噛みつき評論 ブログ版

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日本を暗雲で覆うNHK

2011-03-31 10:14:41 | マスメディア
 津波による未曾有の災害に加え、原発事故の不安を強調する報道がいっそう社会を暗くしているように感じられます。なかでもNHKの報道は悲観一色で「深刻な状況が続く福島第一原発では」という文言から始まり、解説委員が「極めて深刻な事態です」を連発しています。「深刻な状況が続く」は原発の枕詞(まくらことば)となりました。

 事故から数日の間、原子炉の温度や圧力がうまく制御できず、数回の水素爆発もありました。この時期であれば「極めて深刻な事態」という表現は妥当です。ところが現在はなんとか温度や圧力が制御できている状態であり、大規模な放射性物質の拡散が懸念された初期の段階とは大きく異なります。

 現在の報道の中心は汚染された大量の水についてですが、初期段階の問題に比べると局所的なことであるにもかかわらず、「極めて深刻な事態」という最大級の言葉を連発する見識は異常です(言語能力の問題かも?)。もう3週間ほど、悲観一色の報道が執拗に繰り返されてきました。

 30日の東電会長の記者会見について「(会長は)冷却機能が復旧し原子炉が安定するまでのメドが立っていないという認識を示しました」とNHKは説明しました。ところが実際の会見での発言は「かなり長期的、最終的な安定化をするためには時間がかかると考えている」ということであり、NHKが会長の発言を「意図的な意訳」したのではないかと疑われます。会長の発言は安定には時間がかかるという意味であり、これをメドが立っていないという深刻さを思わせる文言に言い換えることは不自然であり、メディアとしての誠実さを疑います(言語能力が極度に低ければ別ですが)。

 NHKはプルトニウムが原発敷地内の土壌から検出されたと大きく報道しました。プルトニウムは肺ガンの原因になる物質であると説明した上、検出された濃度は元々の値と変わらず、健康に影響はないと付け加えました。国民が危険を回避する行動をとる必要があれば報道の意味はあります。しかし検出された値に変化がないのに、なぜ大きく報道するのか理解できません。

 また、高い放射線量の観測値をトップニュースで報道されると不安を呼び起こします。たとえそれが健康に影響のないレベルだと後に説明されても、トップで大きく報道される以上、なにか重大な意味があるのかと考えるのが普通です。そして観測値が低下した場合は無視か、報道されたとしてもベタ記事並みの扱いです。不安を煽ることには大変熱心で、安心を与えることには極めて消極的というNHKの姿勢が感じられます。

 不安に駆られて東京から関西に移住してきた人も少くありません。買占めによる水などの物資の不足、風評被害、どれも合理的な行動ではなく、過剰な報道、とりわけNHKの報道に影響された行動だと思われます。NHKはこのような不合理な行動を薦めたわけではありませんが、彼らにそのような行動をとるのが正しいと信じ込ませたわけです。実質的には「騙し」行為です。

 NHKは通常の番組を間引いてまで熱心に原発報道を続けています。そしてNHKの信用度は民放より高いと一般に考えられているので、その影響力は絶大です。海外では日本の食品だけでなく繊維などの工業製品まで汚染を不安視し、不買や規制の動きがあるようです。情報の少ない海外ではNHKの誇張された報道の影響がさらに大きいと考えられます。

 原発報道に時間を割きすぎて他の必要な報道がおろそかになっていることも気になります。現在134ヶ国から支援が寄せられているそうですが、勇気づけられるニュースであるにもかかわらず一部を除きほとんど無視されています。またこれは相手国に対し礼を欠くことにもなりかねません。

 NHKは国民に希望を与えるべきこの時期に、不安を煽る報道を続けて社会を暗雲で覆い、さらに輸出産業にも追い討ちをかけていることに気づかないのでしょうか。

 公共放送であるNHKが、まるで低レベルの週刊誌のように、不安を煽る姿勢に徹していることには原発以上の恐さを感じます。

フクシマ50と消防隊、どちらが英雄?

