(承前)ヨハネス・オケゲム創作のミサ曲「ミミ」は、各曲の冒頭に現れるモットーが、全曲を統一的に形作るので、そのように呼ばれるが、それは対旋律に当たり、実際は低音に現れるミラの下降音形がこの曲のモットーとなっている。
この曲が、少なくとも、この聖週間に適当なミサ曲とする大きな根拠は、そのグロリアの作曲と同時に第四と呼ばれる教会旋法のようだ。これはヒポ・フリージアとも呼ばれて、フリージア旋法の四度下で始まる。つまり、シドレミーのミが基音となって、ミファソラーの倍音列のハーモニーを形作るラがこの旋法の響きを定める。
こうして、その儀式上の核心である十字架への茨の道と嘆きを表わす旋法として、これが使われているとされるのだが、耳につくグレゴリオ聖歌の特徴的な節回しで始まる、クレドにおける表現をそのテキストの内容と重ねながら見ていくと面白い。
例えば、
visibílium ómnium et invisibílium;
前半のレーレレレ・ドの「見えるもの」に対する後半の「見えないもの」での抑揚は、次の一節において、イエス・キリストの世界と重ねられる。:
Et in unum Dominum Jesum
そして「イエス・キリスト」がファーファ・ファファで明示されて、
Jesum Christum
それが、
Filium Die
「神のひとり子」として、ラーソソーファーミミーで、再定義される。
Deum de Deo, lumen de lúmine
「神よりの神、光よりの光」で、輝かしく構築されて頂点を築くと、
propter nostram salutem
「わたしたちの救いのために」と、低声部に下行のミーラ・ラーファラシ・ドーの「ミラのモットー」が響き、ファーミ・ミラーソ・ソファーミ・ミーと上声部がそれを受けて、 ファ か ら ミ へ の変遷、つまり神の子から人の子への 降 り る 方向へと音楽付けされて、それに続いて言葉に合わせて上下行の音形が添えられるが、飾りのような音楽的意味付けとなり、一部を終える。
その次の「からだを受け」の二部は、あたかも体内に篭ったように進んで短く終える。そして、
Crucifixus etiam pro nobis
sub Póntio Piláto
このように始まる三部は、「ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ」の「わたしたちのため」がドファーミ・ミと、「に」のララ・ドーが上行して、二声が薄く絡まってまさにキリストとわたしたちの関係が高く結び掲げられる。
特にこの箇所は、この作曲の特徴を表わしていると言っても良く、磔の肉感も強調されず、さらに具体的に可能な描写もほどほどに、またしてその神秘的な象徴が強調されるのでもない。また悲嘆もほどほどで、その和声と共に、現実感のなかに客観性があって、現代の我々にとっても、大変親近感が持てるように思われるが、どうであろう。
それに続く、
cum gloria
この四部に当たる、「栄光のうちに」の一行が上行するドファファファーと力強く組み合わされると同時に、カトリックの教義へと内容は深入りして、20世紀のヴァーベルンの作曲のように、突如音楽的にも複雑さを増して行くのである。
こうした主観と客観のあり方の中庸さがこの作曲家の持ち味であって、更に時代の感興・環境ではないかと思うのだがどうだろうか?後継者のデ・プレにおけるような言葉のシラブルによる細かな表情がつけられていないことは、そもそも厳密な定義よりも日常的な意味合いを重視することであり、ある意味後継者がパロディーミサと呼ばれるような世俗的なモットーによって、その厳密なドグマから逃れるような技を見せたのとは対象的として良いかとも思われる。
その意味から、このモットーの元歌となる世俗的シャンソンは既に最近の研究によって知られているが、先ずはこのミサ曲を味わうには特別な意味を持つ訳でもなさそうで、寧ろこうした全体像をもって、その表現の妙をみて行きたいと思わせる。
総じて、素朴とは正反対にある技巧と芸術であるが、そこに創造されるものは精神とも肉体とも分ち難い、また葛藤することも無い、さりとて主観的なドグマからも離れた客観的な視野が働く、至極中庸な思考世界であろう。敢えて言えば、明らかにその世界観や観念から一世代前に属する作曲家オケゲムに賛辞を惜しまなかったとされるエラスムスの人間性すら、垣間見た思いがするのである。(終り)
