噛みつき評論 ブログ版

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宗教はアヘンか

2014-12-29 09:11:42 | マスメディア
 アルカイダ、タリバン、イスラム国、ボコ・ハラムなど、イスラム過激派と呼ばれる組織の活動が目立つようになりました。他国への武力侵攻、テロ、誘拐、殺戮、さらには奴隷制の復活まで、まるで古代に逆戻りしたような観があります。

 いかなる条件が満たされれば、このように人間が集団として残虐になることができるのか、なかなか興味をそそられる問題です。また内外に深刻な影響を与えることも多く、その点からも解明を期待したいところです。

 上記の例ではイスラム教が条件のひとつとなっていることが疑われます。イスラム教自体はこのような過激な活動を認めていないとされますが、イスラム教が過激集団の母体となっていることは間違いないでしょう。

 かつて連合赤軍は山中のアジトでリンチによって多数の仲間を殺害するという凄惨な事件を起こしました。共産主義を通じて人のために役立ちたいという志を持つ真面目な若者が仲間や警官を次々と殺すことは理解し難い事実です。恐らく共産主義の極端な解釈が人命より大事な価値があると思わせ、それが宗教のような役割を果たしたのでしょう。むろん森恒夫や永田洋子らリーダー格の人物の性格も影響しているでしょうが、彼らとてこのような環境・条件がなければ犯罪者とはならなかったでしょう。

 ヒトの頭をおかしくさせるものは宗教に限りません。麻薬も幻覚を起こさせたりして頭を狂わせます。しかし薬剤は化学的に作用するため、薬が切れると効果が失われます。これに対して宗教による作用はソフトウェア的です。コンピューターウイルスのように頭の既存プログラムを書き換えます。

 さらに他の人間に感染させるようにプログラムすることもできます。この自己複製機能で、ねずみ算のように増殖できるわけです。感染力の強い本物のウィルスのようです。キリスト教やイスラム教は当初のプログラムが優れていたため「自動的」に世界中に広がったと考えられます。

 カール・マルクスが「宗教は阿片なり」と言ったのは19世紀です。マルクスが意識したかはともかく、両者に共通する性質が見えてきます。穿った見方をすれば、宗教と共産主義が類似性が強いため近親憎悪の気持があり、宗教を敵視したとも考えられます。しかし私には「共産主義も阿片なり」と思われます。

 ヘロインはうまく制御して使えば有用な医薬品になるように、宗教にも有用な部分はあります。しかし使い方を間違えれば非常に危険なものになります。とりわけ強い自己複製機能をもつ宗教は広範囲に拡散する可能性があります。エボラの感染拡大には重大な関心が払われましたが、イスラム過激派による世界の被害は甚大でエボラのそれに比すべくもありません。

 宗教には比較的無害なものもありますが、神は存在するなどと人をだまし、知性を狂わせることが宗教の基本的な成立条件であり、本来的に危険な要素を含むものであると考えられます。そして「感染」を防ぐために最も有効なものは教育でしょう。むろんそれはまともな教育であって、宗教団体がする教育では逆効果です。

無識者会議

2014-12-22 09:22:24 | マスメディア
 米国では丸腰の黒人を射殺したり、首を絞めて死亡させた警察官が不起訴になるケースが相次ぎ、各地で騒動が発生しています。起訴するかどうかは市民で構成される大陪審が判断するそうです(裁判で有罪無罪を決めるのは小陪審)。

 不起訴ということは裁判で黒白を決める必要もないと判断されたわけです。とすれば無罪の明白な理由があるはずですが、不起訴の理由は非公表なのでわからない仕組みになっています。

 ここで、問題とされるのは大陪審を構成する人種割合で、白人が多数を占めれば黒人に不利な判断がなされるのではないかという懸念は以前からありました。教育訓練を受けていない一般市民は感情や偏見に影響されやすいのではないかという懸念です。一般市民の判断は職業検察官に比べ、信頼に足るのでしょうか。

