プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

宮崎昭二

2016-12-18 22:00:58 | 日記
1963年

今シーズン二度目の一塁手橋詰が「チビ、落ちついて」と声援したが、尾崎の立ちあがりはよくない。一回五人の打球は全部ライナー性。そのうち安打になったのは二本。戸口の左前ライナーは張本の妙な守備でランニング・ホーマー、得点に結びついた。真正面にとんだのに、前進した張本はライトに目がくらんだが頭をかかえて逃げ、ボールはヘイぎわまで転々。その裏の梶本(兄)も悪かったスロー・ドロップを投げて目さきをかえたが、スピードは全然ない。一死後半速球を青野、西園寺に連続左翼ラッキー・ゾーンにたたき込まれ、先取点もフイ。先発投手の不できですべり出しは点のとり合いとなった。二回の尾崎は岡村、山口に連安打をくい、一死一、二塁のピンチ。梶本(兄)三振のあと衆樹に中前タイムリーされ、たちまち追いつかれた。水原監督は未練を残さずすぐ宮崎に切りかえた。その裏東映がうまい攻撃で梶本(兄)をゆさぶった。橋詰が左前安打、ラドラは三塁前に巧妙なセーフティ・バントして無死一、二塁。つづく安藤(順)が右前テキサス安打。右翼中田が足をとられてころぶスキに(記録は二塁打)二人生還して再びリードを奪った。そして四回、安藤(順)の左翼線二塁打を足場に二死一、二塁とし、梶本(兄)をKO、秋本の代わりばなを青野が中前安打して、3点差と開いた。宮崎はシュートとスライダーをコーナーに散らして好投。五回本屋敷、戸口に連安打されたあと中田の中犠飛で1点を許したが、六回以後は安藤(順)の好リードもあって、二塁を踏ませなかった。バックも七回三安打と敵失で3点を追加、宮崎の今シーズンの初勝利(昨年九月二十三日以来)を盛り立てた。東映はこれで首位南海に6・5ゲーム。

水原監督「一、二回に点を入れられてもすぐ逆転したのがよかった。梶本(兄)もよくなかったが、ここですぐうちのペースにのっていったのが大きい。ただ残念なことは前半に張本、吉田(勝)という中心打者が当たらなかったことだ。この二人が打っていればもっと早く試合を決めることができた。宮崎は七月二十八日の大毎戦で尾崎をリリーフしたときよりは悪かったが、よく低目に球をきめて押えた」
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益田昭雄

2016-12-18 21:32:18 | 日記
1966年

川上監督が大声をかけた。「おい益田、日米両方の優勝チームを相手にして大活躍じゃないか」ナインのオーバーなほめ言葉がこのあとにつづいた。「大リーグの優勝チームを完封するくらいだか来年50勝は確実だ」「南海がオレたちが完封されたのも無理はないといっているぜ」益田の応対は堂々としていた。「思い切って内角を攻めてやったんだ。みんなつまり、外角のシュートをひっかけていたよ。調子?南海をシャットアウトしたときと同じだった」自信がいかに大きな武器であるか。益田といえば、まるで気の弱い男の代表のようにいわれていたものだ。事実ブルペンではすばらしい球を投げながら、いざ登板となるとまるでダメになってしまうことが多かった。このため公式戦でも六回三分の一まで投げたのがことしの最高。ちょっとピンチになると気の弱さから、すぐくずれてしまった。シーズン終わりになったころ。「もう来年どこかにトレードされるんじゃないか」などと本気で考えていたほどだ。それが日本シリーズ第六戦で完封勝ちし「これでお寒くなっていたクビがあったかくなった」とすっかり自信をもち、自分のピッチングができるようになった。この自信には裏づけがある。夏場に二軍落ちしたとき「いつでもストライクをとれる。それも打者の打ちにくい球」(藤田コーチ)を身につけるために、徹底的に変化球のピッチングをやったことだ。このとき身についた球が、外角に落ち気味にきまるシュート。「苦しくなったらいつでもシュートを投げればいい。そう思うとほかの球も思い切って投げられるようになった」ということだ。この日、大リーガーを苦しめたのもこのシュート。「外角高めに投げたらおもしろいように大振りしてくれた。シュートの切れはこの前の南海戦よりよかった。打たれてもともとという気もあったから、別にかたくはならなかった」日本シリーズ、日米野球と大試合を連続完封勝ちしたいまは、もう気の弱さなどは、これっぽちも感じられない。「ど真ん中にもだいぶいってしまった。でも、見のがしたり、大振りしたりで、結局打たれなかった。ツイていたのかな。この前南海に勝ったときはほんとにうれしかったが、きょうもすごくいい気分だ」大リーグを完封した男も、公式戦で完投もなく、わずかの4勝。レギュラーと準レギュラーとはっきり区別されている巨人では、益田は若手専用の第二ロッカーしか使えない。来年レギュラー用のロッカーに昇格することは、確実になった。若手選手に囲まれたロッカーの中でホッとひと息ついていった。「よくおれがシャットアウトできたもんだな」自分でも二つつづいた金星を信じられないようだった。
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佐藤進

