噛みつき評論 ブログ版

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学校で株売買のシミュレーション授業・・・子供に博打を教える?

2008-11-27 09:29:02 | Weblog
 実際の株式市場の値段をもとにして、株取引のシミュレーションゲームを授業でやっている中学校、高校が1400校もあるそうです。数ヶ月間にわたる授業で、生徒達は『仮想所持金(1,000万円)をもとに、実際の株価に基づいて模擬売買を行い、ゲーム期間終了時の保有株式の時価と所持金残高の多寡により投資成果を競います』と説明されています。

 この株売買の教材を提供するのは証券業界の利益代表である日本証券業協会と東京証券取引所グループです。株に関する数冊の解説書などもすべて無料提供で学校側の負担はありません。証券業界は将来、元がとれると踏んでいるのでしょうが、株の持つ負の側面もきちんと説明した中立的な教材なのでしょうか。

 これを紹介したのが11月22日のNHK子供ニュースです。子供に見せる以上、NHKは株取引教育によほど肯定的な評価をしているのでしょう・・・私には理解できませんが。

 番組で、「株を通して、世の中の動きや経済の仕組みを知るきっかけになったとみんな言っていたよ」とあるように、そのような利点は否定できません。しかし株の売買シミュレーションゲームによって、株を売買する人間を増やすことこそが証券業協会らの目的であり、私にはその副作用が気になります。

 株の取引には投資と投機の両面があり、その境界は曖昧です。しかし意識としては、ほとんどが値上り益を狙った投機といえるでしょう。事実上、博打とほとんど変わりません。まして数ヶ月間で売買を繰り返して成果を競うゲームは短期売買の投機そのものです。そして子供に博打部分だけを取り除いて教えることは不可能ですから、ここに二つの問題が生じます。

 第一に、株取引に対する心理的な抵抗が低くなることで、将来証券会社と取引する者が増加すると思われます。一部はネットでの取引を選ぶでしょうが、証券会社の窓口へ向かう人も少なくないと思います。彼らが証券会社の営業攻勢に耐えられるでしょうか。恐らく、大半の人は営業の意のままにされることでしょう。生半可の知識で、営業の攻勢に対して意思を貫くのは大変困難です。

 第二は生徒の価値観への影響です。勤労を通じて社会に価値を提供し、その対価としての所得を得るのが社会の基本です。モラルの基礎になるものであり、これがないと社会は成り立ちません。投機による所得(キャピタルゲイン)を肯定的に教えることは、勤勉に働く意欲を低下させる危険があり、社会の基盤を揺るがす恐れがあります。この問題については拙論「カネを儲けてなにが悪い?」をご参照下さい。

 株や商品の自由な市場は必要です。しかし投機資金の参入は流動性を高めるという利点がある反面、大小のバブルを生み暴騰や暴落を招きます。近頃の株式市場や原油市場、穀物市場が示すとおり、投機には正と負の両側面があります。資本主義経済の仕組みをよく理解した上での株売買ゲームならともかく、知識の乏しい子供に学校で教えるべきものではないと思います。

 株価は経済成長と人口増加に沿って上昇傾向を続けてきました。しかし89年のバブル最高値3万8915円を頂点に低落傾向が続き、19年間後の現在は8千円台です。東証一部の時価総額も89年末の590兆円が08年10月末には279兆円になっています。総額が増加していく時代は既に過去のものになりそうです。今後は恐らくゼロサムゲーム、誰かが得をすれば誰かが損をする博打と同様になるでしょう。

 リーマン破綻まで「貯蓄から投資へ」という風潮がありました(参考:「貯蓄から投資へ」に騙されないために)。米国中心に起きた信用膨張を金融業の輝かしい成功と思い込み、官民あげてその風潮を支持しました。学校で株取引を教えるというこの企画もその軽薄な風潮に乗ったものだと思います。証券業界の思惑に乗せられ、株売買の実情を十分理解せずして教育に導入した1400校の関係者とNHKの見識こそ問われるべきでしょう。

