噛みつき評論 ブログ版

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偽善者

2011-07-28 10:43:47 | マスメディア
 偽善者という言葉は最近あまり見かけなくなりました。この懐かしい言葉を思い出したのは最近亡くなった著名なニュースキャスター某氏の遺族による所得隠しを知ったからです。

 遺族は相続遺産をめぐって税務調査を受け、約5千万円の所得隠しが明らかになりました。隠されていたのは海外口座の資産で、仮装・隠蔽にあたると指摘されたそうです。海外口座を使う方法はかなり素人離れしているように思います。

 所得隠しの当事者はむろん某氏ではなくご遺族ですが、某氏は自身が肺ガンであることを公表後、1年半ほど生存されていますから脱税工作を「指導」する時間はあったと思われます。むろん可能性があるというだけの話です。

 万一、所得隠しが某氏の意図によるものならば、表と裏の使い分けの見事さに驚きます。常々不祥事や犯罪を厳しく指弾されてきたお姿とご自分の所業とのコントラストは実に鮮やかです。そのわりにはこの事件の報道は控えめであったように感じられます。マスコミの内輪の問題には配慮があるのでしょうか。

 強い影響力のある人物が表では格好よく正論を吐きながら、裏では違法行為を行うことは言行不一致であり、非難を免れません。しかし正論の普及に役立つという点に関しては、存在の意味があるという見方もあります。まあ「盗人にも三分の理」といいますから、その通りですが、誠実で信用ある人物という評価はできません。

 前置きが長くなりましたが、推測だけで某氏を批判することがこの話の目的ではありません。私の興味は偽善という言葉がなぜあまり使われなくなったか、ということです。

 悪人と言われるよりも偽善者と言われる方が嫌な気がします。偽善者は悪人でありながら善人のふりをするわけですから、悪人に不正直さがプラスされます。こんな理屈を捏ねなくても偽善はずるさ、不誠実と表裏一体とされ、あまり貼られたくないレッテルです。

 かつては倫理や道徳は今よりも存在感があり、少なくともそれが建前として重視される社会であったように思います。しかし戦後、日教組が道徳教育に強く反対したことからもわかるように、倫理や道徳は社会の片隅に追いやられた感があります。正義という言葉は子供向けのテレビ番組でしか使われなくなり、大人が口にするのは恥ずかしいと感じるような風潮すら生まれました。それにしても日教組やその同調者が戦後の文化に与えた影響はすごいですね。

 偽善者とは倫理や道徳という建前に忠実であるように見せかける人間ですから、建前が弱体化すれば、見せかける必要も少なくなります。建前がしっかりしていなければ偽善は鮮明なイメージをもつことができません。偽善という言葉が廃れたのはこんなところにもあるのではないでしょうか。

 国民や国家のために働くと見せて、実は私利や権力欲のために働く政治家は偽善者の代表のような存在です。鳩山由紀夫氏は現役の首相でありながら6億円もの贈与を申告せず、平成の脱税王と呼ばれましたが、彼はスーパースター級にランクされるでしょう。不誠実さを表す数々の嘘はその裏づけとなると思われます。

 日本のマスコミは政治家の女性スキャンダルには厳しいのですが、なぜかこのような偽善に対しては鈍感で、寛容な気がします。私はむしろ逆であるべきだと思います。政治家には偽善がつきものであるという慣れと諦めの結果なのかも知れませんが。

 偽善という観点から人物を見直すのもなかなか面白いと思いますが、その背景となる倫理や道徳の衰退にもう少し関心が向いてもよいと思います。東日本大震災では、外国では普通とされる略奪などが起こらず、日本人の行動が賞賛されました。

 外国に言われて初めて気づいたというわけですが、これは永年にわたって培われた精神風土の結果であり、我々はこのようなものにちょっと無関心になりすぎていたように思います。

菅首相は、普通の人の能力以下の人

2011-07-25 11:34:11 | マスメディア
「菅首相は、普通の人の能力以下の人」

 7月11日朝のTBSテレビで、島田晴雄千葉商科大学長はこう発言されたそうです。また、「菅首相は、自分がいなければ日本がダメになると信じているため、余計に危険。困った人を(首相に)選んだ」とも。

