噛みつき評論 ブログ版

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豊田真由子氏の罪と罰

2020-11-29 22:27:06 | マスメディア
 しばらく前、関東地方は放送エリアでないのだが読売テレビの「そこまで言って委員会」に豊田真由子氏が出演されていた。ごく普通のまともな方という印象で、3年前マスコミに袋叩きにされた暴言家(私の造語)という印象はどこにもない。3年前にマスコミによって作られたイメージとの差があまりにも大き過ぎる。そのイメージに強い悪意があり、報道に影響を受けた人々はマスコミと一緒になって彼女に石を投げた。罪なき者も、罪あるものも。

 豊田真由子氏は政策秘書の男性への暴言・暴行が週刊誌に載った。元秘書は暴行されたと被害届を警察に提出したが不起訴となった。しかし元秘書の録音による音声も公開され、マスコミはこの刺激的なネタに飛びつき、しばらくの間テレビはこの話題一色になった。彼女は東大法学部卒、厚労省、国費留学でハーバード大学、そして衆議院議員というエリートコースを歩んだ方で、そのことが嫉妬を招き、バッシングを一層強くしたこともあると思う。マスコミにはここまでの経歴の人はそういない。マスコミからは羨望を受けたのであろう。そしてマスコミは有能な政治家を葬り去った、寄ってたかって。

 その結果、彼女はどうなったか。婦人公論6月9日号に豊田氏のロングインタビューが載ったので、その概要を紹介したい。その記事の題は
〈独占告白〉「このハゲ~!」騒動から3年・豊田真由子「意識のあるときは、死ぬことばかり考えていた」…終わりのない後悔と絶望にさいなまれ…

 詳細は当記事をお読みいただきたいが、次の言葉が日常の風景を表している。「最初の報道で私はショックを受け、精神科に入院。体重は12キロ減って、意識のあるときは、ずっと死ぬことばかり考えていました。」「もう顔を上げて歩けない」「今でもインターホンが鳴ると、連日メディアにマンションを取り囲まれた恐怖がフラッシュバックし、家族一同、一瞬ビクッと固まってしまう」「あの騒動以降、私は人目を避け、隠れるように暮らしてきました」

 公衆衛生学の知見によりテレビ出演を依頼された今年に3月9日まで、彼女は社会的生命をほぼ絶たれた状況に置かれた。彼女に非がないとは言わない。しかし彼女の元秘書に対する暴言によってここまでの制裁を受けることは実に理不尽なことと思う。まるでマスコミによるリンチである。弱った動物に集団で襲いかかるハイエナのようで見苦しい。04年、鳥インフルエンザの届出の遅れをマスコミに執拗に責められ、浅田農産会長夫妻が自殺するという痛ましい事件があった。自殺者まで出しても、みんなでやったことと誰も責任を取らない。謝罪の言葉すらなかった。

 知人は連日、敵意ある記者らに家を取り囲まれる恐怖を経験し、私はそれを近くで目撃しているので、少しはわかる。単なる記事・報道と、連日すべてのマスコミがトップニュースで取り上げるというのでは質的な違いがある。後者には扇動の意味が加わるのだ。イエスは姦通して捕えられた女を石打刑にしようとする群衆に対して「罪のないものだけが女に石を投げよ」と教えたが、マスコミは罪に関係なくみんな石を投げよ、と教える。イエスは扇動を抑えるが、マスコミは扇動する。そして儲ける。

 洪水のような報道は政治に影響与えることもあれば、人を死に追い詰めることもある。しかも誰も責任を取らない。責任を取らないから無責任な報道がなくならない。これを悪循環という。マスコミに煽られた結果としても、無責任な付和雷同、集団行動はまことに見苦しい。マスコミの言いなりにはならないという矜持を持っていただきたいものである。マスコミの信頼度は決して高くないという認識と共に。

 マスコミの悪口を中心に長い間、書いてきました。一人の人間が書くものには一定のパターンがあり、新鮮味はやがて失われます(もともと新鮮味のないこともあり)。それにいつもよいネタがあるわけではありません。というわけで毎週の更新はここで終了とし、今後は随時更新ということにしたいと思います(いいネタのときだけ)。いままでお読みいただいた方々、誠にありがとうございました。

