地獄の苦しみというものはあるに違いない。回復の希望もなく、それが何年も続くとしたら、もう逃れるすべは死しかない。このとき、死は救済である。病苦のときだけのとは限らない。戦争、あるいは社会生活に於いても、もう死んだ方がマシという極限の状況は起こり得る。幸せな人々にとって死は悲しいことだが、不幸な人々にとっては死は救済でもある。筋力を失ったALS患者の場合や自分で動けないほどの重病者の場合、死ぬのも他人に頼らざるを得ない。
京都で起きた嘱託殺人事件で、医師二人が逮捕された。大きく報道されたが、報道の多くは医師の犯罪という表面的な問題に焦点が当てられ、この事件の背景にある、より重要な問題にはあまり言及されないようである。嘱託殺人であるとか、自殺ほう助であるとか、東海大の安楽死4条件にある、すぐに死が迫っている状況ではないとか、いろいろな人がごちゃごちゃ御託を並べているが、そんな理屈よりALS患者の最後の希望に応えて、何年も続く地獄のような生活を終わらせることこそ最優先されるべきことではないかと思う。法やらモラルやら知らないが、何かと理由をつけて苦しむ人を放置することはまともな人がすることではない。法が障害になっているのであれば変えればいいことだ。自分がALS患者になったときのことを考えてほしい。最後の切り札、死という選択をなくしてよいのか。医師を逮捕した警察の行為は法を執行した一方で、最後の救済の機会をも奪うことになるわけで、こんな対応しかできないものかと思う。
2008年3月、私は「ALS ある患者の声・・・延命措置推進一辺倒でよいのか」という一文を書いている。ALS患者となった元モルガン信託銀行社長鳥羽脩氏の文章に感銘を受けて書いたものだ。鳥羽氏の文章も紹介したく、ここに再度掲載するのでお読みいただければ幸いである。以下、引用。
「ALS ある患者の声・・・延命措置推進一辺倒でよいのか」
3年近く前になりますが、ある一文に強い印象を受けました。文春05年7月号の巻頭に載った「ALS ある患者の声」と題する、元モルガン信託銀行社長鳥羽脩氏の文章です。鳥羽氏はその前年、ALSの告知を受けました。
ALSとは筋萎縮性側索硬化症とも呼ばれる難病で、全身の運動神経が次々と侵され、多くは発症から3~5年で呼吸筋が侵され致死的な呼吸障害を起こす。そのとき気管切開・人工呼吸器装着による延命措置を実施すれば余命は何年も延びる、と説明したうえで、鳥羽氏は次のように述べます。
「私はALSの告知を受け、いろいろ考えた挙句、延命措置を断る決断をしている。この延命措置の是非については、私は誰とも絶対に議論しないと決めている。ALSに直面する患者の状況は千差万別で、それによって、この問題の対処の仕方はみな違う。要するに、延命措置によって生き延びた時の生活の質を、自然死選択と対比して、且つ、自分の年齢、これまでの人生の達成感、死生観などに照らして、どう考えるかの問題だ。二者択一の問題だが、それはあくまで個人的な問題で、一般論として、どちらが正しいということはできない。(中略)この選択は患者本人だけが決断できるということ、(中略)他人が勧めたり、誘導したり、いわんや強要することが許される問題では絶対にない」
鳥羽氏は日本で唯一の患者支援団体に入会されたわけですが、そこで延命措置を選択しないことがわかると、会員から「あきらめてはダメですよ!」「生きてさえいたらきっと良い事があります」という言葉を一斉に浴びせられたといいます。
また「患者の闘病記や医師の体験記など、ほとんどすべてが『命の尊さは何ものにも替え難い』式の生命倫理観に基づいて、延命措置を指示する立場で書かれている」と記されます。
鳥羽氏は、日本で人工呼吸器装着による延命を選択するALS患者は20~30%と推定され、これは欧米の2%程度に対して突出しているとし、日本で唯一の支援団体が延命措置推進一辺倒で患者に接しているのは問題だと指摘します。米国ALS協会は延命措置には中立で、個人の選択する権利を擁護する立場を貫いているそうです。
確実に訪れる死を覚悟した上での、鳥羽氏の冷静な言葉は説得力があり、当事者ならではの重みを感じます。「命の尊さは何ものにも替え難い」式の主張はヒューマニズム溢れるものに見えますが、そこには個々の事情に配慮しない一律さ、単純さが潜んでいるように思います。
延命措置の選択が欧米の10倍ほどもある日本の特異な現状を理解する上で、鳥羽氏の言葉は示唆に富むものです。欧米の2%が良いということでは決してありませんが、日本では個人が決定すべき領域の問題に対して、善意による口出しが多すぎるのではないかという気がします。
鳥羽氏が指摘された問題の背景には日本独特の事情があるように思います。それは原則や理念に対する過度の「信仰」と異論に不寛容な風潮であり、すぐに一色に染まるメディアの体質がそれらを加速します。「命の尊さは何ものにも替え難い」という考えに僅かでも触れる言動は厳しく非難されます。
今はそれほどではないようですが、少し前までは、死を目前にして苦しむ患者にも延命措置をして「頑張れ!」とやるのが普通であったと言われています。命を最大限尊重した行為と引換えに患者は余分な苦痛の時間を味わうことになりました。現在でも心肺蘇生措置の拒否(DNR)の同意をとっていなければ、見込みのない末期患者に対しても最後に気管挿管と心臓マッサージなどをするそうです。
命の尊重は大事な原則ですが、その原則を無条件に最優先する考えには疑問を感じます。少なくとも自分の命に関してはもっと自由に考え、決定できる環境があってよいと思います。
