プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

半沢士郎

2016-12-04 22:11:19 | 日記
1964年

国鉄・半沢投手は最後の打者マーシャルの中飛が高山のグローブにはいるのを見とどけると、マウンド上で目がしらをおさえた。林監督、金田投手らが出迎えにとんできたときはハナの頭あたりまで涙いっぱい。ベンチへ帰ってくると谷田、内藤両コーチがほとんど同時にさけんだ。「士郎、すぐ着替えるんだぞ」報道陣に囲まれるとこんどは豊田がニヤニヤしながらいった。「ウチの大事なたからものやから、あんまりいじめるなよ」イースタンで投げているときから金田二世といわれていただけに、まわりの気のつかいようもたいへんだ。「きょうリリーフに出ることは球場にきたときからいわれていたんですが、あんなに早く出るとは思いませんでした」デビューしたのは2-2の同点の三回裏。無死一、二塁で打者江藤というピンチのときだった。右翼ヘイいっぱいに飛球をあげた江藤はこういう。「カーブがくるだろうとヤマを張っていたんだが、ストレートだったんで当てるだけの感じになった。それほどすごみがあるとは思わんが、思い切って正面から向かってくるところがいい。権藤(中日)以来久しぶりに見たすばらしいルーキーだ」着替えをすませると涙はとまったが、とたんにいうことも勇ましくなった。「イースタンで投げているときと気分はそうかわらなかったですね。根来さんのサインどおり投げましたが、七、八割は直球で押しました。はじめからセット・ポジションで投げることになりましたが、ボクはあれの方がコントロールはあるんです」七回の二死満塁が「一番苦しかった」そうだが、これをきり抜けるともう負ける気がしなかったそうだ。「士郎、早く切りあげるんだよ」林田マネジャーに何度目かの催促をされて半沢はやっとボストンバッグを持ちあげたが、帰りぎわにいった言葉がまたたのもしかった。「これをきっかけにボツボツやりますよ」報道陣から解放されるのをまってベンチを出る前に半沢にコートを着せてやった谷田コーチは、ホッとした表情。「いまウチで一番速い球を投げるのであんな思いきったピンチに出したのだが、最初のうちはどうなることかと思っていた」
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河村保彦

2016-12-04 21:56:44 | 日記
1964年

「得意のかためどりがはじまったな」江藤に肩をたたかれ河村がニヤニヤしながらいった。「なんだか勝利の女神がついていてくれるみたいですよ」四月二十八日の広島戦で初白星をあげてから、そのあとの五試合で2勝したが、それをもりたてたのは、みんな意外?なヒーローばかりだった。プロ入り初ホーマーの岡野(四月二十八日の広島戦)にはじまって、三年ぶりにヒットを打った佐々木(二日の大洋戦)この日も逆転3ランを打った今津は、実に二年ぶりの一発だった。「きょうはほんとうにえらかった。今シーズンこんなに長く投げたことはないですからね」これまで一番長く投げたのは、四月二十五日の大洋戦の六イニングだった。四月二十三日の巨人戦に山中をリリーフしてからの河村は、もっぱら負け試合のリリーフ役として最近九試合に六度も登板している。「去年もそうだったが、ぼくは大体2、3点負けているゲームに途中から出て押えているところを、バックが反省する、というのが性に合っているんです」決め球は新しいシンカー。これを大洋打線は大振りした。「開幕の大洋戦でスライダーをやられた。そこで去年の落ちる球とは少しにぎり方をかえたシンカーを考えたんです。大洋は開幕のときの猛打の夢が忘れられないのか、あのときと同じ振り方できましたね」春男の異名をもつほど出足はよく、去年も開幕から7連勝ととばした。特徴はいったん調子にのると続けて勝つことだ。杉浦監督の最近の使い方はこの持ち味をフルに生かしたものといえる。「オレほど気分屋はいないからな」と笑う。左腰の神経痛に悩んでいた四月はじめのゆうつさはもうない。
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大石清