NHKの動物番組は残酷シーンが大好き

2020-11-22 21:08:55 | マスメディア
 数ヶ月前のNHKの動物番組で、ペンギンの生態をやっていた。海岸からかなり離れた場所に集団の営巣地があり、親たちは餌の魚を求めて海に出かけていく。子供たちは親の帰りを待っている。親たちは魚を採った後、海岸に戻るのだが、水際には多分アザラシだと思られる何頭かの海獣が親たちを待ち受けている。一羽の親が海獣に捕まり、半身が口に入った、と見えたあと、ペンギンは脱出して一旦は逃げたと思われたが、すぐに海獣に飲み込まれてしまう。営巣地には親を待つ子供たちが残される、ということは容易に想像できる。子供に餌を運ぶ親が途中で命を失うのも悲劇だが、残される子供たちにとっても悲劇である。殺される親や残された子供たちの気持ちを考えてしまうのが普通の人の感情である。

 動物番組は子供が観ることが多い。しかしNHKの動物番組には必ずと言っていいほど捕食行動の場面、つまり強い肉食動物が弱い動物を襲って殺す場面が出てくる。恐らく、自然をあるがままに描こうとすると当然そのようなるという考えなのだろう。それが大義名分となるかもしれない。しかし子供が多く含まれる視聴者が相手となると話は別である。子供に残酷シーンやひどいエログロシーンを見せてはならないのはほぼ共通の認識である。弱肉強食の自然を教えてはならない、ということではない。強調し過ぎるのがよくないのである。

 大人にとっても見たくないシーンである。多くの人は殺されて食べられる動物に感情移入するからである。殺して食べる方の強い動物に感情移入して「ああ美味そうだ」と喜んだり、舌なめずりする人は少数であろう。ただ、少数であるが存在することは確かだと思う。

 人間は狩猟で食べ物を得る時代を経験してきた。動物を狩るとき、殺す動物に同情していては生きていけない。同情心が薄い人間もいるだろうし、同情心を覆うほどの残酷な攻撃性を持っている人間もいるだろう。濃淡は様々だがどれも人間が自然に持っている属性である。

 私は長く野良猫の世話をしているが、様々な人間に会う。そのほとんどは好意的であるが、少数の猫嫌いがいる。好き嫌いは変えられないので仕方がないが、文句を言われたり、嫌がらせを受けることがある。理不尽なことを言われた場合、応戦するのだが、たいてい喧嘩になる。恥ずかしいが大声でやって通行人の注目を浴びたりする。しかし良いこともる。派手に喧嘩した相手は二度と私の前に現れない。最も嫌なのは、ごく少数だが動物を遊び心で殺傷する人間である。猫を殺傷する例は身近にないが、シカや水鳥ならある。

 同じ人間に分類されていても中身はさまざまである。優しい人間も残酷な人間もいる。これもあるがままの自然の一部である。ナチスやポルポトが起こした悲劇は残酷な人間が支配した結果だともいえるだろう。自然の弱肉強食を強調して教えたのなら残酷人間をも強調して教えなければならない。動物番組に残酷シーンを登場させたがる人間は少なくとも殺される動物に同情する類の人間ではないだろう。そういう人が教育番組を作っている。捕食の瞬間の映像は撮影が難しく、高い値段が付くに違いない。だが高いからと言って見せるべき映像とは限らない。豊富な受信料収入でそんなものを買ってほしくない。

民主主義の不完全さにつけこむメディア

2020-11-15 21:23:12 | マスメディア
 米国大統領選挙は僅差でバイデン氏の勝利となった。大阪都構想も僅差で反対派が勝利した。僅差で勝利ということは票の半分近くは負けた側のもので、死に票になることである。80対20、70対30程度での勝利なら多数決の仕組みも理解できる(他によい方法がないという意味も含めて)が、51対49などの僅差による決定では約半数の意見が否定されるわけで、釈然としないものがある。しかも一般市民・国民の投票となるとその意見はマスメディアの影響を大きく受けるので、実質的にはマスメディアがキャスティングボートを握っているに等しい。

