プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

久保征弘

2016-12-17 18:30:54 | 日記
1964年

試合前の近鉄ベンチ。加藤マネが報道陣に向かっていった。「このシリーズはきっと勝ち越すよ。近鉄旋風再びまきおこるくらいの見出しをつけてもらわにゃ」試合が終わると久保がカメラマンの注文にポーズをとりながらしゃべる。「きょうはファースト・ストライクのコントロールがよかったね。6点ももらえば楽や。このところ完投してなかったから最後はちょっと打たれたけど。二回くらいからボールがよう切れたわ」四月四日の対東京一回戦に3-2で完投勝ちして以来四十日ぶりにひとりでマウンドを守り切った。色が白く女性のような首すじに玉の汗が流れる。つい最近の平和台遠征で福岡・板付空港へ久保を見送りにきたある女性ファンがいた。ところが久保は翌日の汽車で帰ることになり、空港にはいかなかった。その女性ファンは目ざとく徳久をみつけ近づいてきたが、浅黒くせいかんな顔つきの徳久に「久保さんは?」とたずねただけで素通り。遠巻きに徳久をながめていたこの女性ファンの会話を盗み聞いたナインから「久保さんの方が色が白くてやさしそうバイ」としらされた徳久はくさったそうだ。その久保が真っ白なからだにバスタオルを巻きつけ「鈴木正に打たれたのはシュートのかけそこないや」と静かに話したあと、フロへはいろうとすると鈴木正が湯気をたてながら出てきた。「内角へ沈む球が久保の武器だった。二打席目にその球を二つつづけられたから、八回のときはホームベースからはなれてたんだ。そこへスライダーがきた。外角球と思ったが・・・。とにかく久保は高めのボールが多いので打てそうで打てない。フォームがクネクネして女性的なピッチングだしね」久保はその女性的なピッチングでこの日6勝目を完投で飾ったことになる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菅原勝矢

