「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

鹿児島市照国町  「 島津忠義公の像 」

2018-02-12 15:55:03 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣



鹿児島市の照国神社にある島津忠義公の立像





















島津忠義は、幕末から明治時代の大名、華族。
薩摩藩の第12代 ( 最後 ) の藩主で、島津氏第29代当主。
官位は従一位参議。勲等は勲一等、公爵。

幼名は壮之助。通称は又次郎。
元服後の初名は忠徳 ( ただのり ) だったが、
藩主在任中は茂久 ( もちひさ )を名乗る。
なお、忠義は維新後の慶応4年 ( 1868年 ) 1月16日に改名した諱である。
第125代天皇・明仁の曽祖父である。

島津氏分家の重富家当主・島津忠教 ( 久光 ) の長男として生まれる。
伯父・斉彬の養嗣子となり、安政5年 ( 1858年 ) の斉彬没後、
その遺言により跡を継ぐこととなった。
遺言では斉彬の子・哲丸が幼少のために仮養子という形だったが、
ほどなくして哲丸は死去した。
しかし、藩政の実権は当初祖父の斉興、
次いで後見人となった父・久光 ( 忠教 ) や
西郷隆盛、大久保利通らに掌握され、
忠徳自身は若年ということもあり、主体性を発揮することはなかった。
( ただし、忠徳が実権を取り戻そうとしなかったことが
薩摩藩が一致して倒幕運動を行うのに寄与した面もある ) 。

安政5年 ( 1858年 ) 2月7日、
江戸城で江戸幕府第14代将軍・徳川家茂に謁見し、
家茂から偏諱 ( 「 茂 」の字 ) を授かって島津茂久と改名した。


村田愛里咲選手のモーグル と 鬼塚 雅選手のスノボー

2018-02-12 11:02:41 | お題

昨日、18位に終わったが、
北九州市若松区出身の村田愛里咲選手が出場したモーグルと、
熊本市出身の鬼塚 雅選手が出場するスノボー。
どちらも開幕前から楽しみにしていた競技である。

雪の少ない九州からのオリンピック参加に応援せずにはいられない。

 「 しっか 頑張んなっせ! 」


第7位 みずがめ座 今日のラッキーポイント 「 お揃いグッズ 」

2018-02-12 06:00:02 | 今日の占い ・ 二十八宿とコトバ






今朝は鋭く尖った三日月が東へ移動し、
薄っすらと雲がかかっていた。
そのとき雪は降っていなかったが、
道路以外は真っ白に雪化粧し、
半ば凍った道路は霜柱のように突起して
踏むとザクザクと音を立てた。
そんな今日の順位は7位で、
ラッキーポイントは、
「 お揃いグッズ 」 である。

予定通りに行かずオロオロしそう
こんな時は焦らず時間を掛けて解決しよう!



    今日のコトバ

 神は呼び掛ける声よりもすすり泣きのほうに先に気づく

 ( アウグスティヌス 354~430  キリスト教の思想家 )



北九州市八幡西区 ・ 黒崎風景 「 国道3号線 」

2018-02-12 00:49:32 | 写真



告別式の帰り歩道橋から眺めた国道3号線






昨日、仲の良かった同級生の告別式で黒崎まで行って来た。
突然の死だっただけに、電話を受けた時は嘘だろうと思っていた。
ホントにまさかまさかの別れだった。

長距離の運転手をしていた彼に電話を入れると、
いつも嬉しそうな声が戻ってきていた。
「 いま川越におるんよ 」 とか 「 名古屋におる 」 と言って、
話したことが昨日のように思える。

喪主を務めた弟さんが、
「 競輪選手の方は? 」 って訊いて来て、
「 あっ、俺! 」 って言うと、
「 兄からいつも話を聞いています 」 と言っていた。

高校の時は写真部の部長だった彼から、
焼き付け機を譲ってもらったことがある。
それでマサイチモンジの写真に焼き付けた詩が
テレビの競馬中継で紹介されたことや、
八幡市民会館でバイトした帰りに
水巻の炭鉱住宅の建て増しした友だちの3畳の部屋で、
バイトした金で買ったサントリーレッドを飲みながら
5人で寝るのも惜しんで将来の夢を語った。
そんなことが思い出される。

ビートルズを真似て髪と髭を伸ばし、
「 我が良き友よ 」 の歌ではないが、
みんなバンカラだった。


さらば友よ
いつか
また 会おう!