噛みつき評論 ブログ版

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試用期間をパスできない首相の連続生産

2010-06-28 10:10:56 | Weblog
 不良品が続出した場合、原材料や生産工程を見直すのは当然のことです。しかし政治の世界ではこのあたりまえのことに対して、議論さえも起きないのが不思議です。

 鳩山元首相が辞任し、これで1年程度しかもたない首相が4人続いたことになります。いずれも判で押したように就任時には高い内閣支持率を示していたものが、辞任直前には30%といわれる危険ラインを大きく下回り、20%前後となる始末です。

 内閣支持率は首相と内閣に対する国民の評価と考えられますから、1年間ほどの「試用期間」で国民は不合格の判定をしたと解釈できます。国民の評価が正しいとは限りませんが、この4首相の評価に関しては妥当であったと思います。

 首相という最高権力者が4人も連続して合格判定を受けられないような事態こそ深刻な問題であると思わざるを得ません。とくに麻生、鳩山両元首相は素人目からも資質の点で強い疑問を感じました。首相を選ぶ仕組みが変わらなければ、また合格ライン以下の首相が誕生する可能性が十分あると考えられます。

 賭け事ではないのですから、前回の首相は「外れ」、今回もまた「外れ」というようなことでは困るわけです。日本中どこを探しても首相にふさわしい人物がいないというのならともかく、この辺りで首相を「生産」するシステムを見直して「当たり」がよく出るように変えようとするのが当然の方向の筈です。しかしそのような議論を聞くことはほとんどありません。このままでは「当たり」が出るようにと、天に祈るしかありません。

 近年、政治の劣化だとか、政治家の質が低下しているという指摘をよく耳にします。これが事実なら相応の理由があるはずです。例えば小選挙区制の1人区では政党の影響力が勝敗に大きく影響する結果、〇〇チルドレンといわれる議員が大量に誕生しました。政治的な実績がなくても、その時の優勢な党の公認と支援だけで当選できる可能性があるわけで、そのような議員数が多くなる分、有能な議員数が減ることも考えられます。

 中選挙区では優勢な政党の公認候補だけでなく、政治的な実績や優れた識見などによって比較的少数の支持を集めることで当選する可能性があります。少なくとも小選挙区制に比べ多様な人材が選ばれることでしょう。小選挙区制ではベストセラーばかりを並べた書店のようなことになりはしないでしょうか。

 かつて森喜朗元首相は「自分は麻生さんをやる。麻生さんには大変お世話になったことは忘れてはいけない」と公の場で表明しました。お世話になったことが首相(総裁)に推す理由だと公言しても、メディアに批判されなかった事実があります。情実やカネによって影響されず、総裁や代表にもっともふさわしい人物が選ばれているか、という視点がメディアに必要でしょう。

 政治制度は民意を如何に政治に反映させるかという観点から検討されてきたと思いますが、議員の質や議員によって選ばれる首相の質を重視するという観点からの検討はあったのでしょうか。小選挙区制によって2大政党制が実現しても政治が劣化したのでは話になりません。

 ともかく、これからも首相の出来不出来は運次第ということでは困るわけです。この問題に関するメディアの無関心も腑に落ちません。首相を選抜するシステム、選挙や政党などの制度についての問題提起が必要だと思います。課題(アジェンダ)設定はメディアの重要な役割の筈です。またそれでメシを食っておられる政治学者の先生方の仕事だとも思うのですが。

衣食足りて「退屈」を知る

2010-06-22 20:48:40 | Weblog
「時間をつぶしながら午後を過ごし、夜を過ごし、週末を過ごす。そうして時間をつぶしながら歳月を重ねるうち、ついには時間がおれをつぶすだろう」

 とても巧い表現ですが、これはスティーヴ・ホッケンスミスの「エリーの最後の一日」にある一節です。

「生きているのは、死ぬまでの退屈しのぎ」

 こちらは山本夏彦の言葉です(記憶によっているので不正確かもしれません)。どちらも時間と退屈しのぎがテーマです(忙しくて退屈どころではないという方には申し訳ありませんが)。

