噛みつき評論 ブログ版

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朝日新聞の読者信頼度、3位転落…社外秘資料が漏洩か?

2007-12-30 12:57:00 | Weblog
 朝日の「信頼度」が、日経と読売に初めて負け、3位に急降下した。「新聞読者基本調査」で社外秘扱いとなっているデータから明らかになったもので、同調査は2007年2月に朝日が外部に依頼して実施。15歳以上の9千人を対象とし、約4900人が回答した。

「信頼できる会社か」「信頼できる新聞か」という二つの質問に対しては、30代では両項目で日経と読売に敗れた。20代、40代、50代でもトップは日経。60代や70代以上では朝日が首位を守るが、ばりばり働いている若・壮年層からあまり信頼されていないことになる。
(以上は12/28FACTA-gooの記事を要約)

 朝日と日経を購読している者として、この調査結果は実に納得のいくものです。高齢者にのみ信頼されているというのは、先行きがさらに厳しいことを示しています。また信頼度低下の理由は二つ考えられます。

①本当に信頼度が低い新聞に変化した。
②元々信頼度は低かったが、ネットの普及で比較情報が手に入るようになり、信頼の低さが露呈した。

 多分①と②の両方でしょうが②の方の理由が大きいと思います。ネットの利用が少ない高齢者層には未だに信頼されている事実とも符合します。プラウダだけしか読めない国民はプラウダの信頼度を測ることができないのと同じです。

 また記事では朝日の中堅記者の意見として「問題はコンテンツ力の低下だ。街ダネも含めて共感を得られない記事が多い」を紹介しています。この記者の答が信頼度低下に対するものであるならば、ちょっと首を傾げたくなります。こういう感覚のズレが根っこにあるのならば問題はさらに深刻です。コンテンツ力は信頼度と関係なしとはいいませんが、問われているのは信頼性であり、面白さではありません。

 それにしてもこの1月には、秘密にしていた朝日の高い給料(「55歳年収2,100万」 朝日総局長が流出させた驚愕「家計情報」)が漏れたりと、防衛省のように情報漏洩事件が続きました。

 しかしながら新聞社という公共性の高い企業は本来このような情報を隠蔽すべきではありません。他に対して透明性を云々する前に自らの透明性を高めるのが当然でず。こういう姿勢が信頼度の低下に結びつくのでしょう。

 朝日新聞の一読者として、テレビのワイドショーやスポーツ紙とは一線を画した、信頼性と品格のある新聞を期待したいものです。

もうひとつの報道被害・・・医療崩壊を推進するマスコミ報道

2007-12-28 10:43:12 | Weblog
 医療裁判に巻き込まれたことを主な理由として外科部長が病院を辞めた。彼は肝臓手術の専門家で、肝臓に転移したがんの新しい治療法に取り組んでいた。ガンが転移して他の治療法がない患者に、死亡率は20%くらいと説明し、本人とその妻に同意を得た上で新しい治療法を実施したが、不眠不休の治療の甲斐なく患者は亡くなった。同意を知らなかった患者の娘が納得せず、訴訟になった。医師は訴訟には勝ったが、多大の心労を負い、「もう、いやになった」と漏らした。
 以上は産経のコラム【断 久坂部羊】07/12/23付を要約したものです。

 コラムの著者は最後に「何とか患者と医療者の敵対する状況は避けられないものか」と結んでいます。

 小松秀樹氏は著書「医療の限界」の中で「産科医は訴訟をきっかけにしばしば参加医療から離れます。私の直接知っている医師にも、訴訟を機に産科をやめた医師が複数います」と述べています。

 ある大病院の若い勤務医は週80~90時間働いていますが、例外的なケースではないそうです。プライベートの時間はほとんどありません。これに訴訟が加われば心身ともに耐えられず、仕事への意欲を失いかねません。そして同じ年齢の比較で、所得は業種別所得額第一位の放送業界や新聞業界に遠く及びません(参考データ)。

