噛みつき評論 ブログ版

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自国民への歴史的不信感

2016-02-29 09:04:30 | マスメディア
 『権力は油断も隙もない』これは26日の朝日に載った池上彰氏のコラム「新聞ななめ読み」の表題で、高市氏の電波停止発言という小見出しがついています。コラムの冒頭で、「総務省から停波命令が出ないように気をつけないとね」というテレビ局の現場での発言を紹介しています。続いて、

 「高市早苗総務相の発言は、見事に効力を発揮しているようです。国が放送局に電波停止を命じることができる。まるで中国政府がやるようなことを平然と言ってのける大臣がいる。驚くべきことです。欧米の民主主義国なら、政権がひっくり返ってしまいかねない発言です」・・・民主党政権下でも同様の発言があったのに、ずいぶん大袈裟な反応です。

 池上氏は一昨年の慰安婦誤報騒動では朝日を批判した連載記事を差し止められ、朝日とひと悶着ありましたが、今回は一転、朝日側に強く寄り添ったものです。なかなか器用な方とお見受けしましたが、これでは「新聞ななめ読み」より「新聞すなお読み」とした方がよさそうです。

 高市総務相の発言要旨は、
「放送が公益を害し、将来に向けて阻止することが必要であり、同一の事業者が同様の事態を繰り返す」ような場合、
「行政指導しても全く改善されず、繰り返される場合に、何の対応もしないと約束するわけにはいかない」というものです。

 これに対するものとして池上氏は2007年の福田政権での増田寛也総務相の国会答弁を取り上げた朝日の10日付朝刊を紹介しています。
「増田総務相は電波停止命令について、「適用が可能だとは思う。ただ、行政処分は大変重たいので、国民生活に必要な情報の提供が行われなくなったり、表現の自由を制約したりする側面もあることから、極めて大きな社会的影響をもたらす。したがって、そうした点も慎重に判断してしかるべきだと考えている」

 そして「権力の行使は抑制的でなければならない。現行法制の下での妥当な判断でしょう」と池上氏は納得しています。高市発言と増田発言はほぼ同じ内容で、両者とも停止命令は可能という判断です。また正当な理由なくして停波命令を出せば、それこそ政権がひっくり返ってしまうほどの影響があるでしょう。

 メディアの立場として横から口を出されたくないのはわかりますが、この問題では、日本の放送史上初めて、放送法違反による放送免許取消し処分が本格的に検討されたとされる1993年の「椿事件」を忘れてはなりません。日本民間放送連盟の第6回放送番組調査会の会合において、テレビ朝日報道局長の椿貞良は、選挙時の局の報道姿勢に関して、

『「小沢一郎氏のけじめをことさらに追及する必要はない。今は自民党政権の存続を絶対に阻止して、なんでもよいから反自民の連立政権を成立させる手助けになるような報道をしようではないか」
「日本共産党に意見表明の機会を与えることは、かえってフェアネスではない」
との方針で局内をまとめた、という趣旨の発言を行った』(ウィキペディアによる)

 こんな発言が公の場で堂々と行われることに驚きますが、民放連の政治的な立ち位置に加えて、放送業界の驕慢さが感じられます。報道した産経はこれにより1994年度の新聞協会賞を受賞しました。産経の報道がなければこれらは秘密裏に行われたわけで、放送の独善的な政治関与という事実は国民の知らないままになっていたでしょう。

 高市発言に激しく反対する人たちは「椿事件」のようなことをやっても停波命令しないという保障を政府に求めていると理解できます。毎年数万点が刊行される本ならば好きなことを言ってもたいしたことになりませんが、5局しかないキー局のどれかが好き放題をやれば放置は出来ません。それが公共性をいわれる所以です。前にも触れましたが、ルワンダの大虐殺のきっかけを作ったのはラジオ放送局でした。

 また菅政権当時、平岡秀夫総務副大臣は参院総務委員会で「放送事業者が番組準則に違反した場合には、総務相は業務停止命令、運用停止命令を行うことができる」と答弁していたという事実もあります。なぜかこれには朝日も池上氏も触れていません。自説のためには都合の悪いことを伏せる、解釈を都合よく変えるなど、池上氏は朝日にすっかり同調されたようです。

