『信仰上の理由で輸血を拒否している宗教団体「エホバの証人」信者の妊婦が5月、大阪医科大病院で帝王切開の手術中に大量出血し、輸血を受けなかったため死亡した。病院は、死亡の可能性も説明したうえ、本人と同意書を交わしていた。エホバの証人信者への輸血を巡っては、緊急時に無断で輸血して救命した医師と病院が患者に訴えられ、意思決定権を侵害したとして最高裁で敗訴が確定している(00年)。一方、同病院の医師や看護師からは「瀕死の患者を見殺しにしてよかったのか」と疑問の声も上がっている。』 (毎日新聞 07/6/19日より要約)
十字軍の遠征、近世西欧のいくつかの宗教戦争、人民寺院事件、9.11テロ事件、イラクのシーア派とスンニ派の争い、これらの悲惨な事件に宗教は主役を演じてきた。わが国でもオーム真理教サリン事件、霊感商法、など宗教による問題は少なくない。人を救済することが最大の目的である筈の宗教は一方で戦争を含む巨大な害悪をも生んできた。
一方、わが国では宗教は法的に手厚く保護されてきた。憲法第20条は「信教の自由は、何人に対してもこれを保証する」と規定し、宗教法人は税法上も極めて優遇されている。ここでは現代の宗教を考えてみたい。
仮定だが、もしエホバの証人の子供が輸血なしでは助からないという事態になったとき、親が輸血を拒否して、子供を死なせてしまう可能性があるのではないだろうか。なぜなら、00年の最高裁判決は医師の救命義務(生命にかかわる緊急時の輸血)より本人の意思決定権を優先したからである。(東京大医科学研究所付属病院で92年、女性信者に無断で輸血した病院と医師に損害賠償の支払いを命じる最高裁判決が出ている)
信仰に関する意思決定権の優先が認められたわけだが、安楽死の場合はそうではない。95年の東海大の安楽死事件に関する横浜地裁の判決は今のところ安楽死の基準とされているが、ここでは安楽死の条件として、患者本人の意思に加え、患者に耐えがたい激しい肉体的苦痛があること、 死が避けられず、死期が迫っていること、など4条件を示し、死を選ぶ意思決定権はごく限られたものである。これはオランダにおける安楽死の自己決定権に比べると非常に限定されたものである。つまり宗教にかかわる意思決定権だけは特別優遇されているという印象が拭えないのだ。
これも「エホバの証人」のかかわる事件であるが、神戸の市立高等専門学校で、同信徒の学生が体育の剣道の授業を拒否して、進級を止められ退学になった事件があった。これも96年に出された最高裁判決では、原告学生の全面勝利に終った。剣道の授業拒否が認められたのだ。
エホバの証人が二つの事件で最高裁判決を勝ち得たのは、憲法で保障されている「信教の自由」があったからこそだと思われる。どちらの例も拒否理由が信仰ではなく好き嫌い、あるいは信条、○○主義であったなら多分敗訴になっていただろう。宗教上の意思決定権だけは優先されているのだが、これに合理的な理由があるだろうか。
オーム真理教による拉致・殺人、統一教会の霊感商法による経済的被害などはよく知られている。しかし家族を宗教に奪われるというケースは多い割りには知られていない。殺人のように大ニュースにならないためだろう。息子や娘が洗脳されて教団に奪われるという事態は、実際に家族を失うのに近い悲劇である。家族からは誘拐と見えても、信仰となれば警察は手出しできない。「信教の自由」が教団を守っているのだ。
オーム真理教に対する捜査の遅れは大きな被害につながったが、当初の腰の引けた捜査にその理由があると言われている。
宗教法人が本来の宗教活動で得た収益には課税されない。寄付金、お布施、戒名料などすべて非課税である。集めた資金の運用益にも課税されない。また宗教活動に使う土地・建物に対する固定資産税も課せられない。非課税の特典を利用できるので、休眠宗教法人の売買まで行われているとも言われている。この優遇措置に見合うだけの社会貢献があるのだろうか。
宗教とは存在する筈がない神を、あるいはそれに代わる超自然のものを中心に置いた、虚の世界、錯誤の世界である。合理性とは相容れない部分をもつ。私は熱心な信仰を持つ人に十分な合理性を求めるのは間違いだとすら思っている。そして合理という共通の認識がなければ相互に理解することは難しい。
著書「利己的遺伝子」によって思想界にも大きな影響を与えた生物学者リチャード・ドーキンスは「宗教攻撃」の第一人者でもあるが、宗教は害悪であり、そして神はどうみても子供の空想だと主張している(インタビューThe flying spaghetti monsterより)。偉い学者の言葉を引用し、その権威で説得するという方法を私は好まないが、この場合は少し違う。信仰あるものの神経を逆撫でする私の主張に対する風当たりをドーキンスに受けてもらうというセコイ配慮なのである。
現代社会における宗教の影響の大きさ、有用性はかつてと同じではない。決して無視できない負の側面をも直視し、改めて社会での位置づけを検討すべきだと思う。例えば、憲法20条の「信教の自由」は宗教だけを特別扱いしているが、19条の「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」に含めてもよいとの考えもある。