 一方、救急患者の受け入れ拒否の増加が問題なっています。
 「救急搬送された患者が医療機関から受け入れを拒否されるケースが、この数年間で都市部を中心に激増していることがわかった。堺市周辺や兵庫県の尼崎、西宮両市などで数倍にのぼっている。堺市高石市消防組合の場合、5回以上の拒否件数は04年に65件だったが、06年は476件と7倍以上、川崎市でも04年に5回以上の拒否が679件だったが、06年は1269件に増えた」(9/21朝日大阪夕刊から1部を抜粋)

 医師不足が背景にあると説明されますが、この2年間の急増ぶりは十分な説明になりません。大きい理由は病院が訴訟リスクの高い救急患者を敬遠しているためだと言われています。

 医療訴訟が増加した第一の原因は医療に対する不信感の増大でしょう。NPO法人「ささえあい医療人権センター・コムル」によると、年ごとの医療事故に関する関する新聞記事の件数と医療不信の相談件数が強い相関関係にあったされています。

 やや図式的になりますが、医療事故の報道が医療不信を招き、それが訴訟を増加させます。その結果、医療側が、救急患者の受け入れに消極的になる、またリスクのある積極的な治療を避ける、医師がリスクの高い診療科を避けるという「自衛策」をとったもの、と見てよいでしょう。

 医療事故の報道自体は必要です。中には訴訟されて当然というケースもあるでしょう。しかし、報道が過大であったり、医療を理解する能力もないまま医療側の責任を過度に問うような報道の結果、信頼関係で結ばれるべき医師と患者が敵対意識をもってしまうことはとても不幸なことです(弁護士は喜びますが)。ごく一部の事故が過大に報道されれば、不信は全体に広がるでしょう。

 医療はそもそも不完全なものであり、当然リスクが伴います。マスメディアは事故があるたびに責任者を指弾しますが、そのとき完全無欠があたりまえという立場をとりがちです。その方が激しく責められるし、それが被害者への同情を集め、メディア自身の正義(本当は偽善?)を印象づけるからです。コントラストが強く、サプライズのある記事が見世物としては重宝されます。

 記事にコントラストを作るための便宜的な厳しい正義は読者・視聴者を徐々に不寛容にし、不信感の強い人間を生み出します。安全であっても、消費期限を延ばす行為はこの1年でひどい悪事とみなされるようになりました。

 医療側は正当な理由なく診療を拒否できません。不特定多数の患者の中に少しでも敵対しそうな者がいれば、対策をとらざるを得ません。訴訟を避けるために事前の説明に多くの時間を割かざるを得なくなりましたが、それが医師不足をさらに激化させていると言われています。

 過大な報道は医療に大きな負担を強いるだけでなく、受け入れ拒否や、防衛的な治療しかやらないなど、患者にも大きな不利益をもたらします。既に産科と小児科の医師が減少していますが、将来は内科や外科など生命にかかわる医師の減少の可能性もあります。

 患者に比して強い立場の医療者を強く指弾する記事は、記者や読者にカタルシスをもたらす反面、大きい代償を払っているという事実にメディアはもっと気づくべきです。

 記者やマスコミ幹部が救急患者となって、受け入れ拒否に遭えば、記事の書き方が少しは改まるかもしれません。それを期待することにしますか。

動物を殺して楽しむことの是非…銃規制の議論に加えてほしい

2007-12-25 13:06:48 | Weblog
 数十年前に読んだ童話である。父母と子供2匹のキツネの家族の生活を描いたものだ。ある時、子供が放置されたトラバサミに足を挟まれ、動けなくなってしまう。家族は助けようとするが、なすすべがなく、やがて子供は死んでしまう。そしてしばらく後、父も鉄砲に撃たれ、母と子の2匹だけが残される。キツネの一家の、ひと夏の物語である。

 他の童話はたいてい忘れてしまったが、この話は強烈な印象と共に記憶に残っている(昔のことなので多少違っているかもしれない)。作者がこの童話に込めたメッセージは、私にはよく効いた。

