デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



パンテオン(Pantheon)

 しだいにしだいに、あらゆる神々はひとつの《全体》のうちに神話的な融合を遂げ、同じひとつの力の無限に多様な発現、いずれも等しい現われであり、神々のあいだの矛盾は調和の一様態にすぎない、と思われてきた。そして万神を祭る神殿――パンテオン――を、ぜひとも建立したいと願うようになった。アウグストゥスの女婿アグリッパによって民衆に捧げられた古い公共浴場のこわれ去ったあとの土地を、わたしはその神殿の敷地にえらんだ。その古い建物は、柱廊と、ローマ市民への献辞をしるした大理石板のほかは何も残っていなかった。その大理石板は新しい神殿の正面に、注意深く原形のまま据えつけられた。わたしの思想そのものであるこの記念すべき建造物にわたしの名がするされるということはたいして重要なこととは思えなかった。反対に、一世紀以上も年経たこの古い銘文が、帝国の初期、アウグストゥスが平和をもたらした治世に、この建物を関係させる点がわたしの気に入った。わたしは自分が革新した事柄においてさえ、自分を何よりもまず継続者と感じるのを好んだ。わたしの公式の父となり祖父となったトラヤヌスやネルヴァよりもさらにさかのぼって、スエトニウスの史書のなかでひどい扱いをうけている十二人のカエサルたちにすら自分とのつながりを見だした。(…中略…)この君主たちは人間的諸問題においてそれぞれの役割を演じたのであって、今後、このわたしがなさねばならぬ務めは、彼らの行為のなかから継続すべきものを選び、最上のものを強固にしに、最悪のものを改め、かくして将来、わたし以上に資格のあるか、わたし以下かはしらぬが、しかしわたしと同じく責任を負うた人びとが、いまわたしがしているようなふうにわたしの行為をとりあげるにいたるその日まで、その務めを果たすことであった。
『ハドリアヌス帝の回想』(ユルスナール・セレクション1、白水社)p181-182


多田智満子訳のM・ユルスナールの『ハドリアヌス帝の回想』(1951)を読んだのはロシア文学やカフカを読んでいた頃だったが、数ページ目を通しただけで「何じゃこりゃ!?」と戸惑ったのを覚えている。当時はローマ帝国やそのなかの皇帝の一人について全くといっていいほど知らず、須賀敦子の『ユルスナールの靴』を読んだだけで『回想』も読めるのではといったうぬぼれた自信は、瞬時に崩れ去った。
しかし、今となっては、ハドリアヌス帝のことを事典で調べたくらいの知識のまま、自分にとって前衛的かつハードルの高い作品を背伸びして読んでおいてよかったと思っている。ローマへの旅の大いなるきっかけにもなった、『ローマ人の物語』と『回想』とを繰り返し参照する楽しさも与えてくれた、『回想』にある廃墟を再建する考え方と出会えて自分の嗜好をはっきりさせてくれた、『回想』の想像的自伝という方法が凝り固まった了見の狭い私の文学観を壊してくれた、など、とにかく私にとってはこの上ない影響を与えてくれている傑作の一つである。

ローマにいたとき、ローマ帝国の建造物で唯一完全な形で今に残るパンテオンはぜひとも見たかった。トッレ・アルジェンティーナ広場から歩いて北上したのだが、小路みたいな道路なので本当にパンテオンなんてあるのかどうか、不安に思いつつ足を進めたことを覚えている。


碑文の「M.AGRIPPA.L.F.COS.TERTIVM.FECIT」。意味は「ルチウスの息子にして三度執政官を務めたマルクス・アグリッパ(この神殿を)建立した」。




両側の扉は建築当時のものらしい

パンテオンのファザードと、中への入口に立っただけで、あぁ来てよかったと思えた。


V.エマヌエーレ2世の墓

V.エマヌエーレ2世はイタリア統一の立役者で初代国王だった。


天窓から入る光は刻々と位置を変える





聖母子

前27年、アウグストゥスが即位した年、彼の右腕のアグリッパが、アウグストゥスを生き神様として祀る計画でアウグストゥス神殿を着工した。しかしアウグストゥスは皇帝になったばかり、時期尚早と判断してその計画を中止させた。代わりにローマの神々および神となったカエサル像を祀った。これがパンテオンである。パンテオンは「神々の神殿」とも「神々の霊廟」とも、どちらの意味にもとれるようである。
パンテオンの形は、ハドリアヌス帝が再建したことで今に残る形となった。パンテオンについてはまた次回

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