求刑の1.5倍にあたる15年の刑を決定した裁判員裁判の是非が争われた傷害致死事件で、最高裁は両親に対し懲役10年と懲役8年を言い渡しました。最高裁が初めて裁判員裁判の結論を否定したわけで、裁判員制度を支持してきた人たちから不満が続出しています。
反論の中では、市民が参加した裁判の結果を否定すれば裁判員制度の意味がなくなる、という意見が多かったようです。これは一見もっともなものに見えますが、おかしいです。つまり判決の是非よりも裁判員制度や市民が使った労力を重視する考えです。民主的な裁判員制度であろうが、市民が労力を費やそうが、判決の妥当性を優先されなければなりません。
『渡辺修・甲南大法科大学院教授は「最高裁は裁判員と裁判官が熟慮して決めた量刑を裁判官だけの判断で覆したが、市民の良識を刑の重さに反映させる裁判員制度の趣旨に反する。過去の量刑傾向を裁判員にのませることは、市民が良識を生かして柔軟に量刑の判断をするのを妨げかねない』(産経7/24)
渡辺氏は抽選で選ばれた6名の判断を常に信じておられるようです。しかしどんな6名が選ばれるかは時の運、箸にも棒にもかからない6名が裁判員となることもあり得ます。この方の言うとおりなら一審の裁判員裁判を確定判決にすればよく、上級審は存在する理由がなくなります。
仮に裁判員裁判が平均としては裁判官裁判より優れているとしても個々の裁判員裁判がすべて優れているとは言えません。渡辺氏は一様な市民参加の裁判員裁判という抽象的な概念をお持ちのようですが、抽象的な概念と現実は一致しないのが普通です。抽象化は便利ですが、複雑な現実を単純化するわけですから、両者間に乖離が生じるのは当然です。一般に抽象化された概念だけの思考はしばしば非現実的な結論を生むだけでなく、多くの不毛な論争の原因ともなります。
どのような裁判員が選ばれるかによって裁判機能は大きく左右され、性格も機能も様々です。中には不適切な判決を出すものもあると考えるべきであり、それを是正するのが上級審の役割です。
一方、1審である大阪地裁の裁判員裁判では「本件のような重大な児童虐待には今まで以上に厳しい罰を科すことが社会情勢に適合する」としています。この社会情勢というのはこの種の事件に対するマスコミ報道を指すものと思われます。
この種の事件が起きるとマスコミは加害者の悪質性や残虐性を示す材料を好んで取り上げますが、良い面はほとんど取り上げません。その方が視聴者にはなるほどと納得されやすいのでしょうが、結果として事件の実像は歪曲されることになります。「社会情勢」と思われるものはマスコミの作る虚像であり、それを現実と短絡的に考えるのは単純に過ぎます。つまり他人を裁くような立場の人はその時々の虚像に流されるような「軽い人」では困るわけです。
今回の騒ぎは、マスコミに煽られた裁判員らが生んだ「はみだし判決」を最高裁が是正したということでしょう。予め設けられていたチェック機能が働いただけのことです。
余談になりますが、この判決を一面で報じた25日の朝日新聞には「求刑超え判決」が裁判官裁判の時代に比べて増える傾向にある、と書いています。実は裁判員制度開始からの5年間とその前の5年を比べると約10倍となります。10倍を「増える傾向にある」と書けば誤解を招くのは明白で、激増と書くべきです。誇張が大好きなマスコミが過小に報道する場合は下心があると考えるのが自然です。恐らく朝日は裁判員制度に賛成で、その不安定さを示す事実は隠しておきたいのでしょう。いつものご都合主義ですか。
反論の中では、市民が参加した裁判の結果を否定すれば裁判員制度の意味がなくなる、という意見が多かったようです。これは一見もっともなものに見えますが、おかしいです。つまり判決の是非よりも裁判員制度や市民が使った労力を重視する考えです。民主的な裁判員制度であろうが、市民が労力を費やそうが、判決の妥当性を優先されなければなりません。
『渡辺修・甲南大法科大学院教授は「最高裁は裁判員と裁判官が熟慮して決めた量刑を裁判官だけの判断で覆したが、市民の良識を刑の重さに反映させる裁判員制度の趣旨に反する。過去の量刑傾向を裁判員にのませることは、市民が良識を生かして柔軟に量刑の判断をするのを妨げかねない』(産経7/24)
渡辺氏は抽選で選ばれた6名の判断を常に信じておられるようです。しかしどんな6名が選ばれるかは時の運、箸にも棒にもかからない6名が裁判員となることもあり得ます。この方の言うとおりなら一審の裁判員裁判を確定判決にすればよく、上級審は存在する理由がなくなります。
仮に裁判員裁判が平均としては裁判官裁判より優れているとしても個々の裁判員裁判がすべて優れているとは言えません。渡辺氏は一様な市民参加の裁判員裁判という抽象的な概念をお持ちのようですが、抽象的な概念と現実は一致しないのが普通です。抽象化は便利ですが、複雑な現実を単純化するわけですから、両者間に乖離が生じるのは当然です。一般に抽象化された概念だけの思考はしばしば非現実的な結論を生むだけでなく、多くの不毛な論争の原因ともなります。
どのような裁判員が選ばれるかによって裁判機能は大きく左右され、性格も機能も様々です。中には不適切な判決を出すものもあると考えるべきであり、それを是正するのが上級審の役割です。
一方、1審である大阪地裁の裁判員裁判では「本件のような重大な児童虐待には今まで以上に厳しい罰を科すことが社会情勢に適合する」としています。この社会情勢というのはこの種の事件に対するマスコミ報道を指すものと思われます。
この種の事件が起きるとマスコミは加害者の悪質性や残虐性を示す材料を好んで取り上げますが、良い面はほとんど取り上げません。その方が視聴者にはなるほどと納得されやすいのでしょうが、結果として事件の実像は歪曲されることになります。「社会情勢」と思われるものはマスコミの作る虚像であり、それを現実と短絡的に考えるのは単純に過ぎます。つまり他人を裁くような立場の人はその時々の虚像に流されるような「軽い人」では困るわけです。
今回の騒ぎは、マスコミに煽られた裁判員らが生んだ「はみだし判決」を最高裁が是正したということでしょう。予め設けられていたチェック機能が働いただけのことです。
余談になりますが、この判決を一面で報じた25日の朝日新聞には「求刑超え判決」が裁判官裁判の時代に比べて増える傾向にある、と書いています。実は裁判員制度開始からの5年間とその前の5年を比べると約10倍となります。10倍を「増える傾向にある」と書けば誤解を招くのは明白で、激増と書くべきです。誇張が大好きなマスコミが過小に報道する場合は下心があると考えるのが自然です。恐らく朝日は裁判員制度に賛成で、その不安定さを示す事実は隠しておきたいのでしょう。いつものご都合主義ですか。