山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

パウル・クレー展の違和感

2011-07-20 17:54:57 | 美術・美術館


パウル・クレーの絵が好きな日本人は多いそうだ。なので、この展覧会を楽しみにしている人も多いらしい。私はたぶんこの人の絵を以前にも見たことはあると思うが、そうたくさん見たことはなく、名前も知らなかった。

で、今回のパウル・クレー「おわらないアトリエ」を見に行ったわけだが、なぜかなんとなくげんなりして帰ってきたのはなぜかと不思議に感じていた。
その理由が思い当たってきた。

それは、例えば、レストランで美しくおいしい料理を食べようとしたときに、その料理を目の前にして、「材料は○○と○○です、この料理はこうやってこうやってこのように材料を切り刻み、このように似て焼いて作りまして、料理人はこの料理を生み出すのに、このような試行錯誤をしており~~~~~~」などといちいち説明を聞かされてからやっと料理を口に入れたようなものであり、
また例えば、お見合い写真で相手の外見を見せられる前に、レントゲン写真や健康診断結果の血液成分などを知らされたようなものであり、
例えば、小説そのものを読む前に、その小説に関する解説や評論や作家研究を読まされたようなものであって、
例えば、映画を見る前に、映画の制作風景や撮影現場の様子を延々と見せられるようなものなのであった。

つまり、作品の解説があまりにも分析的すぎる。それは、パウル・クレーの絵を以前から知っていて、その絵についてもっと知りたいと思っている人たちには貴重な情報なのだと思う。しかし、そうでない人にとっては、絵との純粋な出会いができない。



色合いがきれいだな~、とか、なんかいい感じだな~と感じる機会が得られないのだ。

その前に、この絵は、最初に描いたものを回転させて切り取ったものだとか、裏はこんなだとかいういろんな情報がひしめいて来るのだった。

パウル・クレーに限らず、最近は赤外線だかレントゲンだかで、絵の下に描かれているものを解析することも多く、初めはここに何が書いてあっただのと完成に至るまでの状態をつきとめたりすることも多い。画家が消したくて消したものをわざわざ再現するんだから余計なお世話だ。それも、画家や作品を研究するための手段ということなのだろうが・・・。

美術館が、そのように絵を徹底的に分析したり解析したり、画家の生涯を研究する方向で展示するのであれば、絵を眺めるのが好きな人間は美術館ではなく、画廊に行った方が良いのであろう。

音楽が好きな人がコンサートに行ったら、音楽を聴けばいい。作曲家がどうやってその曲を作曲したかなんていちいち聞きやしない。なのに、なんで絵を見に行った人が、純粋に絵を眺められないのだろうか。純粋に絵を眺められる場所はどこなのだろうか。

きっと、ほんとうはいい経験だったんだと思う。制作の経緯が教えてもらえるなんて貴重なことだ。
人のブログを読むと、みんな楽しかったとか良かったとか書いてある。
でも、私の場合、会場では美術を見るのに手なれた人たちに気圧されたって感も否めない。
それは、最近の自分個人の精神状況によるものかもしれない。
どっちにしても、様々な要因からクレーの絵に心を寄り添わせることができなかったということだろう。

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