山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

吹奏楽課題曲(1977年度)

2019-09-29 13:53:54 | 音楽

1977年度課題曲(D) 行進曲「若人の心」

合唱大会の課題曲の名前を思いだそうとしていたら「若人の心」という言葉が浮かんだ。

いやいや、それは合唱じゃないぞ、吹奏楽だぞと思った。

そうだ、高校の時、私は吹奏楽部でクラリネットを吹いていたんだけど、そのときのコンクールの課題曲がこれだったのだ。

今聴くと、なんかものすごく古臭い感じがするなあ~

この曲って、1960年代にも課題曲になってるんだものね。

今現在はどんな曲が課題曲かな?

高校の吹奏楽部は、私は途中入部だった。

ここで吹奏楽をやっておかないと、一生やる機会はないかもと思ったからだ。

中学で1つ、高校で1つしか部活は選べない。

中学は器械体操。高校は演劇。

演劇部で劇中のサックスの演奏を吹奏楽部の人に頼んだのがきっかけで、人員不足の吹奏楽部に入ることになったのだ。

いきなりクラリネットなんか吹けるもんじゃないから、ヘッタクソでこれもまた部員に迷惑なんだけど、数が多いほうがいいかな。

まあ、譜面は読めるからね。

そして、吹奏楽部では演劇部員協力で音楽劇もやったりした。

その当時は、姉が音楽教室の講師をしていてエレクトーンを買っていたので、自宅にあるエレクトーンの楽譜をもとに、劇中に挿入する短い曲の部分を私がアレンジしたりした。

エレクトーンの楽譜は木管楽器の音色やベース、リズムなど、パート別にあてはめられるように載っているから吹奏楽のアレンジに利用しやすいのだ。また、逆に吹奏楽をやることによって、実際の楽器と音色や雰囲気が結びついてわかるようになった。

そうそう、ピアノの次はエレクトーンの時代が始まったけど、これもまた人生の中では中途半端に終わったのだった。

エレクトーンは結婚してから、中古の楽器を買って習い始め、合奏や個人の演奏発表会も出たし、グレード試験も受けた。アレンジや即興演奏が大変だった。

エレクトーンは5級を取れないまま、6級でおわっちゃった。やっぱ何をやってもダメね。

・・・

あっこれこれ。

これも吹奏楽でやったやった。

1977年度課題曲(C) ディスコ・キッド

なつかしいなあ~~

あの頃は楽しかったなあ~~

 

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合唱の伴奏 大失敗経験

2019-09-29 12:22:14 | 音楽

一度だけ中学の合唱大会でピアノの伴奏をしたことがある。

だいたいクラスには、ピアノを習っていて上手な子が1人くらいは居るものだが、そのときは私以外に居なかったのだ。

習っているとはいえ、そんなに上手じゃない。

まず、何曲かのなかから、自由曲を選ぶのに、音楽の先生が楽譜を配って生徒の希望アンケートを取ったのだった。

私は譜面を見ればだいたいどんな曲かわかるので、これは絶対に嫌だと思っていた曲があったのだが、運悪く、クラスの多くの人がその歌を選んでしまった。

その歌を、ユーチューブで探そうとしたがみつからない。

赤いセロハン透かしてみたら~  ::不明::   まっかっかっ かっかっ

バスも電車も母さんも 燃えそうでもえそうで どきどきしちゃう

とかいう歌詞なのである。

なんか、バカみたいな歌詞でしょう。

この「まっかっか」のところが男女で二重唱になって「まっかっか」「まっかっか」とずれるので「まっかっかっかっか」と聞こえる。

伴奏も、流れるように弾く曲は弾きやすいのだけど、あんまりペダルも使わないで弾く感じで、どうにもサマにならない。

お手本的伴奏を指導してくれる人もいない。

その時、ピアノを習っていたら個人レッスンの先生に見てもらえばよかったのか?