 動物を擬人化しては、議論が感情的になりすぎるという批判があるかもしれない。だが、家族を形成する高等な哺乳類を魚類や爬虫類と同等に扱ってよいとは思わない。殺害はその家族をも破壊するかもしれない。また、楽しみのために動物を殺すことを認めながら、他方で命の大切さを説いても説得力がない。

 一方、狩猟事故は毎年100件程度発生し、そのうち一般人に対する被害も数件あり、死亡事故もある。エキスポランドのように、機械の点検を怠って死亡事故を起こしたら、マスメディアは大騒ぎするが、一般人が誤って射殺されてもなぜかベタ記事程度にしかならない。メディアはニュースバリューという独特の基準で命の重さを計るらしい。

 また、近所に住む人間が銃を所持していると、喧嘩がやりにくくなる。物理的な強弱の格差ができるからだ。その人間が激しやすい性格であるか、あるいは理不尽な言動でもしようものなら、腫れ物にさわるようにしなければならない。

 かつて狩猟は生活のためのものであったが、有害鳥獣の駆除を除くと、現在その必要性はほとんどない。殺される動物の大部分は趣味・娯楽のためである。しかしその娯楽としての狩猟も現在は若年層から見放されてきている。

 年齢別狩猟者数によると総数は1970年~00年に約60%減少し、00年は3/4が50歳以上である。中でも20~40歳は激減しており、この先、総数は顕著に減少することが予想される。

 2004年、英国では300年続いた貴族の遊び、キツネ狩りを禁止する法案が可決されたが、議論の中心はキツネに対する残虐性であったそうだ。どちらも背景には残虐性ということに対する感性の変化があるのだろう。野蛮から文明化に伴う変化といってもよい。

 戦前の、命は鴻毛より軽し、と人間の命を軽んじた時代からみれば、現在の命は比較にならないほど重い。動物の命もその影響を免れない。人間の命は大切だが、動物の命は娯楽のために奪ってもよいと子供に説明するのは至難である。

 動物を殺して楽しむ心性は不快であるし、銃という圧倒的に優位な武器を使って戦意もない相手を殺すことにも抵抗がある。武士道賛美の藤原正彦氏ならばきっとこう言われるだろう、「クマやイノシシに銃で向かうとは卑怯である。刀で戦ってこそサムライだ」と。時代錯誤が目立つ藤原氏だが、このように言われるなら賛同する。

 佐世保の乱射事件を契機として銃のあり方が問題になっている。単なる管理強化だけでなく、日本の社会にとって、娯楽目的の猟銃所持の意味と必要性を改めて根底から問い直す議論を期待する。

民主党議員がUFOに関する質問主意書=冗談なのかと…

2007-12-21 17:22:20 | Weblog
 民主党の山根隆治参院議員はUFOに関する目撃情報が後を絶たないとして、UFOに関する情報収集や研究、日本に飛来した場合の対応、他国との情報交換など、「UFOについての認識」を政府に質問主意書でただした。

 これに対し、未確認飛行物体(UFO)の存在を確認していない」――。政府は18日の閣議で、こんな内容の答弁書を決定した。(asahi.com 07年12月18日より要約)

 中学生が演じる劇の一幕ではありません。大真面目な大人の世界、日本の立法府の話です。最初はユーモアのおつもりかと思ったのですが、どうやらそうではないようです。まあ議員にはいろんな方がおられてもいいと思うのですが、この主意書に民主党がどの程度かかわっているのかが気になります。

 もし民主党が関係しない、山根議員独自の質問なら、議員個人の見識の問題だと言えるでしょう。しかし、その場合には民主党の統制力に疑問が生じます。

 また民主党が承認した上での質問主意書ならば、党の見識が疑われます。問題山積で、審議時間が足りなくて国会を延長しているときに、この浮世離れのユーモアにはちょっと・・・。

 次の政権を目指す参院第一党の行動として、これで大丈夫かなと思った次第です。お次は「妖怪についての認識」なんかを質問されるのでしょうか。

朝日新聞第一面の変質…軽量化はどこまで進む?

