崖に取り残された犬の救出作業の成功を見て安心する。川に迷い込んだアザラシの行方を心配する。或いは、動物の母親が子を育てる姿を見て、ほほえましく思う。これらは多数の人に共通する感情です。
一方、矢の刺さった鳥、撲殺された多数の白鳥などを見れば、多くの人は加害者の行為に強い不快感をもつことでしょう。
10月19日付朝日新聞の読書欄に「ぼくは猟師になった」という本の書評が載りました。評者は元朝日新聞編集委員の松本仁一氏です。松本氏の代表的な著書は「カラシニコフ」で、人を殺傷する銃器に関心がおありのようです。書評のタイトルは『渾身の力で「どつく」、命のやりとり』です。私はこの本を読む気がしないので、この書評に対して述べたいとおもいます。以下書評を要約します。
『京大を出て猟師になった男の物語である。野生動物が好きで獣医を志望するが挫折し、柳田民俗学に出会い、自然に敬意を払う生き方を知る。バイト先でわな猟と出会い、これだと思い、今は猟歴8年のプロである。
銃は遠く離れて命を奪うが、わなでは、捕まえた動物を自分の手で殺さなければならない。棒で後頭部を「どつく」のである。大きなイノシシをどつきそこね、逆襲されてあわやということもあった。命のやりとりなのである。動物の体を感じながら殺す。それによって「命を奪うこと」の重大さを知る。肉を与えてくれた動物に感謝しながら食べる。それは、スーパーのパック肉とは根本的に違うのだと、著者はいう。
本の後半は獲物をどう料理するかのレシピ集になっているが、それを削っても、猟の体験談をもっと書き込んで欲しかった』
私は殴り殺すという行為に強い不快感を持ちました。また、動物好きで獣医を志望するのはわかります。しかし挫折したから猟師になるというのはわかりません。猟師は動物の命を奪う立場です。好きだから殺して食べるという行為は まったく理解不能です(私はこの方には好かれたくありません)。スーパーのパック肉とは違うのだと都会の人間の無自覚さを批判しているようですが、自覚したからといって殺すことに胸を張ることにはならないでしょう。
書評の表題になった「命のやりとり」という表現にも違和感があります。イノシシに逆襲されたことを指しているのだと思いますが、わなで拘束されたイノシシと武器を持った人間が対等であるわけがありません。イノシシが殺されるのはほぼ確実で、命を「とる」ばかりです。「命のやりとり」という勇ましい表現は対等か、対等に近い状況で使うべきで、正当化や美化のために使うのは誤りです。圧倒的に優勢な者が、逃げる自由を奪った上、戦意のない劣勢なものに戦いを強制することは単に卑怯な行為というべきです。
『動物の体を感じながら殺す。それによって「命を奪うこと」の重大さを知り、肉を与えてくれた動物に感謝しながら食べる』とあります。そう考えることで、動物を殴り殺すという行為を正当化しているようですが、これも全く理解できません。「命を奪うこと 」の重大さとは、著者の食欲を満たすことと釣り合う程度のものなのでしょうか。他に食べる物がないというなら別ですが、現在の日本は飽食状態なのです。
どう考えようが、殺される動物が納得するわけはなく、ただ撲殺のような残酷な殺され方はされたくないと思うだけでしょう。
かつては火あぶりや切り刻みなどの残酷刑が広く行われました。また現在でも犬や猫を食べる地域があります。何を残酷と感じるかは時代により、また地域によって異なり、はっきりした基準はありません。しかし、英国では狐狩りが残酷だという理由で禁止されたように現代の先進国では残酷の基準が厳しくなっています。そのような感性が定着していると理解できます。
わなの規制についてもさまざまな議論があります。わなは目的の動物だけでなく、他の動物をも捕らえます。猟師が到着するまでに、わなによる傷のために死ぬことがしばしばあると聞きます。従って動物の家族から母親や子供を殺害して奪うと いう悲惨な事態を避けることは困難です。高等な哺乳動物を飼うと、彼らにも親子の感情や喜怒哀楽があることを感じます。