 左派メディアの政府不信は、韓国の朴政権の姿勢同様、もう歴史的なものと思われます。国民が選んだ政権なのですから、自国政府に対する不信は自国民に対する不信であります。左派の方々には人間不信という特質でもあるのでしょうか。

死人に口なし

2016-02-22 09:19:32 | マスメディア
 長野県軽井沢町のスキーバス事故は原因が未解明のまま、マスコミは関心を失ったように見えます。事故に関する報道によって、原因が運転操作にあるかのように思っている人も少なくないと思います。一連の報道を聞いて、ニュートラルであればフットブレーキも効かなくなると理解していた人がいるほど、警察の発表は誤解を生みやすいものでした。

 2月15日に報道された運行記録計(タコグラフ)の解析結果は事故から約1ヵ月も経っていました。以下はNHKで報道された内容です。

『警察が運行記録計の解析を進めた結果、バスのスピードは、転落直前、制限速度のおよそ2倍の時速96キロに達していたということです。さらに運行記録計を詳しく調べたところ、バスは事故現場のおよそ1キロ手前で下り坂が始まってから転落するまで一度もスピードを落とさずに加速し続けていたとみられることが、警察への取材で分かりました。
警察は、運転手がギヤを低速にするなどの適切な操作をしなかったために加速しすぎて制御を失ったとみて、さらに分析を進めることにしています』

 事故原因の調査にきわめて重要な運行記録計の解析結果発表になぜ1カ月もかかったのか、腑に落ちませんが、下り坂が始まってから転落するまで一度もスピードを落とさずに加速し続けていたということは重要な事実です。すべてのブレーキが一度も作動しなかったと考えられるからです。

 低速ギヤのエンジンブレーキ使わなかったのは操作ミスである可能性が強いですが、だからといってフットブレーキをまったく使わないのは理解できません。後部を写した映像からはストップランプが点灯しているように見えます。またハンドル操作は適切に行われていたと考えられ、運転者が正常な状態であったことが推定できます。これらはフットブレーキがまったく効かなくなったことを示しているように思います。

 運転者の適性が低かったとか、大型になれていなかったなどと、原因は運転者の操作にあると思わせる報道がありますが、いくら下手でもフットブレーキくらいは踏めるはずです。「運転手がギヤを低速にするなど」としていますが、それ以前のニュートラルであったと断定していた発表からは後退した印象を受けます。また「一度もスピードを落とさずに加速し続けていた」という事実は原因が車体側にある疑いを強めますが、わざわざ「運転手がギヤを低速にするなどの適切な操作をしなかったために加速しすぎて制御を失った」と、原因を運転手側にあるかのように述べています。論理的にもおかしく、不自然な印象があります。

 そしてブレーキには目立った損傷は見つからなかったという当初の発表のままで、車体調査はその後どうなっているのかまったく報道されていません。事故直後、現場にはタイヤ痕がありましたが、警察は制動によって、つまりブレーキによってできた痕跡であると発表しましたが、これも怪しくなりました。横滑りによるものと見るのが自然です。

 航空機事故や鉄道事故に比べ、17人の死者を出してもバス事故は「格下」になるのか、事故調査には大きな差があるようです。「ブレーキには目立った損傷は見つからなかった」というだけでは納得できず、詳細な検証をすべきだと思います。まあ死人のせいにしておけば、誰も傷つかず、万事うまく収まる、ということなのでしょうか。

清原容疑者逮捕の意味

2016-02-15 09:01:11 | マスメディア
「悪い記者の真似をして、あるいは週刊誌を読みすぎて、進んで情報の味付けをする。そうするのが新聞に対する広報サービスだと思っているらしい、という。同時に、このサービスの裏には警察の点とり主義ということもある。つまり情報の味付けによって記事の扱いが大きくなれば、それが広報担当者ないし警察署幹部の点数になるのである。東京の各警察署は警察記事の切り抜きにはげみ、扱い件数の多さと扱い段数の大きさを競っている。少しでも扱い段数を大きくしようとして「明日の夕刊、紙面のあき具合はどうですか」と記者クラブにたずねてくる広報担当者なども珍しくない。明日の紙面が何か予定があって一杯なら明後日にしよう、というわけである」

