ザニューヨーカーに記事が載っている。書いてある内容はベルリナーフィルハーモニカー合衆国ツアーに関して、シカゴやボストンで評されていたり、コメント欄に書き込まれていたことと共通していて、そこにあったカーネギーからボストンへと追っかけて回った筆者の記事である。
これは時間をおいた記事だけにその後の若い指揮者とコンセルトヘボ楽団の演奏会も扱って、如何にその世界が異なるかでそのペトレンコ指揮の芸術に光を当てるような記事となっている。
それどころか前任者ラトルとの差異を浮かび上がらせている。その完璧さを求めての日本で頻繁に評される「猛獣使い」指揮とその彼に楽団との関係を「論争好きで自尊心強く、インテリ」だと語らせ、何故上手くいかなかったか、それに対してそれ程期待されていなかったペトレンコがどのように指揮をしているかを綴る。
そして今の現状は、フルトヴァングラーのその哲学的なオーラを今に伝える同一的な群としての有機体というよりも融和同化しない声な楽団だとしている。その例として最初の曲「死の島」でのそれは計算された不一致だとして、オールを漕ぐようにチェロ、コントラバス、ヴェンツェルのティムパニ、ラングラメのハープが入ってくる受け渡しの繋がりだという。
このことは特にスカラ座デビュー後の顕著な音楽表現でありなによりもアーティキュレーションを活かしたその歌い口とここで再三再度評している指揮の進化である。
更に新入りの曾韵がホルンソロを担って、深く暗い音を出して、人気奏者ドールと張り合っているというのである。高く低く三次元的な音響として特筆されている。まさしくフルトヴェングラー時代の音響を引き継いでいるというのだろうか。正しくドールにはないものだ。
そのホルンとオーボエ、クラリネットの私で嚙んだというやつである。然しその理解の難しいブルックナー交響曲五番がボストンでの演奏でははっきりしてきて、漸く呑み込めたというのだ。まさしく指揮者が何度も演奏して真面に演奏できるようになる目標として定めたところにたどり着いたという証になっている。
それはパズルのようにブルックナーが嵌め込んだ楽想がフックスのクラリネットによって終楽章で表されるように、コメディーとして理解されたという。それはまさしく自笑ではなく突き放した自己省察となる知的な演奏行為ということで、オクターヴ下降がフガートとなり、祝祭的なチェロとバスの再現部はラグビーのスクラムの様に押出し、管の総奏はブラスバンド途への咆哮へと突き進む。そこでティムパニーのフォーゲルの記譜されていないスタンドプレーが大フィナーレへと推し進める。
ペトレンコの指揮が如何に奏者の各々の音楽性の発露を引き出し、それが一つになる時に自ずから超越していくのだという説明にもなっている。そしてその歌い口こそがベルリナーフィルハーモニカーであって、ラトルの様に派手にではなく20世紀音楽においてもより深く、独墺音楽においても為しているものだということを語っている。夏からの成果が漸く合衆国で正しく評価されている。
参照:
The Berlin Philharmonic Doesn’t Need a Star Conductor, Alex Ross, The New Yorker of Dec.9, 2024
誠心誠意に演奏する 2024-11-30 | マスメディア批評
祝祭的でないブルックナー 2024-11-24 | マスメディア批評
これは時間をおいた記事だけにその後の若い指揮者とコンセルトヘボ楽団の演奏会も扱って、如何にその世界が異なるかでそのペトレンコ指揮の芸術に光を当てるような記事となっている。
それどころか前任者ラトルとの差異を浮かび上がらせている。その完璧さを求めての日本で頻繁に評される「猛獣使い」指揮とその彼に楽団との関係を「論争好きで自尊心強く、インテリ」だと語らせ、何故上手くいかなかったか、それに対してそれ程期待されていなかったペトレンコがどのように指揮をしているかを綴る。
そして今の現状は、フルトヴァングラーのその哲学的なオーラを今に伝える同一的な群としての有機体というよりも融和同化しない声な楽団だとしている。その例として最初の曲「死の島」でのそれは計算された不一致だとして、オールを漕ぐようにチェロ、コントラバス、ヴェンツェルのティムパニ、ラングラメのハープが入ってくる受け渡しの繋がりだという。
このことは特にスカラ座デビュー後の顕著な音楽表現でありなによりもアーティキュレーションを活かしたその歌い口とここで再三再度評している指揮の進化である。
更に新入りの曾韵がホルンソロを担って、深く暗い音を出して、人気奏者ドールと張り合っているというのである。高く低く三次元的な音響として特筆されている。まさしくフルトヴェングラー時代の音響を引き継いでいるというのだろうか。正しくドールにはないものだ。
そのホルンとオーボエ、クラリネットの私で嚙んだというやつである。然しその理解の難しいブルックナー交響曲五番がボストンでの演奏でははっきりしてきて、漸く呑み込めたというのだ。まさしく指揮者が何度も演奏して真面に演奏できるようになる目標として定めたところにたどり着いたという証になっている。
それはパズルのようにブルックナーが嵌め込んだ楽想がフックスのクラリネットによって終楽章で表されるように、コメディーとして理解されたという。それはまさしく自笑ではなく突き放した自己省察となる知的な演奏行為ということで、オクターヴ下降がフガートとなり、祝祭的なチェロとバスの再現部はラグビーのスクラムの様に押出し、管の総奏はブラスバンド途への咆哮へと突き進む。そこでティムパニーのフォーゲルの記譜されていないスタンドプレーが大フィナーレへと推し進める。
ペトレンコの指揮が如何に奏者の各々の音楽性の発露を引き出し、それが一つになる時に自ずから超越していくのだという説明にもなっている。そしてその歌い口こそがベルリナーフィルハーモニカーであって、ラトルの様に派手にではなく20世紀音楽においてもより深く、独墺音楽においても為しているものだということを語っている。夏からの成果が漸く合衆国で正しく評価されている。
参照:
The Berlin Philharmonic Doesn’t Need a Star Conductor, Alex Ross, The New Yorker of Dec.9, 2024
誠心誠意に演奏する 2024-11-30 | マスメディア批評
祝祭的でないブルックナー 2024-11-24 | マスメディア批評
然し、上の評で言うとなかなかの音を出していたような。