大阪の寝屋川市で起きた両親による当時1歳の三女に対する傷害致死事件で、1審の裁判員裁判は検察の求刑よりも5年も重い懲役15年を言い渡しました。2審も同じで、被告側が上告し、26日、上告審弁論が最高裁でありました。弁論が開かれたことは判決が見直される可能性が高いとされています。
被告側が「過去の同種事件の量刑傾向から逸脱し、違法」と主張したことに対し、検事側は「市民感覚を生かせば刑の相場が幅広くなるのも当然」「裁判員の判断は尊重されるべきだ」などと反論しているそうですが、これが気になります。裁判員制度の導入以後、求刑を超える判決の割合は制度が始まる前の10倍に増えているそうです。
裁判員裁判では量刑の振れ幅が大きくなることは当初から予想されていました。検事側はそれを市民感覚が生かされているからだとしていますが、そうではなく、6人の裁判員集団の個性のバラつきによるものと考えるべきです。無作為な素人の集まりですから直情的な人が多数を占めることもあれば、一面的な理解しかできない人が多数を占めることも、あるいは寛大な人が多数を占めることもあります。僅か6人で平均的な市民感覚を期待するほうが無理というものです。これで市民感覚を代表できるというなら、世論調査なども6人で足りるということになります。これは統計学を持ち出すまでもなく誰でもわかることです。
もし量刑の平均が変化するのであればそれは職業裁判官と異なる市民感覚のためであると説明でき、それは当初の意図の通りです(実際に厳罰化の傾向が見られます)。しかし振れ幅の拡大は裁判員集団のバラつきによるものであり、判決が不安定であることを示すだけのことです。それは裁かれる者にとって運次第の不公平なことであります。
また「裁判員の判断は尊重されるべきだ」という主張も腑に落ちません。裁判員制度は一種の実験であり、最初から見直しが予定されていました。まだ結果が明確でないものを尊重されるべきだというのはおかしいわけです。初めから尊重されるべきものであるということなら最高裁を裁判員裁判にすればよいわけです。
求刑を超える判決の急増は制度の不安定さを示すだけのもので、これを市民感覚が生かされた結果だというのは詭弁というほかありません。裁判員制度の意義は国民主権を司法の場にも実現することとされていますが、裁判の機能よりも形式を重視するという倒錯した態度を見ることができます。
国民主権だかなんだか知りませんが、最も大切なことは裁判員制度の意義などではなく、被告人が運次第などではなく、常に公正・公平に裁かれることであることをお忘れなきよう願いたいものです。
裁判員制度を積極的に推し進めたのは最高裁です。その最高裁が裁判員裁判の判決を否定することは自ら制度の欠陥を認めることでもあるわけで、さぞやりたくないでしょう。それだけに最高裁の苦しい判断に注目したいと思います。まともな判事ならば検事側の見当違いの反論を斥け、懲役15年を変更すると思うのですが。
(参考拙記事)算数のできない人が作った裁判員制度
被告側が「過去の同種事件の量刑傾向から逸脱し、違法」と主張したことに対し、検事側は「市民感覚を生かせば刑の相場が幅広くなるのも当然」「裁判員の判断は尊重されるべきだ」などと反論しているそうですが、これが気になります。裁判員制度の導入以後、求刑を超える判決の割合は制度が始まる前の10倍に増えているそうです。
裁判員裁判では量刑の振れ幅が大きくなることは当初から予想されていました。検事側はそれを市民感覚が生かされているからだとしていますが、そうではなく、6人の裁判員集団の個性のバラつきによるものと考えるべきです。無作為な素人の集まりですから直情的な人が多数を占めることもあれば、一面的な理解しかできない人が多数を占めることも、あるいは寛大な人が多数を占めることもあります。僅か6人で平均的な市民感覚を期待するほうが無理というものです。これで市民感覚を代表できるというなら、世論調査なども6人で足りるということになります。これは統計学を持ち出すまでもなく誰でもわかることです。
もし量刑の平均が変化するのであればそれは職業裁判官と異なる市民感覚のためであると説明でき、それは当初の意図の通りです(実際に厳罰化の傾向が見られます)。しかし振れ幅の拡大は裁判員集団のバラつきによるものであり、判決が不安定であることを示すだけのことです。それは裁かれる者にとって運次第の不公平なことであります。
また「裁判員の判断は尊重されるべきだ」という主張も腑に落ちません。裁判員制度は一種の実験であり、最初から見直しが予定されていました。まだ結果が明確でないものを尊重されるべきだというのはおかしいわけです。初めから尊重されるべきものであるということなら最高裁を裁判員裁判にすればよいわけです。
求刑を超える判決の急増は制度の不安定さを示すだけのもので、これを市民感覚が生かされた結果だというのは詭弁というほかありません。裁判員制度の意義は国民主権を司法の場にも実現することとされていますが、裁判の機能よりも形式を重視するという倒錯した態度を見ることができます。
国民主権だかなんだか知りませんが、最も大切なことは裁判員制度の意義などではなく、被告人が運次第などではなく、常に公正・公平に裁かれることであることをお忘れなきよう願いたいものです。
裁判員制度を積極的に推し進めたのは最高裁です。その最高裁が裁判員裁判の判決を否定することは自ら制度の欠陥を認めることでもあるわけで、さぞやりたくないでしょう。それだけに最高裁の苦しい判断に注目したいと思います。まともな判事ならば検事側の見当違いの反論を斥け、懲役15年を変更すると思うのですが。
(参考拙記事)算数のできない人が作った裁判員制度