「チーターとガゼルの競争する姿の優雅さは、双方の祖先たちにおける膨大な血と苦しみの犠牲によってあがなわれたものである」(R・ドーキンス「 悪魔に仕える牧師」より)
説明するまでもありませんが、数億年の時を、厳しい環境や生存競争にさらされながら受け継がれてきた生物が払った代償の大きさを述べたものです。チーターとガゼルでなくとも、すぐ近くにいる猫や犬でも同様です。
現在は飽食暖衣の時代と言われますが、それを実現した文明も一朝一夕でできたものではなく、払われた代償は膨大です。吉村昭氏の「高熱隧道」は1936年に着工された黒部川第三発電所の建設工事を描いたもので、優れた記録文学ですが、その大きな代償の一端を知るためにも好適な書物です。
貧弱な電力事情の改善という国家的使命を受け、おびただしい犠牲を出しながら進められる工事の模様は凄絶です。160度を越す隧道内での放水を浴びながらの作業や、泡(ほう)雪崩によって鉄筋コンクリートの宿舎が数百メートル先の対岸まで飛ばされ、多数の犠牲者が出るなど、想像を超える内容です(私は現在の豊かな環境が決して「自然に」できたものではないということを知らせるために、この本を子供達に読ませています)。
前置きが長くなりましたが、これからが本題です。ご紹介したいのは新卒採用で入った会社を5ヶ月で辞めた青年によって書かれた「脱近代宣言」という一文です。取り上げたのは、これが若年世代に見られるひとつの典型的な考えだと思うからです。リンク先を見るのが面倒な方のために一部を抜粋します。
『 ヒーターの電源をONにして、ベッドの上で藤子不二雄の「まんが道」を読む。手を伸ばせば届く場所にはパイの実とアイスコーヒーがある。今日中に8巻までは読む。時間はいくらでもある。昼まで漫画を読み続けて、それから好きなだけ寝るつもりだ。
先月会社を辞めた。上司が体育会系でパワハラが辛かったとか、細かいことをねちねちと言われたとか、残業代が付かなかったとか、休みが全然なかったとか、理由を問われるといくらでも答えるが、本音を言うと「早起きして会社なんか、行きたくねえ。俺のペースでゆっくりさせろ」というところだ。
ニート支援だとか、フリーター対策だとか、馬鹿か。いちいち気にさわる。年寄りが自分の理解出来ない価値観に拒絶しているだけにしか見えない。俺からしてみたら、こんなに快適な生活はないのに。
俺の父親は、朝5時に起きて、犬を散歩させ、朝ごはんを食べるとバスに乗って会社に行く生活をもう30年以上続けている。
それでも、俺には朝5時に起きて毎日同じ電車に乗って会社に行く生活は出来なかった。なんだってそんなキツイ思いをしなければならないのだ。それをしなくても、生きていけるのに。自分ひとりは。
年寄りの悪口も、政治家の嘘も、もうどうでも良い。おまえらはおまえらでがんばれ、俺たちは、俺たちで各自ひきこもって勝手にやるよ。頭しぼって不老(注:不労?)所得で気楽に暮らす。最高じゃないか。何が悪いのか全く分からない。いずれ沈没の船に乗り込んで一生懸命延命考えている奴らの気がしれん。ヒャッハ 』
実はこのような考え方は目新しいものではありません。私にも若い頃はこれに近い感覚がありました。夏目漱石の「こころ」に出てくる高等遊民とも通じるところがあります。これらに共通するのは社会を自分の外側の存在として見ることです。つまり自分を社会を構成する一員とは考えないわけです。
子供じみた甘えとも言えるでしょうが、要するに「タダ乗り」を目指すものであり、ここからは社会の役割の一部を担うという積極的な気持ちは起こりません。「公」と「私」、ということで言えば「私」に大きく偏った考え方です。
まあこのような考え方はいつの時代にもあったと思いますが、このような考えの人間の比率が大きくなれば社会の維持は困難になります。この考えが生まれる理由は単純ではないと思いますが、戦後の教育も強く影響しているように思います。
私は戦後の教育を受けました。中学校では「私」の権利の重要性や上下関係の否定を教えられたことは覚えていますが、「公」に関することは記憶がありません。私の受けた教育は過去の忌まわしい戦争を否定するあまり、歴史の連続性の結果として現在があるという考え方、現在が祖先たちの膨大な犠牲によってあがなわれたものだという考え方が希薄であったように思います。
数世代が一緒の住む大家族制から核家族制に移行したことも、歴史の連続性の中に自分を位置づけるという認識が薄くなっている理由でしょう。このような連続性の中に位置づけるという考えには賛否両論があることは承知していますが、少なくとも上記のような「私」に偏った人間、「タダ乗り」を是とする人間の比率を減らすのには有効であると思います。
