噛みつき評論 ブログ版

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任期途中の辞任、無念の首相に石を投げるメディア

2020-08-30 20:42:17 | マスメディア
 『首相在任7年8カ月、「安倍1強」と言われた長期政権の突然の幕切れである。この間、深く傷つけられた日本の民主主義を立て直す一歩としなければならない』

 これは8月29日朝日新聞社説の冒頭部分である。安倍首相は民主主義を深く傷つけたとある。ずいぶん変わった、実に独創的な見方である。ここまで独創的であるからこそ、あの鳩山由紀夫元首相にも高い評価を与えたのであろう。むろん労いの言葉など皆無である。続いて安倍首相の功罪についての詳説があるが「功」1に対し「罪」9の割合である。しかも「功」の説明はひどくそっけないが、「罪」の説明はとてもしつこい。そのため今回の社説は通常の2倍の分量である。

 一方、毎日新聞の社説のタイトルは「安倍首相が辞任表明 行き詰まった末の幕引き」である。内容はほとんど「罪」ばかりで、こう締めくくっている。
『長期に権力を維持することには成功したが、政策や政治手法の点では「負の遺産」が積み上がったのが実態だったのではないか』 

 どんな頭の人が書いているのだろうか、日本を敵視する国がプロパガンダのために書くような文章であり、安倍首相はいいことをひとつもやっていないと受け取れる内容である。客観性など、どこにもない。三流紙ならこれでもいいが、部数約240万部、第3位の新聞がこれでは悲しい。その点約550万部、第2位の朝日も同じである(部数はABC協会発表値、実際は2~3割の押紙があるとされる)。

 辞任の記者会見では各メディアの質問のお粗末さが目立った。「なぜプロンプターをつかわないのか」「意中の次期首相は誰か」とか、辞任会見にふさわしくない愚問である。さらに首相の持病を抱えながらの長年の激務に対して、誰一人、労いの言葉をかけなかった。人としての礼や思いやりやに欠けていると思わざるを得ない。連日こんな記者らを相手にしなければならないとしたら、首相の心労も増え、病気にも悪影響を与えたに違いない。安倍首相ほどの重責を担い、激務に耐え、大仕事をしてきた記者は一人もいないだろう。

 こうした左派メディアの反応に対して、吉村大阪府知事のツイートは多くの国民の気持ちを代弁するものであったと思う。私も同感で、心打たれるものがある。

 「安倍総理、強烈なストレスの中、長きにわたって、外交、防衛、経済等、日本を引っ張って頂き、本当にありがとうございました。僕の親族にも潰瘍性大腸炎を患っている者がいるのでいかに辛いかよく分かります。健康第一、治療に専念されて下さい。心から感謝申し上げます」

 海外のリーダーからも辞任を惜しむ声が多く届いた。多くは安倍首相に「敬意」という言葉を使っている。外交的な配慮があると思うが、中国からでさえ評価する言葉が届いた。けど左派メディアに敬意や感謝という言葉を見ることはない。

 人が死んだ場合、日本ではその人をむち打つことはしない。病気によってやむを得ず任期途中の辞任に至った場合も同様だと思っていたが、左派のメディアの感覚は少し違うようだ。当然のようにむち打つ。これは日本人の心情と相容れない。首相といえば国民が選んだリーダーである。敵ではないのに、左派メディアはまるで敵のような扱いである。仮に敵であったとしても、病のためやむを得ず去り行く人に石を投げるようなことを恥じる文化が日本にはある。

 ほとんどの大統領が辞めたらすぐに逮捕されたり、自殺に追い込まれたりする国が近くにあるが、日本の文化とは相容れない。日本の左派メディアはかの国に近い文化を持っているのかもしれない。そういえば、朝日はかの国を擁護することが多かった。

 誰もが利益を享受し、納得できる政治など存在しない。私心のない政治家がこれほどの業績を残しても、負の面ばかり注目され、叩かれるのでは、政治の世界を目指す若者が少なくなるであろうことは予想できる。