2011-03-28 09:41:27 | マスメディア
 海外のメディアは福島第一原発の危機回避にあたる作業員らを「フクシマ50」などと呼び、その行動をたたえる報道が相次いでいるそうです。

『米紙ニューヨーク・タイムズ電子版が15日、「顔の見えない無名の作業員が50人残っている」とする記事を東京発で載せた。米ABCテレビも「福島の英雄50人――自発的に多大な危険を冒して残った原発作業員」と報道。オバマ米大統領は17日の声明で「日本の作業員らの英雄的な努力」とたたえた』(3/18 asahi.com)

 最前線で危険な作業を担うのは、東京電力のほか、東電工業、東電環境エンジニアリングといった子会社、原子炉を製造した東芝、日立製作所などメーカーの社員たちだ、との解説がつきます。

『中国紙「中国青年報」は21日、「福島決死隊、現代日本の武士」と題して紹介。原発で管理に当たる『決死隊』は、日本ばかりではなく世界も救うという重大な任務を担い、最高の称賛を受けている、とたたえた』( 3/22付読売新聞)

 一方、国内メディアには「フクシマ50」を讃えるような記事はほとんど見あたりません。むしろ放水作業に携わっている自衛隊や消防士らの活躍を大きく伝え、彼らを英雄扱いしているような印象を受けます。なぜこのような顕著な違いが起きるのでしょうか。

 原発は電源を失い、すべての冷却装置が使用不可能になるという極めて対応が困難な状態にあったようです。内部圧力と温度が限度を越えて上昇し、しかも制御不能。こんな不安なことはありません。未知の領域で、被曝や水素爆発の危険もあり、誰もが現場から逃げ出したい衝動を抑えて懸命に作業を続けているのだと思います。彼らを支えているのは職業倫理であり、なんとしても事故の拡大を止めなければならないという責任感や使命感でしょう。

 消防隊や自衛隊による放水作業もある程度の被曝を伴う危険な仕事ですが、上記の50人に比べるとその差は明らかです。また東電などの関係者には当事者という意識が重くのしかかっている筈ですが、放水作業者は応援を頼まれた「客人」であり、ずいぶん気が楽な立場です。精神的な負担という点においても、大差があると思われます。

 国民の期待を一身に背負って危険な仕事をしている者こそ賞賛されるべきだと思われます。海外のメディアは少ない情報の中から適切な判断を下しているように見えます。ところが、日本のメディアの見識はどうも違うようです。派手な放水作業の方が英雄的行為に見えるのでしょうか。これは子供の理解にたいへんよく似ています。子供は背後の事情は理解できなくて、目に見えるものだけで判断します。

 あるいは東電などの関係者は事故を起こした責任があるから、危険な作業にあたるのは当然だ、という認識があるのでしょうか。津波による事故は彼らの責任ではなく、そうだとすれば大人げのないことです。

 あるいはまたこの事故によって半ば眠っていた原発への嫌悪感が呼び覚まされ、原発関係者を英雄にすれば、せっかくの反原発の気運が殺がれる、という「狡猾な配慮」の故なのでしょうか。だとするとそれはメディアが世論を支配するという傲慢さの表れと言えるでしょう。

 どの理由にしたところで、一流のメディアとは言い難いものです。ダグラス・マッカーサーの「アメリカがもう40代なのに対して日本は12歳の少年である」という言葉は政治に対するものですが、現代のメディアについてもあてはまりそうです。

北沢防衛相の危うい指揮

2011-03-23 22:25:05 | マスメディア
 17日に実施された自衛隊ヘリによる水投下は、16日に予定されていたものが遅れに遅れ、北沢防衛相の「今日は限度だという判断で実施した」という重大な決意のもとに実施されたのだそうです。しかし投下の映像から判断すると、投下された30トンのうちプールに到達したものはほんの僅かと推定できます。目的はプール水位の回復である筈なのですが。