その時点で習っていたのかいないのかも記憶にないけど、ピアノの先生に見てもらうということを思いつきもしない。

それで、私の伴奏はひどいものだった。

もともと力量がなくて、音楽の時間に先生から「あなたもちゃんと弾きなさい」なんて注意されてたけど、本当に間違えるのだ。

で、本番が最悪。

この歌を歌いだしたとたんに、その「まっかっかっかっか」のところで、全校生徒の爆笑にあってしまった。

それからはグチャグチャで、そのせいか、最後の伴奏のとどめの1音を間違えるという大失敗。

そこで、また全校生徒の大爆笑。 いくらなんでも最後の音を間違えたことは練習中にはなかったと思う。

本番の恐ろしさ。想定外の出来事に対する動揺の影響。

へんてこな歌。 伴奏はへたくそ。

結果は最下位。あったりまえだろ。

ああ、それが最初で最後の私の伴奏体験。

たぶん課題曲はちゃんと弾いてた。

ちゃんと伴奏できた曲はどんな曲だったか、全く記憶なし。

・・・ 希望のささやき だったかな?

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なんで私にピアノを習わせたのか

2019-09-29 11:47:07 | 日記2019

自分から、ピアノを習いたいと言ったことはない。

いつも親から、「ピアノ習う?」と聞かれて始めた。

今思えば、近所の友達の影響かもしれない。

親同士がどんな話をしてるのかも知らず、いつも近所の友人と一緒に通い始める。

小1の時。それから中1の頃かな?それは同じ友達と通い始め、同じ時間にレッスンを受けて一緒に帰ってきた。

そして、同じ時期にやめた。

何をきっかけにやめたのかも覚えていないし、どちらかがイヤになったからなのかも全くわからない。

小学校のときなんか、たぶん、そろばんを始めるからピアノをやめようくらいな理由だったかもしれない。

小学校の3年か4年の頃は、となりの家にピアノがあって、1歳年上の子がピアノを習い、先生が訪問してくるというので、便乗した。

その頃はまだ自宅はオルガンだった。

隣家だから友人と一緒に通った記憶はないけど、その時もいつもの近所の友人も一緒だったかもしれない。

そして、その頃、先にその友人がピアノを買うことにして、かなり良いアップライトのピアノを買ったので、我が家も影響されてピアノを買った。ピアノのカタログは今でも覚えている。

ピアノが来てからは、先生が自宅に訪問してきた。

その当時、結構練習した記憶はある。やはり本物のピアノが来たからやる気が出たのだろう。

でも、練習してなくて、レッスンを受けたくないので、先生が来ても居留守をしていたことがあった。

居間にいたら先生が玄関にきたので、身をひそめていたのだが、先生が中を覗いてきたので、居ることがバレてしまった。

今も昔も田舎は玄関にカギをかけない。

・・・

中学の時は、誰かがどこかで「音楽の先生がピアノ教室をやっている」という情報を聞きつけたんだと思う。

それで、また母が「ピアノを習うか」と言ってきた。

いつもの近所の友人と通った。一緒に習う場合は、2人が同時に進歩していかないといけないけど、どっちが優れているとも劣っているとも感じなかった。

最初は同じ曲をやっていたが、そのうち違う曲を宿題に出すようになった。

先生は、それぞれの個性を見ていたのだろうか?

どっちの曲がむずかしいとも優しいとも判断はできない。

このときも、なぜやめたのか理由の記憶はない。

・・・

中3か高校で、私は姉の先生から習い始める。この先生が一番本格的なちゃんとしたピアノの先生だった。

この先生につく時も親から「ピアノを習うか」と聞かれて習い始めることにした。

ここは、電車で通わなければならなかった。

幼なじみの友達は高校も違ったので、さすがにもう一緒ではない。

・・・

なぜ、またピアノを習うことになったのか?今になって思い当たることがある。

それは、中3のときに、将来なりたい職業の調査がクラスであり、私がそこに「ピアノ教師」と書いたからなのかもしれない。

実は、私はピアノ教師になんかはなりたくなかったのだが、他に書く言葉が見つからなかったのだ。

当時は、山口百恵等が活躍していた時期で、夢は「女優」とか「歌手」であったが、そんなことは書けるはずもない。

「小説家」も人には言えない。

本当になりたい現実的職業なんか何1つ思い浮かばいので、苦し紛れに「ピアノ教師」と書いてしまった。

そして、本人の知らないところで、担任と親の面談で「本人は“ピアノ教師”と書いておりました」などと担任が母に話し、母が「あら、妹のほうもそう思ってたのね」などと誤解してしまったのであろう。

そして、当時はOLになるよりもピアノを教えたほうが収入も全然違うなどと、親なども思っていたのだった。

だが、結局のところ、私にもそんな情熱はないわけだし、ピアノは高2の終わりくらいでやめたんだろう。

ピアノを習っていて楽しかったかな?

