先ほどの臨書の元の石碑をごらんください。けっこう小さな碑です。高さ74cm、幅27cm。天保10年(1839) 上村明輔は、「無雅」と号しました。生まれは徳島県阿南市富岡です。
兄がいて、兄弟共に名医として有名でしたが、無雅は晩年、医療技術をひけらかして仕事をするのが嫌になり引退して、茶道研究家になります。この頃の大滝山は、持明院という大きな寺院があって、徳島最大の市民散策の場所でした。祭礼には人が大勢集まり、徳島市民でここに来ない人はないと言われた場所でした。だからこそ、無雅もここに石碑を建ててほしいと遺言を残したのです。散策の人々がこの石碑を読んで、生前の無雅を偲んでくれれば、死後も生きているような気がすると言っています。
また、近くの二軒屋には「芭蕉堂」という俳諧の勉強場所があって、月一回の例会には大滝山で吟行と句会を開いていたそうです。そんな関係で大滝山には句碑や歌碑もあります。この吟行と句会は現在も続いているようで、休日などに大滝山で俳句や和歌を作っている人たちの姿をよく見ます。次回は句碑の紹介をしますね。
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