 この株売買授業は各学校の裁量で採用されたものだと思いますが、そうであれば学校が授業内容を自由に選択できるという仕組みにも疑問を感じます。

看護師自動監視装置・・・勤労者受難時代

2008-11-24 09:05:47 | Weblog
 働く人間にとって厳しい時代を迎えつつあるようです。11月20日頃の朝、NHKで放送された看護師の行動監視装置には驚きました。知識科学研究所が開発しているその装置は、看護師に取り付けられた複数のセンサーが手洗、点滴、針の挿入などの動作を検出して、無線で中央のコンピューターに送り、記録するものです。むろんモニターによってリアルタイムで見ることもできます。

 徹底した管理が可能になって、ミスが減り、また事故の原因究明にも有効かもしれません。しかし、いくら安全のためとは言え、一挙手一投足まで監視されるのは気の毒な気がします。それでなくとも病院勤務はきつい仕事です。

 ミスは少ないほどよいのは当然ですが、ゼロにすることはできません。ミスの率がゼロに近づくほど、その経済コストと従事者の負担は等比級数的に大きくなると考えられますから、どこかに妥協点を求める必要があります。命が何よりも優先というきれい事だけでは解決しない問題です。

 ミスの減少効果と看護師への負担を考量すると上記の監視装置はちょっとやりすぎのように思います。不足気味の看護師がさらに少なくなって、医療体制そのものが危うくなるかもしれません。消費者の要求水準の高さが生産者・サービス提供者(以下、生産者とします)に強い負担を強いているのは医療だけではないと思います。さらに食品の偽装表示、医療事故などは過大な報道によって倒産や失業に追い込まれかねないので、当事者でない生産者も緊張を強いられることになります。

  労働者健康福祉機構医療事業部は勤労者の相談を受け付けています。相談を分類した結果によると05年から07年の3年間で増加が目立つ相談は職場環境(75.1%増)、仕事の質的負荷(40.0%増)で、全体の増加率24.3%を上回っています。

 一方、厚生労働省の「脳・心臓疾患及び精神障害等に係る労災補償状況について」によると、過労死等の事案である脳血管疾患及び虚血性心疾患等と精神障害等の件数は03年から07年かけて増加傾向を示しています。増加率を下に示しますが、精神障害は2倍以上になっています。

        脳・心臓疾患   精神障害等
請求件数      25.5%      113.0%
決定件数      20.9%      138.8%
支給決定件数   24.8%      148.1%

 これらは職場でのストレスが強くなっていることを示唆するデータに過ぎませんが、周囲で見聞きすることと符合するように感じます。むろんその理由はメディアだけでなく、競争の激化によるところが大きいと思います。

 供給が過剰気味の社会では商品やサービスの選択権は消費者にあり、消費者は強い立場です。それをメディアがさらに後押ししたのが現在の姿だと思いますが、社会を支えている勤労者に対する配慮が少なすぎはしないでしょうか。

 生産者が有用な商品やサービスを適正な価格で提供することは社会にとって非常に重要なことですが、メディアがそれを評価することはあまりありません。しかし問題が起きたときは特別大きく報道します。この非対称性は生産者に対するイメージを悪化させます。

 生産者に対して感謝の気持をもつ人より、金を儲けさせてやっているんだと思う人の方が多いのではないでしょうか。物を買うとき「ありがとうございます」と言うのはたいてい生産者の方です(医療は例外)。苦労して物を作ったりサービスを提供する人が感謝されるのではなく、それを享受する人が感謝される、これは逆のような気がします。「水を飲むときは井戸を掘った人の苦労を思え」という毛沢東の言葉が日本の教育に必要なのかもしれません。

 生産者と消費者は重なっている部分がありますが、消費者としての満足度が如何に高くても、仕事の苦労が大きければ相殺されます。労働時間の長さでも日本は先進国中でトップクラスです。見方によっては、消費専業の人、つまり働かない人が優遇される奇妙な社会と言えるでしょう。

