プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

与田順欣

2016-12-05 21:21:20 | 日記
1966年

西鉄の攻撃は延長十二回無死満塁。城戸がボックスにはいったときベンチのすみで与田は「もう見ておれない」とソワソワ。やっと決勝点がはいると「フーッ!」と大きなため息をついた。三回から清をリリーフして四安打の散発に押えていた。それも阪急のクリーンアップが出てくると「ソラ」とか「ヨイショ」と一球ごとにかけ声をかけて投げ、まるで自分自身に気合いを入れているようだった。「打たれる気がしない」と試合後は強気。昨年までだったら一本安打されるとマウンド上で弱気が出て、キョロキョロと落ちつかなくなって、ピッチングが単調になる、打ち込まれていたことなどすっかりかげをひそめてしまった。「チビって投げて打たれても、伸び伸びと投げて打たれても、打たれるのは同じ。どうせ打たれるなら気持ちよう打たれてやれと思った」さいきんは八方疲れの構えだ。これが好結果を生んでいるようだ。これで3勝をマーク。目下のところ二十五イニング無失点だ。すっかりクソ度胸がついたのは十九日の対阪急六回戦(西京極)に四安打の散発で完封勝ちしたことも大きかった。重松コーチは「きょうの調子は西京極の延長だった。リリーフだが、十回投げたし、内容は完封勝ちと全く同じだ。西京極のときのピッチングですっかり自信をつけてしまい、もう心配するところはない」と満点をつけた。与田は「これで防御率一位(0.77)になったはずだが」と胸を張って見せた。だがすぐ反省をはじめた。「これからがほんとうの勝負ですよ。最後梶本に打たれたが、あそこで気を抜いて、同じ球をつづけた。やはり間違っていた。中田に二度もいい当たりをされたことなど、考えることがいっぱいある」という。故若林ピッチング・コーチが与田のめっぽう速い球と切れのよいカーブを見て「与田は投手としての第一条件をそなえている。人は気が弱いというが、自信さえつけばきっと大物になれる」としょっちゅういっていたが、五年目にこの予言が当たりそうだ。

与田の投球内容は安定してきた。小手先だけの変化球を投げるのをやめあくまでも速球主体のピッチングに変わっている。昨年まではカーブを投げ、スライダーを投げ、シンカーを投げ、速球にはお目にかかれなかった。それらの変化球にはまだ自分のものになっていないためにどうしてもコントロールがなく、自然ボールが多くなり、しかたなく直球でカウントをとりにいったものを打たれていた。今シーズンは練習でもスピード一点ばり。だから自然、与田の特徴であるスピードボールにコントロールがついてきた。
河村英文
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井上善夫

2016-12-05 20:36:34 | 日記
1964年

西鉄・井上善夫投手(22)は十六日平和台球場で行われた対阪急九回戦で先発、ノーヒット・ノーランを記録した。同投手がだした走者は三回二死から三ゴロ失の石井茂と六回無死四球の岡村の二人だけだった。ノーヒット・ノーラン試合はパ・リーグ六人目、両リーグでは十六人目。三十三年七月十九日の西村貞朗投手(西鉄)が対東映戦で記録(完全試合)して以来パ・リーグでは六年ぶり。