 米国の裁判は12名による陪審員制(小陪審)が採られていますが、被告には陪審員制の裁判と職業裁判官による裁判を選択する権利が与えられています。第30回司法制度改革審議会配布資料には以下の記述があります。

『アメリカ,イギリスにおいても,陪審裁判が行われている事件は極めて限定されている。アメリカにおいては,民事について,連邦地方裁判所において陪審裁判により終局した事件の全終局事件に占める割合は1.7%,刑事について,陪審裁判により終局した事件の全終局事件に占める割合は5.2%である』

 英国では民事、刑事ともに1%未満であり、英米ともほとんどの被告が職業裁判官による裁判を選んでいる現状で、陪審員制が信頼されているとはとても言えません。

 ところがわが国ではこの英米の陪審員制をお手本として、裁判員制度が導入されました。司法に民主主義を導入するため、あるいは職業裁判官より素人の判断が正しいという理由がつけられました。英米では信頼を失っている制度をなぜかわざわざ導入したというわけです(一部改変して)。

 司法制度改革を主導した人達には民主主義に対する信仰のようなものがあったと思います。主権者である一般市民が被告を裁くことが民主主義であり、その判断が正しい筈だという信念があったようです。「(裁判員制度によって)得られた判決というのは、私は決して軽くもないし重くもない、それが至当な判決である」との但木敬一元検事総長の断定的かつ極端な発言は信仰心から生まれたものでしょう。少なくとも科学の領域のものではありません。

 民主主義では主権者は国民です。しかしだからといって安全保障や外交、財政などの重要な問題を寄せ集めの市民の判断に委ねることは行われていません。それとも裁判ごときは素人の判断で十分というのが本心なのでしょうか。

 有識者会議というものがあります。重要な問題があるとき、知識を持つ人を集めて最善の判断をするためのものです。この言い方に従えば、市民を集めた陪審は無識者会議ということになります。

 他にも司法制度改革では司法試験合格者を毎年3000人と決めましたが、合格者の質の低下、弁護士の失業が問題になり、現在は2000人前後に留まり、さらに減らす必要も議論されています。乱立した法科大学院など教育制度の問題も深刻です。極端な増員が様々な問題を引き起こすことは容易に予測できましたが、彼らにだけは予測できませんでした。おそらく信仰・盲信のために現実が見えなかったのでしょう。信仰とはそういうものですが、信仰のない我々には大変迷惑な話です。

 このような大失敗に対し、誰も責任を取らず、批判されることすらないとはまことに寛容な世の中です。食品に虫が混入する方がはるかに大事件のようです。

民主党政権の遺産

2014-12-15 09:16:46 | マスメディア
 民主党政権は素晴らしい教訓を残しました。それはマニフェストや公約でいかに立派なことを言っていても、政権の運営能力が低ければ絵に描いた餅に過ぎないということです。運営能力は政治家の資質に左右されます。ひとつのエピソードがあります。

 東日本大震災の翌日、菅元首相は危機的な状況に陥った福島第一原発にヘリで向かいました。一刻を争う時に現場に無駄な時間を使わせてしまったという批判がなされましたが、ヘリが着いたとき、同行者達はすぐに降りることが許されなかったそうです。門田隆将著「死の淵を見た男」P144には次にように書かれています。

 『菅元首相が現地に視察に来たことを「撮影」するためだった。原発の危急存亡の闘いのさなかに、「まず撮影を」という神経に斑目は驚いたのである』(斑目氏は当時の原子力安全委員会委員長)

 ヘリから颯爽と降り立つ首相の写真を狙っていたのでしょう。国家を揺るがす事態に自分の写真を考えるとは、なんたる余裕でしょう。しかし国よりも自分の人気の方を何倍も大切にしている風変わりな首相であったことがわかります。

