寿永四年( 1185年)、平家追討の任務を受けた源義経は、
壇ノ浦の合戦に望んで武運の守護神と仰ぐ富士浅間の大神の御神助を請い、
平家が布陣を整える彦島を望む有明山 ( JR下関駅東口付近 ) に小松を植え、
篝火を焚き、二日二夜 ( 七日七夜とも云われる ) の斎戒沐浴をして戦勝祈願をこめた。
その後、祈念を注いだ桑の弓矢をもって平知盛率いる平家軍に開戦の矢文を射込んだ。
驚いた平家軍は急遽、壇ノ浦に軍船を進め一戦を挑んだが、
待機していた源範頼の軍勢と義経軍との挟み撃ちに合い、敢え無く滅亡したと云う。
翌年の文治二年 ( 1186年 ) 、四軒の漁民が義経の祈願の有様を畏敬して、
神祠を祀ったことが大歳神社の起源とされる。
爾来、武運長久の神としての御神威は光輝を益し、
文久三年 ( 1863年 ) 、馬関攘夷戦に際しては、
高杉晋作の唱導により奇兵隊が氏子・白石正一郎宅にて結成され、
維新回天の大業に勇名を馳せた。
その時の奇兵隊旗揚げの軍旗は大歳神社に奉納された。
翌元治元年 ( 1864年 ) 折りしも四国連合艦隊との交戦となったが、
正一郎は攘夷成就を祈請して大鳥居を奉納した。
(鳥居横詳細文有)、その後下関の発展とともに昭和十五年 ( 1940年 ) 関門鉄道トンネル工事の際、
社地が鉄道線路敷地に接収され現在の高台に遷座されたが、
御神威はいよいよ高く本州最西端の鎮護の神と仰がれている。
殊に、下関において源氏と縁のある唯一のお社であることから、
古来より勝運の神として崇められ、現在は心願成就のお社としても広く知られている。
七卿落ちの画碑
維新の史跡 ( 大鳥居 )
明治維新の原動力となった奇兵隊の果たした役割は周知の通りであるが、
創設者高杉晋作を信奉して尊皇討幕の推進に全資産を投入し、
これを援助した豪商志士白石正一郎の功績は計り知れないものがある。
この正一郎は敬神の念厚く文久二年 ( 1862年 ) 、
氏神大歳神社に大鳥居を奉納して攘夷必勝を祈念した。
参道 ( 石段 ) の下の鳥居がそれであるが、
終始表に出ることなく陰の力に徹した正一郎の足跡を残す数少ない史跡である。
また京都における文久三年 ( 1863年 ) 八月十八日の政変によって
三条実美ら勤王の公卿七人が西下し、下関巡視の際には白石邸にも宿泊した。
その七卿落ちの有様を画碑として境内に建立している。
白石正一郎 ( 通称名 ) 越智 ( 源流・・四国越智家 ) 資興 ( 忌み名 )
忌み名である資興 ( すけおき・しこう ) は、
毛利家に興丸君( 後の毛利元昭・毛利宗家二十九代当主 )が誕生されたことにより
資風 ( すけかぜ・しふう ) と改めた。
毎年七月下旬に正一郎を顕彰する資風祭を白石正一郎旧宅地前で執り行っている。
義経戦捷の弓
「 平家追討のため西下した義経は、
平家の本陣彦島と対峙する有明山 ( 竹崎町 ) に大歳神を祭り、
桑の木で弓矢を作り、神前に供えたのちその矢を彦島に向けて射込み、
戦勝を祈願したここから、のち地元の人たちがその地に、大歳神社を創建したという。 」
境内にある 「 八坂神社 」 と 「 蛭子神社 」
大歳神社から壇ノ浦方面の眺望