デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



京都映画誕生の碑

1895年、シネマトグラフ(映画)はフランスのリュミエール兄弟によって発明されたが、その二年後の1897年に実業家稲畑勝太郎の手によって日本に持ち込まれた。
1908年、牧野省三という人がシネマトグラフを用いて歌舞伎の劇映画化に挑戦し、牧野省三は第一作「本能寺合戦」を真如堂で撮影した。以後、京都ではたくさんの映画が誕生するのである。

























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カンピドーリオ広場へ(ローマ市内)

ローマに行ったのは、塩野七生の『ローマ人の物語』(全15巻)を読んでからであったが、作品の図版や作品の内容に即した旅行ガイド書を見る限り、ローマで私一人でユリアヌスの胸像や横顔が刻まれたコインを見つけるのは難しいと思っていた。
しかし、なるべくよく探すため、そしてたくさんの展示物をじっくり鑑賞するため、カンピドーリオ広場にあるカピトリーニ博物館には開館時間に行こうと思った。
博物館に入りスキピオやスッラやポンペイウスやキケロ、ギリシアの哲学者たちの胸像をじっくり見たあと奥の部屋に歩みを進めたのだった。歩みを進めながら、目に飛び込んできた立像にわが目を疑った。


Iulianus Apostata, ユリアヌスの像

こんな目立つところに、まじですか!?と思った。この形の像はその時に私が知っていたかぎりではルーヴル博物館にあるはずだった。たまたま博物館の奥から出してこられていたのか、それとも他館から一時的に貸し出しもしくは寄託されていたのか、詳細は分からない。
とにかく、像は足元の表示に本当に「Apostata」とあったこともあり、この蔑称でもっても、まばゆい存在感を私に放ってくれていた。まさか、あるとは思っていなかった所での邂逅に感激した。なんという幸運だったのだろう、と思う。
ユリアヌスの立像をじっくり見たあと、シンマクスの石碑も見たのだった。この時の旅の大きなテーマは今から思い返してみても私の手に余るようなものだった。しかし、今となっては『背教者ユリアヌス』をいつの日か手がけるにあたっての無自覚な心的動機を自ら植え付けたというか、お膳立てしたところもあったのかも知れぬと思う。

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『廻廊にて』の存在を知るまで、辻邦生という名前を忘却していたわけだが、運命とか宿命とか考えない私でも、ここ数日『背教者ユリアヌス』については、いつか読むことになる、もしくは読むようになるように不思議と導かれたように思っているのだ(笑)。
『背教者ユリアヌス』に導いた体験について昔話から始めさせてもらえば、作品との出会いは10年以上も前にM・ユルスナールの『ハドリアヌス帝の回想』を訳もわからずに読んだ頃で、ふと古本店の書棚に中央公論社の単行本『背教者ユリアヌス』の背表紙を見て、手に取ろうかどうか迷ったのが最初だった。
その当時はローマ建国の伝説も知らず、当然ハドリアヌス帝がローマ帝国のいつの時代の人かも知らなかった。ドストエフスキーにどっぷりはまっていたことから「無神論」というキーワードが頭にこびりついていたこともあってか、「背教者ユリアヌス」という響きに「ユリウス・カエサルの息子が無神論者であったことを書いた本?」などと勝手な妄想をでっちあげたりしていた。もちろん、そんな戯言は口にしなかったが(笑)。

ユリアヌスのことについてある程度詳しく知ることができたのは、数年前に塩野七生の『ローマ人の物語』の「キリストの勝利」を読んでのことである。
作品の中で描かれているユリアヌスに、読んだ当時はただただ「かっこいい!」という感嘆しか抱かなかった。なんという知識と帝国に対する理念だろう、そして行動力と実行力を伴わせている人なんだろう、ルーヴル博物館に初めて行った頃にユリアヌスに関する知識を持ち合わせてなくて、『ローマ人の物語』からはルーヴルにあるとされるユリアヌスの立像を見過ごしていたことを悔やんだものだった。

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モデルさんかと思った女性は、中国からの観光客で和服のレンタルで京都巡りをしているとのことだった。ちなみにカメラの男性がお連れさんとのこと。


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もう今年も後三週間弱という時になって、たぶん今年読んだ小説の中で一番であろう作品を読了した。辻邦生の歴史小説『背教者ユリアヌス』(辻邦生全集4(新潮社))である。

コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認してからというもの、ローマ帝国の政治や宮廷に「神の御意志」を印籠にして私腹を肥やしキリスト教に批判的な者を権謀術数を用い排斥する「病」が蔓延した。そういった独善的な帝国の弊害に立ち向かったのが反キリスト教的な政策を行ったユリアヌスであった。作品はそんなユリアヌスの生い立ちから、副帝としてガリアを平定しルテティア(パリ)で皇帝に推挙され帝国の病をなんとかするために改革を行うも志半ばで倒れるまでを描く。
作品に出てくるローマ帝国の政治力を利用してキリスト教を磐石なものにしたい宦官たちや司教たちにも、唯一神を崇める者同士ですら対立し殺し合いにまで発展してしまっている矛盾を正視できず、「神のため」にやっていることを俯瞰することができなかったのは本当に痛々しい。
しかし、このようなことは現代のどのような国であっても少なからず起こっていることである。作品で描かれているテーマは常に現代性をもつものだし、「すべては神の意志」として、自分でもの考えることを放棄させるような形で宗教に没入した人間が、排他的なまでの純粋さをもってして熱狂し集団的な行動をとり、知識を無視する傾向があることを、ローマ古来の多神教と新興し勢いを増してきたキリスト教とが対峙する姿を通して考えさせてくれるところは本当に秀逸だ。
一神教が支配の方法として有効な手だてになることに政治に関わる人々が気づいてからというもの、作品に出てくる宦官たちや司教たちは権力や権威を笠に着れる状態が手放せなくなったのではないか。私などは権力や権威を追い求めた時点でその宗教は開祖を裏切っているとすぐに考えたがるロマンチストなのだが、自分たちの信仰する宗教ですら内部抗争の矛盾が噴出している現実があるなら、せめて現実的な寛容精神で共存しようともちかけたユリアヌスはやっぱり時代に先んじた慧眼をもっていたんだろうと思う。突飛なことを書くようだが、ルテティア(パリ)で皇帝に推挙されたユリアヌスの哲学や考えは、1400年の時を経たのちパリでヴォルテールがある程度かたちにし啓蒙されるものかもしれない。しかしユリアヌスのことが背教者(アポスタタ)という蔑称がもたらす先入観を除かれた形で再検討されるのには、なお300年の時が必要なのであった。

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おや?



モデルさん?


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