 たいへん勇気ある発言で、実は私もそう思っています。島田氏は実に正直な方のようです。一般に「普通の人の能力以下」といった正直な言葉は非礼とされます。相手を傷つけるから非礼なのでしょう。しかし傷つく心配のない鈍カンな相手ならこれくらいがちょうどよいともいえます。

 島田氏が菅首相を批判したのは、菅首相の主導で決まった原発ストレステストについてのようです。定期点検中の原発はストレステストが済むまで再稼動を認めないという政府の方針は私も理解できません。

 原発を運転する条件としてストレステストが即必要というのなら、それは現在稼動中の原発にもあてはまる筈です。すぐにすべての原発を停止してストレステストを実施しなければ辻褄が合いません。逆に時間的な切迫度が低ければ、再稼動させて運転中の原発と同じ条件でストレステストを行えばよい理屈です。なぜ運転中の原発はそのまま継続を認め、定期点検中の原発だけに第一段階のストレステストを運転の条件とするのか、その根拠がわかりません。

 稼動中の原発はストレステストをしなくても安全で、休止中の原発は安全でないとどうしていえるのでしょうか。定期点検後に稼動する原発の安全性が稼動中の原発より劣るとは考えられません。点検によって安全性はむしろ向上していると考えられます。

 ストレステストは机上のシミュレーションであり、稼動中でも停止中でも同様に可能です。だから休止したついでに、という理屈は通らな筈です。それに原発の安全がかかっている重要な問題に「ついで」などという理由はあり得ないでしょう。

 不思議に思うのは、マスコミがこのストレステストの論理矛盾を指摘したり、菅首相に説明を求めないことです(私が知らないだけかもしれませんが)。権力の監視役を自認するマスコミが政策の明らかな矛盾に沈黙するようでは、首相が情緒や気まぐれで政策を決めることを後押ししていることになります。

 この唐突なストレステストも例によって菅首相の浅薄な思いつきによるものらしいのですが、電力危機を招きかねない迷惑度は巨大であります。島田氏の「本当に困った人を選んだ」は万人が納得するでしょう。

 1年で職を投げ出す坊ちゃんの二世首相も困ったものですが、皆に辞めろと言われてもしがみついて辞めない非坊ちゃん首相はそれ以上に困りものです。困った人を一旦選ぶと、簡単に辞めさせることができず、その巨大な迷惑は長期間続くという怖い事実を改めて知りました。

究極のクールビズ・・・南方熊楠

2011-07-21 10:27:51 | マスメディア
 和歌山出身の博物学者、南方熊楠(みなかたくまぐす)は人並み外れた能力の持ち主であったようで、終生、在野の研究者として博物学、生物学、民俗学において大きな足跡を残したと言われています。南方熊楠記念館にある「熊楠の生涯」に紹介されている彼の生涯は大変興味深いものです。一部を紹介します。

「幼い時から驚くべき記憶力の持ち主で歩くエンサイクロペディア(百科事典)と称された反骨の世界的博物学者。19才の時に渡米、粘菌の魅力にとりつかれ、その研究に没頭、サーカス団に入ってキューバに渡るなど苦学しながら渡英。その抜群の語学カと博識で大英博物館の東洋関係文物の整理を依頼される。一方、科学雑誌「ネイチャー」に数多くの論文を発表。また、孫文と知り合い意気投合、以後親交を結ぶ。33才で帰国、紀州は田辺に居を構えると精力的に粘菌の研究に打ち込み、その採集のため熊野の山に分け入り、数々の新種を発見。 一切のアカデミズムに背をむけての独創的な学問と天衣無縫で豪放轟落な言動は奇人呼ばわりされたが実はやさしい含羞の人であり、自然保護運動に命をかけて闘いぬいた巨人であった」・・・南方熊楠記念館より