身近な人以外、なんらピアノを通しての交流は無かったと思う。

自分で弾いて自分で楽しむだけかな。

でも、今思いだせば、私はピアノ以外に、何か別の習い事をしたことがあるわけでもなく、やっぱりそれが主な趣味だったのだ。

 

 

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従妹と比較された記憶

2019-09-29 11:00:30 | 日記2019

ピアノにまつわる記憶は、楽しいことよりも、ちょっといやな事が多いかな?

私が高校のころの夏休みに、2歳年下の従妹家族がやってきた。

この家族は、ピアノをやっている姉を非常に高く評価しており、従妹は私には何の関心もなく、年上の私の姉にあこがれていた。

姉が子供好きだったのもあり、年下の従妹たちをかわいがったからでもある。

私は逆に子供嫌い(むしろ人間嫌い)だったので、慕われるわけもなかった。

そのころ、実家ではグランドピアノを買い、姉がピアノを教えていたものだから、ピアノを習っている従妹が弾いてみたいと言い、叔母もぜひ弾かせてもらいなさいよ等と言って、その時、姉がいなかったので、私がピアノのところに案内した。

そこで、その辺に出しっぱなしになっていた私の楽譜を従妹が見たわけだが、どれもレベルが低すぎて使えないというのだ。

こんなのは、ずっと前に終わっている。もっと上のは無いのか?と言うとともに、

こんなレベルの低いのをやってるの?と、口には出さずともその反応は見え見えだった。

完全に見下された。

私は、中学で中断し、別の先生に変わったばかりだったが、それまでの指導がなっていないから、初歩に戻ってやり直す必要があるとされ、昔、とっくに終わった教本をやり直していたのである。ソナチネアルバムとかツェルニーとかだったと思う。

だが、初歩に戻ってやり直しさせられているのだという説明もできないような社交性のない人間だった。

従妹は別の本棚から、もっと高度な姉の使った譜面等を出して演奏したんだったか、もうそのあとのことは何も記憶にない。

・・・

その1~2年後、その従妹がピアノの発表会に出るので、ぜひ見に来てくれと姉に連絡があったため、遠い場所に私もでかけた。従妹が高校生のころだろう。

従妹が弾いたのは、ベートーヴェンの月光の3楽章だった。

あきらかに、指が滑っている。鍵盤の上を上ずっている。基礎ができていない。

それは、私にも一目瞭然だ。

叔母は、「娘は音大に進んだ方がいいかしら?」と姉に聞いた。

姉は、「進まないほうが良い」と答えた。

・・・

もし、私が高校のときに、初歩に戻らずに、そのままレベルの高い曲に進んでいったら、きっとあんな弾き方になったんだと思う。

私はレベルは低いけど、あんなごまかしの弾き方はしない。

従妹がそこで、すごく素晴らしい演奏をしたら、敬服したんだろうけど、大したことなかったのは、私にとって幸いだったかもしれない。

だが、しかし、私はその後も月光の3楽章なんてとても弾けるレベルじゃない。

・・・

この都会育ちの従妹は、私より2学年年下だが、実際には1年とちょっとしか年齢差がないそうだ。

私の身体が小さかったので、ずっと従妹のほうが身体も大きかった。

プールでも競争をさせられ、あっちがクロールでこっちが平泳ぎだから負ける。

私は学校でクロールの指導を受けたことがない。平泳ぎも指導も受けたことはないが、海で自己流に泳ぐうちに泳げるようになった。

だから、とことん見下される。

従妹の眼中に私はなく、従妹は常に私の姉を慕っていたのだ。

だから、一緒に遊んだりもしない。

一番年齢の近い従妹だから、本当は仲よくなれてもよかったはずなのに、と思う。

・・・

大人になったらさらに何の交流もないが、学歴やら財産やら、社会的地位やら、面倒くさい比較材料が満載で、一生かかわりはなかろう。

 