2016-12-18 20:25:48 | 日記
1966年

九回裏二死満塁、岡島の打球が峰の正面にとんだとき、二塁走者だった佐藤は三塁ベース手前で天を仰いだ。「また延長か」と思ったのは一瞬だった。スタンドのざわめきで悪投を知ったとき「はりつめていた気力が抜けて、一気に疲れが出た」そうだ。二十四日の阪神戦(神宮)では廿二回三分の二を一人で投げ抜きながら、バックが点をとってくれず勝てなかった。それだけにこの峰の凡失に佐藤は大喜び。運動会で一等賞をもらった小学生のようにバンザイをし、ぴょんぴょんとびあがりながらベンチへ引きあげてきた。佐藤はかざり気のない男だ。うれしければ手放しで喜び、判定などで不満があれば外人のようなオーバーなゼスチャアで抗議をする。試合前「腹が痛い」と下腹部を押えていただけに、前半は下半身がガタガタでへばったそうだ。「シュートはよくキレたけど、なにかピリッとしなかった。五回の一死満塁が一番苦しかったね。あれを切り抜けてからは楽だった。九回の一死満塁?杉本の代打に伊藤が出てきて、かえってこっちは助かったよ。スタミナには自信があるんだけど、このまえ十二回以上も投げたときより疲れたのはなぜかな。練習のしすぎかな」顔がマラソンの円谷選手に似ているわけでもあるまいが、スタミナではチーム一。飯田監督はその原因を「練習を人一倍よくやるからだ」といった。この暑いのに、試合前の練習ではいつのユニホームのズボンをモモヒキのように長くして内、外野で打球を追って走りまくる。それが実に楽しそうだ。「汗をたっぷりかけばぼくは投球練習などほとんどしなくてだいじょうぶなんだ。とくに暑い夏は大好きだ」夏が好きというだけに完封勝ちは昨年八月以来。だがそれをいわれると「この前の阪神戦(二十四日)でやってますよ」と目をむいた。勝利投手にはなれなかったが、完封したというわけだ。「バックが点をとってくれようとくれまいと、投手は相手に点をやらなければいんだ。ことしの目標は防御率を2点台すれすれにすることだ。きのうまで2・27だったから、これでベスト・テンにはいるんじゃないかな」完封勝ちしたことよりそっちの方がうれしそうだった。
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足立光宏

2016-12-18 20:05:23 | 日記
1966年

六回までだが、東京を二安打に押えた足立は対東映戦(五日、完投)より悪かったという。だが伊勢川スコアラーの見方はまるで逆だった。「速かった。一試合ごとにスピードが出ている。いままでカーブが六割くらいだったが、きょうは直球で勝負していた」この日、これまでのカーブ主体の投球から速球に切りかえたのは速いだけが理由ではなかった。「マウンドに立っていると、右翼から吹き抜ける風が耳元でうなっている。肩口からはいるカーブ、これにちょこんとバットを合わされると、それだけでスタンドまでとぶからだ。だがらシンカー、スライダーを多く使った」足立が一番恐れたのは風にのる長打。西本監督、青田、真田コーチらにつぎつぎに手を出された足立は、六回の中田の本塁打を例にあげた。「ナカさん(中田)の本塁打だってカーブだ。悪い球ではなかったが、毒島は風にやられたんだ」六回、阪急の攻撃が終って、降雨コールド・ゲーム。真田コーチはたばこをふかしながらトイレに走った。「どうや、足立はよくなったやろう。石井茂、足立。そのうち米田のピッチングもお目にかけますが、びっくりするようによくなっているよ」真田コーチも満足そうに顔をくずした。「これまでウチが苦しんだのは投手陣がそろわなかったからだ。よかったのは梶本一人。これではどうやっても勝てないよ」真田コーチが投手陣の調整で一番頭を痛めたのは足立だ。寒さ、湿気。一昨年から右肩を痛めている足立にはそんな大きな強敵がある。「肩は心配いらないという状態ではないが、いまのところ痛みはない。自分でもこんなに早く三つも勝てると思わなかった。これから暖かくなるし、これ以上よくなっても悪くなることはないだろう」真田コーチが喜ぶのもそのへんに理由があるのかもしれない。「これから米田、石井茂、足立、梶本、柿本、それに秋本。いつでもこの中から五人の完投投手をそろえてみせる」西本監督とロッカーにひきあげる真田コーチはきっぱりこういい切った。
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若生智男