 このエピソードを取り上げたのは菅氏が民主党内の最も優れた資質をもつ人物として選ばれた筈の首相であるからです(選んだ議員達の見識も問題ですが)。同じく最も優れた人物である筈の鳩山氏については有り余るエピソードがあり、改めて言う必要はないでしょう。 「安全保障に関しては素人だが、これが本当のシビリアンコントロールだ」と発言した一川元防衛相、暴言を吐いて辞任した松本元復興相、これらは党の人材の質・量に重大な問題があったことを示しています。

 2009年、308議席という最多の人数(議席)を獲得しながら、有能な人物があまりいなかったことが明らかになったわけです。この事実は他の野党を評価する際の基準となり得ます。政党がいかに甘い言葉を並べても、実現するための政権運営能力がなければ意味がありません。

 今回の選挙では、民主党から貴重な教訓を得た有権者は政権担当能力を重視した選択をしたと考えられます。しかしながら現在の野党は政権担当能力という点から言えばとても満足できるものには見えません。したがって与党の圧勝となった今回の選挙結果は当然の結果と言えるでしょう。けれどこのような状況では有権者に実質的な選択肢がなく、選挙制度の意味を失わせるものです。戦後最低とされる投票率もそれを反映したものと思われます。弱小政党がいかに数多くあってもあまり意味がありません。

 政策や路線で争うのもいいですが、政権担当能力と担当する意思がなければ有力な野党にはなり得ません。メディアも政権担当能力についての関心が低くかったと思います(だからこそ民主党政権を誕生させたわけですが)。このようなメディア、特に左翼メディアの性格は政権を担う気のない万年野党、社会党に寄り添った長年の報道姿勢に由来するものでしょう。

 政権担当能力や政策の実現可能性がメディアの主要なテーマになれば、野党の方も変化せざるを得なくなるでしょう。「大幅減税し、福祉予算を大きく増やします」などの現実性を欠くに宣伝には厳しい目を向ける必要があります

朝日の謎が解けた

2014-12-08 09:06:50 | マスメディア
 朝日新聞が時代から取り残されたようなイデオロギー色の強い特異な体質を保っていたことを、私は以前から不思議に思っていました。ソ連の崩壊を契機として社会主義に対する甘い幻想が消え失せ、社民党や共産党が支持を失って滅びつつある中、ひとり朝日が組織として旧態依然の体制を維持してきた理由は謎でしたが、文芸春秋12月号に載った朝日社員へのアンケート調査の結果によってその謎が解けました。回答者は40代以上の男性、東京本社の編集局の所属です。以下は回答の一部です。

『会社に異を唱える記者は次々と編集の現場からいなくなっている。いま、早期退職制度で優秀な記者がやめている。自分と違う主張、反論を認めることができない。それが植村記者に対して「おかしい」という異論を消したのだろうし、文化大革命で中国を礼賛して「虐殺が起きているじゃないか」と異を唱える記者を外していき、北朝鮮を自由な国だと褒め称え、社会主義に異を唱える人間を消していった』

 新聞社には毎年多くの新入社員が入り、他の社員も情勢の変化を感じ取るわけですから、少しずつ時代に合った体質に変化していくのが普通です。それに抗して旧態依然の体制を保持しようとすれば強力な支配力が必要です。上記のアンケートによれば、それは人事権を掌握する首脳部によって実施されてきたことが推測できます。それにしても連綿と続く首脳部の、変化を拒否する頑固さは驚かされます。

 自由な意見を抑圧し、独裁的な支配力を維持する、これはどこか近隣の国のやり方みたいです。民主主義を標榜している組織が実は非民主的な組織であったという冗談のような話です。また「優秀な記者がやめている」ということですが、これは裏返せば今は優秀でない記者が残っているということになります。この夏の騒ぎを見れば大いに納得できますが。

 新たに就任した渡辺社長は会見で、「公正、オープン、謙虚、誤りは自らただす新聞社だと評価していただける日まで、体を張ってやり抜く覚悟です」と発言しました。これは今までの朝日は不公正、隠蔽、傲慢、誤りは自らたださない新聞社であったとお認めになったわけで、正直な表明は評価できます。

