噛みつき評論 ブログ版

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バス事故の闇

2019-06-30 23:48:19 | マスメディア
 13年8月26日、小型バスが道央自動車道の中央分離帯に衝突してから横転した。バス運転者は男性は前方を注視せず、的確なハンドルやブレーキの操作を怠り、乗客13人を負傷させたとして15年9月に在宅起訴された。しかし事故から6年近く経った今年の3月、札幌地裁室蘭支部の五十嵐浩介裁判長は車体の部品が壊れていたために事故が起きた可能性を指摘し、「被告人に過失は認められない」として無罪(求刑禁錮10カ月)を言い渡した。(19年3月11日 朝日新聞デジタルより一部引用)

 バスは三菱ふそうトラック・バス社製で、事故後に緩衝装置の主要部材である前輪「ロアアーム」を車体に固定する部品(センターメンバー)が破損していたことが判明している。ロアアームは車輪と車体を結ぶ「腕」であり、車体との接続部が外れると片側前輪はふらふら状態になり、制御不能となる。しかし検察側は、安定的なハンドル操作が困難になるほどの破損ではなかったと主張。その後、「異常に気づいたのに、直ちに停車させなかった過失がある」とし、起訴をしたわけである。

 走行中、片方の前輪が制御を失ったらどうなるか、恐らく満足な制御は不可能になると思う。私は昔、これを助手席で経験しているが、運転者はハンドルを右に左に回すが車はあまり反応がなかった。この時は道が広かったので無事停車できたが、道央自動車道の事故のようにすぐ近くの中央分離帯に衝突することは十分考えられる。

 何が言いたいのかというと、ひとつは検察側の無知である。さらにそれを理解して指摘できないメディアの無知である。おかげで小型バスの運転者は無実を認められるまで5年半ほどの時間を要した。決して判断の難しいケースではない。検察の主張にはかなり無理がある。あくまでそれを主張するのなら、片方のロアアームを外したバスを自分で運転して、事故を回避できることを証明すればよい。無知な人間が机上で考えただけだろう。

 同社製のバスをめぐっては、13~15年、別の型式でセンターメンバーの破損が原因の人身事故が3件発生した。同社は17年にリコールをしたが、道央道の事故車両の型式は対象になっていないとされる(同)。

 もう一つの点は怠慢か、意図的な抑制か知らないが、このバス事故の報道が少なすぎることである。要するに三菱ふそうトラック・バス社は2つの形式のバスで走行中にハンドル操作が不能になるという重大事故を少なくとも4件起こしていることになる。幸いにも死亡事故にはなっていないようだが、一歩間違えると重大な事故になる可能性をもっている。その割にはずいぶん控えめなで地味な報道であった。

 ここまで北海道のバス事故について述べたが、本題はむしろ2016年の軽井沢スキーバス転落事故である。なぜかこのバスも三菱ふそうトラック・バス社製である。この事故の原因は、運行会社の健康管理や労働環境などいろいろと言われたが、結局、運転手の不慣れ、技量不足による過失ということにされた。つまり土屋運転手は峠を越えて下り坂に差し掛かり、速度が出過ぎた時、懸命にハンドル操作を行ったが、フットブレーキを十分作動させなかったということにされた。エンジンブレーキや排気ブレーキを使わなかったために速度が制御できなかったなど、もっともらしい説明がなされた。しかし、以前も指摘したが、フットブレーキには単独で十分バスを停止させる能力があるので理由にならない。フットブレーキを何度も試していたことは道路のカメラが記録しているので、土屋運転手が故意に軽くしか踏まなかったか、それとも効かなかったか、どちらかである。あの危機的な状況で強く踏まなかったことなど考えられない。道路に2カ所のタイヤ痕があったことから警察はブレーキをかけたとしたそうだがタイヤ痕は横滑りでついたものと考えるのが自然である。警察はABS装着車の場合もいまだにタイヤ痕をブレーキの証拠としているなど、無知ぶりは驚異的である。

 警察や主要メディアはこの無理な説明を繰り返してきたのだが、不自然さを指摘する意見が大きく取り上げられることはなかった。亡くなった土屋運転手に責任を押し付けることがすべてを丸く収められることも確かだが、テレビも新聞、雑誌まで無理な説明に納得するのは不気味である。天下の三菱に忖度したのか、あるいはどこかから圧力がかかったのか、それとも無理な説明に疑問を持つだけの知識がないのだろうか。2017年の報道の自由度のランキングで日本は韓国より下の72位である。このランキングはあまり信用できないが、もしこの報道に何らかの歪曲がなされているなら、72位は納得できる。文春砲の炸裂を期待したいが、文春砲は不倫などの重大事件が専門らしいからあきらめよう。