 投下後の会見で、北沢防衛相は「使用済核燃料に対する冷却効果は期待できるのではないか」と述べました。また陸自の火箱幕僚長は会見で隊員の被曝に関し「現在、私の方には異常はないということが入っております」と隊員の安全を強調しました。

 北沢防衛相が今日が限度だと述べたことは事態がそれだけ切迫していることを示したものと理解できますが、そうならばほとんどが飛散するような放水をなぜ4回だけでやめたのかという疑問が生じます。繰り返すことで少しでも水を注入することを期待するのが当然と思われるのですが、やめた理由の説明はありませんでした。

 当日の放射線量は300フィート上空で87.7ミリシーベルト/時だったそうですが、隊員は底部には防護板を張った機体内にいながら、上空を数秒間通過するだけです。仮に生身で10秒間滞在しても0.24ミリシーベルトの放射線を受けるだけであることは素人でもわかります。上空に停止して投下すれば命中精度は高くなると思われますが、それさえも避けるほど隊員の健康が第一なのでしょうか。自衛隊とはその名称の通り、自分を守る隊という意味かと思ってしまいそうです。

 隊員の被曝量は1ミリシーベル以下であったと発表されましたが、実際の値が気になります。もしかするとあんまり低いので発表したくなのかもしれません。隊員ならもっと浴びてもよいと思っているわけではなく、東電や関係会社の人々が上限値近くの線量を浴びながら必死で作業を続けているときに、この安全第一の姿勢がまったく理解できないのです。

 状況が把握できていない場合はいつ急激な変化が起こるかわからないので、できる限り早く効果的に冷却することが要請されます。したがって北沢防衛相の「今日が限度」という発言は根拠のあるものとは思えません。冷却が遅れ、放射線量が上昇するような状況になれば選択肢は少なくなります。

 1機あたりの作業は40分まで可能ということであったのですが、4回で止めたことに対し納得のいく説明をせず、あれで冷却効果が期待できるといった発言は政府に対する不信を生みます。火事にコップの水をかけて、これで効果あったと胸を張るようなものです。幸運にも放水が遅れたことで重大な事態になることはなかったですが、愚図愚図している間にもっと悪化していた可能性は否定できません。

 この放水を見る限り、北沢防衛相や幕僚長は放水の意味を正しく理解しているとはとても思えません。国の安全にかかわるような重大な危機に際して、現状を正しく認識する能力を欠いた人物がトップに座って指揮しているのであれば、これほど恐ろしいことはありません。政府に対する信頼も大きく損なわれます。また外国に対しては、自衛隊の作戦能力や指揮能力を判断する格好の材料を提供することとなるでしょう。

 (参考) 自衛隊への入隊時の宣誓には次のような言葉があります。「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います」

原発報道で露見したマスメディアの弱点

2011-03-19 22:22:10 | マスメディア
 いま、福島第一原発の事故の経過を国中が強い不安をもって見守っている状況です。このような中、適切な情報が報道される意味はたいへん大きく、誤った情報が危険を煽るようなことは避ける必要があります。しかし残念ながらそのようなことが散見されます。

 NHKの水野解説委員は4号機の核燃料プールの水温が84℃まで上昇していたことを受け、現在はもう空っぽになっている可能性がある、と説明しました(多分3/17)。水野解説委員はそれまでの温度上昇の進行速度から考えて既に蒸発してしまっているという可能性を述べたものと思われますが、理解に苦しみます。

 1kgの水が1℃上昇するためには1kcal(4.186kJ)必要で、50℃の上昇なら50kcal必要です。しかし1kgの水が蒸発するためには約539kcal(2258kJ)が必要です。仮に当初の温度が40℃、1日の温度上昇が10度とすると6日で100℃に達しますが、全量が蒸発するためにはさらに53.9日必要な計算になります。むろん水位など他の要素もあるので一概には言えませんが、蒸発によって2日や3日で空っぽになるという説明は理解できません。プールが空っぽになっているかもしれないという説明は深刻な事態を想像させるものであり、軽々しく言うべきものではありません(蒸発熱は高校の物理レベル)。

