が障害になっているのであれば変えればいいことだ。自分がALS患者になったときのことを考えてほしい。最後の切り札、死という選択をなくしてよいのか。医師を逮捕した警察の行為は法を執行した一方で、最後の救済の機会をも奪うことになるわけで、こんな対応しかできないものかと思う。

 2008年3月、私は「ALS ある患者の声・・・延命措置推進一辺倒でよいのか」という一文を書いている。ALS患者となった元モルガン信託銀行社長鳥羽脩氏の文章に感銘を受けて書いたものだ。鳥羽氏の文章も紹介したく、ここに再度掲載するのでお読みいただければ幸いである。以下、引用。

「ALS ある患者の声・・・延命措置推進一辺倒でよいのか」

 3年近く前になりますが、ある一文に強い印象を受けました。文春05年7月号の巻頭に載った「ALS ある患者の声」と題する、元モルガン信託銀行社長鳥羽脩氏の文章です。鳥羽氏はその前年、ALSの告知を受けました。

 ALSとは筋萎縮性側索硬化症とも呼ばれる難病で、全身の運動神経が次々と侵され、多くは発症から3~5年で呼吸筋が侵され致死的な呼吸障害を起こす。そのとき気管切開・人工呼吸器装着による延命措置を実施すれば余命は何年も延びる、と説明したうえで、鳥羽氏は次のように述べます。

「私はALSの告知を受け、いろいろ考えた挙句、延命措置を断る決断をしている。この延命措置の是非については、私は誰とも絶対に議論しないと決めている。ALSに直面する患者の状況は千差万別で、それによって、この問題の対処の仕方はみな違う。要するに、延命措置によって生き延びた時の生活の質を、自然死選択と対比して、且つ、自分の年齢、これまでの人生の達成感、死生観などに照らして、どう考えるかの問題だ。二者択一の問題だが、それはあくまで個人的な問題で、一般論として、どちらが正しいということはできない。(中略)この選択は患者本人だけが決断できるということ、(中略)他人が勧めたり、誘導したり、いわんや強要することが許される問題では絶対にない」

 鳥羽氏は日本で唯一の患者支援団体に入会されたわけですが、そこで延命措置を選択しないことがわかると、会員から「あきらめてはダメですよ!」「生きてさえいたらきっと良い事があります」という言葉を一斉に浴びせられたといいます。

 また「患者の闘病記や医師の体験記など、ほとんどすべてが『命の尊さは何ものにも替え難い』式の生命倫理観に基づいて、延命措置を指示する立場で書かれている」と記されます。

 鳥羽氏は、日本で人工呼吸器装着による延命を選択するALS患者は20~30%と推定され、これは欧米の2%程度に対して突出しているとし、日本で唯一の支援団体が延命措置推進一辺倒で患者に接しているのは問題だと指摘します。米国ALS協会は延命措置には中立で、個人の選択する権利を擁護する立場を貫いているそうです。

 確実に訪れる死を覚悟した上での、鳥羽氏の冷静な言葉は説得力があり、当事者ならではの重みを感じます。「命の尊さは何ものにも替え難い」式の主張はヒューマニズム溢れるものに見えますが、そこには個々の事情に配慮しない一律さ、単純さが潜んでいるように思います。

 延命措置の選択が欧米の10倍ほどもある日本の特異な現状を理解する上で、鳥羽氏の言葉は示唆に富むものです。欧米の2%が良いということでは決してありませんが、日本では個人が決定すべき領域の問題に対して、善意による口出しが多すぎるのではないかという気がします。

 鳥羽氏が指摘された問題の背景には日本独特の事情があるように思います。それは原則や理念に対する過度の「信仰」と異論に不寛容な風潮であり、すぐに一色に染まるメディアの体質がそれらを加速します。「命の尊さは何ものにも替え難い」という考えに僅かでも触れる言動は厳しく非難されます。