 今回、改めて軽井沢スキーバス転落事故について検索したのだが、かなり説得力のあるサイトを見つけたのでリンクをしておく。どちらも警察やメディアの説明よりずっと合理的で納得がいく。

下は凍結によってエアーブレーキが作動しなかったという詳細な説明がある。
スキーバス転落事故の真の原因

次は群馬合同労働組合のサイト、寄せられたコメントが興味深い。これもブレーキ故障説が中心。
軽井沢バス事故 事故責任を運転手に押しつけるな!

規格外の人間

2019-06-23 22:03:27 | マスメディア
規格外の人間

 最近、富山市で猫を50-100匹殺したという男が逮捕された。捕まえた猫を自宅で殴ったり、餓死させたり、熱湯をかけたりして殺したという。まことにおぞましい事件である。猫を路上で捕まえる姿を目撃されているので、被害に遭ったのはおそらく人になついた猫が多かったことだろう。動機はストレスを解消するためだったという。

 5月に川崎市で、スクールバスを待っていた小学生らが次々と包丁で刺され2人が死亡、17人がけがをした事件は51歳の男の単独犯行であった。被害者のほとんどは幼い小学生であり、この蛮行に憤りを覚えない人はいないだろう。恐らく悪魔はこのような人間を元に創造されたものだろう。自殺したが、このような男を人間として扱っていいものか疑問である。生物学的には人間であり、他の人間との交配が可能であったとしても。

 さてこれらの犯人だが、我々が一般的に考える人間というものからあまりに乖離している。殺害対象が猫と人間では違うと思われるかもしれないが、加害者の動機など精神面ではよく似ている。自己の利益のための犯行なら理解できるが、この場合殺害そのものが目的であり、凡人の理解を超えている。

 19世紀から20世紀初頭に活躍したイタリアの精神科医、チェーザレ・ロンブローゾは犯罪者は人類の亜種であると言ったそうである。ロンブローゾは犯罪者は先天的に宿命付けられた存在であるとした。生来的犯罪人説である。ずいぶん大胆な説であるが、犯罪者の身体的・精神的特徴と犯罪との相関性に関する膨大な調査結果による結論であり、当時はかなりの影響を与えたらしい。現代ではこんな説を言えば非難の的になろうが、上記の二人をみて、この生来的犯罪人説を思い出した。

 戦後、犯罪者は社会が作り出すものという考え方が強くなった。つまり貧困や家庭の問題などが犯罪者を生むことになるというわけだ。確かにその部分もあるだろう。しかし、彼らをそれだけで説明することはできないと思う。どう考えても彼らの行動は理解できない。

 最近でこそ犯罪被害者に注意が向けられるようになってきたが、十数年前まではそうではなかった。加害者の人権を保護することに重点が置かれ、被害者は軽視されてきたといっても過言ではない。加害者の保護には、犯罪は社会によって作られるものであり、矯正が可能であるという考え方があり、さらに犯罪者も一般的な属性をもつ人間という前提があったものと考えられる。人権が尊重され、法の保護受けるにふさわしい人間という概念である。光市の母子殺害事件では多数の弁護士による大弁護団が結成され、死刑に反対したのもそのような考えによるものであったろう。

 人間という概念をクソ真面目にとらえ、論理的に考えると、死刑反対ということも理解できないわけではない。だが先に挙げた犯罪者は人間という概念でくくるのには無理があると思われる。世界で死刑を存続させている国は僅であり、日本も廃止すべきだという議論がある。たしかに死刑は野蛮な刑罰に見える。お隣の死刑大国、中国をみればなおのことそう思う。

 しかし自己の快楽のために多数の人間を殺すような人間に懲役刑がふさわしいのだろうか。そして懲役刑は社会の負担になる。彼らは生来的な病気とも考えられるから、同情すべき点もある。静かに消えていただくのがよいのではないか。他人を殺して人権はないだろう。死刑反対を言うのなら、その前に絞首刑をやめ薬殺刑にするように主張する方がよい。絞首刑は野蛮である。薬殺は苦痛もなく、上品である。

