『19日午後3時5分頃、静岡県西伊豆町安良里の黄金崎公園展望台近くで、海に面した斜面の手すりの外側に60~70歳くらいとみられる男性がしゃがみ込んでいるのを観光客が見つけた。
通報で駆けつけた松崎署員や町役場職員らに対し、男性は「がんの痛みが続いて耐えられない。死にたい」などと自殺をほのめかしたため、同署員ら約30人がかりで説得。
「生きていればいいことがある」などと言葉をかけ続けたが、男性は午後8時10分頃、「ごめんなさい」と言い残して約30メートル下のがけ下に身を投げた。
漁船が出て、約1時間半後に岩場で倒れていた男性を収容したが、全身を強く打ってすでに死亡していた。』(2010年1月20日11時37分 読売新聞)
なんとも痛ましいことですが、いろいろと考えさせられる事件です。この記事を見る限り、男性の行動には合理性があると私は思います。痛みに耐えてまで余命を生きながらえる理由が思いあたらないからです。投身の恐怖は大変なものだと思いますが、それを超えさせたのは耐え難いほどの痛みであったと考えると、まことに悲惨なことです。
「生きていればいいことがある」と説得したそうですが、この言葉はずいぶん白々しいものに感じます。恐らくこの場で自殺を思いとどませるような説得力のある言葉はないでしょう。このような言葉しかないことは自殺を思いとどまらせる強い根拠がないことを示しています。
逆に、もし親切な人が男性に同情して、何らかの手助けをすればその人は罪に問われることになります。もし飛び降りても不幸にして男性が死に切れなかった場合、病院へ運び救命することが正しいこととされ、男性の意思が考慮されることはありません。
森鴎外は作品「高瀬舟」で、病を苦に自殺を企てた弟が死に切れず、苦しみながら懇願するのを断りきれずに手助けして罪に問われた男を描き、この問題を提起しました。古くからあるテーマですが、法の立場は基本的に変わっていません。
飛び降りという恐怖に満ちた無残な死に方ではなく、もっと穏やかな苦痛のない死に方をこの男性に提供できたら、と思う人は少なくないでしょう。しかしそれはなかなか公言できません。合法的な方法がないこともありますが、命を守ることが何よりも大切だという単純な綺麗事が支配しているからでしょう。
この事件は特殊な事例ではなく、誰でもこのような状況に置かれる可能性があります。しかしたいていは病院のベッドで、自らの意思を実行したくてもかないません。つまり自分の生命は自らが決めるという決定権がないわけです。決定権を強行するには元気なうちに手荒な方法を使わざるを得ませんが、蛮勇が必要です。
医師による安楽死事件が起きると、マスコミはそのときだけ騒ぎますが、すぐ忘れます。この事件は安楽死問題を議論するきっかけになると思うのですが、その気配は全くありません。新聞やテレビの現役記者達にとって死は遠い先の話なので、安楽死など他人事という意識があり、無関心でいられるのでしょう。しかし自分が死にかけたときになってから慌てても手遅れです。
現在、自分の最期を自ら決めたい場合、自殺幇助が認められているスイスへの自殺ツアーに参加する方法がありますが、面倒な上に費用が必要です(ローンはちょっと無理ですね、帰ってこないのですから)。
自分のときは切実な問題になります。もっと安楽死問題、自己決定権の問題が議論されてもよいでしょう。悪用される危険があるなどの反対論もあるようですが、オランダやベルギーは合法化されており、現実的な選択です。また日本が「東洋のスイス」となることもできるでしょう。
通報で駆けつけた松崎署員や町役場職員らに対し、男性は「がんの痛みが続いて耐えられない。死にたい」などと自殺をほのめかしたため、同署員ら約30人がかりで説得。
「生きていればいいことがある」などと言葉をかけ続けたが、男性は午後8時10分頃、「ごめんなさい」と言い残して約30メートル下のがけ下に身を投げた。
漁船が出て、約1時間半後に岩場で倒れていた男性を収容したが、全身を強く打ってすでに死亡していた。』(2010年1月20日11時37分 読売新聞)
なんとも痛ましいことですが、いろいろと考えさせられる事件です。この記事を見る限り、男性の行動には合理性があると私は思います。痛みに耐えてまで余命を生きながらえる理由が思いあたらないからです。投身の恐怖は大変なものだと思いますが、それを超えさせたのは耐え難いほどの痛みであったと考えると、まことに悲惨なことです。
「生きていればいいことがある」と説得したそうですが、この言葉はずいぶん白々しいものに感じます。恐らくこの場で自殺を思いとどませるような説得力のある言葉はないでしょう。このような言葉しかないことは自殺を思いとどまらせる強い根拠がないことを示しています。
逆に、もし親切な人が男性に同情して、何らかの手助けをすればその人は罪に問われることになります。もし飛び降りても不幸にして男性が死に切れなかった場合、病院へ運び救命することが正しいこととされ、男性の意思が考慮されることはありません。
森鴎外は作品「高瀬舟」で、病を苦に自殺を企てた弟が死に切れず、苦しみながら懇願するのを断りきれずに手助けして罪に問われた男を描き、この問題を提起しました。古くからあるテーマですが、法の立場は基本的に変わっていません。
飛び降りという恐怖に満ちた無残な死に方ではなく、もっと穏やかな苦痛のない死に方をこの男性に提供できたら、と思う人は少なくないでしょう。しかしそれはなかなか公言できません。合法的な方法がないこともありますが、命を守ることが何よりも大切だという単純な綺麗事が支配しているからでしょう。
この事件は特殊な事例ではなく、誰でもこのような状況に置かれる可能性があります。しかしたいていは病院のベッドで、自らの意思を実行したくてもかないません。つまり自分の生命は自らが決めるという決定権がないわけです。決定権を強行するには元気なうちに手荒な方法を使わざるを得ませんが、蛮勇が必要です。
医師による安楽死事件が起きると、マスコミはそのときだけ騒ぎますが、すぐ忘れます。この事件は安楽死問題を議論するきっかけになると思うのですが、その気配は全くありません。新聞やテレビの現役記者達にとって死は遠い先の話なので、安楽死など他人事という意識があり、無関心でいられるのでしょう。しかし自分が死にかけたときになってから慌てても手遅れです。
現在、自分の最期を自ら決めたい場合、自殺幇助が認められているスイスへの自殺ツアーに参加する方法がありますが、面倒な上に費用が必要です(ローンはちょっと無理ですね、帰ってこないのですから)。
自分のときは切実な問題になります。もっと安楽死問題、自己決定権の問題が議論されてもよいでしょう。悪用される危険があるなどの反対論もあるようですが、オランダやベルギーは合法化されており、現実的な選択です。また日本が「東洋のスイス」となることもできるでしょう。