 とはいうものの、勤労者に優しい職場も一部にはあるようです。以下は社会保険庁の端末入力作業に関するかつての労使協定の一部です。
◎「窓口装置を連続操作する場合の1連続作業時間は、50分以内とし操作時間50分ごとに、15分の操作しない時間を設ける」
◎「窓口装置の1人1日のキータッチは、平均5000タッチ以内とし最高10000タッチ以内とする」
◎「端末機の操作にあたり、ノルマを課したり、実績表を作成したりはしない」
 5000タッチというと20~40分で出来る量で、実に羨ましい職場です。ここで5000万件の記載漏れが起きたそうです。

民主主義信仰

2008-11-20 07:36:12 | Weblog
 前回、社会科学の不完全性という観点から市場原理主義に触れました。今回は同じ観点から民主主義について考えたいと思います。

 但木敬一前検事総長は裁判員制度について次のように発言しています。 「(裁判官と裁判員の協働)作業の結果、得られた判決というのは、私は決して軽くもないし重くもない、それが至当な判決であると・・・」(論座07/10月号)

 「至当な判決」と断じる裏には、国民が参加して決定することはすべて正しいという考えがあると思われます。その国民とはくじ引きで偶然選ばれる6名です。6名の素人が参加する判決がどうして至当と言えるのか私には理解できません。

 司法制度改革の目的は司法に民主主義を実現することとされました。しかし、なぜ司法に民主主義が必要なのかという点には十分な説得力のある説明はなかったようです。民主主義は疑問の余地のない理想であって、司法にも導入することが当然とされていたように思います。

 民主主義の理念は優れたものに見えますが、現実に適用される民主主義制度は数多くの欠点を抱え、他の制度に対する比較優位があるに過ぎません。「民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば」というチャーチルの言葉は消去法によるやむを得ない選択を意味します。

 民主主義では、多くの決定は多数決によるので、少数の意見は否定されます。そして多数意見が正しいという根拠は明確ではありません。またヒットラーは民主的なワイマール体制から生まれ、わが国でも横山ノック知事のような前代未聞の人物も民主的な選挙によって選ばれました。少々レベルが違いますが。

 民主主義の理想を謳った名文には魅力的なものがありますが、「信仰」の対象ではありません。民主主義は欠陥を多く含むものであり、その有効性と適用範囲を理解することが必要です。民主主義を水戸黄門の印籠にすべきではないと思います。

 前検事総長の見識は司法制度改革審議会の意見書の趣旨と一致しており、審議会では民主主義が印籠の役割を果たした観があります(少なくとも建前としては)。民主主義を至高のものと考え、実現の努力をする方々はそれを正義と心得てのことでしょう。しかし 山本夏彦氏は述べています。「汚職は国を滅ぼさないが、正義は国を滅ぼす」と。

 司法にまで国民主権を実現する必要があるというのなら、第四の権力であるマスメディアの編集部にも国民を参加させる、あるいは編集部員を公選制にすべきであるという考えも成立するのではないでしょうか。

 市場原理主義も民主主義も理念を表すのに便利な言葉ですが、詳細が理解されないままスローガンとして社会に蔓延すると、限界や適用範囲が考慮されず、社会に悪影響を与えることに注意したいと思います。 民主主義や人権主義などは反対を封じる効果的な印籠であり、建設的な議論を抑えるのにしばしば用いられます。

書評『ソロスは警告する』・・・超バブル仮説とは

2008-11-17 09:21:43 | Weblog
 現在の金融危機の背景を知るのに好適な本であります(原題はTHE NEW PARADIGM FOR FINANCIAL MARKETS)。ジョージ・ソロス氏は米有力ヘッジファンドの運用者として、1兆3000億円ともいわれる資産を築いた人物で、著書「ソロスの錬金術」「グローバル資本主義の危機」「ブッシュへの宣戦布告」「世界秩序の崩壊」は世界的なベストセラーになりました。