 ついでながら、今回の猫虐待事件について少し追加したい。このほど動物愛護法が改正され「5年以下の懲役または500万円以下の罰金」と強化された。しかし初犯なので執行猶予がつく可能性が高いとされる。2017年、埼玉県で元税理士の男性が野良猫に熱湯をかけたり、バーナーであぶったりする虐待を行い、13匹を殺傷するという事件では懲役1年10月の判決を受けたが執行猶予4年がついた。一方、2015年米国カリフォルニア州では21匹の猫を虐待死させた男に懲役16年の実刑判決が下された。日本では罰則が強化されつつあるが米国には遠く及ばない。まあ犬や猫を食べる国よりはずっとマシだが。

人は歳をとるとアホになる?

2019-06-16 22:07:08 | マスメディア
 高齢者による交通事故が急増しているように見える。けど増加傾向ではあるとしても、急増しているのは報道なのだろう。殺人事件が過剰に報道されるため、犯罪が増加していると思ってしまうのと同じで、よくある現象である。犯罪はずっと減少傾向が続き、日本はより安全な国になっているが、それは大きく報道されない。

 高齢者の事故原因で繰り返し報じられるのはアクセルとブレーキの踏み間違いである。ブレーキのつもりがアクセルを踏んだというものだ。踏み間違いは起こり得ることだろうし、理解もできる。しかし誤ってアクセルを踏み、車が発進・加速していく時点で、なぜ間違いに気づかないのかがわからない。池袋の87歳の事故では最初の接触事故から数百メートルを加速しながら重大事故に至っているので、その間、かなりの時間があった筈であり、それでも間違いに気づかなかったということは理解できない。高齢者はそこまでアホになり得るのか。私も含めて深刻に受け止めなければならない。

 他の踏み間違いによる事故でも、間違ってアクセルを踏めば発進・加速するので、直ちに気づく筈なのに踏み続けたわけで、やはり理解できない(理解できるようになったときは運転をやめるべき時だろう)。踏んで加速してもまだブレーキを踏んでいると思っているわけである。世の関心は踏み間違い自体に集中している観があるが、踏み間違いに気づかないほどの認知・判断機能が低下していることにもっと注目すべきであろう。認知・判断機能が低下が主要因ならは、急発進防止装置を取り付けても効果は踏み間違いに限られる。左から人が飛び出せばハンドルを左に切るかもしれないし、一時停止を無視したり赤信号を突き進かもしれない。こうなると車両に装置を付加することでは対応できない。

 現在のところ車両に機能を付加する方法は限界が以上、必要なのは踏み間違いに気づかない程度にまで認知・判断機能が低下した人たちを選別することであろう。少々手間はかかるが実技試験でふるい落とすのが妥当な方法だと思う。試験場には急に人形が飛び出すなどのパニックを引き起こす仕掛けもあればよい。それでパニックになって落ちれば納得がいくだろう。

 ついでながら、池袋の事故処理について少し疑問がある。確率としてはとても小さいがプリウスの側に問題があった可能性もないとはいえない。池袋の事故後、すぐに、たぶん翌日頃、車両側、プリウスには問題がなかったと発表された。しかし運転者の、アクセルが戻らなかったとの発言がもし事実なら、コンピューターの異常が考えられるのではないか。それなら短期間に調査することは困難であり、問題なかったと結論づけるのは早計である。昔のメカニズムに頼る車とは違うのである。我々が日常使っているパソコンは時折フリーズしたり、異常な動きをすることがあるが、再現できないトラブルも少なくない。最近起きた横浜のシーサイドライン逆走事故では原因の調査に1年間ほどもかかるという。極めてまれに起きる、一時的な異常というものもあり得るし、一旦電源を切ればリセットされ、再現が極めて困難なこともある。

 またこの事故でもブレーキ痕がなかったのでブレーキをかけた形跡はないとの警察発表があった(警察はよくこういう表現を使う)。しかし現在はほとんどの車にABS(アンチロックブレーキシステム)がついており、タイヤがロックしないのでブレーキ痕が道路に残ることはまずない。警察の思考は数十年前で停止しているわけである。まして彼らにコンピューターを使った制御システムの検証をやらせても時間の無駄になるだけだろう。つまりメーカー側の発表を鵜呑みにするしかないというわけである。メーカーは中立的な立場にはなり得ない。