追記 共同通信が29-30日に行った世論調査で、安倍内閣支持率は56.9%で、8月22、23両日の調査より20.9ポイント増加した。辞任表明直後に支持率が急上昇したわけだが、辞任表明により改めて安倍首相の功績に気づいたのであろう。またそこには感謝の気持ちも含まれていると思う。朝日・毎日などの認識と大きなズレがある。どう考えれば朝日・毎日のような認識になるのか、理解できない。

新聞・テレビの知能低下は深刻

2020-08-23 20:53:08 | マスメディア
 内閣府が17日発表した4~6月期のGDP速報値は前期比で7.8%、年率換算(*1)で27.8%減少した。要するに1~3月期より7.8%減ったということであるが、ほとんどの新聞・テレビ各社はトップで年率の27.8%を強調し、過去最大などと大々的に伝えた。年率という表示はあったものの注意しないとわからないものもあった。年率換算というのはこの減少率が1年間続いた場合の数値である。現在の新型コロナによる影響は恐らく1年間も続くことは考えにくい。近いうちに反動があるだろうし、現に中国はV字回復している。この27.8%という数値は現状を表すものとして不適当であり、事態を実際より深刻だと誤解させる恐れが強い。

 27.8%を強調したのはその方がインパクトが強く、読者・視聴者の注目を引くからだと思う。読者・視聴者に事実を正確に伝えるというのが本来の使命である筈だが、それは優先事項ではないらしい。読者・視聴者は全文を読んで理解するとは限らない。恐らく大部分は見出しやリードだけで済ませることは彼らにもわかっている筈である。従って全部読まなくても大まかな意味が理解できるように書くのがマスコミの仕事である。事実を正確に伝えようという職業意識が乏しい。

 また、テレビの情報番組は製作コストが低いせいかは知らないが、長時間の情報番組が多くなっているように感じる。そして司会者などの出演者にはお笑い芸人出身者が多いように思う。つまり優先されるのは事実を正確に伝えるのではなく、事実をいかに面白おかしく伝えるかであるのではないか。ここでもテレビが本来の役割を軽視している姿勢を感じる。一部の番組が井戸端会議のような低レベルであってもいいと思うが、そのような風潮が全体に広がっているように思う。もしかするとマスコミ自体、年率換算の意味もちゃんと理解していないのかもしれない。

 昨今の暑さについて気象予報士がいろいろと解説しているが、その中にフェーン現象(*2)を理由に挙げる人が多い。フェーン現象とは水蒸気を多量に含んだ空気が山を越えたときに起きる現象で、風が山を越えるときの上昇気流によって温度が低下し水蒸気が雲・雨となるときに凝縮熱を放出し、それが山を越えると、下降気流による温度上昇に凝縮熱が加わるためだと理解している。つまり山を越えるとき、雨が降ることが必要条件なのである。しかしどこにも雨が降っていないのに山越えの風があるだけでフェーン現象だと説明している。気象予報士はどんなことを勉強されているのか知らないが、テレビ側のチェック能力も怪しくなっているようだ。

 メディアがアホになり、くだらない番組ばかり作ること自体はかまわない。しかしその政治的影響力は強く、選挙の行方を左右する。メディアは第4の権力と呼ばれるくらいである。その権力がアホになったら、国の命運さえも左右されることになりかねない。

 ニュースの取捨選択にも興味本位を優先する姿勢が感じられる。ある程度は仕方がないが、度が過ぎる。情けないことにNHKが民放の後追いをしているように思われる。地上波テレビと新聞だけでは世の中の半分しかわからない。残りの半分を知るにはインターネットと雑誌(週刊誌を除く)を見ることであろうが、選択が大変である。

