噛みつき評論 ブログ版

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「タダ乗り」を目指す若者たち

2010-02-25 10:55:11 | Weblog
 「チーターとガゼルの競争する姿の優雅さは、双方の祖先たちにおける膨大な血と苦しみの犠牲によってあがなわれたものである」(R・ドーキンス「 悪魔に仕える牧師」より)

 説明するまでもありませんが、数億年の時を、厳しい環境や生存競争にさらされながら受け継がれてきた生物が払った代償の大きさを述べたものです。チーターとガゼルでなくとも、すぐ近くにいる猫や犬でも同様です。

 現在は飽食暖衣の時代と言われますが、それを実現した文明も一朝一夕でできたものではなく、払われた代償は膨大です。吉村昭氏の「高熱隧道」は1936年に着工された黒部川第三発電所の建設工事を描いたもので、優れた記録文学ですが、その大きな代償の一端を知るためにも好適な書物です。

 貧弱な電力事情の改善という国家的使命を受け、おびただしい犠牲を出しながら進められる工事の模様は凄絶です。160度を越す隧道内での放水を浴びながらの作業や、泡(ほう)雪崩によって鉄筋コンクリートの宿舎が数百メートル先の対岸まで飛ばされ、多数の犠牲者が出るなど、想像を超える内容です(私は現在の豊かな環境が決して「自然に」できたものではないということを知らせるために、この本を子供達に読ませています)。

 前置きが長くなりましたが、これからが本題です。ご紹介したいのは新卒採用で入った会社を5ヶ月で辞めた青年によって書かれた「脱近代宣言」という一文です。取り上げたのは、これが若年世代に見られるひとつの典型的な考えだと思うからです。リンク先を見るのが面倒な方のために一部を抜粋します。

 『 ヒーターの電源をONにして、ベッドの上で藤子不二雄の「まんが道」を読む。手を伸ばせば届く場所にはパイの実とアイスコーヒーがある。今日中に8巻までは読む。時間はいくらでもある。昼まで漫画を読み続けて、それから好きなだけ寝るつもりだ。

 先月会社を辞めた。上司が体育会系でパワハラが辛かったとか、細かいことをねちねちと言われたとか、残業代が付かなかったとか、休みが全然なかったとか、理由を問われるといくらでも答えるが、本音を言うと「早起きして会社なんか、行きたくねえ。俺のペースでゆっくりさせろ」というところだ。

 ニート支援だとか、フリーター対策だとか、馬鹿か。いちいち気にさわる。年寄りが自分の理解出来ない価値観に拒絶しているだけにしか見えない。俺からしてみたら、こんなに快適な生活はないのに。

 俺の父親は、朝5時に起きて、犬を散歩させ、朝ごはんを食べるとバスに乗って会社に行く生活をもう30年以上続けている。

 それでも、俺には朝5時に起きて毎日同じ電車に乗って会社に行く生活は出来なかった。なんだってそんなキツイ思いをしなければならないのだ。それをしなくても、生きていけるのに。自分ひとりは。

 年寄りの悪口も、政治家の嘘も、もうどうでも良い。おまえらはおまえらでがんばれ、俺たちは、俺たちで各自ひきこもって勝手にやるよ。頭しぼって不老(注:不労?)所得で気楽に暮らす。最高じゃないか。何が悪いのか全く分からない。いずれ沈没の船に乗り込んで一生懸命延命考えている奴らの気がしれん。ヒャッハ 』

 実はこのような考え方は目新しいものではありません。私にも若い頃はこれに近い感覚がありました。夏目漱石の「こころ」に出てくる高等遊民とも通じるところがあります。これらに共通するのは社会を自分の外側の存在として見ることです。つまり自分を社会を構成する一員とは考えないわけです。

 子供じみた甘えとも言えるでしょうが、要するに「タダ乗り」を目指すものであり、ここからは社会の役割の一部を担うという積極的な気持ちは起こりません。「公」と「私」、ということで言えば「私」に大きく偏った考え方です。