2007-12-19 14:45:52 | Weblog
 11月、朝日新聞は1週間にわたって一面トップに吉兆事件を連ねましたが、今度は佐世保市の乱射事件を12月15日朝刊から17日朝刊まで連続で一面トップに載せています(これはNHKニュースもいい勝負です)。一面の軽量化というより軽薄化というべきかもしません。

 まあ百歩譲って、第1報は一面でもいいとしても、加害者や被害者の細かい事情など、周辺事実を第一面トップに載せるのには強い違和感があります。16日の朝刊は「別の同級生も再三誘う」、17日朝刊は「殺傷力強い単発弾使用」という記事がトップです。これらがその日の日本の最重要ニュースでしょうか。

 第2報以後の事件の周辺事実などの重要度は低く、探偵趣味のある読者が読めばいいわけで、三面で十分です。決して新聞社が「ぜひ読んでください」と推薦する性格のものではないからです。こんなことをやるから過熱報道という非難を受けるのでしょう。

 しかし、いくら連日一面トップを使ってたとしても、読者の興味を満足させるという意味では、豊富な映像が使えるテレビのワイドショーの敵ではありません。その一方で必要な記事が削られるという弊害の方が深刻です。

 興味本位の、不祥事と凶悪事件に重点を置いた報道は、読者に対する迎合であり、カタルシスの効果があるかもしれませんが、必要な報道が減少することにより、社会に対する理解力や政治的な判断力などの低下を招きます。それは子供の欲求に負けて、甘いお菓子ばかり与えると、徐々に子供の健康が蝕まれるのと似ています。

 政治的な判断力の低下はタレント議員やタレント知事を産む理由になります。大阪府民は行政経験のない、漫才師出身の横山ノック氏を知事に選びましたが、結果はご承知のとおりです(ノック氏の功績は、特別な能力がなくても知事の仕事が務まることを世に知らせたことです)。選挙で適切な人物を選ぶことができなくなれば、民主主義体制の基盤が危うくなります。

 新聞の大衆迎合路線は政治的な成熟度に悪影響を与え、それは投票行動にも影響するでしょう。不祥事や凶悪事件報道でテレビのワイドショーと張り合うようなことをせず、新聞としての矜持をもち、多少面白くなくても知らせるべきものを記事にしてほしいと思います。

 重要な記事を興味深く、またわかりやすく解説するのが新聞の役割です。無数の情報の中から必要なものを選び出す機能があってこそ、新聞の権威、さらには存在理由があるといってもよいでしょう。

 上に書いたことは至極あたりまえのことで、新聞社の偉い方々は先刻ご承知のことと思います。それでも興味本位の紙面づくりをやらざるを得ない営業上のご事情があることもわかります。しかし戦前、新聞が軍の片棒を担いだのも、社員を路頭に迷わすわけにはいかないという営業上の事情であったとされています。営業上の事情と引換えに失うものの大きさを常に考えていただきたいと思います。

 教育や労働などは市場主義にはなじまいという指摘を、しばしば紙上で拝見しますが、新聞も売れればよいという市場主義になじまないものであり、そのために競争制限である再販制、特殊指定による保護が認められているわけです。営業本位体制はほどほどにしていただかないと・・・。

600人の大規模食中毒事件、なぜかマスメディアは沈黙

2007-12-17 23:11:33 | Weblog
 2007年9月19日、厚生労働省医薬食品局食品安全部監視安全課から「イカの塩辛を推定原因とする腸炎ビブリオ食中毒の発生について」報道発表がありました。

 厚労省、食品安全委員会、国民生活センター、宮城県の発表資料などによると、宮城県の食品会社が製造した「いかの塩辛」によるものと思われる食中毒事件が9月8日から発生したことがわかります。全国の12自治体で発生し、10月15日現在の患者数は593名、また9月26日の発表では、19品目の回収対象23.9tの内、回収できたものは2.2tとなっています。