 その熊楠は暑い時期、家の中では素っ裸で過ごし、来客のときもそのままで応対したらしく、私は汗かきなので家の者に負担をかけぬよう裸でいる、と客に説明したという話を物の本で読んだ記憶があります(女性の客にも裸で応対したかは不明)。植物の採集のため山野を歩き回るときはさすがに裸ではなく、日本の伝統的衣装、フンドシをつけていたといわれています。まあ究極のクールビズです。

 「肩書きがなくては己れが何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない」と言葉からはアカデミズムを小バカにした熊楠の強い自信がうかがえます。常識から外れた裸の生活は文化という鎖に囚われない熊楠の自由な思考と強い自信があったならばこそ可能であったのだと思われます。

 並みの人間にとって、裸やフンドシで生活することは恥ずかしくてとてもできないことです。その場にふさわしい服装が文化によって規定されていて、我々は無意識的にそれに束縛されているからです。

 相撲取りのフンドシ姿には違和感を覚えなくても、フンドシひとつで外を歩くことは並外れた勇気が必要です。ビキニや海水パンツで街を歩くことも同様です。公然猥褻罪に問われることはないのに、そのような人間がほとんど現れないのは、文化による拘束がとても強力であることを示しています。熊楠はその点からも例外的な人間であったようです。

 場と服装との組み合わせが見慣れたものでないとき、我々は違和感を覚えます。それは文化による拘束の結果ですが、これは時代と共に変化します。現在の女性の肌の露出度を百年前の人が見ればさぞ驚くことでしょう。ただ、衣服の文化は保守的であり、変るのには長い年月を要します。頭の硬い高齢者は変化を受けつけ難く、抵抗勢力になるのでしょう。

 数十年後、クールビズの必要性が高まれば、フンドシが夏の街着となる可能性が全くないわけではありません。まあフンドシ男で、すし詰めの電車など、余計に暑苦しく、あまり心地よいものとは思えませんが。

 ・・・夏の夜話でした。

電球色LEDは蛍光灯に及ばない・・・誤解の理由

2011-07-18 13:27:58 | マスメディア
 LED電球の販売量が急増し、量販店ではこの6月、すべての電球に占めるLED電球の割合が43%となり、白熱電球を超えてトップとなったそうです。LED電球は節電効果が優れていると広く信じられているので、これは当然の成行きかと思われます。

 しかし電球色のLED電球の場合、同じ電力での明るさは電球型蛍光灯に及ばないことはほとんど知られていません。それはマスコミが報道しないからであり、報道しないのはマスコミが知らないからでしょう。

 一般的なLED電球と電球型蛍光灯の消費電力と全光束(明るさ:単位はルーメンlm)は以下の通りです(代表的なメーカーP社の最新型の例)。発光効率とは単位電力あたりの全光束で表され、値が高いほど優れた光源です。

        消費電力(W)    全光束(lm)    発光効率(lm/W)
電球型蛍光灯   10       810       81.0
LED電球     9.2       650       70.7
LED電球     7.2       390       54.2 (広配光角型)
白熱灯       54        810       15.0 (60W型)

 もっとも発光効率が高いのは81.0 lm/Wの電球型の蛍光灯で、次が一般型のLED電球は70.7lm/W、最近発売された全方向に明るい広配光角型LED電球は54.2 lm/Wとかなり劣ります。将来はともかく、現状では電球型蛍光灯がもっとも優れています。

 昼光色のランプに関してはLED電球が電球型蛍光灯より発光効率が1割ほど優れているものもありますが(劣るものもある)、白熱電球の代替として使われるのは主として電球色のランプと考えられるので、LED電球は節電効果がもっとも優れているという誤った認識は少なからぬ影響を与えるものと思われます。消費者の多くは発光効率が高く低価格の電球型蛍光灯より、効率が低く高価なLED電球を選択しているというわけです。

 現在、LED電球の明るさの表示は全光束を表すルーメン(lm)に統一されています。箱には消費電力(W)と共に650ルーメンといった全光束の表示があり、発光効率は全光速を消費電力で割ればよく、中学生でも簡単にわかります。