2016-12-17 18:02:30 | 日記
菅原勝矢投手

・「不器用」ということばは、この人のためにあるのではと思うほどのっそりと、そしてモノにとらわれなかった。
1972年、7月4日、札幌円山球場の夏はぬけるような青空が広がり、東京の梅雨が信じられないほど爽やかだった。
首位・阪神との攻防は巨人のリードで9回表、一死一塁と大詰めを迎えていた。先発の菅原は力投していた。川上監督の期待どおりであった。この年、開幕からローテーション投手の高橋一と渡辺が不調で、堀内ひとりの投手陣の中にあって、救援として開幕1か月で5勝をマークした菅原は、まさに救世主となった。
救援から先発に堀内との2本柱までに成長した菅原だから、巨人ベンチ、スタンドの巨人ファンも「あと2人で終わり」と読んで、見守っていた。
ネット裏では「これで、巨人は首位の阪神に2ゲーム差に迫った」と記者たちがソロバンをはじく。阪神の攻撃、安藤の当たりはライナー性であったが火を噴くほどの鋭さではなく、かわいたグラウンドに跳ね、ツーバウンド目で菅原のグラブの方に飛んでいった。「しめた。ゲッツーだ!」
菅原はそう思ってグラブをさし出しながら、2塁方向に顔を向けた。だが、菅原がさし出したグラブの横を生きもののようにすりぬけて、打球は菅原の左目の方にすごい勢いで飛んできた。
「あっ!」
菅原はうめいて倒れると、手で目を覆ったが、その間からは真っ赤な血がしたたり落ちた。
長嶋、王が
り寄ってきたとき、菅原は体をふるわせていた。いつもなら「お前は
オーバーだからな」と気にもとめない長嶋も、異常なうろたえ方に事の重大さを知った。マウンドから病院へと「ツキ男」が去るとともに巨人は逆転負けを喫した。その夜、菅原の親友、阪神の江夏が見舞いに来たが病院の先生が、そっといった。「江夏さん、目を14針縫ったのですが、菅原さんには4針といってください。本当のことをいうと相当にショックですから・・」
江夏はそのとおり、菅原に伝えると、なるほど菅原は地獄で仏に遇ったようにホッとした。
それでも前半戦2位で折り返した巨人の、巻き返しの主役として後半戦11試合に登板し、自己最高の13勝をマーク。巨人Ⅴ8に貢献して見事なカムバック成ったか、と思われた。
ところが、首脳陣は気になっていたことがあった。左目の視力は0,3まで回復しながら、菅原は自分の近くに打球がくると目をそらし、「カン」だけで捕るようになってしまったのだ。打球が怖くなった彼に自信をつけさせようと、いやがる菅原をひっぱり出して守備練習が行われていたが1973年、6月27日、多摩川で中尾コーチからノックを受けていたとき、目をそらす悪いクセが出て、左頭部に打球が当たって倒れた。病院での診断は「頭部打撲の外傷」が認められた。激しい目まいに顔をゆがめ、ランニングをしていても途中でやめる。チームメイトは「ケガに負けたらおしまいだ。なにくそという気でやってみろ」と激励をしたが、だめだった。菅原のプロ生活は1973年限りでピリオドが打たれた。33勝8敗、勝率808が彼の通算成績であった。
菅原の母校は秋田県・鷹巣農林高校というスキーでは有名も野球では知る人もない無名校。ここでエースとして投げ、農大に入学したが、「好きな野球をやるのならいっそ、プロで・・」と、大人しいわりには思い切りがよい選択だった。
平凡に進んでいれば営林署で秋田杉の管理でもしていた男が、145キロ台のスピードボールを投げる能力があるばかりに、プロの門をたたいたのである。
4年目の1967年、速球とシュートを武器に11勝をあげ、翌68年は4勝、69年にはパッタリ勝てなくなった。当時のチーム内では堀内にもヒケをとらないほどの速球を持ちながら低迷する原因を「気の弱さ」と見た巨人首脳は1972年、キャンプでの同室に王を組み入れ、お精神力の向上を図った。そしてグラウンドでは長嶋に声をかけられる。「お前は、威力のある球を投げられるのに、一つだけ違うのは考えすぎなんだよ。野球なんて、そんなに難しいもんじゃないんだ」
自己主張の強い投手が多い中で、菅原ほど「ひっこみ思案」な性格も珍しい。東北なまりのせいもあるが、彼の口を開かすのに苦労した記者は「菅原を記事にするのは大変だ」と苦笑したものだった。
1971年、9月7日、参考記録ながらヤクルトを相手に7回を降雨コールドながらノーヒット・ノーランをマークした。そのときも「もし雨でなかったら大記録を作っていただろうな」と水を向けられ「いえ、とんでもない。あの辺が限度。負けないでよかった」と欲のない答えが返ってきた。
巨人を去る時、目の治療費でモメたこともあって散りぎわの華やかさはなかったが、「捨てる神あれば拾う神あり」で、菅原はⅤ9監督の川上企画に就職し、少年野球を指導するようになった。現役時代の真面目な性格が川上監督から評価されたのだが、菅原は少年たちに手とり足とり指導しながら、何度も強調した。
「みんなプロのカッコいいプレーばかりを真似てはいけないよ。基本が一番大事なんだ。ゴロが飛んで来たら最後までボールから目を離しちゃだめだ。おじさんは目を離したために、プロ野球選手をやめなければいけなくなったんだよ」
菅原が教えた少年たちは、何の邪心もなくひたすら白球を追っていった。いわれた通り、じっとボールから目を離さないで・・・。
そして今「1984年」。菅原がユニフォームを脱いで早くも10年が過ぎた。
ことし、開幕前の多摩川の練習場を菅原は訪れた。同時期に巨人に入った堀内が投手コーチに就任したことで、その働きぶりをのぞきたかったようである。かたや堀内は、王巨人の露払い役、かたや菅原は自動車のセールスマンなどをして社会の荒波に打たれながら、必死に生きている。
「野球をやめてから、プロ選手であったことがいかに幸せかがわかる。それにしても、いまの若い選手は堂々としているなあ」
20年前、おどおど練習していた自分の姿を思い浮かべたのであろう。菅原が見つめる先には、槇原や水野の姿があった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

