デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 




 敷設された当時から、アッピア街道は、ローマ時代の公共建造物に一貫した方針、というより哲学であった、堅固、機能性、美観のすべてをそなえていたと言われている。立案者で工事の最高責任者でもあったアッピウスは、街道の平坦度を確かめるために、サンダルを脱いで素足で歩いてみたという。また、幹線中の幹線であっただけに、修理修復には手を抜かなかった。ローマ人はそのために専門の官職を設置して、その人に全権を与えている。動脈であるのだから、血液の通りに支障がないよう努めるのは当然であった。現在見られるような、すり減った丸石の間に風が運んできた土がたまった状態の道では、馬を駆っての一日の踏破距離距離七十キロは絶対に消化できない。あれでは馬が転倒するであろうし、転倒しないとしてもさしたる距離は踏破できないはずで、街道の脇に広がる平原を疾駆したほうが、よほど早くしかも安全に目的に地に着けたにちがいないのである。ローマ時代のエンジニアたちは、百年間は修理の必要の無い道をつくったと豪語したが、敷設当初の状態を維持したければ、不断のメンテナンスは絶対に必要だった。六世紀になってアッピア街道を通ったビザンチン帝国の一高官は、敷設してから八百年が過ぎていながら完璧な状態を保っているのに驚嘆している。
塩野七生『すべての道はローマに通ず(ローマ人の物語Ⅹ)』(新潮社)p41~42




私が持って行ったガイドブックには、往時のアッピア街道を描いた絵(想像図?)が載っていたのだが、それと今に残っている街道の様子とは全く違うと言っていい。
しかし、一応、昔の路面だけじゃなく、排水溝の跡を探してはみた。


昔も同じような風景だったのだろうか

街道の脇は本当に広々としていた。








街道脇に糸杉と唐傘松が立つ

唐傘松などは帝国崩壊後に植えられたそうである。
ローマの中心から離れ、南東へ南東へと進むと、だんだん人通りが少なくなっていった。


墓所だろうか。



碑文

この石を見たとき、街道を行く者の一休みの場として、ぜひとも座ってみたくなった。そこでなぜだか、プルーストの『失われた時を求めて』の「ゲルマントの方へ」に出てくる、主人公がサン=ルーが滞在しているところの小さな特別階段について触れている箇所を思い出した。

はじめてこの階段に足をのせたとき、私は、長く使われた品物だけに特有の、あの努力を省かせてくれる何かを感じた。私がまだ知らないうちからこの階段は、親しみを覚えさせるものになっていたのであり、たぶん昔の主人たちを毎日迎えていたために、そこにしみつき一体化していたのだろうが、まるで習慣の持つ心地よさをあらかじめ備えているかのようであった。
M・プルースト『失われた時を求めて(第5巻)』鈴木道彦訳(集英社)p138

時間の限られた早足の旅行とはいえ、ここはちょっと幸せな気持ちに浸らせてもらったように思う。ただ、昔のローマ人からしたら、「座る場所のために建てたんじゃないたんだよ!」というのが本音かもしれない。


「英雄のレリーフ」

「英雄のレリーフ」の名で呼ばれる遺跡のところまできた。事前に調べたところ、共和政時代につくられた男性の像とのことだが、レプリカとのことである。





墓所が見えてきた



「Marcus Serviliusの墓」

つづく

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