 他にも2号機、3号機周辺で、最大400ミリシーベルトの線量が測定されたとき、水野解説委員はこの放射線レベルは一瞬でも浴びるだけで大変危険な状態だと認め、不安を増幅しました(これは1時間値であることを理解していないため、後に訂正)。また、使用済燃料の発熱量と放水量がわかっているので水蒸気爆発は計算できるという理解不能な説明などを考えると、水野解説委員は基礎的な知識を持っておられるのか疑問です。

 また19日朝の日本テレビ、ウェークアップでは伊藤哲夫 近畿大学原子力研究所所長は核分裂反応停止後の発熱量について運転時出力の3パーセント程度と説明しました。100万kwの熱出力の炉ならば現在も3万kwの熱が出ていると受止められますが、これは正しくないと思われます。

 運転停止後の発熱は核分裂反応によって生成した放射性同位体が崩壊することによって生じる崩壊熱ですが、これは運転停止直後では運転時出力の7パーセント程度ですが、初めは時間と共に急速に減少します。詳細は中部電力のHPをご覧下さい。

 運転停止1時間後には2%弱、1日後には1%弱、現在は0.4~0.5%程度というところでしょうか。1~3号機の発熱量が初期に比べて小さくなっていることは冷却機能に余裕が生まれていると考えるのが自然です。この事実はあまり知らされてないようですが、ひとつの大きい安心材料だと思われます。

 科学技術の分野で、解説の誤りを発見するだけの知識のある人、あるいは解説にふさわしい人を評価・選定する能力のある人がメディアにはほとんどいないのではないかと思われます。

 国民にとって、マスメディアがほとんど唯一の信頼できる情報源ですから、誤った知識を報道することによって不安を増幅することはなんとしても避けるべきです。

 テレビのニュースには〇〇大学の何とか教授とかいう偉そうな人たちが次々と登場して解説をしています。全部とは言いませんが、アナウンサーの質問に対しまともに答えなかったり、あまり意味のないことを話す人が少なくないという印象を受けます。現状を把握するのに十分な情報がなく断定は難しいことはわかりますが、なんか頼りないなあ、という印象をもつ人が多いのではないでしょうか。解説にふさわしい人を評価・選定するだけの能力をメディアは十分備えているのかという疑問が生じます。。

 私は2年前に原子力学科の学生数が十分の一以下にという記事で、人材不足によって管理能力が低下すれば事故の起きる可能性は高くなると書きました。それが杞憂であることを願っています。

医療崩壊を促す、テレ朝の有害番組

2011-03-10 10:11:35 | マスメディア
をあまりに厳格かつ形式的に適用すると社会常識と矛盾し、社会に悪影響を与えることがあります。3月8日のテレビ朝日・スーパーモーニングはその好例を示しました・・・社会への悪影響と共に。ここには法の不完全さを考慮することなく、法を常識より優先する愚かな態度が見られます。

 まず取り上げられたのは「万が一の不可抗力の事態に対しては、一切の異議申し立てをいたしません」との一文がある手術承諾書です。大沢孝征弁護士は「あきらかな過失があった場合に、責任を免れることはできない。過失を事前に放棄させる取り決めは、公序良俗に反していて無効と考えられる」とし、「これを書かせたことで、無知な患者が諦めてくれる場合がありうる、という以上の意味はない」と説明します。

 明らかな過失、というのが問題になりそうですが、まあこれはその通りなのでしょう。しかし次に出された問題はちょっと見過ごせないものです。以下、記憶によるので多少不正確な点があるかもしれません。番組は質問に対して大沢弁護士が答える形式です。