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多子と少子

2019-09-29 08:51:57 | 日記2019

今、日本は、高齢者の割合が増えて介護の問題が大きくなってきている。

私も2人姉妹なので、2人で分担するか、どちらかが主になって親の介護をしないといけない状況になってきた。

そんな中でふと思うことは、実家の母自体、親の介護をしていないじゃないか、ということである。

母は8人兄弟姉妹である。長男が家を継いだから、実家の親は、母の兄とその妻が見てくれたわけだ。

母なんかは、自分の親の介護を、全部その人たちに丸投げだった。

また、父のほうも13人兄弟だかなので、やはり後継ぎの1人が親の老後をみたので、私の父母は何もしていない。

子供が多い時代の人はそんな感じだ。

(今と違って、家や財産の平等分与などはなく、後継ぎがすべてを継いだ。)

数人に1人が親の老後をみることになる。

しかし、これから一人っ子の多い時代になると、結婚相手も一人っ子だったら、両方の親をみることになるだろう。

そういう私も、夫の兄が若くして亡くなってしまったこともあり、母を同一世帯にしていたから、義親の老後を看た(←この字をつかうのか)ことになる。(義母は特別養護老人ホームでお世話になっていたが、もう亡くなってしまった。義父はずっと以前に他界。)

今後の少子化では、すべての人が親の老後を看ることになるのか?

子供のいない人もたくさんいるので、社会で老後を看ることになるのかな。

・・・

実家の母は自由に生きてきたよなと思うことはある。

うちは、本家じゃないが、海水浴などに親戚がたくさん押しかけて遊びにきて、対応に苦労したということはきくが、本家の嫁さんに比べたら楽だろう。

子供の世話などを親に頼ることなどはできず、誰にも頼らないで家庭を築いてきたことになるが、まあ、それは私も同じである。

実家の母は、私に父の墓参りに行かないのか?などと要求してくることがあるが、だいたい母自体、自分の親の墓参りにはほとんど行っていない。

母は昔から、自分の親の墓参りに行く習慣などはないし、今だに実家の墓がどこにあるのか道順がわからず、自分では行けないらしい。

要するに後継ぎに丸投げだから、長男家族が全部やってくれているし、母の実家の近所に住む他の兄弟姉妹もいることなので、母自身が何かをしなければならないという自覚は何もないのだと思う。

・・・

最近母は足の具合が悪いから、父のお墓のあるお寺に関係することは私がお金を届けたりするようになった。

同じお寺に夫の方の墓もあるので、一石二鳥だが、この場合、実家墓について、姉は私に丸投げしている。

実家に長男も婿養子もいない限り、結局は嫁いだ娘の誰かが後継ぎと同じことをする必要がある。

・・・

そして、たとえば、親の介護などをする場合に、本当に分担ということができるものなのか?というのが疑問になってきた。

できれば、平等に分担できれば、それぞれの負担も減ると思うが、やはり誰かが主にならないとできない性質のものではないか?

たとえば、子が交代で訪問するとすれば、親の様子をみて、一方は病院にかかった方が良いといい、一方はその必要はないと言ったりする。

誰かが主になって同居していないと、年寄りの日常の様子は把握できないので、結局中途半端になる。

分担するとそれぞれが「点」あるいは「断線」状態で親の状況を把握することになるわけで、誰か1人が責任を持って親を看れば継続した線で看ることができる。

しかし、それも大変だ。

2人子供がいたならば、それぞれに協力し合い、交互だったり、時には2人一緒とか、また時にはヘルパーさんなどの協力も得ながら、という方法がいいのかな。

高齢者本人が、できれば人を頼らず自立するっていう意識も必要だと思うけど、どうしたって無理をしてる、限界だということは現状あるはずだ。

・・・

うちの母は、気丈なほうだから何でも自分でやろうとするタイプである。

しかし、それにも限界がある。

母は、自分でも自分が年寄りの介護をしたことがないことを認めている。

だから、今の自分のような90歳近い老人を見たことがないんだそうだ。

もし見ていれば、立ち上がるのが大変だとか、杖がないと足がよろめくとか、そういう状態がわかっていたはずだけど、我が身で起こって初めて年寄りの身体とはこういうものなんだと知ったのだそうだ。