李源国

2016-12-17 17:55:07 | 日記
1966年

東京・永田会長が韓国からスカウト、呼び名問題などで話題をまいた李源国投手(18)=1㍍85、82㌔、右投右打、ソウル中央高出=が、一日のイースタン・リーグ対東映戦(東京)ではじめて投げ、初勝利をあげた。七回で被安打七、一ホーマーの2失点。李は「自信はあったが、やはり堅くなった。スピードもなかったし、フォームを完全にマスターしていないため、カーブも悪かった。船渡のホームランはスライダーがすっぽ抜け、内角高めにいってしまったもの。まだまだ不満足」といっていた。一週間前に純粋なオーバースローにかえたばかり。フォームもぎこちなく、東映・多田コーチは「スピードもカーブのきれも打者にこわさを感じさせない。まだ未完成」ときびしい見方。濃人二軍監督も「東映がボールに手を出さなければ、もっとゆさぶられたろう」といいながらも、どんどん使っていく方針だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石戸四六

2016-12-17 14:27:34 | 日記
1966年

六日の朝、郷里の秋田・大館の実家でそったヒゲがもうだいぶのびた。そんなヒゲの男が試合前にいつも忘れず、ていねいにお化粧? をする、といっても商売道具の右手人さし指と中指のツメだ。バンソウコウを二、三枚はってから、マニキュアをぬるように水バンソウコウで手入れをする。秋田の広島戦ではニシキを飾るどころか、三回途中でKO。それを聞かれると「くにだからね」とヒゲづらをなでてニヤニヤ。秋田は酒どころ。おまけに石戸はチーム一の酒豪。朝まで降り続いた冷雨に調子を合わせて、ついつい量を過ごしてしまったのだろう。「この借りはすぐばんかいしなきゃね」特別にナインより一日遅れの六日午前の飛行機で帰京する前に、気分一新ヒゲをそってきた。あとは、ビールを半分しか飲んでいない。六日の夜は九時半に床について、この日予定のリリーフにそなえた。だが試合後の話は、九回の決勝タイムリーの方が先だった。「内角低めのシュートだったね。2球シュートできたから、また同じ手でくるだろうと、きょうは特別ヤマをかけたんだ」今季初、プロ入り五年目で三本目というヒット。打点はもちろん初めてだ。「ぶつかっても塁に出れば、つぎの丸山が打ってくれると思ってね。必死だったよ」秋田商ではクリーンアップ。「最近は練習をしていないんだが、打つ方はピッチングより好きだ」そうだ。勝越しのチャンスに石戸を迎えたとき、飯田監督の脳裏にひらめいたのは、二軍時代の石戸だった。「四六はイースタンではよくいい場面で打ったものだ」ちなみに三十九年のイースタンでは31打数、9安打、9打点の活躍ぶり。本業の話はつけたしだった。「七回満塁でリリーフしたとき、最初はちょっとボールの切れが悪かったので、自信はあったけどいやだったね。吉田勝に打たせた遊ゴロは真ん中に沈むシュート。内角に落とすつもりだったので、ちょっとヒヤッとしたよ。でも九回裏は2点リードしていたし、ONがいようと平気だったね」これで巨人にはプロ入り2勝目。それでもいまの調子なら、勝ってあたりまえといった口ぶりだ。ロッカーにもどると、ツメの化粧だけは忘れずにやっていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田中勉