録音:
Hilliard Ensemble
Cappella Pratensis
Clerks' Group
この曲が、少なくとも、この聖週間に適当なミサ曲とする大きな根拠は、そのグロリアの作曲と同時に第四と呼ばれる教会旋法のようだ。これはヒポ・フリージアとも呼ばれて、フリージア旋法の四度下で始まる。つまり、シドレミーのミが基音となって、ミファソラーの倍音列のハーモニーを形作るラがこの旋法の響きを定める。
こうして、その儀式上の核心である十字架への茨の道と嘆きを表わす旋法として、これが使われているとされるのだが、耳につくグレゴリオ聖歌の特徴的な節回しで始まる、クレドにおける表現をそのテキストの内容と重ねながら見ていくと面白い。
例えば、
visibílium ómnium et invisibílium;
前半のレーレレレ・ドの「見えるもの」に対する後半の「見えないもの」での抑揚は、次の一節において、イエス・キリストの世界と重ねられる。:
Et in unum Dominum Jesum
そして「イエス・キリスト」がファーファ・ファファで明示されて、
Jesum Christum
それが、
Filium Die
「神のひとり子」として、ラーソソーファーミミーで、再定義される。
Deum de Deo, lumen de lúmine
「神よりの神、光よりの光」で、輝かしく構築されて頂点を築くと、
propter nostram salutem
「わたしたちの救いのために」と、低声部に下行のミーラ・ラーファラシ・ドーの「ミラのモットー」が響き、ファーミ・ミラーソ・ソファーミ・ミーと上声部がそれを受けて、 ファ か ら ミ へ の変遷、つまり神の子から人の子への 降 り る 方向へと音楽付けされて、それに続いて言葉に合わせて上下行の音形が添えられるが、飾りのような音楽的意味付けとなり、一部を終える。
その次の「からだを受け」の二部は、あたかも体内に篭ったように進んで短く終える。そして、
Crucifixus etiam pro nobis
sub Póntio Piláto
このように始まる三部は、「ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ」の「わたしたちのため」がドファーミ・ミと、「に」のララ・ドーが上行して、二声が薄く絡まってまさにキリストとわたしたちの関係が高く結び掲げられる。
特にこの箇所は、この作曲の特徴を表わしていると言っても良く、磔の肉感も強調されず、さらに具体的に可能な描写もほどほどに、またしてその神秘的な象徴が強調されるのでもない。また悲嘆もほどほどで、その和声と共に、現実感のなかに客観性があって、現代の我々にとっても、大変親近感が持てるように思われるが、どうであろう。
それに続く、
cum gloria
この四部に当たる、「栄光のうちに」の一行が上行するドファファファーと力強く組み合わされると同時に、カトリックの教義へと内容は深入りして、20世紀のヴァーベルンの作曲のように、突如音楽的にも複雑さを増して行くのである。
こうした主観と客観のあり方の中庸さがこの作曲家の持ち味であって、更に時代の感興・環境ではないかと思うのだがどうだろうか?後継者のデ・プレにおけるような言葉のシラブルによる細かな表情がつけられていないことは、そもそも厳密な定義よりも日常的な意味合いを重視することであり、ある意味後継者がパロディーミサと呼ばれるような世俗的なモットーによって、その厳密なドグマから逃れるような技を見せたのとは対象的として良いかとも思われる。
その意味から、このモットーの元歌となる世俗的シャンソンは既に最近の研究によって知られているが、先ずはこのミサ曲を味わうには特別な意味を持つ訳でもなさそうで、寧ろこうした全体像をもって、その表現の妙をみて行きたいと思わせる。
総じて、素朴とは正反対にある技巧と芸術であるが、そこに創造されるものは精神とも肉体とも分ち難い、また葛藤することも無い、さりとて主観的なドグマからも離れた客観的な視野が働く、至極中庸な思考世界であろう。敢えて言えば、明らかにその世界観や観念から一世代前に属する作曲家オケゲムに賛辞を惜しまなかったとされるエラスムスの人間性すら、垣間見た思いがするのである。(終り)
録音:
Hilliard Ensemble
Cappella Pratensis
Clerks' Group