 一方、前々回に紹介した動物行動学者のフランス・ドゥ・ヴァールは
「私たちは人間の営みを、自由の探求とか、有徳の人生に向けた奮闘といった高尚な言葉で表現し勝ちだが、生命科学はもっと平凡な見方をする。人生とは、安全と社会的親交と満腹感に尽きる」と述べています。

 「人生とは、安全と社会的親交と満腹感に尽きる」という生命科学の見方にはある程度同意できるものの、やはりそれだけでは十分とは思えません。人間には退屈するという生来の性質があるからです。むろん他の動物が退屈しないとは言い切れません。猫でも子供のうちは好奇心が強く、じっとしているのが耐えられないようであり、これも退屈の現れと言えるでしょう。知能が高い霊長類などはもっと顕著かもしれません。しかし退屈を感じる強さでは恐らく人間に匹敵する動物はいないでしょう。

 平均的な日本人は1日に4~5時間テレビを見るそうです。他にも、新聞、雑誌、文学、音楽、映画、パソコン(インターネット)、ケータイ、ゲーム、パチンコ、各種の賭博・・・、退屈しのぎの手段にはあらゆるものが用意されています。歴史解釈や神学の論争はあまりコストもかからず、何年やっても決着がつかない点で、優れた暇つぶしです。

 これらは文化と呼んでも差し支えないものです。もし退屈を感じることがなく、生産や食事など生存のために必要な時間以外を何もせずボーっと過ごすことができたなら、これらの文化の大半は生まれなかったでしょう。

 つまり退屈は文化の生みの親と言ってもよいでしょう。われわれに予め組み込まれたこの退屈という特性は科学や哲学、芸術、宗教の母体でもあります。退屈という特性があるからこそ、人間は様々な行動に駆り立てられるからです。しかし個人差の大きい領域であり、寸暇を惜しんで活動する人もいれば、何時間でも悠然と過ごせる人もいらっしゃいます。

 一方、「小人閑居して不善をなす」といわれるように、退屈しのぎの方法によっては害をなすこともあります。株や賭博で人生を棒に振る人も少なくないわけで、退屈の意味は人によって様々で、両刃の剣ということができます。

 退屈のおかげで文化が発達したと思われますが、我々が退屈しのぎに多大の対価を払っていることも確かです。衣食が足りたあと、退屈しのぎの相対的な価値は大きくなります。より高価な退屈しのぎへの方向は、経済成長を促すかもしれません。

 多くの動物は満腹すると眠ります。これはエネルギーの節約になり生存上の意味があります。人間に備わった退屈という機能は逆にエネルギーを消費するわけで、これが進化の観点からどのような意味を持つのか、ちょっと興味ある問題です。

国政よりサッカーのNHK

2010-06-17 09:42:34 | Weblog
 6月16日、参議院では首相の所信表明演説に対する代表質問とその答弁がありました。所信表明演説は内閣の基本方針を示すものですが、それは抽象的な建前論、つまりきれい事であり、内閣を評価する材料としての価値は限られます。それに比べ代表質問による答弁ではより多くの具体的なことが明らかになります。今回は管内閣の成立から参院選挙までの時間が少なく、新内閣を評価する材料が乏しい中で、この代表質問と答弁は貴重な判断材料です。

 ところが当日のNHKの夜7時のニュースは力士の賭博問題がトップ、ついでサッカー、国会ニュースは3分の2が過ぎてからの5分間だけ。夜9時のニュースウォッチ9でも賭博とサッカーと女性と刺殺事件で約3分の2が終り、国会は7分間だけでした。

 国政の重要さに比べれば力士の賭博やサッカーなど、どうでもよい問題です。視聴者の関心が強いとしても、公共放送がこれほどまで視聴者に迎合するのはおかしいと思わざるを得ません。生徒が喜ぶからといって、学校が教科書の代わりにマンガを採用するようなものです。