2016-12-17 13:31:53 | 日記
1966年

ことしでプロ入り六年目。三池工をでて三十三年東洋高圧大牟田にはいり、三年間ノンプロのメシを食った。三十六年八月西鉄に入団すると、真っ赤なハートに矢を射込んだ図柄のシャツを平気で球場に着てきて、ナインをあっといわせた。その年、1勝もしなかったが、十二月には八重子夫人(27)と結婚、長男昌典ちゃん(4つ)が生まれた。「まだ投手として海のものとも山のものともつかないのに、このごろの若いものは勇気があるね」藤本球団部長は、こう感嘆した。典型的な戦後派の青年のうえに、滅法向こう気が強い。絶対に逃げのピッチングをしない。「生まれながらの投手」と河村英文氏も舌をまいている。20勝投手の素質をもちながら、それだけの成績を残せなかったのは、昨年までシュートを使わなかったから、と同僚たちはみている。ことしはそのシュートをふんだんに使ってピッチングが豊かになった。「南海、東映の左打者に対して実に効果的にシュートを使っている。おそらくきょうもこのシュートがすばらしかったのではないか。なにしろブルームなんかにも五球も六球も平気でつづけて攻めるあたり、常人にはとてもできるものじゃない」と河村英文氏はいっている。ピッチング同様、ことしの田中は人間的にも成長した。八重子夫人も認める。「ことしの主人はかわりました。一昨年、昨年と調子が悪かったのでもしことしもダメだったらクビがあぶない。オレにはお前たちがいるのだから、がんばらなければ・・・とよくいっています。やっと欲がでたのでしょうね」評論家からもだいぶたたかれたが、ことしはだれもが「20勝、あるいはそれに匹敵する働きをきっとする」と、採点がいい。田中にはかわった趣味がある。転居ずきなこと。現在の家(福岡市下長尾)に落ちつくまで五度かわっている。車の趣味もたいへん。いまあるクラウンは六台目。暇さえあれば手を真っ黒にしていじっている。夫人からみた田中は「一に子供、二に車、三、四がなくて五番が私」ということだそうだ。遠征からの帰りには、昌典ちゃんと七か月の京子ちゃんにおもちゃをかかしたことがない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若生智男

2016-12-17 13:07:57 | 日記
1966年

グローブをたたいて喜んだあとに「これでいいんだ」というつぶやきが何度もつづいた。「仙台でサカナ屋をやっているおやじに初めて勝利投手になった姿を見せた。おやじはスタンドでニコニコ笑ってくれたよ。うれしいのはそれだけじゃない。これで来年こそチームのローテーションにはいって投げまくる自信をつかんだんだ」この一ケ月の間にナインを驚かせながら6勝した。その間の防御率1・21で完封二つ。この日で4連勝。しかしこの快調なピッチングが始まる一か月前は、シーズン後の首になったときの生活を考えたこともある。「1勝しかしていなかった前半戦の成績じゃ、球団だってなんというかわからない。でも考えれば考えるほど、オレは野球で生きていくしかないということに気づいた。だから残されたチャンスに、もう一度やれるだけやってみようと思った」この日は8三振をとって被安打4。藤本総監督は「これが若生のほんとうの力だ」といい「これで来季は第三の投手についてうるさく聞かれなくてすむ」と笑う。「ストレートのサインを出して真ん中にミットを構える。するとすごい速球がぎりぎりのコースにグンとのびてくるんだ。フォークボールもあればきわどいコースに生きる大小のカーブもあるというのは捕手の辻佳。若生は、すばやく着替えをすますと古川コーチにいった。「今夜は大いばりで家へ帰ってきます。あしたは八年前に死んだおふくろのお墓参り。きょうのピッチングをおふくろに見せられなかったのが残念だな」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

