デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ユリアヌスのことに触れている、塩野七生著「ローマ人の物語」第14巻の『キリストの勝利』を軽くではあるがざっと読み返した。
いま読むと、ルテティアで起ってからのユリアヌスのやることなすことは、若さゆえの世間知らずの学者肌の政治家が矢継ぎ早に政策を打ち出したようなものという感も受ける。また贅沢をつつしみ哲学の思索をライフワークとし、昔から信仰されてきた神々への回帰を通し「自分がローマ人としてあるべき姿を示すから、他人もそういったローマ人たれ」といった若さゆえの神経質なお仕着せともとれてしまう様な姿勢は、周囲に反感を抱かれやすかったのかもしれない。
しかし、いくら市民や一神教信者に後ろ指をさされ影でバカにされようとも、特定の宗派の利益のための国づくりでなく、さまざまな人々が暮らす帝国のための自分の理念を世に問う不屈の精神に心を打たれたのは間違いない。また、宮廷にはびこる「病んだ」現実に対し、性急だったにしろ改革を行ったことは偉いと改めて思う。髪をちょっとセットしようとして理髪師を呼んだら、理髪師が二十人もやって来、彼らの報酬が単に宮殿にお付の者というだけで莫大なものになっていた現実や、訳のわからない特定の宗派の権威の集団がきたないやり口で政敵を抹殺し、政策に口を出すだけ出し自ら責任をとろうとしない姿に、ユリアヌスが激怒したのは当然の反応とはいえ、勇気を持った上での激怒だったのだろう。既得権益の集団に丸め込まれず改革を推し進めたユリアヌスは、常に殺される覚悟でいたのではないか。
宮廷内の無駄を削減するような改革は、現代社会でも困難を極めるものである。現代でもユリアヌスの存在が光るのは、案外、ユリアヌス亡き後の統治機構と現代のそれとが大して変わらない、いやユリアヌスみたいな人が出てくると本当に困って組織防衛に走る無駄な機構に対し、人はおかしいと思いつつも適度に騙されていたいことを自覚しているからかもしれない。
だからこそ?私のような者は、古代の人でローマ帝国の皇帝だったからユリアヌスに輝きを感じるのではなく、皇帝の座にあって何をやったのかでユリアヌスに輝きを感じるのだろう。私はもし世間でもっとユリアヌスのことが議論されようものなら、彼が輝きっぱなしになるか、無視を決め込まれるかのどちらかではないかと思っている。

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