ベンチ前はわきにわいた。中西監督と稲尾、田中勉ら投手陣。高倉、玉造ら野手・・。ユニホーム姿が長いあいだかわるがわる井上善をたたいてベンチに引っ込もうとしない。だが、ひっそりとひとりで涙を出してよろこんでいたのは高橋トレーナーだ。「善夫(井上善)は指(左手人さし指)が痛いとベソをかく。東大の医学部では原因がわからないという。長い旅からかえって、九大へいったのはきのう(十五日)そこでもあと一週間くらい休めばという。チームの首脳部は投げられるといい、先発がもう決まっている。九大を出ても行くあてはない。汗を流し流し善夫と二人で薬屋をまわったよ。名前はいえないが、ある鎮静剤を買って飲ませた」ウソのように痛みがとれた。井上善が左手人さし指に痛みを感じたのは四月二十六日の対東京六回戦。それからこの日まで指の痛みとの戦いが始まった。「はじめは第二関節が痛かった。それが二、三日すると痛みは第一関節へ移った。しまいには指先だけが痛い」投手陣は総くずれ、ただ一人、白星街道を走っていた井上善がざ折して球団幹部まであせった。前夜のことだ。西球団社長から藤本球団課長へ、藤本課長から中西監督へ、中西監督から高橋トレーナーへ。細長い一本の指をめぐって電話線が鳴りつづけた。最後の井上善のところで電話は終わった。「痛みはない。なんとかいきます」そして井上善はトボトボとマウンドへ歩いたのだ。「いつでも救援をたのむといっておいた。和田さんがなにがいいと聞かれたのでカーブとだけこたえた。ほんと、カーブがよくきまったね。指はちっとも痛まないのに、いまに打たれるんじゃないかとね、そればかり気になってシュートを投げられん。打たれないと気がついたのは五回ごろかな。じゃやってみようかなとそれからシュートをまぜたんだ」シュートになぜこれだけこだわったか。一人去り二人去りしたロッカーで最後まで井上善を待った武末コーチが説明した。「善夫のシュートは特別製なんです。球が左手をはなれるとき人さし指だけ球にすいつくように残る。人さし指の先端でひねる。だからシンカーのように落ちていくシュートがきまるのです。よかったよかった。人さし指はこわれてなかったんだ」投手にとって一本の指がどんなにたいせつか、この日のノーヒット・ノーランはそれをつくづく教えてくれた。

井上の投球内容を見て、まず気がついたのはボール、ストライクがきわどいコースにきまっていたことだ。昨年までの井上はコントロールの悪さから、勝てる試合をみすみすのがしたゲームが多かった。ところが今シーズンの投球内容は見違えるばかり。これは投手の生命ともいえるコントロールを重点的に練習した成果の現れだ。これが一つの例だが、六回無死で岡村を四球で歩かせ、石井茂を見のがし三振にうちとったあと、トップ・バッターの衆樹に2-3とねばられたが、最後の勝負球は内角ヒザもと。結局遊ゴロで遊ー二ー一のダブルプレー。球を低めによくコントロールし、阪急打線につけ入るスキを与えなかった。打者数二十八のうち内野ゴロでしとめたのが十五もあることは、このなによりの証拠だ。ボールにスピードの変化をつけることも忘れなかった。速球をビシビシきめていくかと思えば、同じ投球モーションから打者の打つ気をはずすようなスローカーブをいいタイミングでまぜたのも効果をあげた。一発を警戒し球のスピードに変化をつけ、同じ球をつづけて投げなかった。こうしたコンビネーションのうまさなどが快記録を打ちたてた大きな原因といえよう。 河村英文

衆樹選手「手もとまでまっすぐきて落ちるボールを投げていたが、あれは効果的だった」
岡嶋選手「チェンジアップがよかった。落ちるボールもよく、適当に荒れていた」
河野選手「曲がったり落ちたり、のびたりしてまどわされた」
久喜主審「一試合のうちで好投手でも三、四個は必ず投げる棒球が一つもなかった。とくに落ちるボールがよくきまって、阪急の打者はこのボールに手を出していた」
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小川健太郎