 NHKは午後の2時間半ほど、国会中継をしていましたが、平日昼間の視聴者は少数で、影響はごく限られたものです。空席の目立つ国会では、管首相の下を向いたままの抑揚のない棒読みが印象に残り、意欲が感じられませんでした。ただ政治家の必須条件なのでしょうが、質問の核心を外す答弁が巧みでした。

 ついでながら17日の日経新聞は1ページを使って代表質問と答弁の要旨を載せていますが、朝日新聞はわずか700字程度の目立たない記事で済ませています。サッカーや相撲に比べ、国会の質疑応答とはこれほどまで知らせる価値のないものでしょうか。

 民主党は国会を早く終え、ボロが出ないうちに逃げ切るつもりだ、というのが大方の見方ですが、メディアがこのような状況ではさらに判断材料が少なくなり、人気の固定化を助けて、民主党のずるい逃げ込みに加担することになります。・・・意図的かどうかは知りませんが。

 内閣発足時の高い支持率は1年も経たないうちに急低下するのが「慣例」となりました。やらせて見なければわからないといった面はあるにしても、これには発足前後にメディアが提供する情報の不足や偏りが大きく関わっていると考えられます。

 必要な報道より娯楽を優先させるのであれば商業放送と同じであり、公共放送の存在理由がなくなります。ニュースの大半をサッカーや相撲に費やすのでなく、その40分近くの時間を国会質疑の報道に充てるのが公共放送の役割だと思うのですが。

「共感の時代へ」フランス・ドゥ・ヴァール著

2010-06-14 10:01:08 | Weblog
 動物行動学者フランス・ドゥ・ヴァールの「共感の時代へ」は人間の利己心以外の性質に焦点を当てたもので、大変おもしろく示唆に富んだ本です。ダーウィンやローレンツ、ドーキンスらは生物学の立場から社会に大きな影響を与えましたが、本書も少なからぬ影響を与えるものと思います。

 ドゥ・ヴァールは集団で生活する動物に見られる協力関係に注目し、その仕組みを支えるものは共感だとします。痛みなど他者の情動を感じる能力はチンパンジーやラットにもあることを実験で明らかにし、共感能力は人間だけではなく、哺乳類に古くから備わっていた能力だとします。そして共感能力や互恵性は集団生活にとって欠かすことのできない大切な要素であることが説明されます。

 近年、自然選択(自然淘汰)、適者生存、利己的遺伝子などの言葉で表されるように、人間の利己的な面が強調されてきました。トマス・ホッブスの「万人は万人に対して狼」あるいは「万人の万人に対する闘争」のような、人間の自然状態は闘争であるとする考え方と同様です。

 自由な市場における競争に価値を置く新自由主義や市場原理主義は、リーマンショック後の金融危機がもたらした世界的な迷惑や格差拡大を受けて、このところ色褪せてきたように見えますが、この考え方も適者生存、優勝劣敗が基本になっています。もっとも物事(自然)がある状態にあるからといって、そうあるべきだとは言えない、とドゥ・ヴァールは述べています。人間の社会が自然に従う必要がないことは当然です。

 自然選択や適者生存という考え方は、世界を席巻した新自由主義の正当化に使われ、競争は善とされました(武力による競争ではなくてよかったですが)。ところで「適者生存」はダーウィンの言葉ではなく、英国の政治哲学者ハーバート・スペンサーによるもので、ダーウィン自身は自分の理論から弱肉強食のような考えが引き出されることを苦々しく思っていたとされています。

 ドゥ・ヴァールは「利他主義者を引っ掻けば、偽善者が血を流すのが見られる」という言葉がこの30年間、頻繁に繰り返されたと述べていますが、われわれは他者の行為を理解しようとするとき、利己心に重点を置きすぎていたのではないかという気がします。裏側を見るのが大好きな陰謀論者はこの典型例ではないでしょうか。