2016-12-18 19:23:35 | 日記
1964年

目をこすり、カメラのフラッシュに顔をそむけた。光りが目に痛いからではない。涙がこらえきれなくて、若生は低い声を出した。「話をするのはあしたにしてくれへんか。胸がいっぱいで目の前がかすんでしまって、なにをいうていいのかわからんのだ」逃げるように走ってバスに乗ると、大きなバスタオルに顔をおしつけて静かに泣いた。バスのなかで、代わってしゃべり続けたのは藤本監督だった。「オレは若生が必ず勝つと思っとった。ゆうべあした投げいというたとき、オレは何点とられても最後まで代えないから思い切ってやってこいというたんだ。なあスギさん」ゲームの前夜杉下コーチはなにげない顔で若生の部屋にはいっていって一時間半も長話をした。大毎時代の一昨年若生が最高の15勝をマークしたとき、初白星は五月なかばだったこととマウンドに立ったら人のよさを忘れて鬼のような気持ちにならなければいけないのだ、ということも話して聞かせた。頭をすっぽり包んだまま若生はバスをおりた。「いままでは出るたびに打たれた。投げても投げてもいい結果が出ない。もう勝てないのかと思ったこともあった。それにトレードで騒がれて阪神に移ってきながら勝利投手になれないきまずさ、それだけなんとかしなければと必死だった」勝利の喜びを味わったのは昨年の五月三日(西鉄戦)以来一年ぶり。完封は三十五年十月二日の対東映戦(当時大毎)以来四年ぶりだ。「マウンドからおりてきてみんなに拍手されたり手を握ってもらったろ。わけのわからんほど感激しちゃって声がノドをとおらなかった。ヤマさん(山内)が甲子園で初めてホームランを打って泣いたときと同じ気持ちじゃないかな」この夜西宮市甲子園の自宅では結婚前東京オリオンズのウグイス嬢だった美知子夫人が長女の妙子ちゃん(一つ)と初勝利をやはり泣きながら喜んでいた。
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佐々木吉郎

2016-12-18 11:18:38 | 日記
1966年

大洋はこの三戦目を落とすと6連敗。ゲーム前のベンチの動きはなんともいえない暗い感じがただよっていた。一、二戦は攻守ともにチグハグで、打線は全員大振りするだけ。なんの策もなく、池田、大羽の軟投にかわされた。また守備も長田が深い守りで投手の足をひっぱるなど最悪だった。そんな中で登板した佐々木は、ブルペンでの調子がよかったからだろうが、見た感じでは球は速いが、高め球が多く、コントロールもいま一息という感じだった。四、五回もてば小野のリリーフだろうと読んでいた。三原監督としても、いつこのリリーフをさすかが、五回ごろまでは常に頭からはなれなかったと思う。小野は一回から投球練習していた。が、なにがなんでも勝たねばならぬと、追いつめられた空気を背負って立った佐々木の緊張した顔は、いままで見たことがないほどすごかった。一回から全力をあげ、投球に一ブのスキもないという態度で、球は速く、それに実に伸びがあった。九回まで内野ゴロ二つ、あとは全部フライということが示すとおり、広島打線は全部といってもよいほど振りおくれていた。とくに好調な山本一、大和田、興津に対しては、内角低めへストライクを決め、まず有利な立場に立ち、スローカーブ、スライダーなどの変化球を両サイドに決めていた。ノンプロで名をあげた投手だが、長い間苦闘したあとで、しかも大記録を打ちたてたことは、大いに敬意を表する。見たところ、まだまだ好調時のからだではなく、ぜい肉がついている。これから大いに走り、投げ、早くかつても好調時のからだにかえるよう、努力してもらいたい。からだに故障がないのだから、投げ込んでいけば十分活躍できる。不調の大洋投手陣で、突然とはいえ最高の投球をしたことは、全員に与える影響は大きい。投手陣が立ち直れば、打線も徐々に息を吹き返すことだろう。ストライクをとって終始カウントを追い込んでいたことがよく、最後は速い高め球で勝負していた。これにまんまと広島打線はひっかかり、内外野へフライを打ち上げた。佐々木の投球は、両サイドへもよくきまっていたが、とくに高低のコントロールがよかった。低めで攻め、高めで勝負するという佐々木のコンビネーションに、広島は全員といっていいほど押えられていた。
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佐々木吉郎