私も祖母の年老いた姿は見たことはなかったが、今の母を見ているので、年寄りはこうなんだと思うし、自分の将来の姿だなとも思う。

それも、そんなに遠くない姿だ。

・・・

何を書いてるのかわからなくなってきたけど・・・

子供がたくさんいれば、親の老後にかかわらない人が多いのは当たり前で、子供が1人なら、みんなが親の老後を目にする。

そして、子供の多少・有無にかかわらず、だれもが自分の老後に立ち向かわなくてはならない。

その時、親の老後を看たことのある人のほうが、自分の老後に備えることができるかもしれない。

 

 

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母の老後と自分の老後

2019-09-29 08:12:14 | 日記2019

実家の母はすでに、米寿を前にして、1人暮らしをしている。

ここまで健康に、誰の助けもなしに暮らしてきたのは、尊敬に値すると思っている。

しかし、今までになかったような体調のすぐれない日も発生しているようであり、いつまでも1人暮らしをさせておくのは不安である。

そこで、私が実家に戻って同居するということも考える。

・・・

私はもうすぐ定年になる。

いったんは定年になるものの、現代の社会情勢で65歳まで働くことが推奨されているから、会社も継続雇用はしてくれるものと思われる。

私はパートタイマーだから、退職金はない。

夫の年金はそんなに多くはないので、私のパート収入がなくなれば、今までのような生活はできない。

私の将来もらえる国民年金は、満額ではない。

なぜならば、サラリーマンの妻、第3号という年金制度ができる前の数年間が未払い期間となっているからだ。

私がもらえる国民年金は、65歳になってから、年額69万円である。

また、厚生年金は61歳から年額13万円の見込みである。

この年金をいくらかでも増やすためには、今後も会社で働いて厚生年金の期間を増やすことしかない。

・・・

しかし、ここで仕事をやめて故郷の実家に戻るとすると、将来もらえる年金が増えないばかりか、現状の生活費をどうするのかが問題にもなる。

故郷に帰って60歳すぎの人ができる仕事を探すことになるが、当然厚生年金なんかは無い仕事となるだろう。

できれば、今の仕事を続けていたほうが、現在の生活も、老後の生活も安定できる。

・・・

しかし、そのようなことを優先にしていると、年老いた母のことを放置してしまうことになってしまう。

・・・

何を優先に考えたらよいのだろうか?

・・・

 

 

 

 

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過去から現在まで

2019-09-29 07:26:05 | 日記2019

数日前から、私の子供のころからのピアノとのかかわりについて何個かブログを書いてきたのだが、それは今非公開にしようかと思っている。

というのは、自分のみならず、そこに必ず姉が登場し、姉についての内容がかなりの割合で混じってしまうからである。

いくら匿名とはいえ、姉のことを書くのはまずいかと思い、非公開にしたり戻したり迷っている。(削除はしない)

今、過去を振り返ってみて、初めて自分の実家家族がどのように歩んできた(移行してきた)のか、全体像が見え、さらに今後はどうなっていくのだろうかと考えてしまう。

私が家を出て、姉が家を出て、私も家に戻らず、父が亡くなり、その後、母がずっと1人暮らしをしてきて、今80代も後半に来ているのだ。

うちの実家の全盛期は、姉が自宅でピアノを教えていた数年間であり、その時期は、あっけなく終了したのだ。

それからは、たまに帰省する実家としての役割を担い、実家の母は未亡人という寂しさはあるものの、友人と旅行や趣味などもして、それなりに楽しみもある人生を送ってきた。

だがさすがに80代も後半になると、身体を思うように動かせなかったり、体調がすぐれなかったりする日も多くなってきている。

そこで、今後どうするのかというのが、今の問題である。

現在、私は月に1度は実家に帰っているが、姉は半年に1度がいいところだ。

姉は能天気で、自分自身も病院嫌いなので、母の通院などを深刻に考えない。

老化だからしかたないんじゃないの、と放置する気か。

だが、老人は、いつかは人の助けが必要になる。

それに、なるべくそうならないように、早め治療をするとか、生活習慣を改善するとかの必要性がある。

そのためには、子供である私たちの協力が必要だろう。

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ここでも書きたいが、書けないことが山ほどあるのだ。

そして、それは結局、40年前から何も変わっていないことだと感じる。

どうせ書けないことなのだから、書くのはやめよう。

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