 (質問) ある患者が診療所へ行ったところ、医師は診療科目ではないとして断るが、患者はどうしても診てもらいたいと言うので、医師は仕方なく診察した。ところがその後、容態が悪化し、別の病院で診察を受けたところ、最初の医師の誤診が明らかになった。この場合、最初の医師の責任を問えるか、という質問です。

 この質問に対し、大沢弁護士は医師の責任を問えると答えます。医師には正当な理由なしに診療を拒否できないという応召義務がある、そして診療科目というのは自分達が決めたものに過ぎず、国家試験では全科目を受けているわけだから、診療科目を理由に診療を拒否することはできない、と言います。

 眼科や皮膚科の医師のところに腹痛を訴える患者が来ても診察を拒否できず、誤診をすると責任を問われるというわけです。専門化された診療科目に細分された現在の医療体制を無視したもので、木を見て森を見ず、まるで小学生の屁理屈のようです。

 また大沢弁護士は誤診に対する医師の責任を無条件で認めているようですが、誤診率は10~30%程度などといわれるようにかなりの高率であり、鉄道や航空機のように安全性がほぼ確立した分野と同列に扱えるものではありません。医療に完全性を求め、誤診に法的な手段をとろうとするような患者が増えれば、現在の医療体制は維持できないと思われます。現状ではある程度の誤診は止むを得ないという認識でなければ医師との信頼関係はできません。

 この番組の目的は法に疎い患者に入れ知恵をすることだと思われますが、このような現実を無視した極論は有用というより弊害の方が大きいと思われます。この子供のような意見、ほとんど冗談のような意見を真に受ける視聴者がいないとは限らないからです。

 この番組は患者側と医療側との対立を煽ることになるでしょう。このような理屈を振り回す患者が増えれば医療側は対応に苦慮し、防御策をとらざるを得なくなります。患者側と医療側の信頼関係を損なうことになれば大変不幸なことです。この番組の制作者は医療全体のことなどどうでもいいと考えているのでしょうか、それとも単なる愚かさのなせることなのでしょうか。 

参考拙記事 もうひとつの報道被害・・・医療崩壊を推進するマスコミ報道

NHKの存在理由

2011-03-07 09:41:09 | マスメディア
 商業放送は「儲けが第一」という宿命から逃れることはできません。それを「誠実」に実行してきたからこそ、業種別の生涯給与で放送業は約4億4千万円(05年度)と2位を1億5千万円以上引き離し、堂々首位の座を保っています。しかしその宿命の故、興味本位の内容、視聴者への迎合は必然的な属性となります。

 あたりまえのことながら、公共放送であるNHKの存在理由は商業放送には期待できない放送の公共性を実現することにあります。しかし近年、NHKの公共性に対する認識には疑問を感じます。

 総合テレビの夜7時の定時ニュースはその日の出来事をまとめたもので、NHKが個々の事実の重要度をどのように判断しているかがわかります。例えば3月4日のトップは熊本の幼児殺害事件、2番目はネットを使ったカンニング事件であり、この二つで時間のほとんどが費やされました。その後、前原外相の献金問題に短く触れ、7時27分頃から軍事予算2桁増という中国の軍拡の脅威を簡単に伝えました。

 興味本位の編集という点では民法に決して引けを取らないわけで、NHKという民放がもうひとつできたような印象を受けます。ネットを使ったカンニング事件は数日前からトップを独占してきた報道です。幼児殺害事件では現場の見取り図を用意し、事件現場のスーパーからの実況まであり、詳細な説明を聞かされました。恐らくこの後も容疑者の逃走経路や生い立ちが詳しく続報されるでしょう。悲惨な事件の詳報は視聴者の娯楽になるとでも心得ているのでしょうか。

 ニュースの採用基準は視聴者をあっと驚かせるもの、好奇心をかきたてるものなどいろいろあるでしょうが、公共放送では視聴者に知らせる必要のあるものが優先されてよい筈です。この日の例で言えば、隣国の急速な軍拡は国際情勢を認識する上で重要なことですが、興味本位のニュースに圧倒されている感があります。これではNHKの存在理由がありません。