 今はそれほどではないようですが、少し前までは、死を目前にして苦しむ患者にも延命措置をして「頑張れ!」とやるのが普通であったと言われています。命を最大限尊重した行為と引換えに患者は余分な苦痛の時間を味わうことになりました。現在でも心肺蘇生措置の拒否(DNR)の同意をとっていなければ、見込みのない末期患者に対しても最後に気管挿管と心臓マッサージなどをするそうです。

 命の尊重は大事な原則ですが、その原則を無条件に最優先する考えには疑問を感じます。少なくとも自分の命に関してはもっと自由に考え、決定できる環境があってよいと思います。

 原則はあくまで原則に留めるべきで、現実の複雑な世界すべてに原則を適用できるという考えはわかりやすいですが、さまざまな弊害を生みだすことを理解すべきでしょう。原則や理念に対する過信・盲信があるとさらに問題が深刻になります。集団主義や付和雷同気質とも重なりますが、逃れられない国民の特性なのでしょうか。

中国が日本メディアをチェックしていると爆弾発言

2020-07-19 21:19:47 | マスメディア
 7月6日のテレビ朝日ワイドスクランブルで、小松アナウンサーが以下のような発言をしたと騒ぎになっている。これが事実ならメディアを揺るがす、爆弾発言である。発言は以下の通り。

 『これあの、我々メディアも実は…瀬尾さんも出版出身だからお分かりだと思うんですけど、非常に扱いにくい問題なんですよねウイグル問題って。それからやっぱりその中国当局のチェックも入りますし。だから、我々報道機関でもウイグル自治区のニュースを扱うというのもこれまでややタブーとされてきた部分もあって、でも私は去年、共産党の内部告発の文書が出て、ニューヨークタイムズも報じて西側のメディアが報じて、つまり、我々が報じやすい素地ができたということは、おそらく中国共産党内部に、力関係なんでしょうか、何かウイグル問題を出してそれをダシにして権力構造を変えてもいいという動きがあるのかなとすら瀬尾さん思うんですよね』
 小松アナウンサーの実況動画はここで見られる。

 テレ朝の報道に中国のチェックが入るって、まさに驚天動地、わが耳を疑うほどの事態である。しかもテレ朝だけでなく、我々報道機関とあるようにメディア全体をさしているようにも受け取れる。事あるごとに報道の自由を叫んできたメディアが他国のチェックを受け、それに従っていたとはダブルスタンダードも甚だしい。読者・視聴者に事実を知らせるというメディアの役割を放棄しているわけで、読者・視聴者への重大な裏切りである。

 中国のチェック、あるいは中国への忖度によって歪められた記事はウィグル関連だけではないと思われる。過去数十年、南京事件、靖国問題、日本の防衛問題などに於いて朝日・毎日はことごとく中国側に立つ報道してきた。なぜ日本のメディアがここまで中国側に立つのかと不思議に思われた方もあるだろうが、このような話を聞くと納得がいく。

 この問題には歴史的な経緯がある。それをいまだに引きずっているとは思ってなかったが、事実は継続していることを示している。文化大革命の時期の1967年、中国は産経、日経、毎日、共同などの北京支局を追放した。これら各社が中国が気に入らない報道(つまり正しい報道)をしたためである。しかしただ一人、朝日だけは残留を許された。朝日はその代りに中国のお気に入り記事を書くということになったのである。現在、各社の支局は復帰しているが、今でも気に入らない記事を書いたメディアに対してはビザを発給しないなどの「制裁」を加えている。これは表側で、裏側には、もしかしたら利益供与・便益供与があって、それを止めるという脅しがなどがあるのかもしれない。

 これは日本のメディアの姿勢に関わる、実に衝撃的な発言であるが、騒いでいるのはネットばかりで、地上波テレビは沈黙している。そりゃそうだろう、騒いだばかりに自分たちも中国に影響下にあることがバレたら目も当てられない。気になるのは各メディアごとの影響力の程度と範囲である。場合によっては国益を左右する由々しき問題になろう。中国の他国に対する工作は有名で、最近はオーストラリアに対する工作がバレて、関係が悪くなり、オーストラリアは国防費を10年で20兆円、40%増額すること方針であるという。中国の軍事的脅威に対応するためと見られている。40%もの増額は中国の軍事的脅威の深刻さを示している。中国に対する日本の楽観は中国のメディアチェックのおかげだろうか。

