1人でふらふら出かける行き先というと、自由に出入りできて費用もかからない場所で、寺や神社が目的地になることが多い。
この夏は蓮の花を見ることが目的で、いくつかの小さなお寺を訪れた。
お寺は、だいたい門が開いていて入る人を拒否することはない。しかし、観光などで訪れる有名な大きな寺ではなく、こじんまりした小さなお寺の場合、基本的には、そのお寺の檀家の人が対象であり、または墓参りなどの目的を持った人が出入りすることが想定されているのだと思う。確かに、お寺には必ずお墓がつきものである。
なので、単に蓮の花の写真を撮りたいなどは、ちょっと本来のあるべき目的ではないように感じる。
寺は基本的に仏さまがいらっしゃるところなので、参拝が目的であるべきだろうと思うので、わずかなお賽銭などを供えて見学や撮影をさせていただいた。
それでも、なんとなく部外者が侵入するという感覚があるので、すこし入りにくい感じがする。
また、参拝するといっても神社のようにはっきりとしたお賽銭箱のある拝殿があるわけではないので、外にある仏像やお地蔵さんなどに、わずかな小銭を供えたりした。中にはそういうものが見たらず参拝をしないところもあった。
お寺の収益としてはやはり仏事でのお布施などが重要だから、蓮の花を目的に入ってくる人などはどういう扱いになるのだろう。
特に歓迎はしないが拒むものでもないという感じか。
蓮の花が美しい寺だからといって、そのお寺の檀家になるわけでもない。
例えば、座禅や法話などの催し物をやっていれば参加させていただくということもあるだろうが、あまりそのような活動をしているお寺はない。
自分とは無関係なお寺に出入りさせてもらって思ったことは、基本的にお寺とは、誰に対しても自由に出入りすることを咎めはしない場所のようだということだ。
それは宗教というものの特徴なのだろうか。
そして、お寺の敷地内は、植木がきれいに選定され、池などがあって整っているという印象だった。
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一方、神社であるが、こちらは、お寺以上に出入りは自由という感じがする。
誰をも歓迎してくれて、お賽銭箱と拝殿があり、ここから参拝してくださいと神への連絡場所がわかるようになっている感じがする。
だが、お寺に比べると植木や池や花といったものには、あまり見どころがない。御神木はあるが、きれいに選定された樹木や池などは小さな神社にはほとんどないので、そもそもそういうものは必須ではない。
ただ水といえば、参拝前に手や口を清めるところはだいたいある。
神社には蓮や睡蓮などは存在せず、池の鯉などもいない。
やはり、その成り立ちというか、思想そのものが違うのだろう。
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そういえば、神社というのは、あまり経典のようなものは聞いたことがない。
キリスト教や仏教だと、人を教え諭すものが多々あると思うが、神社では特に説教されることはなく、当たり前の善と心構えを持って暮らしていればよさそうである。
怠け者でも受け入れてくれるというか、そもそも死後に天国や地獄に行くなどということもまるで考えないような気がする。
単に今年1年無事に過ごせますようにと祈るのみである。
このあいだ、ふと思ったのは、やっぱり神社の神道というのが日本人古来の自然な宗教であるのかな?ということだ。
神様っていうのは、そういうものではないのか?
神社にどういう神様が祭られていて、その神様がどういう教えを諭しているなどということはほとんど考えたことが無い。
それでいいのだ、という気もする。
神がいちいち人間に、神についての知識を勉強させたりする必要はないのかもしれない。
教えられなくても自然の心の中にある(なんとなく頼りにしているというのか、あるいはそんなに頼りにもしていないかもしれない)ようなもので・・・
つまり、神道の神とは、日本人にとって空気や水のような存在なのかもしれない。
私が感じていることは、無知ゆえに間違っているのかもしれないけれど、自分ではそんな風に感じるのだ。
日本には八百万の神がいて、そして人は神話や経典などを勉強することもないままで、何も知ろうともしないが、それは自然動物のようなものなのだ。
ただ、無事に幸せに暮らせることを願うのみである。
神社に対しては、そんな自然体のようなイメージである。
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小さな神社はそんな感じなんだけど、靖国神社や明治神宮などの巨大神社になると、なんか国家権力とか現人神とかよくわからない要素が前面にでてきてしまって、対処しきれない。
異質のものかな?
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もっとお寺や神社について、べんきょうしないといけない。
今回は、思うことをとりとめもなく書いてみた。
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教会については、自由に出入りできるのかどうかもわからず、足を踏み入れたことはないのである。
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