 しかし朝日問題の根幹は事実を報道するというメディアとして最も大切なことを軽視し、自らの主張を優先するという驕慢な独善体質にあるわけで、記事のチェックが足りませんでしたといった末梢の問題ではないと思われます。

 新社長は政治部出身ではないというものの、数年前は編集局長の要職にあり旧来の朝日体制を支えたきた人物だと思われます。編集局長ですから、少なくとも主流に対して異論を唱えた方ではないでしょう。従って事実の報道よりも主張を優先するという根幹の問題が解決するか、疑わしいです。幹部を一掃し、産経や読売から社長を迎えれば効果的だと思いますが。

 朝日の第三者機関「信頼回復と再生のための委員会」で外部委員を務める日産自動車の志賀俊之副会長の最近の発言。
「(再生への)道筋がつきつつあるとは全く思わない。危機感の欠如ではないか」

 同じく外部委員の国広正弁護士の発言
「根底から変える感じがない」

    お説、ごもっともです。

ピケティ旋風

2014-12-01 08:50:39 | マスメディア
 フランスの経済学者トマ・ピケティ教授の「21世紀の資本論」が話題になっています。アメリカでは半年で50万部が売れたそうですが、685ページもの本がこれほど売れたことに驚きます。「21世紀の資本論」の訳本は「21世紀の資本」として12月に発売される予定。概要は発行元・みすず書房の紹介ページをご覧ください。

 この世界的ベストセラーに対し、ポール・クルーグマンやジョセフ・スティグリッツなどノーベル賞受賞者、ローレンス・サマーズ元財務長官など、大物による絶賛が所狭しと並んでいます。

 ひと言でいえば、本書は資本主義社会における格差の拡大を膨大なデータによって実証し、格差拡大は資本主義経済の宿命であることを示したといわれています。自由な市場においては格差が拡大することは多くの人が感じていたと思います。そのあたりまえのことを実証した点に意味があるのでしょう。

 みすず書房の紹介ページでは「はじめに」の一部を読むことができます(私はここだけ読みました)。その一部を引用します。
『あまりにも長きにわたり、経済学者たちは富の分配を無視してきた。(中略)一部は代表的エージェントなるものに基づいた、単純すぎる数学モデルをあまりにも経済学が崇めてきたせいだ』
『本書の主要な結論とは何だろうか? こうした新しい歴史的情報源からどんな主要結論を私は引き出しただろうか? 最初の結論は、富と所得の格差についてのあらゆる経済的決定論に対し、眉にツバをつけるべきだというものとなる』

 経済学者が富の分配に関心を寄せなかったことを指摘し、そして実証研究によって富と所得の格差についてのあらゆる経済的決定論を疑問視しています。かなり挑戦的な姿勢です。

 現在、ヨーロッパや日本では20世紀初頭と同程度にまで格差が広がっているとされます。二度の世界大戦によるリセット効果と第2次大戦後の強力な所得再分配政策によっていったん縮小した格差は現在、元に戻ってしまったというわけです(これは新自由主義の影響が大きいと思われます)。

 格差が一定以上に拡大すると社会は不安定化すると言われています。このような分厚い本がベストセラーになった背景には、このまま放っておいてよいのかという危機意識や、市場がすべてを解決するといった楽観論に対する疑問が広がっていたことが考えられます。

 また格差や富の分配は極めて重要な問題ですが、経済学者、政治家、メディアの関心が低く、社会の主要なテーマとなっていないことに対する不満があるのかもしれません。 ローレンス・サマーズ元財務長官の「この事実の確立は、政治的議論を変化させる、ノーベル賞級の貢献だ」という言葉はこれが主要な政治的テーマとなる可能性を示すものと受けとれます。

 漠然とした自分の思いを明快に代弁してくれる本があれば読みたくなります。その思いに危機意識が含まれていればなおさらです。この本の背景にはそのような事情もあるのではないでしょうか。また潜在していたものが一冊の本によって顕在化される例としても興味があります。