 オーストラリアに対する中国の工作を描いた本「目に見えぬ侵略」にはそのあたりの経緯が書かれているそうなので、いま注文したところである。とにかくこの話はモリカケ問題や桜を見る会問題とは比較にならないくらい重要である。野党は数多くあるが、取り上げるだけの見識のある野党は1党もないのか。メディア各社に対する影響力のレベル、その構造全体を是非知りたいものである。

東京コロナ無策(2) → 政治の無能

2020-07-12 21:28:16 | マスメディア
 以前、私は新型コロナの第2波について大規模なものは起きないだろうと書いた。その理由として我々は3月の感染拡大を抑え込んだ経験があるし、既に様々なことを学習しているので、散発的な発生があっても初期のうちに抑え込めるだろうと考えたからである。しかしそれは誤りであった。いま改めて政治の無能さを知った。

 東京都の感染拡大が止まらない。感染拡大は既に地方にも波及し始めている。これを受けて小池都知事は感染者の増加について「PCR検査数の拡大がそのひとつの理由である」と繰り返し強調している。たしかに検査数の増加も理由の一部ではあるが、それは理由の一部に過ぎない。検査数は4月に比べると多いが、6月には2000件/日に達しており、現在と大差はない。陽性率も6月10日の1.6%に対し、7月10日には約6%と4倍弱になっている。もし実際の感染者数があまり変わらず、検査数の増加が原因で顕在化した感染者数が増えたのなら、陽性率は低くなるはずである。感染者に若者が多いというのも楽観の理由にはならない。若者の方がウィルスを伝播させる能力に優れているからである。むしろ感染拡大の要素であろう。

 小池都知事のこの発言の裏には現在の状況を何とか軽く見せたい、深刻に見せたくないという気持ちが読み取れる。その理由は、現在の感染再拡大を認めれば東京アラートなど、自らのコロナ政策の失敗を認めることになるからだと思う。東京という特殊な地域であるものの、全国で唯一再拡大を許してしまったことを認めたくないのだろう。しかしそんなことのために対策が遅れるたのなら、その代償は計り知れない。

 ごく最近になってようやく識者の間でも感染拡大の危機感が急に強くなり、メディアもそれを取り上げるようになった。増加率の大きさについての見解についてはいろいろと解説があるのでご存知のことと思うが、新感染者数/日のグラフを見れば解説がなくても一目瞭然である。一人の感染者が何人を感染させるかを表す実効再生産数は1を大きく超えていなければこんなグラフにはならない。それは条件を変えなければ今後も増加が続くことを意味している。実行再生産数は人と人とが接触する度数で決まる。接触方法にもよるが、キャバクラの濃厚接触では1回でも10回分くらいの効果があるかも知れない。

 政府の見解もおかしいし、危機感も薄い。11日、西村経済再生担当大臣は東京都の感染者が3日連続で200人を超えたことについて「今は緊急事態宣言を発する状況ではない」との認識を改めて示した。理由を病床数に余裕があることやPCR検査態勢が拡充されていることを挙げたが、病床数に余裕があれば拡大を許容できるとも理解でき、感染拡大防止が優先事項とは思えない。PCR検査態勢の拡充は感染拡大に寄与できるが特効薬ではない。唯一の期待は国民がメディアが煽る恐怖のために自粛して、接触機会を減らし、実効再生産数を1以下にすることだが、なかなか難しい。

 感染者数が拡大すればするほど対策は大規模にならざるを得ず、経済的な損失は莫大になる。東京都が抑止にほぼ失敗した以上、感染は全国に広がる可能性がある。確定的なことは言えないが、春の緊急事態宣言を繰り返すことになり、経済に大打撃を与えかねない。東京近県や大阪、京都は既に増加傾向が定着しつつあるように思う。放置すれば春の二の舞である。感染を抑制する要素があまり見当たらないからである。残念だが、既に手遅れになったかもしれない。