2016-12-04 20:42:50 | 日記
1964年

第一試合で西川が好投していたころベンチ裏の通路に出てきてブツブツいった。「こりゃあワシの出るまくがなくなるぞ」報道陣にかこまれたときも自分から口を切った。「西川があれだけやったあとでしょう。五年も六年もプロのメシを食っているワシがポカポカ打たれちゃみっともないからね」三十五年には巨人に8勝3敗、三十七年には6勝3敗と巨人キラーの名をひとりじめにしていた。それが昨年は0勝5敗で防御率5・40というさんざんな成績だった。ことしはこれで3勝1敗。「巨人を料理するコツをよく知っている。きょうだっておそらくシュートは一球も投げていないはずだ。投げる必要がないほど球の切れがすごかった。高めのストレートはホップするから巨人の打者はファウルしてカウントを追い込まれる。そのあとスライダーで低めをつく。完ぺきなピッチングだった」というのが長谷川コーチ。「受けていてもまるっきり打たれる感じがしなかった。あまり速いので、ど真ん中へビシッとほうり込ませてもだいじょうぶだった」とこれを裏づけるのが田中だ。ロッカーに引きあげると大石は三つの袋をポケットにねじ込んでニヤニヤした。勝利投手賞のほかホームラン賞、猛打賞(3打数3安打)の賞金だった。「長島さんがいないと張り合いがない。若いというとおかしいけど、塩原あたりが出てきたって、パッとしないね。大洋に比べると、巨人は点がとれなさすぎる。ウチと大洋がやるときは、両方で点のとりっこになるけど、巨人とやるときは、片一方だけだものね」気の毒そうな顔でつけ加えた。「優勝はもうダメだね。もっともぼくはだいぶ前からダメだとは思っていたけど・・・」夏バテ防止にニンニク料理をこってり食べている。広島には武子夫人と、昨年十月に生まれたばかりの倫也(りんや)ちゃんが待っている。「おみやげだって?給料安いから、買って帰れないよ」最後はまるで敗戦投手のような顔でポツリといった。
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李源国

2016-12-04 18:44:57 | 日記
1966年

東京入りの韓国ソウル中央高の李源国投手(18)=1㍍85、82㌔、右投右打、三年中退=は、二十四日午後四時十三分羽田着の日航機で来日、同四時半から空港特別控え室で正式に入団発表された。同投手は速球を武器とする本格派で、韓国高校球界№1.実業団でもちょっと歯がたたないといわれている。背番号29、日本での呼び方は源国(げん・こく)投手に統一された。二十五日午前十時半から東京球場でファームの選手といっしょに初練習する。なお李投手は外人扱いとなるため、東京の外人選手はパリスを入れて二人のワクいっぱいになった。

日航機が滑走路にはいってくると、同投手をスカウトした永田オーナーは待ちきれずに税関の中まではいって出迎えた。白の半ソデ開きんシャツに国民服の青のズボン、学生帽、白のズックぐつと、いかにも高校生らしい言葉なスタイル。日本語が全然話さないため、胸には、すぐわかるようにと、チーム・プレートをつけていた。「上流家庭のすえっ子らしい」という永田オーナーの言葉がピッタリ。「生まれて初めてオレがスカウトした選手だ。しっかりがんばってくれよ」と同オーナーから肩をたたかれたときには「わかりました」と童顔をほころばせていた。空港特別待合室で記者会見のあと、午後六時、東京スタジアムで田丸監督以下コーチ、ナインにあいさつ、対阪急戦を途中まで見学してから、東京・杉並区高円寺南のオリオンズ合宿に落ち着いた。首脳陣は「なで肩のところがいかにも投手らしい。楽しみだ」と初対面の印象を語っていた。

ー日本のプロ野球はどのくらい知っているか?「スポーツ雑誌などでよく読んでいる。好きな選手は金田、張本、長島。中学三年のころからあこがれていた。昨年白選手(東映)が帰国したときにも、いろいろと教えてもらった」
ー韓国の野球熱はどうか?
「日本よりはじみだが、野球をやっている高校生などはみんな日本のプロ野球にきたがっている。だからぼくなどたいへんうらやましがられた」
ー日本にくることについて、家族はみんな賛成してくれたか?
「喜んで出してくれた。永田会長の話がなくても、もと南海の金彦さんや、韓国にいる巨人関係の人が日本へ紹介してやるといっていたので、なんとかきたかった」
ー武器とする球は?
「速球は向こうでかなり評判が高かった。変化球はシュートとドロップくらいだ」
ーすぐに全力投球できるか?
「渡航手続きなどで忙しく、ここ一ケ月くらいピッチングはやっていなかった。ランニングだけは欠かさなかったので、あと一ケ月もすれば完調になると思う。とにかく日本でみっちり勉強したい」
ー目標は?
「少しでも早くマウンドに上がりたい。夢中でやるだけです。張本さんとはチームが違うから勝負することになるが、それがいまから楽しみです」

