フォーム・・・オーバースロー「ワインドアップ」
球種・・・ストレート、スライダー、フォーク、チェンジアップ、決め球はカーブ。
・1974年といえば、金田監督が就任2年目で日本一になった年。その時に、華々しく新人王を掌中にしたのが19歳の三井投手だった。6勝5敗・4セーブ。入団2年目にしてビッグタイトルを手にした三井の前途は、すばらしく開けていたものだ。1975年、10勝投手となる。押しも押されぬ中堅級にのし上がった。木樽、成田、村田らにまじり、本格派投手として注目を浴びはじめた。順調に育てば、村田に次ぐ柱として、投手陣の軸にのしあがれる逸材であった。しかし、1978年、致命的なヒジ痛を起こしてしまう。「しまった」と思った時は、取り返しのつかない「病魔」に取りつかれていた。この年は1勝して3敗・2セーブだけ。ここから転落の一途をたどる。1979年、米国に渡り、右ヒジ軟骨の除去手術を受け再起をはかった。しかし、投手としてヒジにメスを入れたという危惧感から、三井はふさぎ込む日が多くなった。「もう投手生命は燃え尽きたのだろうか・・・」1979年、1勝2敗、1980年は全休。1981年に1セーブだけが記録に残っている。そして10年目の今秋、とうとう引退を決意した。「もう自分にはマウンドに登る度胸も情熱も消え失せてしまいました。ユニフォームを脱ぎます」腰痛も併発しての引退発表は寂しいものとなった。第二の人生は、故郷の愛知県で実家のスーパーマーケットを手伝うことでスタートする。
球種・・・ストレート、スライダー、フォーク、チェンジアップ、決め球はカーブ。
・1974年といえば、金田監督が就任2年目で日本一になった年。その時に、華々しく新人王を掌中にしたのが19歳の三井投手だった。6勝5敗・4セーブ。入団2年目にしてビッグタイトルを手にした三井の前途は、すばらしく開けていたものだ。1975年、10勝投手となる。押しも押されぬ中堅級にのし上がった。木樽、成田、村田らにまじり、本格派投手として注目を浴びはじめた。順調に育てば、村田に次ぐ柱として、投手陣の軸にのしあがれる逸材であった。しかし、1978年、致命的なヒジ痛を起こしてしまう。「しまった」と思った時は、取り返しのつかない「病魔」に取りつかれていた。この年は1勝して3敗・2セーブだけ。ここから転落の一途をたどる。1979年、米国に渡り、右ヒジ軟骨の除去手術を受け再起をはかった。しかし、投手としてヒジにメスを入れたという危惧感から、三井はふさぎ込む日が多くなった。「もう投手生命は燃え尽きたのだろうか・・・」1979年、1勝2敗、1980年は全休。1981年に1セーブだけが記録に残っている。そして10年目の今秋、とうとう引退を決意した。「もう自分にはマウンドに登る度胸も情熱も消え失せてしまいました。ユニフォームを脱ぎます」腰痛も併発しての引退発表は寂しいものとなった。第二の人生は、故郷の愛知県で実家のスーパーマーケットを手伝うことでスタートする。