 腸炎ビブリオによる食中毒事件としては、1950年10月21日、大阪府で患者数272名、死者20名の例があり、高齢者などは深刻な事態に発展する可能性もあったものと考えられます。

 また9月28日には厚労省から、「消費者への注意喚起」として「9月20日以降に報告のあった食中毒のほとんどは家庭での喫食によるものであることから、回収対象となっている製品が手元にある場合は、絶対に喫食しないようご注意下さい」との発表がされています。

 宮城県、食中毒、塩辛をキーワードにgooで検索すると377件が表示され、上位100件を調べるとほとんどが厚労省や自治体のもので、マスメディアでは「NIKKEI NET いきいき健康」と「Sponichi Annex」の記事だけが見つかりました。この検索だけで断定はできませんが、少なくとも大手のマスメディアが大きく報道した事実はないと思います。

 厚労省や自治体の発表があったので、知らなかったということは考えられないわけで、ごく一部を除いて新聞とテレビは報道の価値がないと判断した結果であると思われます。

 9月19日から月末にかけて国や数十の自治体が健康被害の拡大を防ぐための報道発表などにより注意喚起をしていますが、患者数は9月19日の発表では217名、28日の発表では354名、10月15日には593名となり、拡大が防止されたとは言えません。一般のマスメディアの協力なしでは当然といえる結果です。

 不二家、ミートホープ、吉兆など、賞味期限の不正表示、産地の偽装表示など、実際の健康被害を伴わないもの、その可能性すらほとんどないものが何十回となくトップニュースになりました。それに対し、消費者に注意を促して被害の拡大を防ぐために必要な、このかなり大規模な食中毒事件をベタ記事にさえせず、完全に黙殺するとは、いったいどう考えればいいのでしょうか。

 さらに不思議なことは特定のマスメディアではなくすべての大手マスメディアが同一行動をとったことです。したがって、これは単なる判断のブレやミスとしてではなく、メディア全体を支配する判断基準の問題として扱ってよいと思います。

 広報の放棄は健康被害だけでなく、死者を出す可能性もありました。国民への広報という役割を独占的に担う者として、ここまで無責任に役割を放棄する裏にはどんな事情があるのでしょうか。凡人には想像が及びません。偽装表示問題が、世の中がひっくり返るほどの大事件として報道された事実を考え合わせると、私の頭では理解不能であります。

 04年、鳥インフルエンザの届出の遅れを執拗に責めたてられ、浅田農産会長夫妻が自殺するという痛ましい事件がありました。また今年、消費期限が1日過ぎた原料を使った不二家は打撃が大きく、経営の自主性を失いました(不二家については拙稿参照)。

 食品企業がわずかでも(実質的にはゼロでも)人命を危険に晒した場合のマスメディアの苛酷なまでの叩きっぷりをいつも目にしている私は、人命尊重の精神に於いてマスメディアの右に出るものはないとばかり思っておりました。しかしこの中毒事件の黙殺によって、そのご立派な人命尊重精神の意味もよくわからなくなりました。

国際学習到達度調査、学力低下に朝日社説が「独自」見解

2007-12-13 22:19:29 | Weblog
 OECDが昨年実施した国際学習到達度調査(PISA)の結果が公表された。日本は科学的応用力は前回の2位から6位に、数学的応用力が6位から10位に下がった。読解力も14位から15位になった。

 12月5日の各紙の社説はそろってこの問題を取り上げた。同時に出たので他社を参考にして書かれたのではない。比べて読むと、各紙の見識の差が見えて面白い。

 読売は、学力低下はゆとり教育の結果とした上で、「理数系の落ち込みに対し、危機感が足りないと言わざるを得ない」と技術立国・日本の将来を憂慮している。大学の工学部系の学生の割合が減っていることにも言及している。