元農林水産事務次官の決断

2019-06-09 22:03:56 | マスメディア


 大人と子供の違いはいろいろあるけれど、違いのひとつは物事を多面的に見られるか、一面的にしか見られないか、ということであろう。子供は成長するにつれ、様々な経験をする。その中で様々な立場を経験したり、理解する機会を得る。それが多面的な理解、見方につながっていく。しかしこれは一般論であり、歳だけ十分食っても一面的な見方しかできない大人がいることも事実である。

 元農水省の事務次官の熊沢氏が自分の息子を手にかけた事件があった。報道によれば息子の暴力行為に身の危険を感じた、あるいは息子が他人を殺害する危険を感じたことが動機になったとされる。どちらにしても非常に深刻な問題である。しかしこれらは危険という予測に過ぎないことから事前に警察などに相談しても解決できる問題ではないと思われる。危険が予想される、だけでは動けないのが今の仕組みだからである。

 熊沢氏にとってはまさに苦渋の決断であったろうと思うし、見方によってはご立派だとも思う。また、これまでの何十年間に味わってこられたご苦労は想像を絶するものがあるだろう。私が同じ境遇なら同じことをしていたかもしれない(勇気があればだが)。親が生み、育てた子供に責任を感じるのは当然のことと思う。親は子供の教育に関与し、その成長をある程度左右できる立場なのだからである。通常、親は教師や友人よりも関与できる度合いは大きい。大きく関与できるものに責任が生じるのは当然である。

 むろん子供は別人格であり、親がその生命を自由にしてよいわけはない、少なくとも法的には。だがこのような問題は、法で定めるべき範囲を超えているのではないか。熊沢氏の決断は違法であるが、それをせざるを得なかった状況であることも理解できるのである。熊沢氏が感じたという二つの危険の程度は第三者にはわからない。だからその程度がわからないまま熊沢氏の行為をあれこれ言うのもおかしいと思う。

 弁護士のテレビコメンテーターは親と子は別人格であるからこんなことは許されないと、また別のコメンテーターはなぜ行政などに相談しなかったのかと、非難じみた発言をしていた。どちらも一面的かつ皮相な見方であるように思う。弁護士は法がメシの種であるから、なんでも法を基準にしたがるのだろうが、法は万能ではない。また行政などに相談していなかった点はニュースでもしばしば取り上げられていたが、相談して解決できる問題ではないということが理解できていない。現在の社会システムはそれほど完全ではない。相談すればなんでも解決できると考えるのはかなりおめでたい人である。対処できる場合は限られるのである。

 川崎の子供ら19人を殺傷した犯人ともなれば普通の人間との違いが大きすぎて、恐らく理解不能であり、対処法も明らかでない。法の限界や社会システムの限界を知ることも大人であるための条件であろう。世間にはさまざまな人間がおり、そのバラツキは大きくて、一定の範囲をはみ出したものには教育などの社会システムがうまく機能しないという現実もある。

 熊沢氏には殺人罪による刑が科せられることは避けられないと思うが、決して利己的な動機によるものでなく、せめて執行猶予のついた判決を求めたいと思う。前回、取り上げた、262人もの若い女性を風俗店に売り飛ばした同志社大生らの犯罪に執行猶予をつけた判決に比べ、あまりにも釣り合いが取れない。

人身売買に近い犯罪に寛容な京都地裁

2019-06-02 22:12:43 | マスメディア
 5月29日、京都地裁で判決があった。京都でバーに誘い込んだ女性に多額のつけを背負わせ、性風俗店に紹介して紹介料などを得ていた同志社大生ら6人に対する判決である。入子光臣裁判長は6人に執行猶予付きの有罪判決(求刑懲役3年~1年6カ月)を言い渡した。好意を抱かせた後、半ば強引に風俗店で働かせたとして「人格を踏みにじる卑劣な犯行」とした。被害女性は262人、グループが得た紹介料は1億円以上(7300万円とも)とされる。女性たちが働かされた性風俗店はデリバリーヘルス21店、ソープ9店、ファッションヘルス6店、性感マッサージ、ピンサロやちょんの間が各1店の計39店。店からは女性がやめない限り15%のバックがあったという。まさに「ひも」である。

