プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

池田英俊

2016-12-24 18:12:34 | 日記
1966年

最近の池田はヘア・スタイルにこっている。この日の試合もスポーツ刈りにカットした頭をカガミの前でしきりにいじっていた。昔流にいえば七・三、いまのアイビー・スタイルだ。「ぼくもそろそろ三十だからね。格好だけでも若々しくなければ・・・」マウンドでも若々しかった。めずらしく力で押した。「追い風だったのでストレート中心でいった。いつもは追い風だとスピードがないのだが、きょうは自分でも速いと感じだ。だからカーブをやめてスピードボールでぐいぐい攻めたんだ」どっと押し寄せた報道陣の輪の中で池田は無表情につづけた。「でも内容はよくなかった。どうでもいいと思いっきり投げてみた。ストレートを投げれば打たれるような気がしなかった」針の穴を通すようなコントロールが身上の池田だが、この日はよほどスピードに自信があったのだろう。「投げるとき腰が開くし、手首がしっくりしなかった。それにこの寒さ(七時現在16・8度)でしょう。備前さん(コーチ)に、きょうはダメですよといってマウンドに向かった」そんなコンディションで4勝目。今季三度目の完封勝ちのおまけまでつけ、ハーラーダービーのトップに立った。昨年の完封勝ちは三度だから、もうそれにも追いついたわけだ。大洋にはこれで今季二試合連続完封勝ち。昨シーズンも13勝のうち6勝は大洋からかせいでいる。「大洋に強いって?別にどうってことはない。だがきょうはこの前の中日戦(二十七日)でうまくリリーフできたので気分的にはスカッとしていたがね。それよりみんながよく打ってくれた。打った人をほめておいてくださいよ」フロからあがると池田はまたカガミの前に立ち、帽子でクシャクシャになった頭をチックできれいにかためていた。
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杉山知隆

2016-12-24 17:55:29 | 日記
1967年

大学時代

二年生だがベンチ入りしたのは今シーズンから。今春の熊本・八代キャンプにも連れていってもらえず、夏まではまったくの下積み生活。だから今シーズン三度目の登板で、もちろんリーグ戦初白星。それもホームラン・バッターの大橋など強打の亜大を一安打、15三振で完封する大殊勲を立てた。奪三振15というのは、十二年間(昭和二十九年前は連盟に記録の集計がない)東都ではなかった記録だ。高校二年の春まで上手、夏から下手、そして専大二年の今春からまた上手と投げ方も何度も変えている。投法を変えさせた鷲野・専大監督はこう説明する。「あれだけの上背(1㍍83)がありながら、下手から投げていたのではもったいない。上から投げればストレートに角度がつき、打ちにくいはずだ」今春、監督就任と同時に杉山にアドバイス。そしてこれまで投げられなかったドロップを練習するようにいいつけた。この指導法が実り、垂直に落ちるドロップは杉山のウイニングショットになった。高校時代は三年夏に県の準々決勝まで進出したのが最高だが、三振は毎試合十個以上とっていたという。当時からのびのあるボールを投げるので、大洋・入谷スカウトから目をつけられていた。しかし、あと一歩力がなかったのと清水商・和田監督の強い勧めで同監督の母校専大に進学した。両親とも野球が好きで、この日もネット裏で声援を送っていた。1㍍83、75㌔、右投右打、清水商出、商学部二年生。
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米田哲也

2016-12-24 17:34:50 | 日記
1966年

とにかく変わった男だ。暑くなって不快指数があがれば食欲がまし、白星もグングンのびる。昨シーズンもオールスター戦前の前半の勝ち星が9勝7敗。後半にはいってアッという間に20勝をマークした。今シーズンはオールスターまでまだ10試合を残しているのだから、この日の10勝は、米田にとってはことしも20勝を約束したといってもいい。フラッシュを浴びる顔から首スジはすごい汗だ。「よく満塁(七回)を切り抜けたな」まず七回、満塁で浜崎をリリーフした場面から話を切り出した。「1点もやってはダメだ。だからイチかバチかの勝負をしたんだ。青野の遊ゴロはシュート。まず併殺で切り抜けることしか考えていなかった。毒島さんはフォークボール。張本はやはりシュートだ」1点もやれない米田の気迫を西本監督は「きょうの米田は燃えていた。打てるなら打ってみろという前向きの気持ちがあのピンチを切り抜けられた最大の要素だ」という。「あと六つだな。オールスター戦まではムリだが、八月の中旬までにはなんとか達成したい」プロ入り通算200勝にあと6勝。八月の中旬まで200勝をマークする自信は十分あるのだろう。大粒の汗を払いながらそんな言葉がスイスイ出た。「昨年はオールスター戦まで何勝していた?9勝・・。じゃ、ことしは勝ちすぎだな。まず10勝がひとつの区切りだから、きょうは肉でも食べにいくか」宿舎(文京区小石川のホテル、ダイエイ)のすぐ近くに米田の好きな焼き肉屋がある。東京遠征では欠かさず通う店だ。「実は一人で、三人分くってきたんだ」そして後楽園にくるバスに乗る前にも、ファンから差し入れのモモを五つも腹につめ込んだ。そしてまたホテルの焼きメシを平らげた。「よく食べるね」に「きょうは投げる予定じゃないから、うんとくってあすに備えるんだ」だが足立のくずれで思いがけない勝ち星をものにしたものの、石井茂が故障で苦しい阪急だけに、十日も米田の先発は間違えないようだ。