 毎日は、「もっと深刻な現実がのぞいた。学習意欲のあまりの低さ、つまり「やる気」の薄さだ」と、学力低下よりも意欲の低下に注目した。理系の職業に対する日本の子供たちの関心・意欲が「ずば抜けて低い」ことを問題視する。『「生きる力の育成」を強調した「ゆとり教育」も、本来この状況の打開や改善を目指したものだった』とゆとり教育の成果を否定している。

 日経は、学力低下の原因のひとつはゆとり教育だとして上で、『「ゆとり」路線そのものはPISAの学力観とも相通じる。ところが実際には学習の軽量化だけが進み』とし、毎日と同様、ゆとり教育の結果を否定している。科学に対する興味や関心が低いことを指摘し、社会全体でもっと危機感を共有すべきだと述べている。

 朝日以外の3紙は学力低下と意欲の低下に強い危機感を抱き、それらにゆとり教育が関係したと指摘している点で共通する。これらは概ね妥当な見解だと思う。中でも毎日は「学習意欲のあまりの低さ」を挙げているが、これは注目されていいだろう。

 しかし朝日の社説は異質である。まず「文部科学省は導入して間もないゆとり教育を見直し、国語や理科などの授業時間を増やし」たこと対し「問題は、このカジの切り方でよかったかどうかである」と根拠も示さずに懐疑的な姿勢を示す。

 また「上位の国と比べると、学力の低い層の割合がかなり大きいことだ」、「低い層が全体を引き下げている」とし、「底上げの大切さが改めて示された」という。

 応用力については「理科の授業で、身近な疑問に応えるような教え方をしてもらっているかどうか。そう尋ねると、日本は最低レベルだったのだ」ということから、応用力が弱い原因は授業のあり方に問題があるためだと主張する。

 そして、そのために「十分な教員の数とともに、その質を上げることが必要だろう」と提案する。極めて大雑把な議論であり、具体性を欠く。それが有効な解決策になるのだろうか。

 朝日社説には、学力低下を危機と捉える認識が全く感じられないが、これは他の3社と大きく異なる点だ。むしろ朝日は問題を矮小化している印象があるが、理数系学力の重要さは次の事実を見ればわかる。

 輸送機械・電機・機械・精密・化学・金属の6業種は輸出額の約85%を占め(経済産業省:貿易動向データ集)、上位三十社の輸出額は約50%にも達する。もし労働集約型の産業で中国やベトナムなどと対等に競争するには賃金を同程度に下げなければならない。現在の豊かな暮らしはこれらの強い競争力をもつ輸出企業に支えられており、理数系学力はその競争力の基礎となるものだ。技術立国と言われる所以である。立ち止まれば、周辺諸国に追いつかれてしまう。

 「低い層が全体を引き下げている」というが、ゆとり教育で授業時間を削れば塾などに行けない層の学力が低下するのは自明である(塾にいける層は学力を維持できる)。それに触れず、教員の増員を求めるのは理解に苦しむ。授業時間の削減は塾にいける者といけない者との格差を広げ、教育の機会均等を損なう。

 また、応用力は授業のあり方の問題であり、それを向上させるために教員の質を上げることが必要だ、というが、教員の質を上げる具体的な方法を言わなければ、あまり意味がない。質を上げる方法としてまず思い浮かぶのは待遇をよくして優れた人材を集めることだが、簡単にできることではない。

 朝日社説の提案の狙いは結局二つ、教員の増員と、そして質を上げるためとしての待遇改善ではないかと疑ってしまう。いったい誰のための提案なのだろうかと(「誰のためのゆとり教育であったのか」参照)。