 弁護側は「全ての女性が意に反して風俗店に紹介されたのではない」として執行猶予付き判決を求めていたそうだが、その通りのまことに寛大な判決となった。すべての女性でなくても一部の女性が意に反して働かされていただけで十分ではないか。この弁護士の元締めである日弁連はいつも人権人権というが、この女性たちの人権をどう考えているのだろうか。グループ全員がすぐに普段の生活に戻れるわけだが、たまらないのは被害を受けた女性たちであろう。問われたのは職業安定法違反であるが、この第63条には以下のいずれかに該当する者は、1年以上10年以下の懲役又は20万円以上300万円以下の罰金とある。

(イ) 暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段で職業紹介を行った者又はこれらに従事した者(第1号)

(ロ )公衆衛生又は公衆道徳上有害な業務に就かせる目的で職業紹介を行った者又はこれらに従事した者(第2号)
 (ロ)に該当すると思われ、最大10年の懲役まで科せられる。しかし今回は最高で3年、そして執行猶予まで付けている。判決理由に「人格を踏みにじる卑劣な犯行」とあるが、その通りである。ところがその割に刑が軽いのである。犯人たちは恋愛経験のない地方出身の女子大生などを対象に、好意を持たせた上で半ば強制的に風俗店で働かせたわけで、形としては成人だが世間を知らない弱者を食いものにしたわけである。実に卑怯な男たちであり、実に腹立たしい。

 興味深いのはメディア各社の扱いである。私の見た限りであるが、もっとも熱心に取り上げたのは関西テレビで、被害女性のひとりを登場させて、被害の実態を直接伝えたし、犯人らの実名、所属する大学なども報道した(犯行当時未成年の1人を除いて)。番組の姿勢としても判決の軽さを強く批判するものであった。

 朝日新聞も事実だけを比較的詳細に報じたが、他のメディアは主犯格の岸井被告以外は実名報道をしなかったようである。もっとも理解できないのは地元メディアである京都新聞である。男6人としただけで全員が匿名の掲載である。見出しは『「巧妙な手口で職業的犯行」性風俗スカウト判決、代表に懲役3年』として、執行猶予の文字を外し、判決の甘さを隠している印象がある。ネット版なので扱いの大きさはわからないが、記事の内容の貧弱さから見て恐らく小さい扱いだろう。

 親の借金のために娘が売春宿に売られるという話は昔のことだと思っていたが、ちょっと形を変えただけでこんなにひどいことが現代の日本にあるとは驚いた。262人の女性たちの多くは、こんな男たちに引っ掛かりさえしなければソープなどで働くなどまず考えられなかったただろう。大きく人生を狂わされたわけである。またこんなひどい目に遭えば他人を信頼すること自体が困難となるだろうし、それは今後、彼女らの人生に少なからぬ悪影響をもたらすだろう。影響はこの後も続くのである。

 この事件は被害の大きさに加え、その悪質さ、最大級の卑怯さにも注目したい。騙しやすい若い女性を集団で食いものにする手口であり、また好意を持たせておいて、それにつけ込んでソープなどに売り飛ばすという卑怯さはとうてい許せない。卑怯と言えば先日、川崎市で起きた事件、19名を殺傷した51歳の男は多くの子供をしかも背後から刺したという。まさに卑怯の神様である。

 昔なら人身売買やこのような犯罪は珍しいことではなかった。それは現代と倫理や文化が異なっていたからだと思っていた。しかし現在、有名私立大生までが手を染めていた事実はまことに重大であると思う。しかし裁判官や京都新聞などのメディアはそうは思わないらしい。卑怯を強く否定するモラルが希薄になっているのではないだろうか。人が死んだ場合や政治家の不祥事のときの大騒ぎと違いすぎるように思う。メディアが大騒ぎすることで改めてモラルが人々に再確認されるという意味もあるのだ。

 私の受けた教育に道徳教育はなかった。しかし卑怯だとか裏切りなど、してはならないことは親や本、漫画から知らずしらずに教えられた。最近は卑怯という言葉を聞くことすらなくなった。裁判官も多くのメディアも卑怯という概念をあまり強く感じない人たちなのだろうか。日産自動車であったように、仲間を当局に売る行為は司法取引のおかげで罪が減免されることになった。カルテルでも仲間を裏切って当局に知らせたものは罪を減免される。こうした動きにも卑怯という感覚の衰退が感じられる。いっそ武士道を道徳教育に取り入れたらどうだろう。