 マスメディアが賢明であれば問題ないのだが、実際は逆である。2009年に民主党政権を誕生させたのがその証である。この時はキャスティングボートというより選挙の主役を演じた。メディアが選挙を左右する度合いは近年高くなっていると思う。新聞だけの時代ならば影響力は限られていたが、テレビが加わることでほとんど支配的な影響力を持つようになった。

 メディアに求められる不偏不党という大原則は死んだも同然である。メディアの集中的な支配を防ぐためにメディア集中排除原則があるが、クロスオーナーシップ規制がなく、現実には朝日新聞とテレ朝というように、新聞とテレビを同一の資本が支配している状況である。朝日がテレ朝を批判するようなことはなく、メディアの集中が起きている。このためメディアの影響力はより強大になり、世論調査や投票行動を左右する。クロスオーナーシップ規制は大事な問題であり、野党が取り上げてもいいと思うが、その気配もない。

 民主主義、そしてその決定手段としての多数決の実情を見ると不完全だらけである。「これが民主主義的だ」といえば逆らえない風潮があるが、少なくとも現実の民主主義は理想として崇めるようなものではない。チャーチルの「民主主義は最悪の政治形態である。これまで試されてきたいかなる政治制度を除けば」を民主主義の礼賛と理解する向きもあるが、恐らく違うだろう。最悪だが、他よりはいくらかマシ、という意味だと思う。民主主義を崇め、現実を軽視した顕著な例は裁判員制度であろう。無作為に選んだ素人6名が最適な判断ができるというおめでたい話である。こんな非現実的な理想主義者が法曹界やマスメディアに多くいることを危惧する。彼らには偽善の匂いすらする。

 米国大統領選挙では、国民投票によって結果が判明しない場合、下院での投票で決定されるという。これはひとつのアイデアである。もう少し広げて、僅差である場合としてもよい。僅差の場合というのは国民の意志が明確に示されたことにはならない。この場合、議員など、別の集団の判断が適切なこともある。一般国民は被暗示性がないとは言えない。つまりメディアの影響を受けやすい。そこで影響を受けにくいと思われる集団の判断を加えるのである。これは単なる思いつきであるがメディアが有権者に影響力を行使し、政治を左右するという現状を変えようという議論が不思議である。選挙制度やメディア集中排除原則を見直そうという動きがあってもよいと思う。メディア集中排除原則を実のあるものにしようとするとメディアの激しい抵抗に遭うのは容易に想像できるが。

二極対立の構造

2020-11-08 22:19:46 | マスメディア
 米大統領選挙では僅差でバイデン氏の勝利となったようだ。勝因の一つはマスメディアの大半が民主党に味方したからであろう。民主政治に於いてはマスメディアのあり方を再考する必要があるように思う。しかし共和党支持者と民主党支持者の対立は激化し、国を分断までが懸念された。米国は伝統的に二大政党制であり、それは民主主義政治の理想とも言われた。政治的な対立で熱くなって一部では暴力を伴う混乱にまで発展するとはちょっと理解できない。まるで発展途上国のようである。政治というものは科学と違って一直線に進歩するものではないらしい。

 日本は幸運にも有能な野党が存在しないため、米国のような強い対立は起きない。野党が情けないということにも一つくらい良い点はあるものだ。一度だけ民主党が政権を取ったが、みんな懲り懲りとなってしまった。まあカッカと熱くなりやすいかどうかは民族の特性にも関係があるだろうけれど。

 どの社会でも二つに分かれて対立するということはしばしば起きる。そのために様々な分野で、論争が絶えない。論争があればこそ本や雑誌が売れ、執筆者や出版社も儲かる。マスコミもネタを得て潤うことになる。そして読者・視聴者は退屈をしのげる。ここまではいいことなのであるが、さらに対立が激化して混乱を招けば深刻な事態となることもある。

 対立の原因は本や雑誌、マスコミだけの煽りではない。異論に耳を傾けようとしない我々の性向にも原因がある。自分の考えに一致する言説を読んだり見たりするのは気分がいいものだ。自分の正当性を裏付けられるように感じるからであろう。逆に自分の考えを否定する言説は不愉快になり、読もうとしなくなる。そうするとますます自分の考えが純化され、対立を強める方向に進む。妥当な解は両極の中間にあることが多いが、それはしばしば排除される。