 NHKは良質の番組も比較的多く提供しており、政治問題、国際問題を扱う硬派の番組もあります。だからといって知らせる必要のあることはちゃんと報道しているということにはなりません。硬い番組は視聴者が限られており、影響力が少ないからです。7時のニュースのような視聴率の高い番組でこそ公共放送の役割を果たす必要があると思います。

 NHKをはじめとするメディアが必要かつ十分な情報を国民に提供しなければ、それは選挙の投票行動に影響して、どうしようもない無能な政権を生み出すことにつながります。投票行動はメディアによって与えられた情報の反映であることを自覚していただきたいと思う次第です。

たかがカンニング如きで

2011-03-03 10:35:24 | マスメディア
 ヤフーの知恵袋を使ったカンニング騒ぎがメディアを席巻している観があります。斬新な手口を使ったからといっても、ひとりの少年がカンニングをしただけのことです。興味本位のスポーツ紙や二流の民放ならともかく、NHKや一流紙まで連日トップ報道するのは頭がおかしくなったとしか思えません。一流(とされる)メディアが予算案の衆院可決よりカンニングを優先するという状況は絶望的ですらあります。

 夏目漱石も正岡子規も東大の登竜門だった大学予備門を受験するときカンニングをやったそうです。これらは産経抄に教えてもらいましたが、子規の話は司馬遼太郎の「坂の上の雲」に書いてあったように思います。

 カンニングは不正なことですが、非難するにも適切な程度というものがあります。節度のない報道は人を殺す刃(やいば)にもなります。浅田農産事件は微罪、あるいは道義的な責任に対する集中報道によって2人の関係者が自殺に追い込まれた例です。もしこの受験生やその関係者が自殺する事態にでもなれば責任の大半はメディアにあると言ってよいでしょう。

 聖書に「罪なきものは石もてこの女を打て」という言葉があります。私は少年に石を投げることができない立場ですが、年端も行かぬ少年を追及するのに熱心なメディアの記者達、また厳しい顔をしてコメントするコメンテーターのおっさん達は若い頃、カンニングなどの不正を一切しなかった潔白な方ばかりなのでしょうか。また大勢の大人がひとりの少年を追いかける行為を恥じる気持ちはないのでしょうか。

「正義面を引っ剥がせば、偽善者の顔が現れる」でなければよいのですが。

 ケータイやネットを使うという手口の新らしさがメディアの興味を惹きつけたのだと思われますが、ほとんどすべてのメディアが同じ価値判断で共振するように動くのはたいへん不気味です。あらゆるメディアがイエロージャーナリズム、あるいは赤新聞になったような気がします。不正を糾弾するという体裁をとっていても、報道の実態は飽くなき好奇心に訴えるものと言えるでしょう。

 雪印食品、雪印乳業、不二家、浅田農産、吉兆と、メディアによる非難の旋風が繰り返されました。共通していることはいずれも日本中が騒ぐほどの罪を犯してないことです。メディアの煽るような報道に視聴者・読者が反応し、それにまたメディアが反応して増幅されていくといった循環のメカニズムがあるのかもしれません。

 恐ろしいはすべてのメディアが付和雷同するような大きな波ができあがると社会から冷静な思考が失われてしまうことです。戦前・戦中は新聞・ラジオが長期にわたってそのような状態にあった現象と理解してもよいでしょう。

(あと書き)

 この問題について朝日新聞は5日の社説で次のように述べています。
『今思うと、ネットの進化についてゆけない大人社会が、過剰に反応した面はないだろうか』
はて、過剰反応したのは連日トップで報道した朝日をはじめとしたメディアの筈です。過剰反応に対する反省の気持ちは感じられますが、それを大人社会のせいにするのは責任転嫁というものです。なんとも見事な厚顔無恥ぶりであります。