(*1)次の式が使われます。近似的に四半期成長率を4倍してもよいです。
年率換算成長率=((1+四半期成長率)^ 4 - 1 )*100

(*2)乾いたフェーン現象というものがありますが、あまり一般的なものではないようです。上空に温度の高い空気があってそれが下降する場合に起きるものとされています。

「ロス疑惑」推定有罪で自殺に追い込んだ週刊文春

2020-08-16 21:17:40 | マスメディア
 前回、米国メディア、ボストングローブ紙の素晴らしい仕事を取り上げたので、日本のメディア、泣く子も黙る文春砲の大スクープを紹介したい。以下は主として弘中淳一郎著「無罪請負人」を参考にした。

 まだ記憶されていることと思うが週刊文春による「ロス疑惑」「疑惑の銃弾」事件である。事件は1981年、旅行先のロスアンジェルスで起きた。三浦和義氏と妻が銃撃され、妻は1年後に死亡、三浦氏は重傷を負った。そして84年1月から週刊文春が「疑惑の銃弾」と題して、三浦氏による保険金殺人ではないかとの連載記事を7週間掲載した。その後2年間近く、日本中のマスコミが過熱報道を繰り返した。85年9月、それに押されるように警視庁はついに愛人に妻を殴打させたという殺人未遂容疑で三浦氏を逮捕した。その後の経過を簡単に述べると、殺人未遂では有罪が確定したものの、本丸の保険金殺人では最終的に無罪が確定した。裁判での無罪はあらゆる証拠、証言を検討した結果であるから、捜査権のないマスコミが集めた情報だけの憶測とは信頼度が違う。マスコミが何年も疑惑を報道し続けた容疑を裁判所が否定したのである。そして2008年、事件から30年も経ってから、三浦氏はサイパンで米国の警察に逮捕される。30年前の逮捕状によるものだという。数か月後、三浦氏はロス市警の留置施設で自ら命を絶った。日本の裁判で無罪判決を得ているのに、残念なことである。

 三浦氏が日本の刑務所と留置所にいた期間は通算16年に及ぶ。また獄中、三浦氏は新聞、テレビ、週刊誌を相手に530件もの名誉棄損訴訟を起こし、大半を勝訴、あるいは事実上の勝訴と言える和解をした。

 ロス疑惑についての過熱報道をうっすら覚えているが、「無罪請負人」を読むまで三浦氏は殺人犯であるという印象を持っていた。三浦氏の弁護人を引き受けた弘中弁護士は最初から無罪を確信していたと述べている。幾多のマスコミ報道より、弘中氏の方が信頼できると私は思っている。

 三浦氏は週刊文春をはじめとするメディアに翻弄され、彼はむろんのこと、彼の家族の人生まで滅茶苦茶になった。発端となった週刊文春は無実の人間を罪に陥れ、自殺にまで追い詰めたと言える。しかも腹立たしいことには事件の元凶であるマスコミは誰も責任を取っていない。妻が殺され、その保険金を夫が受け取ったという外形的な事実をもとにストーリーを組み立てていったわけだろうが、もしもそのストーリーが外れていた場合のことを全く考えなかったのか。推定有罪というわけだ。外れた場合、どう責任を取るつもりだったのか。

 せめて三浦氏が無罪判決を受けたときには大きく報道して三浦氏の名誉を回復するとともに自分たちの誤った報道に対して謝罪の気持ちを表すべきであった。長い年月が経って確信はないが、私に無罪の記憶はない。最後になったが弘中淳一郎の「無罪請負人」はぜひお薦めしたい本である。村木厚子事件など、証人たちが検察に証言を都合よく曲げられていく様子がわかる。ストーリーに沿うように嘘を証言させられるのである。まさしく泣く子も黙る検察なのであるが、外面は正義の顔をしているから厄介である。