法に触れない限り狩猟は自由です。しかし如何なる理由をつけて正当化しても、多くの人が残酷で不快だと思う気持を消し去ることは難しいでしょう。理屈ではなく、感性の問題だからです。しかし一方で、動物の殺害を不快と感じない人たち、楽しみのために動物を殺す人達も存在します。そのような人は、この書評にある正当化(理解不能ですが)によって元気づけられることでしょう。
「自然に敬意を払う生き方」、「命のやりとり」、「動物に感謝しながら食べる」、このような言葉を弄して目を背けたくなるような行為を美化・正当化し、一般紙に掲載することは理解できません。松本氏が肯定的に紹介される行為、とりわけ撲殺の映像は正視に堪えないものでしょう。多くの本の中からこれを選び、不愉快な文章を掲載した朝日の見識は理解できません。動物愛護を推進するような記事はやはり偽善なのかと疑われます。
下は自民党動物愛護管理推進議員連盟に寄せられた一文ですが、このような感覚が特別なものとは思えません。
『現在、島根県知夫村でのタヌキのくくり罠による捕獲がテレビで放映されもがき苦しむ姿を見た多くの国民が胸を痛めております。また、その後は撲殺という残虐な行いは見るも聞くも耐えがたいものです。(中略)
どうか、命ある物に対しくくり罠のような危険で残酷な方法での捕獲が一刻も早く中止になりますようお力添えをお願い申し上げます』
一方、矢の刺さった鳥、撲殺された多数の白鳥などを見れば、多くの人は加害者の行為に強い不快感をもつことでしょう。
10月19日付朝日新聞の読書欄に「ぼくは猟師になった」という本の書評が載りました。評者は元朝日新聞編集委員の松本仁一氏です。松本氏の代表的な著書は「カラシニコフ」で、人を殺傷する銃器に関心がおありのようです。書評のタイトルは『渾身の力で「どつく」、命のやりとり』です。私はこの本を読む気がしないので、この書評に対して述べたいとおもいます。以下書評を要約します。
『京大を出て猟師になった男の物語である。野生動物が好きで獣医を志望するが挫折し、柳田民俗学に出会い、自然に敬意を払う生き方を知る。バイト先でわな猟と出会い、これだと思い、今は猟歴8年のプロである。
銃は遠く離れて命を奪うが、わなでは、捕まえた動物を自分の手で殺さなければならない。棒で後頭部を「どつく」のである。大きなイノシシをどつきそこね、逆襲されてあわやということもあった。命のやりとりなのである。動物の体を感じながら殺す。それによって「命を奪うこと」の重大さを知る。肉を与えてくれた動物に感謝しながら食べる。それは、スーパーのパック肉とは根本的に違うのだと、著者はいう。
本の後半は獲物をどう料理するかのレシピ集になっているが、それを削っても、猟の体験談をもっと書き込んで欲しかった』
私は殴り殺すという行為に強い不快感を持ちました。また、動物好きで獣医を志望するのはわかります。しかし挫折したから猟師になるというのはわかりません。猟師は動物の命を奪う立場です。好きだから殺して食べるという行為は まったく理解不能です(私はこの方には好かれたくありません)。スーパーのパック肉とは違うのだと都会の人間の無自覚さを批判しているようですが、自覚したからといって殺すことに胸を張ることにはならないでしょう。
書評の表題になった「命のやりとり」という表現にも違和感があります。イノシシに逆襲されたことを指しているのだと思いますが、わなで拘束されたイノシシと武器を持った人間が対等であるわけがありません。イノシシが殺されるのはほぼ確実で、命を「とる」ばかりです。「命のやりとり」という勇ましい表現は対等か、対等に近い状況で使うべきで、正当化や美化のために使うのは誤りです。圧倒的に優勢な者が、逃げる自由を奪った上、戦意のない劣勢なものに戦いを強制することは単に卑怯な行為というべきです。