 本書はこの春に書かれたものですが、今回の金融危機を予測していることに驚きました。また巻頭には7月下旬に書かれた松藤民輔氏による解説文がありますが、その中に、株価は8月中旬から10月にかけて、再び20~30%の下げの可能性があるとされていますが、これもほぼ的中しています。

 ソロス氏は、今回の金融危機は彼が「超バブル」と名づけた巨大バブルの崩壊過程のはじまりと捉えます。超バブルは米国の住宅バブルと区別される、市場原理主義者が育てた巨大かつ複雑な信用膨張であるとし、超バブルの生成の背景が、わかりやすく説かれます。問題の所在を的確に捉えた説得力のある説明です。ここで注目したいのは彼が自由な市場そのものが持つ不安定さを指摘している点です。市場に全幅の信頼を置く、市場原理主義を強く批判します。

 自由な市場では、何らかの原因で価格が上がれば、価格上昇が需要を抑制すると共に供給の増加を促すことで価格は下がる方に向かい、やがて均衡値に収斂すると理解されています。つまり価格が需給を調整し、安定化するという前提で市場は成立します。ところが彼は「価格が上昇すれば買い手が集まり、価格が下がれば買い手が逃げ出すのが市場なのだ」と、正反対のことを主張します。それは商品市場、株式市場、通貨市場を少しでも観察すれば価格変動における正のフィードバックの方が一般的な姿であるということは明らかだとします。

 最近の原油価格や穀物価格、通貨価格の急激な変動を見ると、ソロス氏の説明にも納得がいきます。また彼は市場の不安定さの理由として独特の「再帰性」理論というものを提示します。簡単に言うと市場参加者の行動が市場に影響を与え、それがまた参加者に影響を与えるというフィードバックがあるため、市場の動向を予測するのは不可能であるということです。

 また、次の記述は大変興味深いものです。
「市場原理主義者は有害さにおいてマルクス主義の教義に劣らないというのが私の考えだ。マルクス主義も市場原理主義も、世間に受け入れられようとして科学を装うが、どちらが産み出す理論も現実による検証には堪えないものである」

 これに続く記述は少しわかりにくいのですが、ソロス氏は社会科学に自然科学と同じ方法を用いることの危険を指摘しています。社会現象は操作可能であるため、理論に限界があるためとされますが、これは社会科学の理論の不完全性のためであると、より広く理解してもよいと思います。

 私見ですが、市場原理主義など、なんとか主義というのが多く存在します。○○主義の根拠になる理論は、複雑な社会現象を扱う限り、自然科学の理論のように精緻なものではあり得ません。したがってそこから得られる解はせいぜい確率的なものであり、適用範囲も限定されるのが普通です。市場原理主義のように、それがひとつのイデオロギーとなると、過大評価され、本来の限界を超えて適用される危険があります。これは市場原理主義だけでなく、他の○○主義についても言えることであり、注意する必要があると思います。

 一部の関係者によって今回の危機は100年に一度のものだといわれていますが、それは超バブル説を裏付けているようにも受けとれます。超バブルが存在するなら、それが崩壊する過程で大きな混乱が予想されます。今後の関心は崩壊がソフトランディングできるかどうかになるでしょう。

朝日新聞の読者を欺くテクニック・・・誇張はどこまで許されるか

2008-11-14 18:07:19 | Weblog
 11月11日付朝日新聞一面トップは自社の世論調査の結果です。『内閣支持率下落 37%』との見出しと、支持率の変化を表したグラフが載っています。一見すると麻生内閣の支持率が大きく低下しているように見えます。

 上のグラフは朝日に掲載されたもので内閣支持率の変化が大きく描かれ、下のグラフは同じデータで作った不作為のグラフで、変化は小さく見えます。朝日のグラフは縦軸の35%から下が圧縮され、縦軸の表示範囲は35%から50%の15%だけになっているため変化が誇張される仕組みになっています。僅か15ポイントの変化で下限から上限に達します。また赤はポジティブなもの、青はネガティブなものを表すのが一般的ですが、朝日の色は逆で、支持が青、不支持が赤になっており、奇妙な印象を受けます。不支持を赤として目立たせたいのかも知れません。あるいは朝日にとっては不支持がポジティブなのでしょうか。