 まあこのような考え方はいつの時代にもあったと思いますが、このような考えの人間の比率が大きくなれば社会の維持は困難になります。この考えが生まれる理由は単純ではないと思いますが、戦後の教育も強く影響しているように思います。

 私は戦後の教育を受けました。中学校では「私」の権利の重要性や上下関係の否定を教えられたことは覚えていますが、「公」に関することは記憶がありません。私の受けた教育は過去の忌まわしい戦争を否定するあまり、歴史の連続性の結果として現在があるという考え方、現在が祖先たちの膨大な犠牲によってあがなわれたものだという考え方が希薄であったように思います。

 数世代が一緒の住む大家族制から核家族制に移行したことも、歴史の連続性の中に自分を位置づけるという認識が薄くなっている理由でしょう。このような連続性の中に位置づけるという考えには賛否両論があることは承知していますが、少なくとも上記のような「私」に偏った人間、「タダ乗り」を是とする人間の比率を減らすのには有効であると思います。

就職氷河期への無策

2010-02-22 09:26:32 | Weblog
 今年の新卒者は就職氷河期並みの厳しい状況にあると言われています。若者が社会に出るとき、不景気のために安定した職に就けない者が大量に発生するのはたいへん大きいな問題です。本人にはどうすることもできない景気という偶然に左右されることは彼らには納得し難いことでしょう。日本の雇用慣行の下では新卒時の就職の失敗は後々まで大きく影響することも深刻です。

 就職できないということは彼らには社会の「席」が用意されないということです。社会が彼らに居場所を用意することはもっと優先されてもよい課題ではないでしょうか。数百人が集まった派遣村騒動は華々しく報道され社会問題となりましたが、非正規雇用増加の原因のひとつでもある就職氷河期の問題はより大きく、かつ深刻だと思われます。

 あたりまえのことですが、社会は分業で成り立っています。社会の成員がそれぞれの役割を担うことによって社会は維持できるわけです。就職先がないということは、新しく社会に参入してくる若者に対して「君にやってもらう役割はないよ」と言うに等しいことです。

 仕事に就けないということはフリーライダー(タダ乗り)になることです。社会の役割を担うことなく、他人が作った家に住み、他人が作った服を着て、他人が作ったものを食べる、ということにならざるを得ません。フリーライダーが多数になれば社会は成り立たないわけで、社会に出たばかりの人間にタダ乗りを強いることは教育上好ましくないだけでなく、彼らの社会に対する信頼を失わせます。まして彼らに社会を構成する個としての自覚を期待することは困難でしょう。そして社会がフリーライダーを強いる以上、タダ乗りはいけない、と言えなくなります。

 新たに社会に参加する若者に仕事を配分することはもっと優先されるべき課題だと思われます。不景気だから仕方がない、で済まされることではありません。雇用助成や求人側と求職者のミスマッチ解消のための教育訓練の拡充など、その気になれば子供手当ての数分の一の予算でもできることは多くあると思います。

 民主党は選挙第一主義で、集票が最優先とされています。これはテレビの視聴率最優先と似ています。双方とも目指すところは目先の人気取りであり、票や視聴率に関係ないものは捨てられます。

 高校卒業者は18歳前後であり、もともと票にならず、大卒者は選挙権があるものの組織されておらず集票の対象としての価値が低いため、民主党政府にはあまり期待できません。この問題に光を当てることができるのはマスメディアしかないと思いますが、事件性もなく面白くもないのでこれも期待薄というところでしょうか。もっとも、ことの重要性を認識することが前提ですが。

流言は智者に止まる

2010-02-18 10:09:29 | Weblog
 「流言は智者に止(とど)まる」。智者は根拠のない流言を次へ伝えず、さらに広まることはない、という意味で、伝聞を吟味せずそのまま伝えることの愚かさを言いたかったのでしょう。裏返しにすれば、流言は愚者の口コミによって広まる、となりましょうか。