 公平についても興味深い実験が紹介されています。
「二匹のサルに同じ課題をやらせる研究で、報酬に大きな差をつけると、待遇の悪い方のサルは課題をすることをきっぱり拒む。人間の場合も同じで、配分が不公平だと感じると、報酬をはねつけることがわかっている。どんなに少ない報酬でも、もらえないよりはましなので、サルも人間も利潤原理に厳密に従うわけではないことがわかる」

 公平を好む気持ちが社会的に作られたものでなく、先天的なものだという事実は意外ですが、その意味は公平な配分によって嫉妬を招かないようにして集団の平和を保つことにあると説明されます。

 生存上、利己心が必要なものであるように、共感能力がありすぎても困るわけで、とりわけ敵と戦うときには障害になります。そのため共感をオフにするスイッチがついている説明されます。ナチの収容所で残忍な行為をする人間が家庭では良き父や夫になり得るというわけです。

 まあこのあたりは個人差の大きい部分であり、共感能力の大きさもまちまちで、無効スイッチをオフにする必要のない人間もいることでしょう。共感能力は男より女の方が高く、また競争関係にある男同士ではとくにこの無効スイッチが入りやすい傾向があるそうです。これらは実感できますね。

 以上、断片的な紹介になりましたが、最後に次の一節を引用します。

「社会的絆を結ぶのが非常に重要なことは否定のしようがない。私たちは人間の営みを、自由の探求とか、有徳の人生に向けた奮闘といった高尚な言葉で表現し勝ちだが、生命科学はもっと平凡な見方をする。人生とは、安全と社会的親交と満腹感に尽きる」・・・もし退屈ということがなければ私も完全に同意できるのですが。

 豊富な実験例やエピソードに加えてユーモアや皮肉もあり、楽しく読める本であります。ちなみにドゥ・ヴァールは2007年のタイム誌の「世界でもっとも影響力のある100人」の1人に選ばれているそうです。

内閣支持率V字回復の軽さ

2010-06-09 20:35:26 | Weblog
 鳩山・小沢両氏の辞任直後、内閣支持率は約20%から60%(管首相の支持率)とあっけなく急上しました。参院選を直前に控えたこの交代劇が、小沢氏を悪役に仕立てて意図的に仕組まれたものか、偶然の所産なのか、あるいは両者が組み合わさったものか、知る由もありませんが、とにかく民主党にとっては笑いが止らないことでしょう。シナリオを書いた人がいるならば見事な仕事です。

 首相と17名中6名の閣僚が替わりましたが、民主党という大枠は依然としてそのままであり、そして管首相や新閣僚も従来の8ヶ月余の政権運用に多少なりとも責任があった立場です。鳩山政権の失政は鳩山・小沢両氏だけの責任ではありません。それを考慮すると支持率が急に3倍になるということに世論の「軽さ」を感じます。

 ここ代表選後の数日、各テレビ局は管氏や新たな閣僚候補者を出演させ長時間の発言の場を提供しました。ご祝儀気分も手伝って、彼らに好意的な報道がほとんどであったと思われます。また局としても今後のことを考えると、出演してもらう閣僚予定者らを批判的に扱って嫌われたくないでしょう。というわけで、彼らは魅力的な展望や頼もしい決意を国民にたっぷりと伝えることができました。

 その間、テレビをはじめとするメディアは与党の動静一色になり、野党は存在が無いかのような状況になりました。そのような状況に於ける支持率調査で与党支持が増加するのはある程度納得がいくものです。しかし20%から60%という極端な変化には驚きました。まるで一晩で忘れたように変わる、子供のような頼りなさを感じます。

 不支持から支持に転じた人の多くは政治家としての能力や政策の是非を細かく検討したわけでなく、テレビが伝える印象や新しい人に対する期待などによって感情的な判断をした可能性があります。

 このような大きな影響は新聞などの活字メディアでは恐らく無理で、その多くはテレビ報道によるものと思われます。改めてテレビの印象操作能力の大きさに驚かざるを得ません。そしてこれが選挙結果に結びつくとすれば、実質的にはテレビが支配する民主制度となります。