 LEDは節電効果がもっとも高いという粗雑で単純な認識を広めたのはマスコミです。彼らは、節電の重要性を連日のように訴え、節電のための知識を熱心に「教授」してくださるのですが、その前にもう少しだけ勉強されたらよろしいのではないかと思います。

 上記は、マスコミが簡単なキーワードを広めることによって、ひとつの単純な潮流が出来上がる例だと言ってよいでしょう。「規制緩和」が流行したとき、メディアは規制の悪い例をあちこちから探し出してきて、規制はすべて「悪」のような印象をふりまきました。

 複雑なことを黒か白かというように単純化すれば、誰にもわかりやすく、大きい流れを作ることが可能でしょう。しかし粗雑な単純化は問題であり、誤った潮流を作ることになります。

 節電効果は科学・技術に関することであり、マスコミの完全不得意科目なので、少し特殊なケースだと思われるかもしれません。しかし正確な報道をするという最小限度の職業倫理と中学生程度の理解力があれば、たとえ不得意科目であっても、正しく伝えることができたと思われます。

理念を優先すると原理主義になる

2011-07-11 09:50:39 | マスメディア
 上海の研究者が震災後の日本を「国民は一流、官僚は二流、政治家は三流」と言ったことが話題になっているそうです。国民が一流かどうか知りませんが、少なくとも政治家は三流という評価には深くうなづけるものがあります。

 経済は一流、政治は二流と言われて久しく、二流政治・二流政治家の低能ぶりをボヤく議論は腐るほどあっても、その状況を改めるための具体的な提案はあまり見かけません。仕組みを変えず、マスコミがボヤくだけで改まると考えるのは楽観的すぎるというものでしょう。

 三流政治家は選挙で選ばれるわけですから、選挙制度を議論することはごく自然なことと思われます。民主党政権が政権交代という甘い言葉に騙されたマスコミの加担によって生まれたように、投票に影響を与えるものにはマスコミがありますが、この体質は変え難く、今は触れません。

 そこで検討すべきは選挙制度ということになります。ごく一部に小選挙区制の是非を問う議論がありますが、選挙制度に関する議論は一般に低調です。選挙は投票によって人を選ぶ制度ですから、投票者が人を正しく評価できることが前提になります。現在の制度は個々の投票者は様々でも投票者全体としては正しい判断ができるという前提に立っていると思いますが、これはかなり怪しいもので、昨今の政治状況はその証でありましょう。

 人、つまり立候補者を正しく評価するのは簡単ではありません。私自身は若いとき、世間も知らず、人を評価する能力もないに等しいものでした。選挙権は与えられたものの、それに値する能力があったとは思いません。新興宗教やイデオロギーに簡単に乗せられるのもこの若い世代の特徴で、宗教やイデオロギーに基づく政党は好んで勧誘のターゲットとします。世間や人を知った中年以上は簡単に騙せないからです。

 私は選挙権の下限年齢をもっと引き上げてもよいと思っているし、判断力の優れた投票者を公平に選別できるような方法があれば制限選挙も検討されるべきだと考えます。民主主義は目的ではなく手段であるわけで、民主主義を多少曲げてもよりマシな政治が実現できるなら、それもありでしょう。

 しかし制限選挙などというと、歴史に逆行してるとか、民主主義の否定だとかの強い非難を浴びるので誰も言い出せません。皮肉にも民主主義についての硬直的な態度が思い切った改革を妨げていると言えそうです。民主主義は完成したが、政治は最悪ということもあるわけです。衆愚政治という言い方もあるように。

 『民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば』というチャーチルの有名な言葉は民主主義を盲信する者に対する警告と受けとることができます。チャーチルの時代にも盲信者はいたようです。ところが日本の戦後教育は民主主義を過度に美化して教え、その風潮は今も根強いものがあります。

 民主主義への信仰は裁判員制度にも見られます。国民から選ばれた6名の裁判員は民主主義を具現するものかもしれませんが、素人が被告人を正しく裁けるかどうかの配慮は軽視されています。判断力の優れた人が6名集まる場合もあれば、逆の場合もあります。このバラつきは無視されるばかりか、知的障害者の参加までも奨励されています。裁判の本来の機能より形式的な理念が優先された、倒錯した例であると思われます。