2016-12-05 20:06:44 | 日記
1966年

一枝が前のめりになってボールをもてあそび、須崎は一塁ベースをかけ抜けた。スコアボードのヒットのランプがそれからしばらくしてついた。ベンチの中からはげしいヤジが、ネット裏の藤森公式記録員に浴びせられた。「左打者だし、三遊間の当たりだったので、一枝は逆をつかれた形だった。そのうえゆるいゴロだった。ちょっと、ちゅうちょしたのが間に合わなかったのだと判断した」とヒットのボタンを押した理由を説明した。小川は、そのときの気持ちをこういった。「そりゃ、その瞬間くやしかった。修平(一枝)をせめる気持ちは全然なかったが、記録員の判断には疑問を感じたね」しかし、このあとに小川らしいことばがつづいて出た。「大記録をやると、そのあとがたいへんだからね。やらん方がいいんですよ。どこでヒットを打たれたらいいか、考えながら投げていたんです」これまで一安打試合は二度あった。そのたびに「まだ若いんだからノーヒットなんてやったらいかん。やるとすれば、もっともっと先になってからやるよ」と同じことをいっていた。ベテランといわれるのがきらいな三十一歳の最年長選手だ。ジャクソンの死球は「ナックルをあの人がよけなかったらね」といい、須崎の安打は「シュートをうまく流された」と大記録をつぶした二球をふりかえった。「カーブがよかった。シュートもまあいい方だった。ボールもよく切れてコントロールもうまくいった」序盤戦は先発、リリーフと酷使気味だった。それが投手陣が立ち直るにつれて、先発だけでローテーションをまわせるようになった。五月十九日の対阪神戦(甲子園)でリリーフして以来、先発専門になっている。「十分休んで投げられるので、体調はグングンのぼり調子です」というように、ほかの投手のがんばりも小川を盛りたてる材料になっている。三十九年春、勝浦(和歌山)のキャンプで小川を報道陣に紹介した当時の杉浦監督は「絶対にものになる投手です。ウチの秘密選手です」と二十九歳のルーキーに大きな期待をかけていた。下手投げの変則投法の投手がエースになって、好調中日をささえている。
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若生忠男

2016-12-05 19:50:55 | 日記
1966年

「防御率は・・・」相手の言葉を待たず「この試合をいれないで1・59」と答え「規定回数に・・」というと、また自分で相手の口をおさえて「あと四十イニング」。まるで小学生が得意になって先生の問いに答えるように、胸を張っていい、大声を出して笑う。「この年になっても(プロ入り十二年目、二十八歳)やはり第一位というのは魅力があるからね。でも優勝がかかっていれば、そんなぜいたくはいえんよ」数秒のうちに得意顔は消えていた。「若生がよくやってくれるよ」と中西監督がいったのは二日、一週間ぶりに福岡へ帰ってきたときだ。「池永正が肩が痛いといい、柱になる田中勉がもう一つ安定しない。与田、清に五、六月ごろの元気がない。若生と稲尾がいなければどうなったか・・・」若生は「決して調子がいいわけではない」という。それでも4連勝。相変わらず打てない打線を引きつれて、稲尾とおもにがっちりマウンドを守る。「オレは皆川と同じさ」という。「打てそうにみえて打たせないんだ」一度グルッとバック・スクリーンの方に向かってから投げる奇妙なフォーム。これほど打者にいやがられるフォームはない。だがことしはそのフォームを変えているという。「スタンドからみていてはいままでと変わっていないとみえるだろうが、クルッと後ろを向いたとき、からだをとめないでそのままなめらかに投げるんだ。打者はなめてかかってくる。そこにストンと落としたり、キュッとシュートをかけたりするんさ」擬音入りの解説はこの日のピッチングにもいえた。「落ちたり曲がったり・・・。やっこさんたち(東映打者)驚いていたな。オレは打ちとってやろうなんて気はまるでない。りきまず変化球で真ん中へ勝負にいく。それがいいんだろうな」河村英文氏は「ピンチにあわてなくなったこと」を好調の第一の理由にあげた。「無死一、二塁の五回がいい例だ」という。「去年までの若生ならあそこでつぶれた。一死後左の代打三沢を外角に六球つづけて追い込み、最後は低めに内角カーブ。西園寺にも外角へ七球づつけて、とどめは内角シュート。二人とも手も足も出ない感じだった。これだけねばっこいピッチングは十二年間ではじめて」「頼むから二年ぶりの完封なんて書いてくれるなよ。恥ずかしいから」といったのは八月二十九日の近鉄戦。が、若生はもう恥ずかしがっていなかった。「力投とか牛耳ってやろうということは忘れた。打ちやすいように投げてやるんだけど相手が打たんのだよ」
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