原則はあくまで原則に留めるべきで、現実の複雑な世界すべてに原則を適用できるという考えはわかりやすいですが、さまざまな弊害を生みだすことを理解すべきでしょう。原則や理念に対する過信・盲信があるとさらに問題が深刻になります。集団主義や付和雷同気質とも重なりますが、逃れられない国民の特性なのでしょうか。
京都で起きた嘱託殺人事件で、医師二人が逮捕された。大きく報道されたが、報道の多くは医師の犯罪という表面的な問題に焦点が当てられ、この事件の背景にある、より重要な問題にはあまり言及されないようである。嘱託殺人であるとか、自殺ほう助であるとか、東海大の安楽死4条件にある、すぐに死が迫っている状況ではないとか、いろいろな人がごちゃごちゃ御託を並べているが、そんな理屈よりALS患者の最後の希望に応えて、何年も続く地獄のような生活を終わらせることこそ最優先されるべきことではないかと思う。法やらモラルやら知らないが、何かと理由をつけて苦しむ人を放置することはまともな人がすることではない。法が障害になっているのであれば変えればいいことだ。自分がALS患者になったときのことを考えてほしい。最後の切り札、死という選択をなくしてよいのか。医師を逮捕した警察の行為は法を執行した一方で、最後の救済の機会をも奪うことになるわけで、こんな対応しかできないものかと思う。
2008年3月、私は「ALS ある患者の声・・・延命措置推進一辺倒でよいのか」という一文を書いている。ALS患者となった元モルガン信託銀行社長鳥羽脩氏の文章に感銘を受けて書いたものだ。鳥羽氏の文章も紹介したく、ここに再度掲載するのでお読みいただければ幸いである。以下、引用。
「ALS ある患者の声・・・延命措置推進一辺倒でよいのか」
3年近く前になりますが、ある一文に強い印象を受けました。文春05年7月号の巻頭に載った「ALS ある患者の声」と題する、元モルガン信託銀行社長鳥羽脩氏の文章です。鳥羽氏はその前年、ALSの告知を受けました。
ALSとは筋萎縮性側索硬化症とも呼ばれる難病で、全身の運動神経が次々と侵され、多くは発症から3~5年で呼吸筋が侵され致死的な呼吸障害を起こす。そのとき気管切開・人工呼吸器装着による延命措置を実施すれば余命は何年も延びる、と説明したうえで、鳥羽氏は次のように述べます。
「私はALSの告知を受け、いろいろ考えた挙句、延命措置を断る決断をしている。この延命措置の是非については、私は誰とも絶対に議論しないと決めている。ALSに直面する患者の状況は千差万別で、それによって、この問題の対処の仕方はみな違う。要するに、延命措置によって生き延びた時の生活の質を、自然死選択と対比して、且つ、自分の年齢、これまでの人生の達成感、死生観などに照らして、どう考えるかの問題だ。二者択一の問題だが、それはあくまで個人的な問題で、一般論として、どちらが正しいということはできない。(中略)この選択は患者本人だけが決断できるということ、(中略)他人が勧めたり、誘導したり、いわんや強要することが許される問題では絶対にない」
鳥羽氏は日本で唯一の患者支援団体に入会されたわけですが、そこで延命措置を選択しないことがわかると、会員から「あきらめてはダメですよ!」「生きてさえいたらきっと良い事があります」という言葉を一斉に浴びせられたといいます。
また「患者の闘病記や医師の体験記など、ほとんどすべてが『命の尊さは何ものにも替え難い』式の生命倫理観に基づいて、延命措置を指示する立場で書かれている」と記されます。
鳥羽氏は、日本で人工呼吸器装着による延命を選択するALS患者は20~30%と推定され、これは欧米の2%程度に対して突出しているとし、日本で唯一の支援団体が延命措置推進一辺倒で患者に接しているのは問題だと指摘します。米国ALS協会は延命措置には中立で、個人の選択する権利を擁護する立場を貫いているそうです。
確実に訪れる死を覚悟した上での、鳥羽氏の冷静な言葉は説得力があり、当事者ならではの重みを感じます。「命の尊さは何ものにも替え難い」式の主張はヒューマニズム溢れるものに見えますが、そこには個々の事情に配慮しない一律さ、単純さが潜んでいるように思います。
延命措置の選択が欧米の10倍ほどもある日本の特異な現状を理解する上で、鳥羽氏の言葉は示唆に富むものです。欧米の2%が良いということでは決してありませんが、日本では個人が決定すべき領域の問題に対して、善意による口出しが多すぎるのではないかという気がします。
鳥羽氏が指摘された問題の背景には日本独特の事情があるように思います。それは原則や理念に対する過度の「信仰」と異論に不寛容な風潮であり、すぐに一色に染まるメディアの体質がそれらを加速します。「命の尊さは何ものにも替え難い」という考えに僅かでも触れる言動は厳しく非難されます。
今はそれほどではないようですが、少し前までは、死を目前にして苦しむ患者にも延命措置をして「頑張れ!」とやるのが普通であったと言われています。命を最大限尊重した行為と引換えに患者は余分な苦痛の時間を味わうことになりました。現在でも心肺蘇生措置の拒否(DNR)の同意をとっていなければ、見込みのない末期患者に対しても最後に気管挿管と心臓マッサージなどをするそうです。
命の尊重は大事な原則ですが、その原則を無条件に最優先する考えには疑問を感じます。少なくとも自分の命に関してはもっと自由に考え、決定できる環境があってよいと思います。
原則はあくまで原則に留めるべきで、現実の複雑な世界すべてに原則を適用できるという考えはわかりやすいですが、さまざまな弊害を生みだすことを理解すべきでしょう。原則や理念に対する過信・盲信があるとさらに問題が深刻になります。集団主義や付和雷同気質とも重なりますが、逃れられない国民の特性なのでしょうか。