昨年の秋に小樽に行った。この建物は「似鳥美術館」。あとになって「旧北海道拓殖銀行小樽支店」だったことを知った。
中には、あまり興味の持てないような美術品が陳列しているのかと勝手に決めつけて、中を見ようともしなかった。でも、見る価値のあるものが展示してあったようだ。そして銀行だった頃の面影も確かめることができたようである。ちなみに、となりの旧三井銀行は見学してきた。
拓銀も、中を見てくればよかった。
今、高校時代に読んでいた伊藤整の「若い詩人の肖像」を小樽つながりで読み直している。
当時印象に残った登場人物は「重田根見子」と「小林多喜二」だった。そうして、私はその後伊藤整の小説よりも小林多喜二の小説を読んだりした。
「若い詩人の肖像」の中で、伊藤整が学生時代に特に意識をしていた文学青年は、同じ学校の先輩の小林多喜二だった。学生時代の場面にはよく登場したものの、その後は特に書かれていなかった。
そして、昨日読んだあたりは「四 職業の中で」のところで教員時代の記述になる。このへんの内容は、私の過去の記憶には全くないものだった。私が未だ高校生で、仕事について関心が無かったからなのだろう。今となっては色々感じるところが多いが、それについてはまた別の機会に書こう。
ここで、久々に小林多喜二に関する記述がでてきたのだ。
「川崎昇という私の詩の魅力の発見者が前年の暮に東京に去ってから後、私は私の詩を、当代の詩人たちとの比較において評価しうる人間はこの町にはいない。いれば、それは私より1年前に学校を出て、いま色内町の海よりの角にある北海道拓殖銀行に勤めている小林多喜二くらいなものだ、と思っていたからである。」
そうだったのか。小林多喜二は、北海道拓殖銀行に勤めていたのか、と驚いた。
拓殖銀行といえば、あの建物だっけ?と似鳥美術館のことを思い出した。旅行のアルバムを作っていたときに、この建物が拓殖銀行だったことを初めて知ったのだった。
この建物の中で小林多喜二が働いていたのかと思うと、不思議な気がする。あの人はプロレタリア文学の作家であり、警察の拷問にあって29歳で亡くなってしまった人なのだが、銀行員を続けていたら全然違う人生を送ったかもしれない。でも、やはり銀行員というタイプじゃないと思う。
でも、一旦は銀行員になったのだな。
小林多喜二は1903年生まれ。拓殖銀行のこの建物は1923年に建造されており、小林多喜二が20歳の時にできたとすれば、まだできたばかりの建物で働いていたことになる。
私が小樽に行く前に、少しでも伊藤整のことを思い出して小樽について調べていれば、もっと文学散歩みたいなこともできただろう。
しかし、文学にも美術にも無関心な夫と一緒では、結局似鳥美術館の中なんか見たくないと言って通り過ぎたに違いなく、あまり変わりはなかったのかもしれない。
・・・
関係ないけど、写真を見ると、たまたま自転車タクシーが写りこんでいるのに気づいた。
人力車かと思ったけど、人間ではなく自転車であり、「チャリタク」ともいうらしい。
人力車は小樽の観光名物で、ぼったくりの印象も強いのだが、チャリタクもあったとは、初めて知った。
「インバウンドに踊った小樽の今」(2022年7月)
https://chikirin.hatenablog.com/entry/2022/08/16/134902
コロナが暗く日本を覆っていた頃の
「人気観光地の今」
https://chikirin.hatenablog.com/entry/2020/11/25/162933
日本中の観光地が、こんな感じだったのでしょうか