多数の神父による子供への性的虐待を告発した映画「スポットライト 世紀のスクープ」

2020-08-09 21:30:32 | マスメディア
 まだ観ていないが、現在上映中の「グレース オブ ゴッド 告発のとき」は子供に対する神父の性的虐待を取り上げたドキュメンタリー映画である。同種の映画では、2015年の「スポットライト 世紀のスクープ」を是非お勧めしたい。米国のボストンで数十年間、多数の神父達によって続けられてきた性的虐待がボストングローブ紙によって暴かれたが、その実話をベースにした映画である。題名のスポットライトとは同紙の調査報道班の名前である。ボストングローブ紙の報道班はピューリッツァー賞を受賞し、またこの映画はアカデミー賞2部門(作品賞、脚本賞)受賞している。

 ボストングローブ紙は2001年、カトリック教会で子供が神父に性的虐待を受けているとの情報を得、調査報道班は調査を開始した。翌年、同紙は600本近くの虐待記事を掲載、ボストンでは249名の神父が告発された。被害者は1000人以上。影響は世界に及び、同様の問題が明らかになった主な都市は206都市に上る(以上、映画より)。文字通り世紀のスクープである。いくつかの都市での問題発覚の際には日本でも報道されたが、ごく小さい扱いであった。

 この事件が起こした波紋は凄まじいものであったと思われる。日本では教会の存在感が薄いのでピンとこないであだろうが、尊敬されている神父がこともあろうに子供に性的虐待を継続的にしていたのである。教会の権威は地に堕ち、信仰心は大きく揺るいで、まさに天が落ちたような衝撃であったろう。ある男性被害者は神父に誘導され、オーラルセックスや性交(といっても一般とは少し異なる)をさせられたと証言する。性的虐待と言えばやや軽く聞こえるが、実態は神父という強い立場を利用してのレイプであろう。敬愛される神父という外形と、欲望を抑えられず、抵抗できない子供相手に淫らな行為を強要する犯罪者の内面とのあまりにも大きい。これほどの偽善は滅多にない。

 この経験が被害者の子供の心に大きい傷を与え、その影響は成人してからも続くとされる。耐え切れずに、何人かの自殺者もあったようだ。つまらない比較であることは承知の上だが、この神父達に比べれば元文部科学事務次官の前川喜平氏が夜な夜な出会い系バーに通われていたことなど、まことに可愛いものである。

 問題は神父たちの淫行を教会が知りながら組織として隠蔽していたという事実が明らかになったことである。つまり一部の少数の神父が偶然に起こしたものでなく、全世界で、かつ多数の神父によって数十年間も続いてきた「伝統」になっていたわけである。それはもうカトリック教会の属性と言ってよいほどである。教会の権威は強く、ボストングローブ紙の調査は様々な抵抗にあったとされる。強い信仰心は調査への障害となった。

 それにしても理解できないのは虐待神父が4%あるいは6%とも言われる事実である。通常の犯罪者の率から比べるとはるかに高い率はどう説明できるのだろうか。淫乱な男が神父という仕事を選ぶのか、あるいは神父という仕事が男を淫乱にするのか、多分妻帯を許さない不自然な慣行など後者の方だと思われるが、解明が待たれる。面白いのは、虐待が判明した神父達を罰しなかったのは「神はすべてを許される」という教えがあるからだという説明である。実にふざけた話である。

 ボストングローブ紙のスクープがカトリック教会の偽善を暴くことによって、教会は大きな改革を迫られることになった。また世界中の子供達は今後、教会で性的虐待を受ける恐れがほぼなくなった。ボストングローブ紙の調査報道班は実に素晴らしい仕事をしたわけである。日本の新聞記事は政府などの発表ものが8割と言われ、調査報道が少ない現状から見ると羨ましいが、そのボストングローブ紙も経営難らしい。記事の価値と収益とは比例しないのが悲しいところである。