 これは「新聞記者 疋田桂一郎とその仕事」215ページにある文章で、1970年代のものです。

 清原容疑者逮捕直後の2~3日、どの新聞もテレビ局もこの事件で埋め尽くされた感があります。上記のような事情が警察にあるとすれば、清原容疑者が逮捕された事件は警察の大手柄ということになります。警察は2年間ほどかけて綿密な捜査をしたとされ、一時期は組織犯罪対策5課が総動員されたと報じられています。

 しかし、この事件は覚せい剤所持容疑ということであり、他の誰かを傷つけたり、被害を与えたりするものではなく、本人が健康を損ね、自滅する可能性があるだけの事件です。彼は密売組織のカモであり、被害者でもあります。それだけに捜査資源を大量に使う警察の方針は疑問です。この事件のために捜査がおろそかになり、他人を害するような重要犯罪が見逃された可能性は否定できません。

 大臣や学長が覚せい剤に手を染めたり買春をやったりすれば、その落差にびっくりし、ニュース価値を持ちます。しかし清原容疑者は優れた選手であったとしても高潔な人格者とは限らす、その意味では意外性はありません。堕ちた英雄としての興味なのでしょうが、少し騒ぎすぎの観があります。影響は彼の子供達にも及ぶでしょう。野次馬達の欲望を満たすための大きな、そして理不尽な代償です。

 有名人が覚せい剤所持で逮捕されれば、覚せい剤使用に対する警鐘となることを期待したのかもしれませんが、逆にあの有名な人がやってまだちゃんと生きているのなら、オレもやってみよう、という負の影響もないとは言えません。

 疋田桂一郎氏が上記の文を書いたのは40年ほど前ですが、現代の警察にも十分通じるようです。警察から特大のニュースネタをもらう立場のメディアが警察の捜査を批判することはなさそうです。警察はポピュリズムに堕することなく、地道であっても、はるかに影響の大きい密売組織への捜査を優先するのがあったりまえ、と思うのですが。

 ついでながら現在の報道にも十分通用する疋田桂一郎氏の言葉を紹介します。
「警察につかまるのは悪人にきまっている。悪人については何を書いてもかまわない、とでもいうのだろうか。このような事件報道が、人を何人殺してきたか、と思う」・・・かつては朝日にも立派な記者がいたようです。

信条により学長解任

2016-02-08 09:00:31 | マスメディア
『昨年の11月、同志社大学で学長選挙があり、現学長の村田晃嗣氏は松岡敬氏に敗れ、再選はならなかった。村田氏は昨年7月、衆院特別委の中央公聴会で「中国が力をつけるなか、日米同盟の強化は理にかなっている」と安保法案に肯定的な意見を述べた。教授や准教授ら教職員有志51人が「良心教育を基軸とした本学のイメージを大きく損なった。心から恥ずかしく思う」との声明を出すなど、学内で批判が高まっていた』(11/7 朝日記事要約に一部補足)

 簡単にいうと安保法案に賛成した村田学長は良心教育に反すると言いたいのでしょうか。つまり安保法案に賛成するものは良心がないとも受けとれます。安保法制と良心と関係、いささか理解できかねます。偉い学者センセイ達がお考えになったことなので難しい意味があるのでしょうけど、浅学の身には理解不能であります。

 選挙という形式は責任の所在が曖昧ですが、ともかく大学の学長が政治的な信条を理由として職を解かれることには違いありません。朝日は小さい扱いですが、この解任について批判的な論調は全くありません。もし逆に左派の学長が安保法案に反対したことで解任されるようなことがあれば、左派のメディァは恐らく大騒ぎするでしょう。

 憲法第14条にはこう書いてあります。「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」

 選挙は専任の教職員らによる投票ということですが、多数の教職員が実質的に信条を理由として差別、解任したわけです。解任の主謀者や賛成した教職員には憲法違反の疑いがあります。恐らく今後は安保法制に賛成するような人が学長になることはなく、大学の政治的傾向も決まると思われます。こんなところに、憲法に保障された学問の自由があるのでしょうか。

 これが大学という公共財であるから問題だと思うわけです。ここでは良心教育=安保法制反対だそうですから、学生達にもそういう教育がされる心配があります。

 注目したいのは教職員有志が学長の政治的信条を理由とする声明を堂々と出して選挙を左右したことです。憲法の理念に抵触するようなことを堂々と声明に出す世界があることに驚きました。自分達の考えが絶対的に正しいと考えておられるのでしょうが、それは怖いことです。相対的な見方を排し、絶対的に信じるのは宗教と左翼思想の特徴ですけれど。

審議拒否とストライキ

2016-02-01 09:09:19 | マスメディア
 1975年11月26日から8日間、国鉄のほとんどの列車が動かなくなりました。公労協が行ったスト権ストと呼ばれるもので、政府にスト権を要求するものでした。結局、政府は拒否しましたが、国民生活に膨大な不便と損害を与えてしまいました。公労協は自分達の要求を通すために国民を人質にとったと評されました。これを強く支持したのは当時の最大野党、社会党です。犠牲になったのは無辜(むこ)の国民というわけです。テロリストは敵国政府を直接攻撃せず、罪のない国民を殺害して政府に要求を通そうとします。両者は通じるところがあります。

 甘利経済再生担当大臣が辞任に追い込まれました。甘利氏の政治的功績は周知の通りで、国家・国民にたいする貢献は多大です。メディアは現金の授受があったとし、鬼の首を取ったかのように報道していますが、辞任は恐らく国に不利益をもたらすでしょう。辞任の記者会見を見ましたが、邪心ある人物には見えず、辞めなければならないほどの理由があるとは思えません。最大の理由はご本人の言葉通り、国会の審議に影響を与え、国政の停滞を招いてはいけないからなのでしょう。

 国政の停滞をもたらすとは、野党が甘利氏への追求に終始して他の法案の審議が止ることです。それは国会のもっとも重要な機能が失われることであり、その結果、最終的に不利益を受けるのは国民です。国会のための巨額の経費も無駄になります。甘利氏の閣僚辞任後も野党はまだ追求すると言っていますが、それは国民の利益を無視し、自党の利益だけを考えているように見えます。

 国会の時間をさらに費やして、議員辞職まで追い込んだところで、どれ程の意味があるのか、理解出来ません。しかしメディアが味方になって政治とカネの問題だと大騒ぎしてくれれば、与党のイメージを損ない、野党に有利に働きます。つまり審議拒否などの戦略はメディアの支持があってこそのものです。

 2009年の民主党政権誕生の前、自民党議員の事務所経費についての疑惑が浮上しました。疑惑の人物は絆創膏を顔に貼っただけでも騒がれる程、事務所経費はメディアの注目を浴びました。あの鳩山民主党政権の誕生はその結果であるとも言えます。メディアはまだ懲りずに民主党政権を望んでいるのでしょうか。

 野党とメディアが一緒になって国政を遅滞させることはストで電車を止めるのと同様、国民の利益を損なう行為でもあります。本来の野党の役割である法案の審議や対案の提出をおろそかにしては困るわけです。それが野党の長年の体質かもしれませんが。

 国鉄のストは国民の強い批判を浴びたせいか、以後、輸送機関のストは減ってきました。与党の不祥事があると野党は審議拒否することが当然の慣習のようになっていますが、迷惑を蒙るのは国民であり、国民の批判を浴びるということになるべきです。ストのように被害が見えにくいことが理解を難しくしているのですが、それにつけ込んでいるのが左派メディアなのでしょう。

 叩けば多少の埃が出るが有能な政治家と清潔だが無能な政治家、どちらが国民のためになるかと問われれば、私はためらいなく前者と答えます。メディアには重箱の隅をつつくような、甘利氏の違法疑惑を厳しく批判する論調ばかりが目につきますが、いささか形式的過ぎるように思います。