デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



『廻廊にて』の存在を知るまで、辻邦生という名前を忘却していたわけだが、運命とか宿命とか考えない私でも、ここ数日『背教者ユリアヌス』については、いつか読むことになる、もしくは読むようになるように不思議と導かれたように思っているのだ(笑)。
『背教者ユリアヌス』に導いた体験について昔話から始めさせてもらえば、作品との出会いは10年以上も前にM・ユルスナールの『ハドリアヌス帝の回想』を訳もわからずに読んだ頃で、ふと古本店の書棚に中央公論社の単行本『背教者ユリアヌス』の背表紙を見て、手に取ろうかどうか迷ったのが最初だった。
その当時はローマ建国の伝説も知らず、当然ハドリアヌス帝がローマ帝国のいつの時代の人かも知らなかった。ドストエフスキーにどっぷりはまっていたことから「無神論」というキーワードが頭にこびりついていたこともあってか、「背教者ユリアヌス」という響きに「ユリウス・カエサルの息子が無神論者であったことを書いた本?」などと勝手な妄想をでっちあげたりしていた。もちろん、そんな戯言は口にしなかったが(笑)。

ユリアヌスのことについてある程度詳しく知ることができたのは、数年前に塩野七生の『ローマ人の物語』の「キリストの勝利」を読んでのことである。
作品の中で描かれているユリアヌスに、読んだ当時はただただ「かっこいい!」という感嘆しか抱かなかった。なんという知識と帝国に対する理念だろう、そして行動力と実行力を伴わせている人なんだろう、ルーヴル博物館に初めて行った頃にユリアヌスに関する知識を持ち合わせてなくて、『ローマ人の物語』からはルーヴルにあるとされるユリアヌスの立像を見過ごしていたことを悔やんだものだった。

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