『動物の体を感じながら殺す。それによって「命を奪うこと」の重大さを知り、肉を与えてくれた動物に感謝しながら食べる』とあります。そう考えることで、動物を殴り殺すという行為を正当化しているようですが、これも全く理解できません。「命を奪うこと 」の重大さとは、著者の食欲を満たすことと釣り合う程度のものなのでしょうか。他に食べる物がないというなら別ですが、現在の日本は飽食状態なのです。
どう考えようが、殺される動物が納得するわけはなく、ただ撲殺のような残酷な殺され方はされたくないと思うだけでしょう。
かつては火あぶりや切り刻みなどの残酷刑が広く行われました。また現在でも犬や猫を食べる地域があります。何を残酷と感じるかは時代により、また地域によって異なり、はっきりした基準はありません。しかし、英国では狐狩りが残酷だという理由で禁止されたように現代の先進国では残酷の基準が厳しくなっています。そのような感性が定着していると理解できます。
わなの規制についてもさまざまな議論があります。わなは目的の動物だけでなく、他の動物をも捕らえます。猟師が到着するまでに、わなによる傷のために死ぬことがしばしばあると聞きます。従って動物の家族から母親や子供を殺害して奪うと いう悲惨な事態を避けることは困難です。高等な哺乳動物を飼うと、彼らにも親子の感情や喜怒哀楽があることを感じます。
法に触れない限り狩猟は自由です。しかし如何なる理由をつけて正当化しても、多くの人が残酷で不快だと思う気持を消し去ることは難しいでしょう。理屈ではなく、感性の問題だからです。しかし一方で、動物の殺害を不快と感じない人たち、楽しみのために動物を殺す人達も存在します。そのような人は、この書評にある正当化(理解不能ですが)によって元気づけられることでしょう。
「自然に敬意を払う生き方」、「命のやりとり」、「動物に感謝しながら食べる」、このような言葉を弄して目を背けたくなるような行為を美化・正当化し、一般紙に掲載することは理解できません。松本氏が肯定的に紹介される行為、とりわけ撲殺の映像は正視に堪えないものでしょう。多くの本の中からこれを選び、不愉快な文章を掲載した朝日の見識は理解できません。動物愛護を推進するような記事はやはり偽善なのかと疑われます。
下は自民党動物愛護管理推進議員連盟に寄せられた一文ですが、このような感覚が特別なものとは思えません。
『現在、島根県知夫村でのタヌキのくくり罠による捕獲がテレビで放映されもがき苦しむ姿を見た多くの国民が胸を痛めております。また、その後は撲殺という残虐な行いは見るも聞くも耐えがたいものです。(中略)
どうか、命ある物に対しくくり罠のような危険で残酷な方法での捕獲が一刻も早く中止になりますようお力添えをお願い申し上げます』
あなたも私も「見るも聞くも耐えがたい」行為をする人を経て、牛肉を食べてます。
生きたまま腹を割かれる魚は「見るも聞くも耐えがたい残虐な行為」ではないのでしょうか?
現代の狩猟は生存に不可欠のものでなく、楽しみのためという部分が大きいと思います。必要度は高くありません。
必要度の大きい食肉とは同列に考えられないと思います。
しかしそれを新聞に載せ、それを広めるような行為は、今の時代の感性に合わないと思います。
しかし鯨と牛の場合のように残虐性に対する感覚は国や人によって様々ですから、一致はなかなか難しいこともわかります。
魚類と哺乳類を一緒に議論するのではなく、神経系の発達程度によって分けるべきだと思います。
それから牛の場は知りません。
やむを得ない場合でも痛みを与えない方法を使うべきだと思います。罠はもっての他 ボクは菜食主義です。