 変化を正しく表すのは下のグラフです。例えば、不支持率が38%から41%に変わったことを表示するにはそれぞれ0から38、0から41という縦軸方向の長さで表さなければなりません。0からの高さの比で変化率を読み取ることができるわけです。朝日式のグラフでは縦軸の限られた部分だけを表示し、さらにそれを縦方向に引き伸ばすことで、グラフの傾斜は任意に大きくすることが可能です。つまり変化の度合いを好きなように見せることができます。

 この表示方法は差を強調する場合に広く使われていますが、事実を正確に表示するのには向きません。誤解されるのを承知で使う場合は欺瞞と言ってもよいでしょう。

 一方、同時期に実施されたNHKの世論調査によれば、麻生内閣の支持率は前月に比べ「支持する」が3ポイント上がって49%、「支持しない」は4ポイント下がって40%となっていて、朝日の調査とは数値が大きく異なり、傾向も正反対の方向を示しています。

 「支持する」は朝日の37%に対しNHKは49%と12ポイントの大差があります。8月に行われた主要5社による支持率調査では最大で17.3ポイントもの差がありました(参照)。1000人を超えるサンプル調査の誤差としては考えられないほど大きいものであり、その理由はわかりませんが、とにかく信頼できないことは確かです。せめて他社の調査と差があること、誤差の可能性を併記するのが誠実な態度と言えるでしょう。

 他の調査との差が大きいこと、つまり信頼性が低いことを隠したまま自社の調査を、それも誇張して一面トップに掲載すれば、読者は誤った認識をもってしまいます。一流紙のすることでしょうか。このような小細工を重ねる「努力」の集積が読者信頼度の低下を招いていると考えられます(朝日新聞の読者信頼度、3位転落)。テレビやネットより速報性で劣る新聞にとって、信頼度は最も重要なものです。

 調査は9月末から5回行われ、月3回のペースです。電話で聞きとった1000人程度の意見をこれほどの頻度で大々的に報じれば、わかりやすく短期的な政策が重視され、政治から長期的な視点が失われる恐れがあります。頻度が高すぎること、記事が誇張されていること、そして数値自体が信頼できないことを考えると、害の方が勝るのではないでしょうか。

不景気を増幅するマスコミという装置

2008-11-10 08:49:00 | Weblog
 ついこの間まで米国の証券ビジネスの繁栄の影響を受け、メディアでは「貯蓄から投資へ」(参照)、「お金に働いてもらう」などという言葉が幅を利かせていました。それがリーマンの破綻を境にして急に影を潜め、代わりにメディアを支配したのが、金融資本主義の限界や終焉などという議論です。メディアの論調は一瞬に逆転した観があります。

 リーマン後のメディアはネガティブなニュースで占められています。株価の下落はより大きく、上昇はより小さく報道される傾向があります。銀行間金利が10%程度まで上昇したニュースは大きく報じられ、危機前の水準に戻ったという明るいニュースはあまり目立ちません。受け手の期待もあるのでしょうが、暗いニュースの方が優先されるようで、言わばメディアは色のついた情報のフィルターなのです。

 しかしこのメディアの負の傾斜が人々の心理をいっそう暗くします。経済は心理と密接な関係があります。暗いニュースばかりに接していると必要以上に悲観的になり、企業の投資意欲が低下し、消費にも悪影響が出ます。株も皆が悲観的になり下がると思えば下がります。メディアの報道の偏りが景気の谷をいっそう深くするように働くものと思われます。

 逆にバブルの成長期にはメディアは逆のほうへ傾斜するように思います。日本のバブル絶頂期には、メディアは「財テク」を流行語にし、株価や地価の高騰を報じ、毎週株式投資のシミュレーションを載せたりして、投機・投資を煽り、また高級品の消費を促進する報道をしました。このときはバブルの山を一層高く押し上げるのに大きな役割を果たしたと思います。しかし残念なことに、財テクは富を生まず、国を豊かにするものではないという経済の基本的な認識がメディアには欠如していました。