永田オーナー「李の東京入りは日韓親善の役割りをはたすことにもなるのだから、大いにがんばってもらいたい。とにかく球が速い。それにおしりに肉がでっぷりついているのもたのもしい。スポーツ選手はおしりが大きくなければいかんよ、キミ」

小山コーチ「まだピッチングをみたわけではないので、なんともいえんが、なで肩をしたからだつきが気にいった。足が速い(百㍍11秒4)らしいが、それもひとつの魅力だ」

李源国(リ・ゲンコク) 1948年5月10日ソウル市生まれ、中央中から一昨年中央高へ。その年のソウル市秋季高校野球大会で対培文商戦でノーヒット・ノーラン試合をマーク、全国高校野球選抜チームの代表投手に選ばれた。高校二年の昨年は全国地区別招請高校野球選手権大会で優勝、韓国野球六十年史で初の三振奪取新記録(四試合合計58)を樹立。決勝戦では17三振を奪った。ことしは全国学従体育大会で優勝した。三人兄姉の末っ子で、父親は三和通商会長。
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石戸四六

2016-12-04 16:43:35 | 日記
1966年

「そうだな。今シーズン最高、というよりプロ入り最高のピッチングだった。自分でもそう思うね」すなおに喜んだ。「まっすぐが速かったし、スライダーもシュートもよく切れた。直球とスライダーでカウントをかせいで、シュートで勝負したんだ。コントロールもよかったし、自分でもびっくりしたぐらいだ」巨人にはこれでやっとプロ入り3勝目。完封勝ちはもちろん初めてだ。試合前、ロッカーからベンチへ通じる通路を、肩をいかせて歩いてきた。「先発?オレじゃないよ」もう先発投手は発表されているのにそういった。ベビー、オレの負けだ・・・それから半年ほど前はやっとポピュラー・ソングを大声で歌った。「もうわかってるの、エヘヘ。オレが負け?冗談じゃないよ。相手はカネさんだろう。それにきょう勝てば、巨人はことし初めて3連敗だというじゃない。絶好調だし、はじめからビュンビュンとばしてやるよ」たいへんな鼻息だった。マウンドでも打者を威圧するように肩をいからせすごんでみせたり、一見、気が強そうにみえる。だが実際は「ウチの投手で一番気が弱い」(飯田監督)石戸なのだ。大声で歌を歌ったのも、緊張をほぐす手段だったようだ。いままでの巨人戦では、その気の弱さからくる逃げのピッチングで苦しんでいた。だが、この夜は「逃げて打たれるのなら、思い切って勝負して打たれても同じこと」という中原コーチの助言通り強気の投球が成功した。「ONに打たせたのは全部シュートだ。長島さんには内角のボールになる落ちるシュートを打たせうまくいった。でも王は苦手だな」今シーズン十本の被本塁打のうち四本(六打席)を王に打たれている。「王はシュートが落ち切ったところをねらってくるんだ。まあホームランはされなかったからいいようなものの、やっぱりこわいね」とすなおに脱帽。一人で三安打、これで十打数七安打と石戸をカモにしている王も「スピードといいコントロールといい、最高だった」と石戸をほめた。「ヒット?王の三本だけだろう」二回の先制打のことを聞かれたのに、見当違いの答えをした。あまりのみごとなピッチングに、先制打のことは忘れてしまっていたようだ。「ああ、あれは内角低めの直球。見送ればボールだったかな」ようやく緊張からときはなされてか、こういって笑った。「前半とばしすぎたんで八、九回は苦しかった。八回を三人で片づければ、九回にはいやな王までまわらないと計算したんだけど、汗で手がすべってね。九回もヒヤヒヤだったよ」フロへ向かう石戸は、また歌を歌った。バラが咲いた、バラが咲いた・・・試合前とはうってかわって声ははずんでいた。
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若生智男