 これは荀子の言葉だそうですが、この言葉が今日まで生き続けてきているということは、教育が普及した現代でも社会は昔とたいして変っていないことを示しています。

 携帯電話を使うと脳腫瘍になりやすい、カロチンを多く摂ると肺ガンを予防できる、水からの伝言、など、現代の流言は無数に存在します。荀子流に言うとこれらの流言は愚者によって伝えられているというわけです。

 トヨタのリコール問題では、トヨタを非難する多くの言説がメディアに掲載されました。多くのメディアや論者がたいした根拠を持たずに、伝聞と憶測に基づいて、安全軽視だの、あるいは傲慢の故だなどと批判を繰り返していました。時流に乗る、あるいは付和雷同といった動きは見苦しいものです。

 2月16日の朝日新聞の投書欄には「リコール 安全の軽視が原因」というテーマの投書が載りました。58歳の主婦によるもので「利益を追求するあまり、基本である安全、ユーザーの利益をおろそかにしてきた結果ではないだろうか」と、どこかで聞いたような常套句が並んでいます。多分、この主婦様の主張はそれ以前の朝日の記事を素直に反映したものなのでしょう。

 投書の数が何十が何百か知りませんが、「リコール 安全の軽視が原因」を選び出したのは朝日であり、投稿者の名を借りて自らの主張をするという、いつもの手口が感じられます。投稿者の原稿は朝日の意向に沿うよう改変されている可能性があります。いつものことですが、内容に責任を持たないずるいやり方です。かつて私も全体の半分近くを書き換えられた経験があります。文章の修正などというものではなく、担当者の作文によって置き換えられ、主旨までも変えられたのには閉口しました(朝日の投稿欄)。

 朝日は「リコール 安全の軽視が原因」という根拠のない流言を800万部印刷して日本中に配布したわけです。朝日は単なる愚者でなく、800万倍という増幅作用をもつ流言の王者ということになりますか。

 2月11日の記事に書きましたが、トヨタのリコール問題は単純ではありません。技術的な理解もできないまま、トヨタのイメージを毀損するような記事は大きな問題です。自動車産業は広い裾野を持っていますから、トヨタが減産ということになれば多くの人が職を失う可能性があります。もっとも深刻なダメージを受けるのはトヨタよりも、立場の弱い彼らでしょう。巨大な流言装置は与える被害も甚大です。

 現代は「流言はメディアによって拡大する」わけで、事態は荀子の時代より深刻と言えるかもしれません。

最高裁の欺瞞

2010-02-15 10:06:15 | Weblog
以下は2月14日 5時8分 NHKラジオニュースで放送された内容からの引用です。

『裁判員制度の課題を検証するため、全国の裁判所は裁判員を経験した人にアンケート調査を行っていて、去年8月から11月に行われた77件の裁判に参加した442人から回答を得ました。

 アンケートで審理の内容について聞いたところ、全体の72.2%の人が「理解しやすかった」と答えました。しかし、このうち、被告が起訴の内容を否認した裁判では、「理解しやすかった」と答えた人は56.9%にとどまり、争点が複雑になると理解が難しいと感じる人が少なくない現状がうかがえます。

 一方、検察官と弁護士の説明のわかりやすさについて聞いたところ、検察官については、81.9%の人が「わかりやすかった」と評価したのに対し、弁護士の説明を「わかりやすかった」と答えた人は52.3%にとどまり、「わかりにくかった」と答えた人も10%いました。被告が無罪を主張して全面的に争うなど複雑な裁判が今後、本格的に始まる中で、一般の市民にわかりやすい審理をどう進めるかが課題になっています』

 グーグルの検索で調べた限り、これを取り上げたのはNHKと読売だけでした。読売の記事ではこれを発表したのは最高裁判所であるとしています。

 説明のわかりやすさでは、検察官と弁護士には81.9%対52.3%もの大差があるということですが、これが裁判員の判断に影響が与えないとは考えられません。検察側の説明は理解できたけれど弁護側の説明はよくわからないというとき、検察側に寄った判断が下される可能性が高いと思われます。

 また否認事件においては「理解しやすかった」が56.9%ということですが、これは43.1%はそうではなかったという意味であり、これは重大な問題の存在を示唆しています。裁判員全員が事件を十分理解した上で結論を出しているのか、という懸念です。

 我々が是非とも知りたいことは裁判員全員が事件の全容を十分理解しているかという点です。裁判員がよく理解しないまま、評議に参加して結論を出すようでは被告はたまりません。理解できないものにまともな判断など、できるわけがないですから。

 このアンケートでは、説明がわかりにくくても最終的に理解できたのか、あるいはできなかったのかというもっとも重要なことがわかりません。なぜ「検察や弁護士の説明が理解できましたか」「評決までに事件の全体が理解できましたか」という質問をしなかったのでしょうか。

 裁判員全員が事件を十分理解した上で評決したかどうかはこの制度の根幹にかかわる重要なことです。裁判員制度を実施した者は裁判員の理解度について確認する義務があると私は考えます。

 検察官と弁護士の説明をわかりやすくするのは、裁判員の理解を十分なものとするのが最終の目的です。アンケートで調べるのならば途中の段階である「わかりやすさ」ではなく、最終目的である「理解度」を訊ねる方が理に適っています。

 なぜ最終的な「理解度」を調査しないのでしょうか。それは「理解できなかった」という答が何割か出てくることを恐れているためではないかと想像します。もし「理解できなかった」という答があれば、理解しないままに評決を行ったという事実を認めざるを得ないことになり、裁判員制度の土台を揺るがすことになりかねないと考えたのでしょう。

 都合が悪いからあえて調査せず隠しておこうというのは、評決が裁判員の十分な理解の上で行われているかを国民に知らせないことであり、アンフェアであるだけでなく、制度の今後の改善にとっても障害となります。何よりも現状の正しい認識が重要です。

 裁判員制度を進めてきた側にとっての最悪の事態は理解できない裁判員が評決を下すことではなく、そのような裁判員の存在が表面化することなのでしょう。もし複雑な事件で、理解が不十分な裁判員が6人のうち2人も3人もいたという事例が明らかになれば裁判員制度は存立の基盤を失います。これは実に重要なことであり、その確認のために理解度を計れるようなアンケート調査をすべきではないでしょうか。

 「理解度」が許容できる範囲なら裁判員制度を継続する、許容範囲を超えているなら裁判員制度の見直しをする、というのが当然の方向です。説明の「わかりやすさ」だけの調査では有効なデータを得ることはできません。

 報道したメディアは知る限り2つに過ぎず、メディアの関心は薄いようです。まして最高裁のアンケートに異議を挟む議論はまだお目にかかりません。裁判員の理解度はどうでもよいと考えるのでなければ、メディア自ら「理解度」に焦点を当てた調査をすべきではないでしょうか。そして司法の信頼に値するだけの「理解度」があるかを白日の下に晒していただきたいと思います。

 今年は死刑の求刑が予想される事件が10件程度あるそうです。「よくわかってない」裁判員が被告の生死を決定するという「いい加減なこと」が起こらないという保証はありません。

参考記事 最高裁の姑息なアンケート調査
       算数のできない人が作った裁判員制度

トヨタ叩きへの疑問

2010-02-11 09:23:11 | Weblog
 トヨタがメディアの集中砲火を浴びているようです。トヨタの悪い面を取り上げるのが正義とばかりに、競い合って報道されている観があります。2月10日の朝日新聞朝刊の一面トップにも「プリウス 不具合認める」という見出しの批判記事が載っていますが、これはメディアの追求がとうとうトヨタに不具合を認めさせたという勝利宣言のようにも感じられます。

 その中に問題の核心部であるブレーキの不具合に対する具体的な説明があるのですが、それがどうも腑に落ちないのです。以下、引用します。

 『たとえば、時速20kmで走行中に減速を始めた場合、通常のABS装着車は氷盤などでタイヤが滑るABSが約0.4秒作動する。だが、新型プリウスはさらに0.06秒長い0.46秒の「空走感」を感じ、その分、制動距離も0.7m長くなるというデータがある』

 ここには二つの疑問点があります。まず時速20kmで0.06秒間走ればその距離は0.33mと小学生でもすぐ計算できます。なぜ0.7mとなるのか理解できません。もうひとつは通常のABSの作動時間である約0.4秒とプリウスの0.46秒の差が体感できるのかという問題です。0.06秒の差が、ブレーキで感じとることができるのでしょうか。また、通常のABSは「約」0.4秒と書かれていますが、「約」の範囲は0.06秒が含まれる程度のものかも検討する必要があると思います。

 通常のABS装着車で雪道を走行中、ブレーキをかけたときに一瞬減速感がなくなる経験は私にもあります。空走感を感じたという報告がいくつかあるそうですが、プリウスとの差が0.06秒だけなら、「空走感」は主として(約87%の時間を占める)ABSによるものという可能性を否定できません。

 これらのことは記事から感じた疑問を述べただけで、それ以上の根拠はありません。ただ記者は0.7mと書くとき、他の数値との整合性について注意を払わなかったのかという疑いが残ります。もし0.7mが正しくて、そこに記者の優れた頭脳だけが理解できるような難解な理由があるならば、凡人でも納得できるような説明を加えるべきでしょう

 「空走感」は問題の中心であり、0.7mか0.33mなのかは問題の本質にかかわることで、トップ報道するには新聞社自体が十分理解していることが重要です。十分な裏づけが求められる部分だと思います。極めて重要かつ微妙な部分であるということを理解していたのでしょうか。

 トヨタはフィーリングの問題だと釈明していましたが、それが適切かどうか、私にはわかりません。ただトヨタが不具合を認めたのは、マスコミの集中的批判に対し、これ以上弁解をすればさらに攻撃を招き、ブランドイメージを低下させると判断した可能性がないと言えるでしょうか。

 過去には雪印や不二家の事件など、マスコミへの対応の拙さのために理不尽とも言えるバッシングを受けたことがありました。不二家事件では床に落ちたチョコレートを再使用したと、でっちあげまで行われました。これらの事件から、泣く子とマスコミには勝てないという教訓が得られたことでしょう。

 プリウスのブレーキの問題はトヨタ一社だけでなく、日本の自動車産業の信頼性にもかかわる問題です。0.06秒を評価するという大変微妙な問題だけに、マスコミがよく理解もせずにトヨタを追い詰めたのであれば、これは重大な問題だと思います。

 メディアの報道はトヨタの対応の甘さや驕りを非難するものがほとんどのため(もっともらしい後講釈が続々と出てきますね)、トヨタ側に非があるように感じている人が多いと思います。それに対して、こういう可能性もあるのではないか、ということを示しただけであり、本当のところは知る由もありません。

 ただ記事内容に対する朝日新聞の理解能力と報道に対する責任感には強い疑いが残ります。理解する努力を十分せず、意味がよくわからないまま重大な問題を報道した可能性はないのでしょうか。

 (私は記事の数値をいつも検算しているわけではありません。たまたま0.06秒で0.7mではちょっとおかしいと感じただけです)

無党派層の支持率は先行指標?

2010-02-08 09:44:17 | Weblog
無党派層の支持率は先行指標?

 2月7日、朝日と読売の世論調査の結果が発表され、いずれも内閣不支持率は支持率を上回りました。不支持率が支持率を上回ったことについて読売の解説は「不支持率が女性で50%(前回43%)、支持政党のない無党派層で61%(同55%)に上昇したことが主な要因だ」としています(女心と秋の空ですね)。逆に言うと男性の民主支持層の支持があまり変化ないことを示しています。

 一方、今夏の参院比例選での投票先では、読売調査は民主27%・自民22%(朝日は民主34%、自民27%)となっています。しかし無党派層では読売は民主7%に対し自民12%(朝日は民主16%、自民22%)と民主党への支持が大きく減少し、自民党より低くなっています。昨年の総選挙では無党派層が民主党に流れたことが勝敗を決めたといわれているくらいですから、この変化の大きさは注目に値すると思います。

 無党派層とは特定の政党に対する思い入れの感情が比較的少ない層と解釈できますから、その判断にはバイアス(偏向)が少ないと思われます。つまり冷静な観察者と見ることができます。少なくとも情緒的な観察者より信頼性が高いと思います。

 たいていの人は一度好きになると、その感情はしばらく持続して、その間は欠点が見えにくくなるという傾向があります(逆も真なりですが)。そうであるからこそ結婚に踏み切れるわけであり、また失敗もするのでしょう。政党に対する好みも例外ではないと思います。

 無党派層が短時間の観察で不支持にまわった後も、支持層が支持を続けるのはこのような感情的な理由があるものと思われます。一種の硬直性であり、自由な判断を妨げると共に鈍感さを与えるものと言えるでしょう。とすると無党派層の支持率は敏感な先行指標としての意味を持つ可能性があります。指標としての価値があるかは過去のデータを調べなければ分かりませんが、バイアスのない評価としてもっと注目されてもよいと思います。

 個人が好悪の情により判断が振れるのは仕方ないことですが、メディアがそうであってはいささか問題です。朝日の夕刊には「検証 昭和報道」が連載されていますが、2月5日の中国報道についての記事は、新聞社の「好み」が報道に影響を与えた例として、興味深いものです。

 1971年、朝日新聞は「日中復興」キャンペーンの一環として日本メディア初の周恩来首相との単独会見実現のため、林彪事件など微妙な情報の掲載にはブレーキがかけられたようだと記されています。また、当時の朝日社内には、中国に批判的な報道に対し「社論」を楯に露骨に圧力をかけたり、「親中派」「親米派」のレッテルを貼ったりする動きがあった、と書かれています。

 当時の朝日の「社論」は親中であり、これは文化大革命期に他紙やNHKが次々と中国から追放される中、朝日新聞ひとり中国に残り得たこととも符合します。他紙は中国の気に障ることも報道したのに対し、朝日だけは中国の指導に忠実であったわけです。日本の読者の購読料によって成り立つ新聞が、読者に事実を知らせるという本来の役割より外国の利益を重視するという奇妙なことが起きたわけです。

 会社には長く続いていく社風があります。朝日に限らず、メディアにも思想的な好みを含む社風が継続的に存在します。類は友を呼ぶということもあるでしょうが、古い社員から新しい社員へと受け継がれる部分が大きいと思われます。それは宗教が親から子に受け継がれていくのにも似て、そこに合理的な理由を見出すことは困難です。

 メディアも「好み」を持てば、冷静な判断が難しくなります。そして「好み」に沿って恣意的な報道を行えば判断の歪みは読者全体に広がります。メディアが強い「好み」を持つことは民主主義の基盤を崩すといっても過言ではないでしょう。

 (テーマから少々外れてしまいました。ご容赦を)

科学への不信感

2010-02-04 10:13:42 | Weblog
 「オーガニックコットン」とは農薬や化学肥料を使わずに栽培された綿花のことですが、グーグルで検索するとなんと163万件もヒットしました。多くは販売サイトだと思われ、それを商売にしている業者が多いことにまず驚きます。また、食べ物ならともかく、衣類にまで不安を感じている人が多いことにも驚きました。無農薬だけでなく無化学肥料をうたっているものがあるのは、化学肥料まで不安の対象になっているのでしょう。

 世の中には自然のものは良く、自然でないもの・人工的なものは良くないと考える人たちが結構多くいらっしゃるようです。このような考えが生まれた背景には産業の負の側面である公害や農薬の大量使用による生態系の破壊などがあったのでしょう。

 一方、マスメディアは悪いことを好んで取り上げるという困った特性を持っています。科学技術の負の面が大きく報道されたことが一因だと思われますが、科学技術を否定的に捉える一群の人々が生まれました。(参考記事 科学技術は役立たず、環境を壊すという教育)

 科学技術を否定的に捉え、その対立概念として自然を重視する考え方です。科学技術の負の部分を修正するのではなく、科学技術を全体として否定し、対立するものとして自然に価値を求めたわけです。二つしかないので実にわかりやすい話ですが、ここには自然と科学技術が対立概念としてはたして適切かという疑問があります。

 例えば、毎年10人前後が食中毒で亡くなりますが、そのほとんどはキノコやフグ、ボツリヌスなどの自然毒であり、農薬などによるものはまずありません。しかし、自然食品、無農薬〇〇、オーガニック〇〇などが大きい市場を形成するようになりました。検査システムだけでなく、科学技術に対する不信がその背景にあるためでしょう。

 かつて科学技術は素晴らしい未来を実現すると信じられた時代がありました。実際、科学技術がもたらしたものはまことに大きく、飢餓や多くの病気から解放し、物質的には豊かな時代を築きました。むろん負の面がなかったわけではありませんが、それは功績に比べると小さなものです。

 しかしメディアの世界では科学技術の負の部分に起因する事件や事故の報道がその功績の報道を圧倒していました。その結果、一部の無批判な読者は科学の負の側面ばかり印象づけられ、科学に対する無理解と不信感はかなりの広がりを持っているように考えられます。

 昨年の事業仕分けでは科学技術予算の削減が話題になりました。素人の仕分け人がばっさり切り捨てたものの、あとで専門家などから強い批判を浴び、一部が復活しました。もとより日本の政府の科学技術予算のGDP比は主要国中で低位を占めています。

 鳩山内閣は2020年までに国内の温暖化ガス排出量を1990年比25%減らす目標達成に向け、ロードマップ案を作りましたが、その中にはもっとも必要と思われる原発に関する記述がありません。社民党は原発を否定する立場ですから、これに配慮したのでしょう。

 科学の重要性に対する適切な理解があれば教科内容の3割を削減するという「ゆとり教育」は恐らく実施されなかったでしょう。科学への無理解と不信感がマスメディアや教育、政治の場で広がれば影響力を強めれば、国の将来に取り返しのつかない損失を招きかねないと思います。不安を食いものにする怪しげな産業だけは栄えることになりますが・・・。

独裁への「小沢5原則」

2010-02-01 16:17:30 | Weblog
以下は1月30日の朝日新聞に載った『新人黙らす「小沢5原則」』の要約です。ご存知の方も多いと思いますが、たいへん興味深いことなので一部引用します。

 『昨年8月の総選挙で初当選した民主党の143人の新人議員が、鳩山由紀夫首相や小沢一郎幹事長をめぐる「政治とカネ」の問題に沈黙している。奔放な発言で注目を集めた自民党の「小泉チルドレン」とは対照的だ。そこには徹底的に新人を教育し、統制する小沢執行部の管理術がある。

 衆院本会議や予算委員会の日。民主党の新人議員たちは国会内での「朝礼」を終えると、10班に分かれてミーティングに移る。10人の班長は中堅の国対副委員長らだ。

 昨年の臨時国会ではヤジの飛ばし方も教育された。「朝礼」では小沢氏に近い山岡賢次国対委員長が訓示。教育方針には小沢氏の意向が反映されている。いわば「小沢5原則」だ。