 今回の金融危機に至るまでに、それを予想する議論がなかったわけではありません。メディアが取り上げなかったのは、それを重要なものとして認識するだけの見識がなかったためでしょう。一例ですが、著名な投資家、ジョージ・ソロスは今春出版された彼の著書で、過剰な信用膨張を「超バブル」と呼び、その崩壊を明確に予想しています。

 著書を読むと、これはソロスの天性の勘というべきものではなく、優れた認識・分析能力によるものであることが感じられます(彼は自由な市場のおかげで1兆3000億円という莫大な財を築きながら、以前から市場経済が本来的に持つ不安定性を指摘し、自由な市場を批判している変わった人物です)。ソロスだけでなく、一部の人は過大な信用膨張がいずれ崩壊するという冷静な認識をもっていたのではないでしょうか。破綻前に莫大な退職金を持って逃げた証券幹部はかなり前から知っていたと思います。

 メディアにそこまでの先見性を求めるのは無理だと思いますが、メディアの偏った報道は経済変動の波をより拡大する方向へと働くことに注意したいと思います。変動の小波を大波に、大波を津波に変えるのがメディアの仕事である、というのは言い過ぎでしょうか。

ソーカル事件の教訓・・・裸の王様は生きている

2008-11-06 16:29:20 | Weblog
 1996年に起きたソーカル事件をご記憶の方もあるかと思います。私が知ったのは最近なのですが、非常に興味深いものなので簡単に紹介したいと思います。

 ニューヨーク大学物理学教授だったアラン・ソーカルはポストモダン・ポスト構造主義の思想家達が物理学や数学の用語をよく理解もせず誤用し、難解で意味のない言説を弄していることに対し、ある悪戯を実行しました。彼は物理学や数学の用語を使ったパロディー論文を作り、一流誌である「ソーシャル・テキスト」誌に送ったところ、見事に掲載されました。すぐにソーカルはそれがでたらめの論文であることを発表し、大騒ぎになったのがこのソーカル事件です。でたらめ論文が、同分野の研究者達によるチェック(査読)をパスして一流誌に掲載されたわけで、チェックシステムの信頼が失われ、フランス現代思想への強い批判となりました。

 難解な哲学思想のいい加減さを指摘したソーカルはさらに1997年、数理物理学者ジャン・ブリクモンとともに「知の欺瞞」を著し、その中でラカン、ボードリヤールなどの著名な8名の思想家を批判します。いま読み始めたばかりですが、楽に読める本ではなさそうです。

 このフランス思想(「利己的な遺伝子」で思想界にも衝撃を与えたリチャード・ドーキンスは高級なフランス風エセ学問と呼んでいます)は高級なものと思われていたが、実はそれほどのものではなかったというわけです(私自身は理解していませんのでなんとも言えませんが、少なくともなくては困るものではなさそうです)。まあこれは別格としても、難解と思わせることで権威を高めようとする文章にはよく出会います。

 若い頃、哲学書に限らず難解な文章に出会って苦労された方は多かろうと思います。そして理解できないのは自分の頭が悪いせいだ、と思われた方もおられることでしょう。私にも経験があり、知人からも同様のことを聞いたことがあります。無駄に時間を費やした上、劣等感まで頂戴したわけです。もっとも私の場合、文章のせいでなく読解力が原因ということも多かったと思いますが。

 立花隆氏は若い頃、カントの著作を読んでもさっぱりわからなかったが、後年ドイツ語を習得して、原文で読むと実に簡単に理解できたと書いています。訳者は読者に理解させることを目的にしたのでしょうか。それとも訳者が理解しないまま翻訳したのでしょうか。とにかく、読んでもわからない本が売れ続けるという不思議な現象があったように思います。

 少し意味合いが違いますが、裁判の判決文は極めて長く、二重否定や三重否定を多用する読みづらい文が中心で、とても一般の理解に配慮したものとは思えません。これも一般人には難解な世界を築くことで権威を維持する効果があるのでしょう。また法曹以外からの雑音を封じるという意味があるのかもしれません。