 例えば、経済政策では国債をどんどん発行して景気を良くすべきというリフレ派と財政均衡を重視する財政均衡派との長年の対立がある。おそらく両派とも正しくない。国債発行の最適な範囲は両派の主張の中間にあるのだと思う。その範囲の確定が難しいので両極端の議論になるのだろう。現実的な意味のある議論は適切な国債発行額の範囲にあると思うのだが、それは議論にならない。現実的な意味より議論のための議論が重視されるという奇妙なことが起きる。だからこそ学者・評論家のセンセイ方は食べていけるのだが。

 動物は未知の相手に遭遇した場合、まずそれが敵か味方かを判断しなければならない。我々もそのような特性をもっていると思う。敵でも味方でもないという状態はあまり安定がよくないのではないか。どちらかに決めた方が安心すると思う。こんな特性も対立の構造に関係しているのではないだろうか。黒白をつけたがる人間が多い。子供向けの話は善人と悪人が明確である。大人であっても子供に近い人は黒白が明確な話を好む。

 対立している問題があるとき、両派の主張が極端すぎはしないかと疑ってみるとよい。現実的な最適解は両者の中間にあることが多いのだから。

野党の存在理由

2020-11-01 22:07:01 | マスメディア
 政府は携帯電話料金の値下げを打ち出した。この問題は私のような素人でも数年前から繰り返し言及してきた問題で、わかりやすく、かつ重要な問題である。3社の寡占体制では実質的に競争が機能せず、料金の高止まりを許してきた。料金は他の先進諸国に比べてかなり高く、3社の年間営業利益は約3兆円に達していた。これは消費税1%相当額を超える。1世帯あたりの年間携帯電話料金は約10万円となり家計負担も少なくない。

 寡占体制のために実質的な競争がないということは経済政策が不適切であることを示している。わかりやすく、そして国民の負担額を大きく減少するこの料金値下げ問題を野党が何年も取り上げなかったことはなんとも腑に落ちない。特定秘密保護法や安全保障関連法への反対、モリカケ問題の執拗な追及などに忙しく、電話料金などはたかが経済の卑小な問題だと思われたのだろうか。野党は高尚な問題しか興味がないのだろうか。

 秘密保護法や安保関連法案への反対は現実に対する認識に問題があるとしか思えないし、モリカケ問題では1年半もの間、国会の時間を空費しただけで何の結果も出ていない。要するに、野党はやらなくてもいいことだけをやって、必要なことを何もしなかった。その結果が最大野党、立憲民主党の支持率が僅か3.8%(10月の時事通信調査)であることに表れている。当然の結果である。不思議なのは多数の議員が何年も何十年も政治家をやっていながら、どうすれば国民の役に立つのか、国民に支持されるのかということを全く理解していないように見えることである。有能な人が誰もいないのか。

 野党が無能ぞろいで、本来の野党の役割を果たせなければ政治はうまく機能しない。このような野党を育てた左派メディアにも大きな責任がある。携帯電話料金の諸外国の料金を知らせたり、批判をしてこなかったし、安保関連法などの反対を野党と共にやってきた。野党と左派メディアは時代に取り残され、現実を見失った浦島太郎なのである。

 野党が取り組むべき重要な課題はいろいろある。一例を挙げると、医師による自殺ほう助問題である。裁判ではたいていの場合、医師は有罪となる。法律家は苦痛から救う行為より殺人ほう助に目が向くようだ。誰でもやがて死ぬ。その際、強く長い苦しみを味わうかもしれない。あるいは家族などに負担をかけながら絶望的な長い時間を過ごすことになるかもしれないが自分の意志で終了することができない。先進国の中には本人の意思を尊重して、医師のほう助を認めている国が増えつつある。スイスは外国人も受け入れているのでスイスまで行って自死する人もいる。誰もが直面する切実な問題だが、野党はこのような役立つ問題を提起することもできるのである。だが野党が何かに役立ったという話はあまり聞かない。

 野党が確実に残した実績といえば、常に安全保障強化に反対してきたことであり、日本の抑止力はその分低くなった。つまり平和を危うくしただけである。問題は他にも数多くあるが、たまには野党も社会の役に立ってほしいものである。