 テレビは演出によって活字メディアよりも自在に印象を操作できることに加え、一日の平均視聴時間は4時間とも5時間ともいわれ、長時間に及びます。したがって媒体として非常に強い影響力を持っています。

 媒体が主体性、そして恣意性をもつことは大きい問題です。媒体が主体的に介在することが結果的に民主主義制度を変質させているのではないでしょうか。形式的な主権者は国民ですが、テレビが単なる媒体でなく主体性を持つほど実質的な主権者はテレビになると言ってもよいでしょう。見識の低いテレビからは、それなりの政府しか生まれないということになります。

 選挙で民主的に選ばれたものは正当性がある。選挙結果は民意であるから最大限尊重されるべきだ。・・・こういった表現は割り引いて考える必要がありそうです。大人げないと思われそうですが、まるで錦の御旗のように民主主義を振りかざす人間が目立つもので・・・。

 [付記]

真偽不明ですが、以下はメディアの中からの内部告発とされたものです。

『 6月2日、プランCが発動された。
1、今週いっぱいは新総理、新閣僚紹介で民主党を持ち上げろ
2、来週いっぱいは新総理、新閣僚紹介で民主党を持ち上げろ
3、この間、郵政改革法案が強行採決されるが無視しろ
4、14~16日までは終盤国会の新閣僚の奮闘報道で持ち上げろ
  17~23日は国会閉会後の民主党新人候補の活動を中心に報道せよ
5、24日の参院選告示後は公平な報道に尽力せよ
このような指針が某メディアで出ている事実がある 』
 出所 ここ

 1993年の総選挙の期間中、テレビ朝日が共産党を除く野党による非自民政権樹立を促す報道を計画したことが発覚し、大きい問題となった椿事件がありました。したがってこの種の情報を全くの偽物と片付けることはできません。一方、荒井国家戦略相の事務所費問題は各メディアが取り上げていますが、6月9日20時現在、朝日新聞だけは何故か取り上げていないようです。同種の問題であった松岡利勝、赤城徳彦両元農水相の時との違いに驚きます。

日本経済新聞のジレンマ

2010-06-07 09:55:24 | Weblog
 四半期ごとに経済成長率が発表され、それに一喜一憂するような国は例外的だそうです(佐和隆光氏の言)。近年の四半期の前期比変化率はせいぜい1%程度でありそれが直接生活に影響を与えるほどのものではありません。投資をしている人にとっては、成長率は全体の趨勢を把握するには必要な指標ですが、一般の人には、騒ぐほどの意味はないと思います。

 経済は生活の基盤であり、重要なことです。しかし経済紙なら知りませんが、一般のメディアまでが、したがって国民の多くが成長率の細かな動向にこれほどまでに強い関心をもつことには少々違和感があります。

 私の推測ですが、これには日本経済新聞の存在が少なからず関わっているように思います。日経は経済紙というものの読み応えのある文化欄やスポーツ欄まであり、他の全国紙と同様、一紙の購読で足りるという構成になっています。そのためもあるのでしょうが、約300万部と中位の全国紙並みの部数があります。

 そして、日経がもっとも信頼できる新聞と評価されている事実があります。2007年2月の調査によると「読者信頼度」は日経が1位で、2位読売、3位朝日と続きます。これは朝日新聞が外部に依頼した「新聞読者基本調査」によるものです。15歳以上の9千人を対象とし約4900人が回答したもので、社外秘扱いとなっているデータから明らかになったとされています。日経の信頼度が比較的高いのは私も同意しますが、その理由のひとつは恐らく朝日などに比べ記事に色がついていないためでしょう。

 また比較的高いレベルの読者層を対象としているようで、社会に影響力のある層に広く読まれ、その影響力は部数以上のものがあると考えられます。

 問題は、もっとも信頼度が高く部数も多い新聞が経済記事中心の新聞であることです。読者の頭の中は知らずしらずのうちに経済の占有割合が高くなっているのではないでしょうか。