 社説は新聞社の顔である。しっかり吟味された新聞社の最上級の意見なのだ。この社説が信用あるものして広く読まれ、社会をリードすると考えると恐ろしい。

 この社説は恐らく認識不足によるものだと思うが、何らかの目的のために周到に意図されたものという疑いも残る(それならもっと巧妙になさる方がよいと思いますが)。

 社説の最後は「応用力が問われているのは、文科省もまたしかりである」と結ばれているが、学力が問われているのは朝日新聞もまたしかりである、と付け加えておこう。

書評『パブリック・ジャーナリスト宣言』小田光康著…メディア理解にもお薦めの一冊

2007-12-10 10:05:31 | Weblog
 本書は、広く情報を伝えるという機能がほぼマスメディアに独占されている現状のなかで、市民が主体となるパブリックジャーナリズムの意味とその置かれた状況について、大変わかりやすく書かれています。

 第1章は概観した導入部で、パブリックジャーナリズムの社会的背景、社会に於ける位置づけ、その存在の根拠を社会学の概念などを交えて説明していますが、若干しんどく感じられる部分がありました。しかし第2章以降は俄然面白くなります。

 第2章「PJニュースの生い立ち」第3章「PJニュース騒動記」から第5章までは、現実感豊かに描かれ、一気に読めます。様々な困難、試行錯誤の連続の生い立ちは、むろん単に面白いだけでなく、広範な知識の裏づけによって、メディア界の現状や問題点がよく理解できる仕組みになっています。

 メディアを概説する本は少なくないのですが、方法論から始め、概念の定義などに多くのページを割く、退屈な教科書のような本があります(私はこういうものはたいてい途中で投げ出します、もう少し読者サービスを考えろと)。本書はこれとは対照的で、興味に惹かれて読むうちに理解が進みます。

 IT革命のおかげで情報の伝達コストはタダ同然になり、既存のマスメディアが独占していた状況が変わりつつあります。それを背景とした市民メディアの誕生なのですが、第4章ではその運営が決して簡単なものでない事情が描かれます。

 ひとり立ちできない市民メディアが多いなか、PJニュースが独立性を維持できていることは、ひとつのモデルを提示したという見方もできます。しかしPJニュースは小田氏の個人的な能力によるところが大きく、簡単に真似ができるものとは思えません。また、その依存度の大きさ故、組織としての安定確保が今後の課題のひとつでしょう。

 PJニュースの編集方針は、地域社会を活性化する情報、災害時の生活情報、メディア・クリティークの3本柱からなっていますが、批判の仕組みのないマスメディアに対する批判勢力であろうとする3番目の方針にはとりわけ意義を感じます。

 本書は市民メディアを主題としていますが、記者クラブ制度など既存のマスメディアが支配する現行システムの持つさまざまな問題点の指摘も的確であり、納得できるものです。市民メディアに関心のある人にはむろんですが、一般の人にとっても、メディアリテラシーを理解するのに大いに役立つことから、広く読まれることを期待します。

「朝日」までが民主党を批判…たまりかねての苦言?

2007-12-05 10:23:15 | Weblog
 11月29日の朝日社説は「額賀氏喚問―国政調査権の名が泣く」と題して贔屓の筈の民主党を批判しています。

「今回の民主党の判断には賛成しかねる。額賀財務相の喚問を、自民、公明の与党が欠席するなかで野党だけで議決したことである」

「宴席に出ていたかどうかの問題だけで、あえて全会一致の慣例を押し切ってまで、喚問の場に引き出す必要があったのだろうか」

「もうひとつ、民主党に失望したことがある。自ら提案したイラク特措法廃止法案を、わずか2時間半の審議で参院を通過させてしまったことだ」

 大変ごもっともな、お説であります。反対側欠席の採決や、わずかな審議で法案を通過させることは、以前、民主党が自民党に対しさんざん非難してきたことであり、それをご自分でなされば、今後与党を非難することができなくなるだけでなく、党の信用失墜が避けられないでしょう。

 民主党の行動からは、敵失を利用して党利につなげる姿勢だけはよくわかるのですが、国会の機能を国や国民の利益につなげようとする姿勢が感じられません。

 民主党の一連の動きは、おそらく党が熟慮した上でのことだけにいっそう深刻です。額賀氏喚問後の計画遂行能力、党行動に対するマスコミや世論の反応を予測する能力、状況判断能力など、政党組織として大事なものが欠けているように思います。