毒島選手「七回一死満塁で米田にやられたのは(三邪飛)外角のナックルだった。コースはぎりぎりだと思うが、2-0なので、バットをださないわけにいかなかった」

張本選手「七回二死満塁の左飛は、外角いっぱいのシュートだった。九回の見のがし三振はそのひとつ内側の直球。きょうの米田さんは文句のつけようがない。全くお手上げでした」
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柳田利夫

2016-12-24 17:32:50 | 日記
1964年

一番あとから帰りのバスにとびのってきた柳田の顔をみて長島がすっとんきょうな声を張りあげた。「いいぞ、リュウちゃん、きょうは気分最高だなあ」ナインの笑顔につつまれた柳田は、タナの上にそっとバットをおき、みんなにこづかれながら補助イスにすわった。「あのバットでもう三ホーマーしたわけです。どこにもころがっているようなしろものだけど、これから大事に使わなくちゃ・・・」七月六日北海道シリーズに遠征する前日に買った二百四十匁(900㌘)の平凡な国産バットだが、これで十九日の国鉄戦で2、3号をたたいている。「藤尾さんが四球を選んだのが大きかったんじゃないですか。あれがなかったらゲームセットでぼくのところまで打順がまわってこないし、もちろんホームランなど出ない勘定になるでしょう」真顔でおかしなことをいった。「それに実は藤尾さんが塁に出たとき盗塁のサインが出ていたんです。藤尾さんが走る気配もないのでどうしようと監督さんの方をみたら手で打てというゼスチャアをしている。もしあそこで盗塁失敗でもしていたらすべてはパーだったわけでしょ」近藤とは大毎時代に何回も顔を合わせている。「三十五年だったかな。彼が西鉄にいたころ平和台でホームランを打ったこともあります。きょうはもう藤尾さんを歩かせたところでバテてたんですね。二球つづけて真ん中にストレートを投げてくれればだれだって打てますよ」昨年の秋、手持ちの背広の裏生地に白い絹糸でリュウのししゅうをつけさせた。そのかわりネームは全部はずしてしまった。リュウの絵がネームがわりになると思ったのだろう。「だけどこんどはあの背広は着てこなかった。きょうのビクビクしている近藤の顔をみて考えたんだけどこれからこの無精ヒゲのこわい顔をしてボックスにはいってやろうかな」話を聞いていた王がニヤニヤしてふり返ると気のいい柳田はすかさずいった。「この一本ワンちゃんにやりたいよ。ワンちゃんが打ったことにするわけにはいかんかな」
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塩津義雄

2016-12-24 15:21:09 | 日記
1963年

三塁走者だった山内が目をパチパチさせた。ライナー。一直線に左翼ポールぎわをとおって上段にとび込んだからだ。山内が感心するほどのすごい当たりを、塩津は恥ずかしそうに説明した。「内角高目。スライダーのようだった。手もとに引きつけて打ったのでラインの上をまっすぐとんでいったけれど、ファウルになるとは思わなかった」話しながら何度も両方の手首をさすった。1㍍81、78㌔、そのうえ、鹿児島出身にしては気が弱い。「気が弱いのが塩津を六年間も一軍と二軍の間を生きかえりさせた原因のすべてだ。足もある、肩もいい、おまけにウチの外野は西田、石谷らの若手に切りかえようとしているところだから、レギュラーのポジションを奪うには最も有利なはずなのに・・・。とにかくあんなに気が弱くてはね」中川スコアラーはいう。左の手首に幅約二㌢のばんそうこうが腕輪のようにまいてあった。ほんの申しわけのようでばんそうこうも、気の弱い証拠だ。「二か月ほど前にねんざした。めったに痛くはないのだがばんそうこをまいているとなんだか痛まないような気がして・・・」試合が終わるとそのばんそうこうは、めくってポンと捨てられてしまった。背番号25。これは塩津が入団したころの別当コーチ(現近鉄監督)が「大物だ。きっと大スターになる」とPRして自分が阪神時代につけていたものを与えた。ことし大毎のコーチに就任した藤井コーチも、キャンプで別当と同じようなことをいっていた。「すばらしい素材だ。中心選手になるぞ」昨年の打率が二割七分九厘。ことしも三十一日現在で二割六分二厘。それなのにまだレギュラーの位置を獲得できないのはー「問題は外角低目の球をどう打つかだ。六回低目を遊ゴロしたが下半身がバラバラだった。一軍に定着しようとするならば、これを克服しなければならない。妙な細工をするより荒さは残るが、南海のピートのように思い切って外角球でも引っ張るようにすれば、力があるから長打力が発揮できる。今夜のホームランはツボにきた球だった。両足のバランスがよくとれて、腰でボールをよび込んだ理想的なフォームだったが・・・」と岩本章良氏はみている。
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