半沢士郎

2016-12-17 12:47:27 | 日記
1964年

金田二世とか金のタマゴともてはやされ、若手の人気者にのしあがった半沢にも悩みはあった。眠れない夜がつづいたのは三週間ほど前の広島遠征のときだった。期待されたわりに勝ち星がのびず、たったの2勝。しかも原因不明のゲリに悩まされた。ホオがげっそりとこけ、体重が80㌔を割った。「あのときは本当につらかったな・・・。投げるとき、腕はちぢんじゃうし、からだがだるくて腰の回転がスムーズにいかなかった」こんな半沢にラッキーだったのはジュニア・オールスターが終って、二十三日の休養日を芦屋の宿舎竹園で一日たっぷり寝て暮したことだった。「最初のうちあまり調子よくなかったのは寝すぎて、からだがシャンとしなかったことと相手が村山さんで必要以上に力がはいってしまったためだ」六月十三日の対阪神十二回戦(甲子園)で村山と投げ合って負けたことが、いまでも心にひっかかっているそうだ。「村山さんに勝ったことが一番うれしい。小さいころからの夢だったものな。後半汗をたっぷりかいたので、思いどおりのピッチングができたのもよかった」たったの五安打におさえ、初の完封勝ちをマークした半沢は、その喜びをからだ全体であらわした。十一文半という大きな足がリズムをつけておどる。顔は笑いでいっぱいだった。「はじめての完投だったけど、しんどいだろう?」という報道陣の質問にはニヤリと笑って答えた。「全然疲れませんね。だってぼくはまだ若いんです」百七十二球も投げつづけたことをあっさりかたづける。まだ十九歳になったばかり。1㍍86、86㌔、超大型投手が自慢するのは若いということだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

板東英二

2016-12-17 12:31:34 | 日記
1966年

リリーフ専門の板東には、今シーズンまだ休養がない。いつでも投げられるように、ブルペンで調子をととのえておかなくてはならないからだ。だがこの日は「まさか・・・」と思っていたほどの早いリリーフだった。試合後、まっさきにとび出した近藤、坪内コーチに迎えられた板東の第一声は「ほんとうに苦しかった」だった。「ケンさん(小川)がすごくよかったでしょう。だから監督さんもこのゲームはケンさんにまかせたんだ。そのため投げ込みが少なく、マウンドにあがってもスピードはなかった。それにしてもツイていたな」というのは七回表一死満塁に打者が投手の中村だったことと、巨人のとった強攻策だった。板東がマウンドにあがってまっさきに考えたのはスクイズ。投げ込み不足のためボールは走らず「こんないい試合に押し出しではみっともない」(板東)から思い切ってコーナーもねらえない。たとえツー・ストライクをとっても、あくまでもスクイズが頭からこびりついて消えなかったのはそのためだ。「バントされたら絶対にゴロになったんだろう。思い切って真ん中に投げたんだけど、打ってくれて助かった」ベンチ裏の長イスにグッタリもたれかかりながら、まだ七回表の場面を思い出しているのが汗が休みなくしたたる。柴田のいい当たりも右翼真っ正面にとんで、みごとに切り抜けた。「柴田にはいつも痛い目にあっている。フル・カウントになったらこっちの負けだと思って、目をつぶって真ん中へ投げ込んだ。やはり性根のはいったボールがいいね」いかにも気力で押し通す板東らしい言葉だ。最近広島戦(六月三十日)巨人戦(三日)とリリーフで打ち込まれているだけに、この試合は会心のリリーフができてうれしそう。おまけに八回裏には、二死一塁に死球の木俣をおいて放った右中間の大二塁打がそのまま決勝打につながった。先発投手は試合前にバッティング練習をするが、リリーフ投手はほとんどバント練習だけ。「一年に三、四本しか打てないボクが二塁打するんだから、中村もツイてないね」と盛んに同情する。中村もこの試合に備えて、試合前は森と三十分も相手打者の研究。だが、どうしても板東の名前だけは出てこなかった。八回、板東を迎えたときにも多少の油断はあったかもしれない。「木俣に死球を与えたからって別に関係はないんだ。打たれたのは真っすぐ。スライダーを投げていればよかったかもしれないな。それにしてもよく打ちよった」と中村はわるびれないようす。だが板東も、ちょうど一週間前には同じ場面にあっている。三日の対巨人戦(後楽園)で城之内にホームランされたときは、一瞬、なにがなんだかわからなかったほどの放心状態で、宿舎へ帰ってから急にくやしさがこみあげたそうだ。そのお返しをりっぱにこの試合で果たした板東は、八回の場面をこう説明した。「木俣の死球は関係ない。ただ投手に対してはあまり速い球は投げられないもんだよ。だからぼくは最初から思い切って引っぱってやろうと思っていた。それにしても中村は、2-2までほんとうにいいコースへ投げてきた。打ったのは真っすぐだったとしか覚えていない」もう振らなければ三振という追いつめられた気持ちから打った決勝打。リリーフしたときの緊迫感と気力がそのままバッティングにもつながっていたようだ。これで五月十六日勝って以来、つづけていた4連敗に終止符を打った。「きょうは勝ててほんとうによかった。ぼくは先発投手ではないから、あとは先発投手が巨人戦でもっとがんばってもらいたい。ぼくもあすからまた出直しだ」板東にはあくまでも休養はなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菅原勝矢