 政治には予測がつきものである。しかし予測は確定でないから、当然間違いもある。だが多くの場合、予測範囲には複数のケースが存在する。各ケースの実現の確率もある程度は予想できることもある。しかし決定は確率ではなく期待、それも甘い期待の楽観論によって決まる場合が多い。この場合は感染はやがて自然に収束するという期待であろう。そして予測が外れた場合のプランBが用意されているとも限らない。

 意思決定のトップが無能ならば不幸は全員に及ぶ。第二次大戦では政府の楽観的予想が悲劇の元となった。トップは選挙で選ばれるので、形は有権者の責任であるが、投票行動は情報をほぼ独占するメディアに支配されるから、実質はメディアの責任である。

東京コロナ無策

2020-07-05 21:29:06 | マスメディア
 もし、新型コロナが武漢市の発生地で封じ込められていたら、世界は莫大な犠牲を払わなくて済んだ。先月、北京では新たな感染者の発生を受けて、封鎖に近い厳重な規制が行われているそうである。感染拡大は火事と同様、初期が重要である。遅れるに従って、大規模かつ厳しい規制が必要になる。経済的損害も飛躍的に大きくなる。

 東京の新規感染者数は131人で、その増加傾向は明確である。その数も過去のピークである4月17日の206人に近づいている。既に初期消火の段階は過ぎたように思われる。東京からあふれ出したウィルスは全国に広がり始めており、すでに東京だけの対策では済まない状況になりつつある。感染してから感染が確認されるまで10日間程要するとされるので、すぐに対策をとったとしても効果が見えるのは10日ほど先になる。その間は等比級数的に増加すると考えられるから無策であれば4月の感染状況に近いものになる可能性が高い。その割に今回の危機感は前回に比べるとずいぶん弱い。2回目は新鮮味を欠いて飽きるせいなのか。国民はそれでも仕方ないが、都と政府、メディアはそれではいけない。予測可能なものについては対策を取る立場である。予測である以上、ある程度の見込み違いは仕方がないが、予測範囲の最悪の事態にも備えるのが仕事であろう。

 前回の緊急事態宣言に於けるような全面的な規制は経済的な犠牲が大きいし、それに対処する財源があるわけでもない。春の経験から、我々はどのような環境が感染拡大に危険なのか、心配ないのか、あるいはどのような対策が有効なのかをある程度学んでいる筈である。映画演劇、屋外の公園まで自粛要請されたが、恐らくこれらのリスクは小さいと思われる。いまやり玉にあがっている夜の街やカラオケ、ライブハウスなどが高リスクだとわかってきた。

 いま実施すべき対策はキャバクラやホストクラブ、カラオケなどの高リスク環境の除去であることは自明である。ただ、ここまで感染が広がった以上もう少し範囲を広げる必要があるかも知れない。対象業種・地域が狭ければ、休業補償にかかる費用も安くで済む。とにかく遅ければ遅いほど対策は高価なものにつくのは確かである。スウェーデンのように自然にまかせるというなら別であるが。

 キャバクラやホストクラブなどは濃厚接触が仕事のうちなので、マスクやソーシャルディスタンスなどの対応策を取りながらの営業は無理があると思う。元文部科学事務次官の前川喜平氏ならこの世界の「調査」で詳しいそうなので、ご意見をお聞きしたいものだ。

 この度、東京都はコロナ用のベッドを現在の1000床から3000床に増やすように、病院に要請したと伝えられている。感染拡大を抑えるより、拡大した場合の医療体制を重視しているように思える。医療も大事だが感染拡大を止める方が優先されるべきなのは当然である。しかし拡大抑制に対してほぼ無策であるのは理解できない。現在の急激な感染拡大の状況を見て、先が見通せないのだろうか。まあ見通せる人物ならば1月に33万着もの防護服を送るようなことはしないだろうけれど。まあ23期目の小池都知事の初仕事が新型コロナ感染の全国拡大ということにならないことを願う。