プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

菅原勝矢

2016-12-19 23:00:56 | 日記
1966年

降りしきる雨の中、マウンドを引きあげてくる顔にうれしさがムキ出しだった。数本のマイクを突きつけられてしりごみし、とうとう1㍍以上もうしろへさがってしまった。「なにもかもはじめてで・・・。初勝利の気分といったってよくわかんないです」公式戦のベンチにはいって二日目。ナイターにも、神宮のマウンドを踏むのもはじめてだ。「調子がよかったんでいけるとは思っていました。はじめはあがっちゃったけど、長島さんや王さんが声をかけてくれるのがきこえたころからやっと落ちつきました。ストレートとシュートがよかった」まだ少しお国なまりが残っている語尾をのみ込んでは、声をはずませた。森はシュートのサインはひとつも出さなかったという。砲丸投げのような独特のフォームからナチュラルにシュートする球が大きな武器になっているのを知っていたからだろう。「ストレートを全体の八割は投げさせた。コントロールをどうのこうのと、いまは注文をつけなくてもいいだろう」と森はいう。多摩川のファームから送り出されたとき、中尾二軍監督からは「失敗してもともとだ、くらいの気持ちで思いきってやれ」とだけ注意されてきたそうだ。実家は農業。十一人きょうだいの九番目だ。秋田の鷹巣農林から農大へ進み、一年のとき東都大学リーグで3勝している。しかし、そのころからは鉄砲肩にものをいわせたストレート一本やり。カーブの投げ方は、プロ入りしておぼえたというかわり種だ。首脳陣に認められるきっかけとなったのは、昨年三月十六日、大津の対阪神オープン戦。石原(昨年退団)をリリーフして4イニングをノーヒットに押え、勝利投手になったが、このとき生まれてはじめて実戦にカーブを投げた。それも一軍を相手にするんだ、と中尾二軍監督にその十日前カーブの握り方をおそわったばかりだ。だが、この直後に肝臓病から黄ダンを併発してシーズンを棒に振ってしまった。長かったそのブランクが、菅原のシンの強さをつちかったようだ。ことしの一月はじめ、静岡県伊東市の日軽金の寮に渡辺、林、金田らと三週間の強化合宿を張っていたときだった。スタジアム裏の二百段以上もある急な石段をだれひとりとしてひと息に上りきれなかったが、それに菅原が挑戦してとうとうやりとげた。それも歯をくいしばって二往復したのだ。北国育ち特有のねばり強さというより、菅原にとってそれは病みあがりの自分への一種のカケだったかもしれない。イースタンでのことしの成績は十五試合に登板して9勝1敗。八十四回三分の二を投げて防御率は1・27。三十七度を越す炎天下で完投してもビクともしないスタミナがついてきている。小守トレーナーも「腹筋をやらせたらだれにも負けない。ウチでナンバー・ワンのスタミナの持ち主だ」とタイコ判をおしている。
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柿本実

2016-12-19 22:35:40 | 日記
1964年

西沢代理監督になってから二度目の完投勝ち。「あかんあかん。ホームランばかり打たれよって」口ではきびしいことをいっているが、顔はくしゃくしゃだった。かけ寄った近藤コーチにていねいに頭を下げ「前半シュート、後半スライダーを投げ分けたのがよかった。ホームランは二本ともシュートだった。小淵さんのは絶対打たれないと自信を持って投げたんだが・・・。低めを打ちよった。豊田さんのはコースがあまかったです」そう報告した。うれしそうにだまってうなずく近藤コーチ。西沢中日はこの柿本と権藤でしか勝ち星をあげていない。前日まで権藤が3勝、柿本が2勝だったからこれでタイ。試合前「ゴン(権藤)と二人で投げまくるさ」といっていた柿本が「一回に1点とったろう。スミ1といってスコアボードのすみに1がはいるとたいてい負けるジンクスがあるんだ。だから正直いってきょうはイヤな予感がした。それでもすぐ二回併殺くずれでなんとか点とってくれたからね。気は楽だったよ」いまではちょっと悪いとすぐ代えられるので投げていても落ちつかなかったそうだが、最近は「最後までのん気にほうらせるから、なにも考えずに投げろ」と近藤コーチにいわれているという。だから七回同点に追いつかれたときも「なんの気がねもなく打席にはいれた」と笑う。「バックに信頼されることが投手にどれだけ大事なことかいやというほどわかる」顔中汗だらけにして報道陣に応対している柿本のところへ西沢代理監督がやってきて「第二試合もほうれるようにしておいてくれ」とそっと耳打ち。柿本は「まかしといて下さい。この前の広島戦(28日・広島)のときより疲れていませんからね」と胸を張った。
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成田文男

2016-12-19 21:51:08 | 日記
1966年

初ものずくめでプロ入り初白星を飾った成田は、報道陣に囲まれてしりごみしていた。「前半はほとんど外角へ球がはいらず、醍醐さんにしかられしかられ投げたんです。だから近鉄打線は調子が悪いと思います。雨で試合が中断した四回からやっと落ちつきました」アゴをなでたり帽子のひさしに手をやったり、初めてのインタビューにテレくさそうだった。しかし歯切れのいい東京弁はよどみなくつづいた。「スタミナを考えているゆとりはなかった。ただ一回一回、第一打者を慎重にとることだけを考えていました」という。三十九年修徳高が東京都代表として甲子園へ出場したときのエース。昨年はイースタン・リーグで10勝6敗。最多勝投手になっている。しかし公式戦は、ただの二イニング、マウンドへあがっただけ。先発も完投もこの夜がもちろん初めて。ハワイ・キャンプでもパッとせず、帰国後、川口球場での練習で植村コーチからドロップを習い、一軍へ昇格した。今シーズンは、四月十二日の西鉄戦(小倉)から中継ぎとしてスタート、この夜が五度目の登板だ。雨で流れた後楽園(四月三十日)に中西コーチから「投げるかもしれないぞ」と先発をおわされたそうだ。だからこの日、試合開始三十分前に先発をいい渡されても「それほどドキッとしなかった」という。この夜の成田のピッチングは小山コーチに「直球、カーブとも申しぶんなかった。ワシに教えてほしいわ」と冗談までいわすほどのできで、満点をつけられた。「ブレーキのいいカーブのスピードが落ちて、直球とスピードがかわっていたのがよかった。外角で縦に変化するカーブをうまく生かしていた」とネット裏スタンドでみていた植村コーチ。内野席では父親三郎さん(50)が五時間前からそわそわしていた。五人兄弟の四男、都内足立区に住むきっすいの下町っ子。自宅へ帰ったあと、家族とビールの乾杯をした。「実はね、ふしぎなことがあったんです。球場へ出かける前に土居さん(スカウト)から電話がかかってきてお前が投げて勝った夢をみたというんです」乾杯のグラスを持つ手のひらは、東京でも一、二を争うほどの大きさだ。1㍍77、73㌔、右投右打。
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