 話を戻しますが、「知の欺瞞」に対する有力な反論はまだないそうです(日本語版への序文)。それにしても世界中で出版されるほどの影響力を持つ「高級な」フランス思想に重大な「欺瞞」の蔓延があり、部外者であるソーカルが指摘するまで、それが表面化しなかったという事実に驚きます。人文科学には曖昧さがつきものという事情を考慮したとしてもです。

 そこには、高級思想を理解できないと言えばバカだと思われるかもしれないという思いがあったのでしょう。皆わかったふりをしていただけで、高級思想はまさに裸の王様であったということになるのでしょうか。音楽や絵画など「高級」な世界では、わかったふりが偽物を育てることは珍しくないように思います。

日本の所得格差やや縮小とOECD発表・・・新聞が黙殺した「不都合な真実」?

2008-11-03 09:08:04 | Weblog
『「日本、所得格差やや縮小」
 世界の主要国と比べた日本の所得格差は中ぐらいで、1990年代半ば以降の10年間ではほかの国での格差拡大とは対照的に日本では格差がやや縮まったことが経済協力開発機構(OECD)が21日発表した格差分析リポートでわかった。企業のリストラなどで家計の実質所得が減るなかで、格差拡大が抑えられたとみられる』

 上記は10月22日の日経に掲載された記事の一部ですが、格差は拡大していると思っていた読者にとっては大変意外な内容です。ところがこの記事は他紙には見当たりません。OECDと所得格差をキーワードにグーグルでニュース検索すると日経以外の一般紙はなく、CNN Japan、マイコミジャーナル、47NEWSのネットニュースがヒットします(赤旗もありましたが、一般紙とはいい難く、記事も発表の主旨から大きく外れているので論外とします)

 検索結果を見る限り、他のすべての新聞は報じなかったようです。OECDの発表はマイコミジャーナル(2008/10/23)に詳しく載っています。「日本の所得格差、過去5年間で縮小に転じる--OECD調査」と題する記事の要点は

○日本を含む4分の3以上の国が過去20年間で格差が拡大
○日本のジニ係数は0.321で世界平均をわずかに上回った
○日本は過去5年ではやや改善されたことを示している
○貧困水準(所得分布の中央値の2分の1未満で生活する人の比率)で日本は4番目に高い
○報告書ではこうした日本の格差の原因のひとつとして、急速に進行する高齢化社会を挙げている。

となっています。ジニ係数は単一の数値だけで表される大雑把なものです。それで見る限り、僅かに格差縮小が見られますが、貧困率の高さなど、決して楽観できるものではないことを示しています。しかしこの発表には従来の認識に修正を迫る部分があることも事実です。

 所得格差の動向はいま注目されている問題であり、発表機関は信頼性のあるOECDです。ニュース価値が低いとは思えません。少なくとも紙面を華々しく飾る殺人事件よりも価値があるでしょう。OECDの発表をわかりやすく解説し、他の資料をも含め、格差の変化を理解できるようにするのが新聞の役割だと思います。

 今まで格差拡大と書きまくった新聞がOECDの発表を掲載をすれば、一貫性を問われことになるのかも知れません。あるいは格差縮小を求める動機が弱くなることに配慮したのかも知れません。

 しかしどんな理由であれ、重要なことを隠蔽する姿勢は納得できません。事実を報道し、読者に評価を委ねるのが本来の報道のあり方であり、新聞の価値判断に基づいて情報を恣意的に選別して、読者を「指導」する姿勢はいい加減にやめるべきでしょう。

 新聞が読者に比べ賢明だというなら「ご指導」にも一理がありますが、なかなかそうは信じられません。農政ジャーナリストの中村靖彦氏は次のように述べています。「テレビ・新聞から食品偽装についてコメントを求められることが多いが、記者連中の基本的な知識の欠如に驚くことがある」・・・ほんの一例ですが。