 国民は先日の参院選挙で民主党に権力を与えました。背景には政権党の失策・失言を囃し立てる反面、民主党に優しいメディアの努力があったと考えられます。そして優しいメディアの態度が、さまざまな能力に問題のある民主党の体質を育てたといってもさほど的外れではないと思います。

 甘やかして、一人前になり損なった子供に苦言を呈するお気持ちはわからぬわけではありませんが、子供が能力に見合う以上の権力を持ってしまった以上、育ての親としての責任を多少なりともお考えいただきたいものです。

『裁判員 量刑に大差 殺人事件に無罪~懲役14年』―最高裁の想定内という見解に唖然!

2007-12-03 10:41:12 | Weblog
 8箇所の地裁で実施された裁判員制度による模擬裁判の結果を12月2日の朝日朝刊が報じた。それによると、同一の想定事件に対する8つの判決は、無罪判決から懲役14年まで、大き差がついた。無罪判決は3件、懲役刑は6年から14年まであり、懲役6年の2件以外はすべてバラバラの結果である。

 この大差が出たことに対する最高裁の見解は「当然、想定していた」で、私はビックリしてしまった。最高裁はバラバラの判決が出ることを想定して、この裁判員制度を推進してきたということなのか。

 被告人にとって、もっとも大事なことは公平性だと思うが、判決にこのような大差がでても「当然」とおっしゃる最高裁の神経が理解できない。裁判を受ける身からすれば、裁判が「運しだい」で、無罪から懲役14年までブレてはたまらない。これではくじや占いで刑を決めるのと大差ない。

 これを「当然」と公言する背景には、所詮裁判とはこんなもんだという、最高裁の常識があるのだろうか。裁判に常識を取り入れるためという名目で進められた裁判員制度だが、最高裁の当然という感覚は凡人の常識では理解しかねる。

 裁判員制度は司法制度改革審議会の意見書に基づいて実施の運びとなったが、ここに裁判員制度導入の目的が次のように書かれている。

「新たな参加制度は、個々の被告人のためというよりは、国民一般にとって、あるいは裁判制度として重要な意義を有するが故に導入するものである以上、訴訟の一方当事者である被告人が、裁判員の参加した裁判体による裁判を受けることを辞退して裁判官のみによる裁判を選択することは、認めないこととすべきである。」(審議会意見書)

 つまり裁判員制度の第一の目的は国民が国民主権に基づく統治構造に参加するという理念の実現であって、被告人のためではない、と明言しているのだ。

 裁判員制度と共に司法試験合格者を6倍にすることを決定した司法制度改革審議会であるが、その最終意見書は現実を軽視した形式論あるいは理想論という印象が強い。(拙文参照)

 また最高裁はこの心神喪失・心神耗弱が争点となる想定事件に関して「責任能力という概念を裁判員に理解してもらうのが課題だった」と説明した。裏返せば、一般の人間に責任能力の概念を理解してもらえるのか、最高裁自身が懸念していたわけである。

 裁判ではそれを裁判員に理解してもらうために多くの時間を必要としただろう。しかし、その結果がこの無罪~懲役14年の大差となった。気になる課題があるのなら、なぜ制度を決める前に実験しなかったのだろうか。(拙文参照)

 京都地裁での模擬裁判は裁判員を特定の企業や団体から選んだので有職者ばかりという偏りがあった。選挙人名簿から選定する模擬裁判をもっと広く実施し、公平性を確保できることを証明してほしい。証明できない場合は、被告人に従来通りの、裁判官だけによる裁判を選択できる権利を与えるべきではないか。

 ようやく大新聞が問題意識をもちだしたという気もするが、とにかく今回の記事を評価したい。しかし賞味期限のごまかしが通例一面トップであるのに比べ、この記事がトップとは言え三面(39頁)であるのには少し不満が残る。今後各メディアに、食品偽装事件に劣らぬ執拗な追随報道をお願いしたい。