2016-12-17 10:32:03 | 日記
1967年

まるで巨人の本拠地・後楽園球場と錯覚をおこすほどの大カン声が、暗ヤミの甲子園球場の場外でわき上がった。この夜誕生した新しい英雄の姿を近くでみようと巨人ナインを乗せたバスを待っていたファンのむれからだ。「先発を知らされたのは、きょう芦屋の宿舎から球場へくるバスの中でです。藤田さんからきょうはおまえでいくと大声でいわれたときはビックリしました。だけどみんなに思い切り投げてみろとはげまされたのでハラがすわっていたから、自分のペースで投げられました」ニキビ面を吹き出る汗をふこうともしない。最初はすこし興奮気味の口調だったが、すぐおちついてしゃべり出した。王からもらったウイニングボールを宝物のように、大事に汗まみれのカッターシャツにくるんでビニール製のバッグにしまった。「よかったのはまっすぐ。これが思いどおり低めにきまりました。それに小さなカーブ。スライダーも効果的でした。阪神打線は初対面だけにどこかウイークポイントかわかりませんでしたが、徹底的に速球で押していったのがよかったです。ワンヒットで押えるなんてボクには上出来すぎました」試合中、三塁の長島から絶えず激励の声をかけられ、藤田コーチからも腕が下がらないようにと注意されたのが、今季初登板初完封できたおかげだという。これがプロにはいり2勝目、初勝利(昨季八月二十一日対産経十八回戦)も完封勝ちでうちの大物(藤田コーチの話)の片リンを見せていた。無名の秋田県鷹巣農林高出身。農大二年生の夏、青木スカウトにその速球を買われて巨人入り。ことしで四年目。四十年の秋に肝臓障害を起こして約半年を棒に振ったが、東北人特有のねばりで闘病生活に勝って再起した。ことしの宮崎キャンプをつぶさに見た杉下茂氏は巨人投手陣に老人現象のきていることをそのキャンプルポ一投両断で鋭く指摘。「巨人3連パの問題点は首脳部が、いつベテランから高橋一、菅原、渡辺、堀内、それに城之内と金田をからませた若返り態勢に切り替えるかだ。この若い投手陣の中心の整備ができたら、巨人は進撃を始めるだろう」と予言していた。そのことばどおり投手陣を整備した首位巨人は、二位大洋にアッという間に4・5ゲーム差をつけて独走態勢にはいった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山本英規

2016-12-17 10:13:14 | 日記
1963年

ことしの高校選手でプロからマークされた三塁手が三人いた。阪神入りした千葉商・江田、大洋入りを伝えられる銚子商・田中、それにこの山本。山本は甲子園で二試合に二安打しただけ。1㍍75、80㌔と恵まれた体格で打ちまくった予選(四割二分)から見ると、あまりにもものたりない成績だった。周囲の騒ぎすぎから、山本が力を必要以上に発揮しようとして堅くなったためだろう。しかし、西鉄の中西に似て大きなおしりをプリプリしながらボックスにはいる山本からは、大学級の威圧感を感じた。球あしの速い打球は、ボールを呼びこんで強引にフルスイングできる強いリストと、柔軟な腰から生まれるものだ。ホーム・プレート近く立つスタンスの位置もいい。ただ甲子園では、外角球のポイントこそうまくつかんでいたが打とう、打とうという気持ちが先に立って内角球につまっていた。堅くなって腰の回転がにぶったようである。問題はスピーディな動きに欠ける面のあることだが、これからの練習次第でおそい足もある程度解決できるだろう。守備もまずまずだ。それ以上に長島や王らのスターとせり合ってもかんたんにはひきさがらないと思われる根性を高く買いたい。山本はプロ向きの選手である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中井悦雄