説明するまでもありませんが、数億年の時を、厳しい環境や生存競争にさらされながら受け継がれてきた生物が払った代償の大きさを述べたものです。チーターとガゼルでなくとも、すぐ近くにいる猫や犬でも同様です。
現在は飽食暖衣の時代と言われますが、それを実現した文明も一朝一夕でできたものではなく、払われた代償は膨大です。吉村昭氏の「高熱隧道」は1936年に着工された黒部川第三発電所の建設工事を描いたもので、優れた記録文学ですが、その大きな代償の一端を知るためにも好適な書物です。
貧弱な電力事情の改善という国家的使命を受け、おびただしい犠牲を出しながら進められる工事の模様は凄絶です。160度を越す隧道内での放水を浴びながらの作業や、泡(ほう)雪崩によって鉄筋コンクリートの宿舎が数百メートル先の対岸まで飛ばされ、多数の犠牲者が出るなど、想像を超える内容です(私は現在の豊かな環境が決して「自然に」できたものではないということを知らせるために、この本を子供達に読ませています)。
前置きが長くなりましたが、これからが本題です。ご紹介したいのは新卒採用で入った会社を5ヶ月で辞めた青年によって書かれた「脱近代宣言」という一文です。取り上げたのは、これが若年世代に見られるひとつの典型的な考えだと思うからです。リンク先を見るのが面倒な方のために一部を抜粋します。
『 ヒーターの電源をONにして、ベッドの上で藤子不二雄の「まんが道」を読む。手を伸ばせば届く場所にはパイの実とアイスコーヒーがある。今日中に8巻までは読む。時間はいくらでもある。昼まで漫画を読み続けて、それから好きなだけ寝るつもりだ。
先月会社を辞めた。上司が体育会系でパワハラが辛かったとか、細かいことをねちねちと言われたとか、残業代が付かなかったとか、休みが全然なかったとか、理由を問われるといくらでも答えるが、本音を言うと「早起きして会社なんか、行きたくねえ。俺のペースでゆっくりさせろ」というところだ。
ニート支援だとか、フリーター対策だとか、馬鹿か。いちいち気にさわる。年寄りが自分の理解出来ない価値観に拒絶しているだけにしか見えない。俺からしてみたら、こんなに快適な生活はないのに。
俺の父親は、朝5時に起きて、犬を散歩させ、朝ごはんを食べるとバスに乗って会社に行く生活をもう30年以上続けている。
それでも、俺には朝5時に起きて毎日同じ電車に乗って会社に行く生活は出来なかった。なんだってそんなキツイ思いをしなければならないのだ。それをしなくても、生きていけるのに。自分ひとりは。
年寄りの悪口も、政治家の嘘も、もうどうでも良い。おまえらはおまえらでがんばれ、俺たちは、俺たちで各自ひきこもって勝手にやるよ。頭しぼって不老(注:不労?)所得で気楽に暮らす。最高じゃないか。何が悪いのか全く分からない。いずれ沈没の船に乗り込んで一生懸命延命考えている奴らの気がしれん。ヒャッハ 』
実はこのような考え方は目新しいものではありません。私にも若い頃はこれに近い感覚がありました。夏目漱石の「こころ」に出てくる高等遊民とも通じるところがあります。これらに共通するのは社会を自分の外側の存在として見ることです。つまり自分を社会を構成する一員とは考えないわけです。
子供じみた甘えとも言えるでしょうが、要するに「タダ乗り」を目指すものであり、ここからは社会の役割の一部を担うという積極的な気持ちは起こりません。「公」と「私」、ということで言えば「私」に大きく偏った考え方です。
まあこのような考え方はいつの時代にもあったと思いますが、このような考えの人間の比率が大きくなれば社会の維持は困難になります。この考えが生まれる理由は単純ではないと思いますが、戦後の教育も強く影響しているように思います。
私は戦後の教育を受けました。中学校では「私」の権利の重要性や上下関係の否定を教えられたことは覚えていますが、「公」に関することは記憶がありません。私の受けた教育は過去の忌まわしい戦争を否定するあまり、歴史の連続性の結果として現在があるという考え方、現在が祖先たちの膨大な犠牲によってあがなわれたものだという考え方が希薄であったように思います。
数世代が一緒の住む大家族制から核家族制に移行したことも、歴史の連続性の中に自分を位置づけるという認識が薄くなっている理由でしょう。このような連続性の中に位置づけるという考えには賛否両論があることは承知していますが、少なくとも上記のような「私」に偏った人間、「タダ乗り」を是とする人間の比率を減らすのには有効であると思います。