 1980年代以降、英米に始まった市場重視の新自由主義の流れは日本にも広がりましたが、これには日経新聞が大きい影響を与えたのではないかと思われます。市場における自由な競争が効率的で望ましいこととされ、優勝劣敗が当然とされる風潮を生みました。そして経済における考え方が経済以外の領域にまで影響を及ぼしたと思われます。

 ホモ・エコノミクスとは自己の利益を最大限に追求するように合理的に行動すると想定された人間を指す経済学の用語ですが、この二、三十年は現実の人間の方がホモ・エコノミクスに近づくよう奨励されてきたような感があります。

 日経新聞は経済の比重が高いながらも社会、政治などを総合する一般全国紙としてのクオリティペーパーであり、それだけに社会への影響力は大きいものがあります。もし経済中心の新聞ではなく、一般紙がもっと高い信頼度を保っていれば日本の社会は少し違ったことになっていたかもしれません。

鳩山政権を支援する朝日社説

2010-06-03 09:25:57 | Weblog
 鳩山首相はついに辞任を表明しました。それにしても不思議なのは、地位と仕事を中途で放棄せざるを得ないという厳しい境遇の只中にあって、奇妙に明るい首相の表情です。この表情は国のために立派な仕事を成し遂げた直後なのかと一瞬錯覚するほどです。これは普通の人間にはきっと解けない謎でしょう。それはさて措き、辞任表明の前に書かれた6月2日の朝日社説は鳩山首相の政権維持を求める極めて異色の内容です(以下、一部を引用)。

「目前の参院選を何とか乗り切るために、鳩山由紀夫首相に辞めてもらう。そういう狙いが見え見えである。考え違いというほかない」
「確かに深刻な失政である。外交・安全保障分野に限らず、首相の言葉の軽さと判断のぶれは目に余る。国の指導者としての資質に疑問符がつき、内閣支持率の危機的な水準は世論が首相を見放しつつあることを示している」
「しかし、時代は決定的に変わったはずではなかったのか」
「トップリーダーの力量、理念政策の方向性、政治手法や体質といった政党の持つ統治能力そのものを有権者が見比べ、直接選ぶ。それが時代の政治の姿であるはずだ」
 「鳩山政権の迷走でかすんだ感があるとはいえ、政治の質を根本的に変える試みの意義は大きい」
 「いま民主党がなすべきは、政権8カ月の失敗から何を学び、どこを改めるのか、猛省することである」

 つまり有権者が直接選んだ政権であり、政治の質を根本的に変える試みの意義が大きいから、深刻な失政があっても資質に重大な疑問があっても継続しなければならない、というご主張になりましょうか。

 これは政権の機能よりも選挙という民主的な手続きを経て成立したことを重視する非現実的な形式論であります。大事なことは国民が無能な政権によって不利益を被らないようにすることです。また「民主党が8カ月の失敗から学び、改める」というのは抑止力に関して鳩山氏の「学ぶにつけ・・・思いに至った」という発言と符合します。勉強は政権を取る前にしておくものであり、また資質が勉強によって改まるとは考えられません。

 5月29日の社説でも「首相は歩み続けるしかない」と継続を支持しています。ついでながら、同社説では、普天間飛行場の移設問題に関して「私たちは5月末の期限にこだわらず、いったん仕切り直すしかないと主張してきた」と述べ、これは社民党の主張と一致します。5月末決着を反故にすれば12月のトラスト・ミー発言で失った米国政府に対する信用をさらに失うことになると考えられますが、朝日の「腹案」でもあるのでしょうか。

 朝日新聞は民主党政権の成立に力を貸してきたわけですから、少しはこの政権に責任を感じてもよい立場です。「トップリーダーの力量、・・・」などが期待外れとなった以上、、形式論を楯に政権の継続を主張するのは見苦しいことです。いさぎよく「衆院選前、私たちは民主党の姿を誤って伝え、有権者の期待を煽って投票を間違った方向に誘導しました」と認める程度の度量があってもよいと思います。