 その一つが「党内の出来事はすべて班長に報告」。班別行動は班長が新人を把握し、執行部の意向に反する不穏な動きに備え、新人たちの連携を分断する狙いから。

 「目立つべからず」は、マスコミ露出や発言は制限するということ。土地取引事件で小沢氏の事務所の強制捜査があった後、新人が集まる会合があった。冒頭、執行部が「今日は質疑応答の時間はない」と発言を封じた。

 さらに「政府の要職につくべからず」。今月、首相が小沢氏に「大臣補佐官に専門知識のある1年生を起用したい」と言うと、小沢氏は「それはいけない。専門知識があるかないかでなく、党内秩序の問題だ」と断ったという。

 選挙の公認権と年間173億円にのぼる政党交付金の配分を握る小沢氏の権力は絶大だ』

 つまり小沢氏はロボットのように自由に操れる議員を大量に作ろうとしているように見えます。組織としての機能が最優先である軍やスポーツチームならばよいのですが、政党がこれでは実に異様です。このような体質の政党が政権を担当するということは過去に例がなかったのではないでしょうか。

 一方、小沢氏に詳しいとされる立花隆氏は文芸春秋09/11月号の『小沢一郎「闇将軍」の研究』でナチスを引き合いに出し、次のように述べています。

 『小沢グループはすでに十分大きいのに、これに来年(2010年)の参院選のあとで加わることになる新人議員を加えたら、今のところちょっと予測がつかないが、総計200人を超えることは確実で場合によっては300人を超えてしまうかもしれない。

 (略)とにかく日本の政治史上、前代未聞の数の力と情熱をもった政治集団がいま生まれ出ようとしているのだ。

 (略)正直いって、私はこの事態を歓迎しない。気味が悪いことが起こりつつあると思っている。小沢がヒトラーのような人物というわけではないし、民主党のマニフェストがナチスの政治パンフレットのような甘言に満ちあふれているというわけではないが、あのナチスが国政選挙を通じて大量の議席を獲得して、合法的に1930年代のドイツを一挙に作りかえようとしはじめ、それを大衆が熱狂的に支持しているところを見たときに一部の人々が感じたであろうような、なんともいえない居心地の悪さ、不快感を感じている』

 政府と与党の一元化、政治主導、官僚の会見禁止、国会答弁禁止、議員立法の禁止、陳情の一元化などは、与党を支配するものがすべてを支配するという方向を示すものです。また管直人氏は権力の暴走を防ぐための仕組みである三権分立を否定しています。官僚機構はいろいろ問題があるにせよ、政治の不安定さを緩和するスタビライザー(安定化装置)として機能していたわけで、その弱体化は両刃の剣となります。

 小沢氏が権力を完全に握り、素晴らしい政治が実現されるかも知れません。しかし小沢氏によって作られた権力集中の仕組みは次の誰かが独裁者になる道を開く可能性があります。独裁者を許すような体制作りに対し、もう少し神経質になるべきでしょう。

 小沢氏側近議員の逮捕後、与党から検察やマスメディアに圧力をかけようという動きが見られましたが、独裁が完成した暁にはもっと強力な統制が可能であり、その気になればメディアを黙らせることもできます。

 朝日の記事は議員に対して強力な管理体制を敷く小沢体制を取り上げていますが、残念なことにあまり危機感がありません。「小泉チルドレン」とは対照的に、自由にものが言えない体制を指摘するにとどまり、それが言論の封殺、さらに民主政治の危機につながるという認識は感じられません。弱小政党ならいざ知らず、政権党が言論を封殺してまで権力集中を進めることに対してなぜ危機感を露わにしないのでしょうか。まあこういう記事が出るようになっただけマシですが。

 民主政治が危機に瀕する可能性を含んでいたとすれば、今回の検察の働きは僥倖というべきかもしれません。