デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



祭壇は聖カテリーナの墓でもある

前回の「つづき」といえばつづきである。

アンドレイ・タルコフスキー監督が撮ったイタリアを舞台にした映画『ノスタルジア』(1983)に、ドメニコという登場人物がいる。映画の中でドメニコは、篤い信仰ゆえ7年間家族を家に閉じ込めて世界の終末を待つのだが、そのドメニコが宣託を受けそれを与えたとされているのが、シエナの聖カテリーナである。彼女は、現在、イタリア全土の守護聖人とされている。(ちなみに、まぎらわしいようだがアレクサンドリアの聖カテリーナとは異なる)
『ノスタルジア』の重要なシーンにローマも使われていることを知り、またシエナの聖カテリーナの墓もローマにあると知ってからは、ぜひその舞台や墓を訪れてみたくなった。きっと監督にしてみても、シエナの聖カテリーナへの思いはそれなりに強かったと思うのだ。(私個人の憶測の域を出ないが、)監督の1979年のローマ滞在中、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会の聖カテリーナの墓を訪れていた可能性は充分にあることだし。
映画の登場人物はドメニコ、シエナの聖カテリーナが属していたのがカトリック教会のドミニコ会、ミネルヴァ教会はドミニコ会の重要な教会堂、なんたる「つながり」かと、現地では気づかなかったが、これを書いている今なら、その「偶然」にちょっと微笑んでしまう。

それにしても、私にとって『ノスタルジア』からの影響は、未だに大きいのだと墓を訪れてみて改めて思ったのだった。タルコフスキー映画に出会ったのは、ドストエフスキー作品やプルーストの『失われた時を求めて』を、乱読するまま集中的に読んでいた時期だった。記憶の反復や、意識の断片をつなぎ合わせるといった効果を、静謐な映像美でもって金の箱に詰めるが如く描写・表現してしまう、これまで見たことのない映画であった。映画の手法や、作品に出てくるドメニコの自己犠牲の精神や監督の理想の探求の背景に、プルーストの作品や、ドストエフスキーの『白痴』、ガルシンの『赤い花』などの主人公、キリスト教の聖人たちの影響があることは、監督のことや映画について調べていくうちに分かるような気がしてきたし、同時に映画のロケ地に行ってみたいと思うようになった。

ロケ地として使用されたカンピドーリオ広場にも足を運んだ。





















写真は順に、コンセルヴァトーリ宮の柱、市庁舎への階段、アラコエリ教会の別入口への階段、マルクス・アウレリウス帝の騎馬像、カンピドーリオ広場への坂の階段である。
映画のシーンと私の写真などとが同じように写るはずはないのを分かりつつ、興奮のまま広場の姿をカメラと目に焼き付けようとしたのを覚えている。映画のなかで、ドメニコの愛犬ゾイが絶叫するコンセルヴァトーリ宮の柱や傍の階段では、一休みする観光客がなかなかその場を離れず、正直ちょっとイライラしたものだ。でも、コンセルヴァトーリ宮全体を撮らず、一心に柱のある部分だけを凝視しカメラを動かさずじっと立っている私の姿は、怪しいというか変な奴だったに違いないだろう。
カンピドーリオ広場にしばらく立ち尽くしてから、市庁舎下の遺跡群をじっくり見た。水飲み場の水を飲み、再び広場に戻ってから、イル・ジェズ教会に行くため、丘からヴェネツィア広場へ向かおうとした。そのとき、どこかの国の団体ツアーの女性ガイドの口から「タルコフスキー、ノスタルジア」という言葉が発せられたのを聞き取れた。あぁ、あの映画のことをツアーでの解説に盛り込むガイドも存在しているのだなぁと嬉しくなった。解説の中に監督のその後のこと(※参照)が語られていてほしいなどと、ただのいち映画ファンのおこがましい願いを抱きつつ、団体の傍を通り過ぎ、坂の階段を下りた。夕方になろうとしていた。

※(ソ連内での作品制作にいたるまでの障害に疲れ果てた監督は、『ノスタルジア』のあと、そのまま西側にとどまり、二度とロシアの地を踏むことはなかった。次作『サクリファイス』を発表した1986年の12月28日、監督は肺がんのためパリで客死、葬儀はパリのロシア正教会で行われ、遺体はパリ郊外の亡命ロシア人墓地に埋葬された。)

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