2016-12-18 01:24:58 | 日記
1966年

八回も三人に打ちとって佐々木が帰ってくると、ベンチはさすがに興奮してきた。「打たれりゃあ、しようがないさ」となぐさめるのは近藤昭。「こんなときにはそう打てるもんじゃないぞ」と励ましているのは金光。別所コーチはそんなナインに「守備の方を頼むぜ」とうわずった声で念を押した。佐々木は奥のイスにすわったまま目グスリをさした。四回にも一度はずれたコンタクトがどうもしっくりしないらしいが、またそうでもしないとジッとしていられないようにもみえた。やがて味方の攻撃も終わり、最後の三人と向かい合うときがきた。ベンチのヤジもすごい。三原監督までがメガホンにしてわめきたてた。ついにあと一人になり、その阿南も右飛に終わった。もうグラウンドは人でいっぱい。佐々木の額に一度にあかみがさした。「一番緊張したのは八回ですね。九回はそれほどでもありませんでした。はじめは気がつかなかったけれど、五回ごろからベンチの人たちが記録のことを教えてくれました。警戒したのは大和田。七回に1-3になったときはとてもいやでした」こんな言葉が、突き出された何本ものマイクに吸い込まれるように、とぎれながらつづいた。昨年は1勝もしていない佐々木。三十九年九月の対巨人二十八回戦以来の勝利がつくった大記録だった。プロ入りしたのは四年前の三十七年。この年阪神と優勝を争っていた大洋が、優勝と日本シリーズの切り札にと、ノンプロ日本石油からとったエースだったが、期待はずれに終ってしまった。ノンプロ界の最優秀賞「橋戸賞」をかかえての堂々たる入団。だが、ライバル城之内(日本ビールー巨人)にもグングン離されてしまった。その原因は右ヒジの故障。三十八年の草薙キャンプ中、サーキットで痛めた右ヒジは、速球が武器の佐々木の足を「数え切れないほど引っぱった」そうだ。負担はまだあった。どんなに食事をへらしても太ってしまう体質。しかも異常なほどの汗っかきでもある。プロ入りしてナイターを経験するようになると、目もどんどん悪くなった。三十九年入団してきた別所コーチの一つの課題は、この傷だらけの男をなんとかプロで一人前の投手にすることだった。「このことを一番喜んでくれるのは?」佐々木はすぐ答えた。「別所さんでしょう」心機一転の意味もあって昨年十一月、結婚したばかりだが、愛妻の月子さん(23)のことはひとことも口に出さなかった。キャンプでもブルペンでもつきっきりで投げさせたばかりか、精神的にもいろいろのアドバイスをし、ついにその右ヒジの痛さまで忘れさせた?別所コーチ。その熱意にやっと報いられたということが、興奮した頭のなかにも真っ先に浮かんだらしい。球場玄関では栄光の投手をひとめみようというファンが約千人もつめかけていた。白いヘルメットの警官がでたが、ささえきれない。つい佐々木はナインと離れ、広島県警のパトカーで宿舎山雅(市内上柳町)へ護送されるわけだ。「おめでとう」「おめでとう」仲居さんたちが握手がわりに背中をたたくのを、うれしそうに首を縮めながらよけた。二階の自室へあがると、同室の稲川がさっそくこんな知らせをもってきた。「オレたち投手陣が積み立て金(おもに罰金の積み立て)から、金三万円なりをお祝いに贈ることになったよ」その積み立て金には、かなり出費しているはずの佐々木だけに、ほんとうにうれしそうな顔をした。だが大喜びのナインのなかで、たったひとりだけ妙な顔があった。この試合のほんとうの先発だった小野。広島が必ずアテ馬二人を出して相手投手をうかがうのをみた三原監督が、小野の前に左打者を出させようとしたのが佐々木先発の舞台裏だった。だから佐々木の予定は一回で、二回からは小野に投げさせるはずだった。「次の回か、その次の回かと思いながら、とうとうブルペンで完投しちゃった。百五十球は投げたかな。ビックリしたな、もう」と小野はポカンとしていた。完全試合投手も、いわば投手のアテ馬だったのだ。
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