 〇〇主義の理念といったものは基本的な考え方や方向性を説明するには便利なものですが、これはあくまでガイドラインと理解すべきであり、これを信仰のように理解すると話がややこしくなります。信仰の域にまで達するとそれは原理主義者と呼ばれ、逆にあまりいい加減だとご都合主義者と呼ばれます。どちらも困ったものですが、どちらが迷惑かと問われれば原理主義でしょう。大雑把ですが、スターリンやポルポトの例はイデオロギーの持つ迷惑の巨大さを示しています。

 世の中は複雑であり、単一の思想や主義で問題が解決できると考えるのは確かに魅力的ですが、現実にはまずあり得ないことです。我々の頭はこういうものに騙されやすくできているのは確かなようです。だからこそ学校で、思想や主義は相対的なものであり、限界や欠点があることを、時によっては危険なものであることを子供達にしっかりと教えてはいかがでしょうか。

民主党の個性的すぎる面々

2011-07-07 10:24:50 | マスメディア
 礼を知らない、立場の自覚がない、発言の反応を予想できない、品性がない。

 このうちひとつでも該当すれば政治家としては危ういでしょう。しかし松本前復興相の発言を聞けば、松本氏はすべての特質を兼ね備えた稀代の人物のように思えます。

 宮城県知事との会談の模様を伝えた東北放送のニュース番組は発言のニュアンスまでよく伝わって、上記の印象となりました。その伝達能力は発言を文字で伝えるだけの報道をはるかに凌ぎます。

 いち早く放送した東北放送の姿勢には敬意を表したいと思います。この報道を見て、私は、かつて主要紙が軍部に屈服した後、果敢にも軍部に抵抗した地方紙、信濃毎日新聞や福岡日日新聞を思い出しました。

 私の知る限り、他局がこの問題部分を放送したのはかなり遅れたように思います。テレビが大好きな、極めてスキャンダラスでニュース価値の高いものであったのに、すぐに放送しなかったのは松本氏の「これを書いた社は終わりだから」という恫喝に情けなくも屈したためではないかという疑いを拭えません(松本氏は解放同盟の副委員長であり、その言葉を重く受止めた?)。

 共産党の小池晃・前参院議員は松本氏を次のように述べています。
「内容も口調も人間として最低。大臣はもちろん国会議員の資格なし」
「『書いたら終わりだぞ』というマスコミ恫喝は、解放同盟の地金が出たものでしょう」(7/6 Jcastニュースより)
小池氏の遠慮ない批判は解放同盟が共産党の宿敵であるからでしょう

 まあそれはさておき、松本氏の辞表提出に対して菅首相は慰留したといわれます。慰留するということは松本氏はそれでも復興相として適任であり、依然として評価しているということですから、任命者の菅氏もまた凡人の理解を超越した人物ということになりましょうか。そして菅氏は民主党の中ではもっともリーダーにふさわしい優れた人物として首相に選ばれた人物でもあります。ということは民主党全体が我々の理解を超越しているということになりませぬか。

 一方、民主党前議員の梶川ゆきこ氏が「復興利権がほしくてヨダレを垂らし、腹を空かせて待ってる狼ども」などと宮城県知事側を批判し、松本氏を擁護しています。この梶川ゆきこ氏なる人物は「東日本大震災は、アメリカの地震兵器HAARPが起こした」とか「福島原発が爆発したのは空母ロナルド・レーガンから発射された小型核によるもの」などのトンデモ発言で知られているそうです(参考)。

 他にも国会でUFOを取り上げた山根隆治民主党議員、9.11テロはアルカイダによるものではなく、米政府の捏造だという説を信じ、国会で質問した藤田幸久民主党議員など、民主党には極めて個性的な議員が存在します。民主党にトンデモ本を持ち込めばきっとよく売れることでしょう。