「参考」 この問題に関する最近のBBC記事はこちら

クソ真面目ゆえか、鬼の心ゆえか、ALS協力医師逮捕

2020-08-02 21:28:36 | マスメディア
 ALS患者の林優里さんは自らの意志によって昨年11月に亡くなった。その直前、林さんは「完全閉じ込め症候群(TLS)」の症状が出ていたという。これは意識や聴覚はあるものの視力を完全に失った状態で、意思表示を視線入力装置に頼っていた彼女は意思表示の手段をすべて失う直前であったという。体のどこかが痛くても、苦しくても、排せつが終わっても、それらのことを伝えることが一切できない。これ以上の地獄があろうか。

 「武士道の切腹の際の苦しみを救うための介錯の美徳も知らぬ検察の愚かしさに腹が立つ。裁判の折り私は是非とも医師たちの弁護人として法廷に立ちたい」という石原慎太郎氏の発言があった。同感である。だが切腹の際の苦しみは数時間だが、ALSのそれは何年も続く。ALS患者の死の願いを断つことは「介錯」を止めるよりはるかに残酷・非人道的な行為である。

 この事件の立件を決めた人たちは数ヶ月も検討したというから、ALSの知識も十分得ていたことと思う。その上での逮捕なのだから、それがALS患者などが地獄の苦しみから逃れる唯一の道を断ってしまうことは分かっていたに違いない。このような事件に関わる検や警察の方々は鬼の心を持たないとできないだろう。

 あるいはクソマジメな方々ばかりであったのかもしれない。福島第一原発の事故のときのことである。計器・制御用のバッテリーの残量が少なくなり制御が困難になったとき、急遽、東京で新しいバッテリー1000個が調達され、トラックで福島に向かったところ、高速道路の入り口で危険物だから通せないと足止めを食い、結局24時間遅れることになった。現場は混乱の中、所員のマイカーから多数のバッテリーを集めて対応せざるを得なかった。高速道路への進入を阻止したのは超マジメ人間、原発事故など自分には関係なく、自分はただ規則を守ればいいという人物であったのだろう。重要物資なのだからパトカーの先導なとできなかったのか思うが、そこは民主党の菅政権であったので…。

 ALS事件に於いても検察や警察は自分たちは法に従ってクソマジメにやっただけだと思っているかもしれない。メディアの論調もそれを肯定するかのように、犯罪という側面に焦点を当てたものが圧倒的だ。他方、ALS患者の意図的な死については、ALS患者が死にたいと思わなくていいような環境を整えるのが先決、といった死を否定する意見を多く紹介していた。死以外に地獄から逃れる術はないというケースがあることを認めるような報道はなかった。生死を決めるのは苦しんでいる本人ではなく、他人であるという現状に疑義を呈するものは皆無であった。ALS患者の病状、心の状態は様々であり、よく知らない他人が一律に決定する事実は残酷であり、非人道的であり、そして愚かである。

 言うまでもないが、法は決して万能ではなく、社会の変化に応じて法も変わっていく必要がある。しかしそのプロセスは面倒が多い。手続きなどで時間がかかるだけでない。逆に法が価値観を固定している側面があるからではないか。憲法を変える国はいくらでもあるのに、日本憲法は70余年変更されなかった。時代は変わり国際環境も変わったにもかかわらずである。法はその時代の価値観を反映して決められる。法が価値観を決めるのではない。残念なことに古い時代に決められた法・憲法の価値観・見識を現代の価値観・見識であると認識している保守的な人々がいる。逆なのである。現実を法に反映すべきなのである。

 検察や警察に見て見ぬふりを求めるのはどうだろうか。彼らの裁量に頼る方法である。素早く法の不備を補うのはこれが有効である。しかし彼らに日本のシンドラー、杉原千畝(伝説には異論あり)になってもらうのは無理かもしれない。ただ重要なことは死以外には救う方法のない人がいるとという事実である。いかに少数であっても無視してはならない問題である。全く意思表示ができない「完全閉じ込め症候群」の患者を救済せずともよいのか。みんなで親切に介護して長く生きてもらうことは一見、感動的な話である。しかし本人にとってはどう考えても残酷すぎる仕打ちである。