かつて毎日新聞は創価学会批判を続けたが、結局、学会の圧力に屈した。それが「教訓」になったかどうかは知らないが、宗教問題はメディアのタブーのひとつとも言われている。宗教の優遇が現在まで顕在化しなかったのはそのためでもあるだろう。宗教問題が広く議論されることを期待する。
十字軍の遠征、近世西欧のいくつかの宗教戦争、人民寺院事件、9.11テロ事件、イラクのシーア派とスンニ派の争い、これらの悲惨な事件に宗教は主役を演じてきた。わが国でもオーム真理教サリン事件、霊感商法、など宗教による問題は少なくない。人を救済することが最大の目的である筈の宗教は一方で戦争を含む巨大な害悪をも生んできた。
一方、わが国では宗教は法的に手厚く保護されてきた。憲法第20条は「信教の自由は、何人に対してもこれを保証する」と規定し、宗教法人は税法上も極めて優遇されている。ここでは現代の宗教を考えてみたい。
仮定だが、もしエホバの証人の子供が輸血なしでは助からないという事態になったとき、親が輸血を拒否して、子供を死なせてしまう可能性があるのではないだろうか。なぜなら、00年の最高裁判決は医師の救命義務(生命にかかわる緊急時の輸血)より本人の意思決定権を優先したからである。(東京大医科学研究所付属病院で92年、女性信者に無断で輸血した病院と医師に損害賠償の支払いを命じる最高裁判決が出ている)
信仰に関する意思決定権の優先が認められたわけだが、安楽死の場合はそうではない。95年の東海大の安楽死事件に関する横浜地裁の判決は今のところ安楽死の基準とされているが、ここでは安楽死の条件として、患者本人の意思に加え、患者に耐えがたい激しい肉体的苦痛があること、 死が避けられず、死期が迫っていること、など4条件を示し、死を選ぶ意思決定権はごく限られたものである。これはオランダにおける安楽死の自己決定権に比べると非常に限定されたものである。つまり宗教にかかわる意思決定権だけは特別優遇されているという印象が拭えないのだ。
これも「エホバの証人」のかかわる事件であるが、神戸の市立高等専門学校で、同信徒の学生が体育の剣道の授業を拒否して、進級を止められ退学になった事件があった。これも96年に出された最高裁判決では、原告学生の全面勝利に終った。剣道の授業拒否が認められたのだ。
エホバの証人が二つの事件で最高裁判決を勝ち得たのは、憲法で保障されている「信教の自由」があったからこそだと思われる。どちらの例も拒否理由が信仰ではなく好き嫌い、あるいは信条、○○主義であったなら多分敗訴になっていただろう。宗教上の意思決定権だけは優先されているのだが、これに合理的な理由があるだろうか。
オーム真理教による拉致・殺人、統一教会の霊感商法による経済的被害などはよく知られている。しかし家族を宗教に奪われるというケースは多い割りには知られていない。殺人のように大ニュースにならないためだろう。息子や娘が洗脳されて教団に奪われるという事態は、実際に家族を失うのに近い悲劇である。家族からは誘拐と見えても、信仰となれば警察は手出しできない。「信教の自由」が教団を守っているのだ。
オーム真理教に対する捜査の遅れは大きな被害につながったが、当初の腰の引けた捜査にその理由があると言われている。
宗教法人が本来の宗教活動で得た収益には課税されない。寄付金、お布施、戒名料などすべて非課税である。集めた資金の運用益にも課税されない。また宗教活動に使う土地・建物に対する固定資産税も課せられない。非課税の特典を利用できるので、休眠宗教法人の売買まで行われているとも言われている。この優遇措置に見合うだけの社会貢献があるのだろうか。
宗教とは存在する筈がない神を、あるいはそれに代わる超自然のものを中心に置いた、虚の世界、錯誤の世界である。合理性とは相容れない部分をもつ。私は熱心な信仰を持つ人に十分な合理性を求めるのは間違いだとすら思っている。そして合理という共通の認識がなければ相互に理解することは難しい。
著書「利己的遺伝子」によって思想界にも大きな影響を与えた生物学者リチャード・ドーキンスは「宗教攻撃」の第一人者でもあるが、宗教は害悪であり、そして神はどうみても子供の空想だと主張している(インタビューThe flying spaghetti monsterより)。偉い学者の言葉を引用し、その権威で説得するという方法を私は好まないが、この場合は少し違う。信仰あるものの神経を逆撫でする私の主張に対する風当たりをドーキンスに受けてもらうというセコイ配慮なのである。
現代社会における宗教の影響の大きさ、有用性はかつてと同じではない。決して無視できない負の側面をも直視し、改めて社会での位置づけを検討すべきだと思う。例えば、憲法20条の「信教の自由」は宗教だけを特別扱いしているが、19条の「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」に含めてもよいとの考えもある。
かつて毎日新聞は創価学会批判を続けたが、結局、学会の圧力に屈した。それが「教訓」になったかどうかは知らないが、宗教問題はメディアのタブーのひとつとも言われている。宗教の優遇が現在まで顕在化しなかったのはそのためでもあるだろう。宗教問題が広く議論されることを期待する。