 前首相は宇宙人と称されていましたが、これは人間社会の常識から大きく逸脱していることを示しています。芸術やサーカスならば個性豊かな人が多いのは好ましいことですが、国会議員は国民を指導する人々であり、首脳部も含めここまで奇人変人が多くてはいささか心配になります。

 彼らを生んだのは今の選挙制度であり、選挙民であることを改めて考えてみる必要がありそうですね。

榊原英資氏の奇妙な論理

2011-07-04 10:12:09 | マスメディア
 榊原英資氏は民主党のブレインとも言われ、政策にある程度の影響力をお持ちの方ですが、復興財源捻出のための国家公務員給与の削減は二重の意味でナンセンスである、というちょっと変った意見を述べておられます(6/7 朝日新聞)。

『まず日本の国家公務員数は人口千人あたり12.6人とイギリスやフランスの4分の1。そして公務員の人件費も対GDP比でOECD諸国中で最低の6%と、アメリカやイギリスに比べて2分の1程度。
 このうえ公務員の人件費を削減する必要が本当にあるのでしょうか。実は、日本が先進国中跳び抜けて大きいのが国会議員や地方議員の歳費。国会議員の総歳費は180億円と欧米先進国の倍以上。地方議員はもっとひどく都道府県議会議員の平均年収は二千万円以上でアメリカの州議会議員400万円の5倍以上』

 日本の国家公務員の人口あたりの人数は英仏の4分の1、そして対GDP比での人件費は英米の2分の1程度、ということは各国のGDPがほぼ同じだとすると大雑把ですが日本の国家公務員は1人あたり英米仏の約2倍の給与をもらっているということになりませぬか。

 日本の国会議員や地方議員の歳費が欧米に比べ高いのはその通りなのでしょうが、ここは復興財源捻出の話なので、捻出可能な額が問題なのです。国家公務員の総人件費は8.6兆円(05年 日本郵政を含む)であるのに対し、国会議員の総歳費は180億円であり、地方議会議員の歳費を加えても到底及びません。ナンセンスなのはどちらでしょうか。

 総額がはるかに小さい議員歳費を問題にして、巨額の国家公務員の人件費を無視するとは、何を考えておられるのかさっぱりわかりません。示された数値からは、逆に公務員の給与を英米仏並みにすれば8.6兆円の半分、4.3兆円が復興に回せるとも受けとれます。これならばとても貴重なご意見だと思いますが、まさに薮蛇です。労働組合側にとっても有難迷惑でしょう。

 また、榊原氏は国の債務は1000兆円まで大丈夫だとして、より多くの国債発行を主張されている方です。財政規律を軽視する立場であり、民主党政権になってからの国債残高急増と整合します。

 しかし、この榊原氏のご意見にケチをつけるのが私の目的ではありません。朝日という大新聞になぜこのような凡人の理解を超えるような記事が載るのか、ということが気になるのです。朝日に掲載された有名人の記事ということであれば、多くの読者は信用します。

 朝日には「声」という投稿欄がありますが、そこでは「市民」の原文の大半を入れ替えるような強力な編集が行われることがあります。ところが「権威者」の文章は内容がでたらめでもそのまま掲載されることをこの記事は示しています。

 学者センセイなどの権威に頼るということは、自ら真偽を判断する能力がないことの証明です。あるいは次の記事を書いてもらうための打算のせいかもしれません。いずれにしても読者にとってはたいへん迷惑なことであります。

(追記) 読者の方からご指摘をいただいたので、一部訂正します。
平成19年度わが国の国家公務員は59.1万人、地方公務員295.1万人合計354.2万人:人口千人当たり、27.7人であるとのご指摘です。従って国家公務員は千人あたり4.5人となるので、榊原氏の「人口千人あたり12.6人」という数値はどれにも該当しません。
 また国家公務員の人口比と公務員人件費のGDP比が並べられているため、「公務員」という表現を国家公務員を示すものと誤解してしまいました(従って1人あたり英米仏の約2倍の給与をもらっているという解釈は誤りです)。そもそも国家公務員給与の削減というテーマに対して、国家公務員の人口比と公務員全体の人件費のGDP比を並べる意味がわかりません。