2016-12-17 09:43:43 | 日記
1963年

中井のピッチングを見て驚いた。どうしてこんな投球内容で4連勝できたのだろう。中日の江藤は「こわいもの知らずですよ。1-2とか0-1と不利なカウントから、平気でど真ん中へ投げ込んでくる」とぼやいていた。つまりこの夜の中日各打者は、初めて顔をあわせた中井の配球にどまどってしまったようだ。それでも前半は毎回走者で、中井が零点に押えられたのは打球が正面にどぶ幸運があったからだ。コントロールの悪さから自然に球が散っていたこともさいわいした。中井は打たせてとるタイプ。広島の大石投手によく似たピッチングをするし、フォームもそっくりだ。違うところは、球をはなすとき大石は体重が軸足に移動、ボールに体重がかかっていて重い球を投げされるのに対し、中井は手先だけでコントロールしようとする。このためふみ出した左足が突っ立ったままになり、自然に上体も前にかからず腕だけで投げる結果になる。これではスピードはのらない。どうしてこういうピッチングになるかといえば、変化球にたよりすぎるきらいがあるからだ。投手の生命であるコントロールは腕でなく腰でつけるのが原則。中井の球にスピードやのびがないのもからだ全体を使わないから上体が前にのらないという実にかんたんな理由からだ。この中井が4連勝できたのは、相手チームに球質がわからず、沈むシュート(これが武器)が効果をあげて、ちょうど一昨年の村瀬(巨人)がデビューしたときと同じだと思える。フォームそのものはまとまっているから腰をつかって上体のウエートが軸足にかかるようになれば、もっとスピードもますだろう。またコントロールもつきやすくなる。いまのままではすぐ通用しなくなるおそれがある。

関大中退。二十歳。1㍍79、76㌔、右投右打。百試合研修生。ウエスタンでは13勝1敗で防御率、勝率、最多勝利の三部門を独占。九月七日の対巨人戦(甲子園)にリリーフしてはじめて公式戦に登板して以来30イニング無失点をつづけている。この間完封勝ち三度。4勝無敗。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菅原勝矢

2016-12-17 09:27:34 | 日記
1967年

「相手がどこでもこわがらない。登板させると喜んでいる。野球がおもしろくてしようがないのだろう」川上監督は逃げを知らない菅原の積極性を高く買っている。昨年と比べて進歩した点は四球の心配がなくなったことだ。それに昨年は速球一点ばりだったが、ことしはキャンプで右打席の外角に鋭く落ちるスライダーをおぼえた。腰痛の堀内に代わってベロビーチキャンプに参加できたことが菅原には大きな収穫だった。スチュアートは菅原には手も足も出なかった。4打席で無安打。しかも2三振。「スチュアートにはスライダーで攻めた。真っすぐ走っていたので、よけいスライダーは威力があった。だが完投できたのは四球を出さなかったからだろう。ねらったところへ大体タマがいった」こういってプロ入り初の無四球試合を自慢した。だが、コントロールはまだ完全でない。桑田には2-3から外角をねらった直球が真ん中にはいってホームランされた。「桑田さんのような一発長打のある人にはもっと慎重に投げなくてはいけない。簡単にストライクを取りにいくと痛い目に会うことがよくわかった」若い投手は打たれるたびに進歩していく。試合前、前夜奪三振16個のセ・リーグ新記録をたてた金田に「わしのような年寄りでもこれだけやっているんだから、お前らも若いものはもっとピリッとほおらんといかん」とハッパをかけられた。最近の菅原はしょっ中金田にくっついて練習している。ランニング、柔軟体操はいつもいっしょ。「金田さんのことばが気持ちのささえになった」菅原は金田を一番尊敬している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする