偽善者という言葉は最近あまり見かけなくなりました。この懐かしい言葉を思い出したのは最近亡くなった著名なニュースキャスター某氏の遺族による所得隠しを知ったからです。
遺族は相続遺産をめぐって税務調査を受け、約5千万円の所得隠しが明らかになりました。隠されていたのは海外口座の資産で、仮装・隠蔽にあたると指摘されたそうです。海外口座を使う方法はかなり素人離れしているように思います。
所得隠しの当事者はむろん某氏ではなくご遺族ですが、某氏は自身が肺ガンであることを公表後、1年半ほど生存されていますから脱税工作を「指導」する時間はあったと思われます。むろん可能性があるというだけの話です。
万一、所得隠しが某氏の意図によるものならば、表と裏の使い分けの見事さに驚きます。常々不祥事や犯罪を厳しく指弾されてきたお姿とご自分の所業とのコントラストは実に鮮やかです。そのわりにはこの事件の報道は控えめであったように感じられます。マスコミの内輪の問題には配慮があるのでしょうか。
強い影響力のある人物が表では格好よく正論を吐きながら、裏では違法行為を行うことは言行不一致であり、非難を免れません。しかし正論の普及に役立つという点に関しては、存在の意味があるという見方もあります。まあ「盗人にも三分の理」といいますから、その通りですが、誠実で信用ある人物という評価はできません。
前置きが長くなりましたが、推測だけで某氏を批判することがこの話の目的ではありません。私の興味は偽善という言葉がなぜあまり使われなくなったか、ということです。
悪人と言われるよりも偽善者と言われる方が嫌な気がします。偽善者は悪人でありながら善人のふりをするわけですから、悪人に不正直さがプラスされます。こんな理屈を捏ねなくても偽善はずるさ、不誠実と表裏一体とされ、あまり貼られたくないレッテルです。
かつては倫理や道徳は今よりも存在感があり、少なくともそれが建前として重視される社会であったように思います。しかし戦後、日教組が道徳教育に強く反対したことからもわかるように、倫理や道徳は社会の片隅に追いやられた感があります。正義という言葉は子供向けのテレビ番組でしか使われなくなり、大人が口にするのは恥ずかしいと感じるような風潮すら生まれました。それにしても日教組やその同調者が戦後の文化に与えた影響はすごいですね。
偽善者とは倫理や道徳という建前に忠実であるように見せかける人間ですから、建前が弱体化すれば、見せかける必要も少なくなります。建前がしっかりしていなければ偽善は鮮明なイメージをもつことができません。偽善という言葉が廃れたのはこんなところにもあるのではないでしょうか。
国民や国家のために働くと見せて、実は私利や権力欲のために働く政治家は偽善者の代表のような存在です。鳩山由紀夫氏は現役の首相でありながら6億円もの贈与を申告せず、平成の脱税王と呼ばれましたが、彼はスーパースター級にランクされるでしょう。不誠実さを表す数々の嘘はその裏づけとなると思われます。
日本のマスコミは政治家の女性スキャンダルには厳しいのですが、なぜかこのような偽善に対しては鈍感で、寛容な気がします。私はむしろ逆であるべきだと思います。政治家には偽善がつきものであるという慣れと諦めの結果なのかも知れませんが。
偽善という観点から人物を見直すのもなかなか面白いと思いますが、その背景となる倫理や道徳の衰退にもう少し関心が向いてもよいと思います。東日本大震災では、外国では普通とされる略奪などが起こらず、日本人の行動が賞賛されました。
外国に言われて初めて気づいたというわけですが、これは永年にわたって培われた精神風土の結果であり、我々はこのようなものにちょっと無関心になりすぎていたように思います。
遺族は相続遺産をめぐって税務調査を受け、約5千万円の所得隠しが明らかになりました。隠されていたのは海外口座の資産で、仮装・隠蔽にあたると指摘されたそうです。海外口座を使う方法はかなり素人離れしているように思います。
所得隠しの当事者はむろん某氏ではなくご遺族ですが、某氏は自身が肺ガンであることを公表後、1年半ほど生存されていますから脱税工作を「指導」する時間はあったと思われます。むろん可能性があるというだけの話です。
万一、所得隠しが某氏の意図によるものならば、表と裏の使い分けの見事さに驚きます。常々不祥事や犯罪を厳しく指弾されてきたお姿とご自分の所業とのコントラストは実に鮮やかです。そのわりにはこの事件の報道は控えめであったように感じられます。マスコミの内輪の問題には配慮があるのでしょうか。
強い影響力のある人物が表では格好よく正論を吐きながら、裏では違法行為を行うことは言行不一致であり、非難を免れません。しかし正論の普及に役立つという点に関しては、存在の意味があるという見方もあります。まあ「盗人にも三分の理」といいますから、その通りですが、誠実で信用ある人物という評価はできません。
前置きが長くなりましたが、推測だけで某氏を批判することがこの話の目的ではありません。私の興味は偽善という言葉がなぜあまり使われなくなったか、ということです。
悪人と言われるよりも偽善者と言われる方が嫌な気がします。偽善者は悪人でありながら善人のふりをするわけですから、悪人に不正直さがプラスされます。こんな理屈を捏ねなくても偽善はずるさ、不誠実と表裏一体とされ、あまり貼られたくないレッテルです。
かつては倫理や道徳は今よりも存在感があり、少なくともそれが建前として重視される社会であったように思います。しかし戦後、日教組が道徳教育に強く反対したことからもわかるように、倫理や道徳は社会の片隅に追いやられた感があります。正義という言葉は子供向けのテレビ番組でしか使われなくなり、大人が口にするのは恥ずかしいと感じるような風潮すら生まれました。それにしても日教組やその同調者が戦後の文化に与えた影響はすごいですね。
偽善者とは倫理や道徳という建前に忠実であるように見せかける人間ですから、建前が弱体化すれば、見せかける必要も少なくなります。建前がしっかりしていなければ偽善は鮮明なイメージをもつことができません。偽善という言葉が廃れたのはこんなところにもあるのではないでしょうか。
国民や国家のために働くと見せて、実は私利や権力欲のために働く政治家は偽善者の代表のような存在です。鳩山由紀夫氏は現役の首相でありながら6億円もの贈与を申告せず、平成の脱税王と呼ばれましたが、彼はスーパースター級にランクされるでしょう。不誠実さを表す数々の嘘はその裏づけとなると思われます。
日本のマスコミは政治家の女性スキャンダルには厳しいのですが、なぜかこのような偽善に対しては鈍感で、寛容な気がします。私はむしろ逆であるべきだと思います。政治家には偽善がつきものであるという慣れと諦めの結果なのかも知れませんが。
偽善という観点から人物を見直すのもなかなか面白いと思いますが、その背景となる倫理や道徳の衰退にもう少し関心が向いてもよいと思います。東日本大震災では、外国では普通とされる略奪などが起こらず、日本人の行動が賞賛されました。
外国に言われて初めて気づいたというわけですが、これは永年にわたって培われた精神風土の結果であり、我々はこのようなものにちょっと無関心になりすぎていたように思います。