2016-12-04 14:52:31 | 日記
1966年

ナインの荒っぽい握手、カメラのハデなフラッシュに囲まれながら若生は何度もつぶやくようにくり返した。「オレ自身が驚きなんだ。ことし二度目の先発でまさか完封なんて・・・」だがナインはだれも驚かなかった。それどころかオールスター後のエースという声まで出ていた。十四試合に登板して防御率1・80というのが後半戦での若生のピッチングだ。その間に一度でも先発のチャンスがあったらとっくに完封をマークしていたかもしれない。「このゲームに先発だ、といわれたときはちょっぴり胸がふくれた。先発の味を忘れかけた投手にとってどんなに喜びが大きいか。だれだって必死になる。そうじゃなくても阪神へ移って三年目。ことしほどマウンドの上でからだに力がはいる年もない」古葉に三塁打を打たれて弱気になりかけたのは始まったばかりの一回表。「あそこまで点をとられたら勝利投手どころか、途中でダウンしていたかもしれない。いままでがそうだった。思いがけないピンチになると相手の打者よりまず自分に負けていたんや。ところが無死三塁をぐっと踏んばれた。あれがなんというても大きい」今シーズンはこれまでの速球、カーブに「三年かかって、やっとものになりかけた」というフォークボールがふえた。「元来、スピードでは指折りの投手だ。フォームも大きい。しかし投球が単調だった。それがフォークボールという新しい武器ですっかり変わった。もちまえの速いストレートがますます生きてきた。そう簡単に打てない。きょうのピッチングなら完封してあたりまえだ。なにも不思議じゃない。投げさせればいくらでも投げる」と白石氏はいう。
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安部和春

2016-12-04 13:57:06 | 日記
1964年

「先発は八度目。完投したのは二度目」自分から笑っていったのに、あとは「勝ったのは何日ぶりだろう」という言葉をいやにくりかえした。うれしさの逆説的表現かもしれない。昨年後半スイ星のように登場、いつも走者を背にスイスイと打者をかたずけたあざやかなピッチングの記憶がなまなましいだけに勝ち星のない安部がだれの目にも不思議にうつったし、本人もはがゆかったようだ。「ブルペンで投げていたら妙にからだが重い。球が走らない。こりゃ、慎重にいかなければと、出だしは一球一球緊張して投げた」という。慎重な構えが成功した。失策も入れて走者を出したのは八度。だがビクともしなかった。河村英文氏は「真ん中にこないという以上に球の切れがすばらしかった」という。「いい例が、当っているブルームに対したとき。八回大きな中飛を打たれた。スライダーだったが、いつもならライナーで中堅右へとんだだろう。が、きょうはくい込む球の切れが鋭く、バットが完全に負けていた。近鉄にたまにいい当たりが出てもtまっていたのはそのせいだ」これでやっと4勝目。だが安部はいつも「遠い回り道だったが、有益な回り道ともいえる」といっている。昨年のあざやかなリリーフぶりを買われ、こんどは完全な先発完投投手にと、周囲も本人もリキんだ。スピードをませば、トレード・マークの落ちる球がいっそう効果的になるとだれもが思った。だが逆に打たれた。「ぼくはスピードがなくてもいい。コースをかえ、球種をかえ、打者をフワフワッとぼくのペースに巻き込む。それがぼくの生きる道だということがやっとわkったんだ。長い回り道をしたからわかったといえる」負けがこんだとき、しんみりそうつぶやいていたものだ。「アベ・ボールだとか、なんとか騒いでもらうガラじゃない」という安部。二度目のスタートである。
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大羽進

2016-12-04 13:12:20 | 日記
1964年

大羽は広島でただひとりの江戸っ子選手だ。気が短い。ピッチングにそれがときどき出る。この日は違った。「球速をかえたのがよかったようだ。それも打者によってね。きのうは球が走りすぎた。調子がいいとインターバルが早くなるし、好球をそろえすぎる。きょうは球速をかえ、前半はシュート、後半はカーブとフォークボールを多く投げた」六回二死から七回にかけて連続4三振。8三振を奪ったのはほとんどがフォークボールをきめ球にしたそうだ。大羽は昨年一月盲腸炎をわずらった。手術後は傷あとを気にしてフォームをくずした。「去年は苦しかった。盲腸炎をやったあと、初めてフロへはいったとき傷口からお湯がはいるような気がして・・・」この日の完投勝利で大羽は3勝をマークしたが、この白星は全部対巨人戦で奪ったもの。「別に自信なんてない。偶然ですよ。二回山崎正にスライダーをホームランされてから気分的に余裕ができた。完投?三年ぐらい前にやったことがあるが、はっきり覚えていない」新しい巨人キラーはひかえ目な応対だった。1㍍72、65㌔、左投左打、二十三歳。

長島選手「大羽はシュートと落ちる球をうまくまぜてタイミングを狂わせていた。その代わりスピードは全然なく、それがかえってコンビネーションの組み合わせにプラスしていた。森川は自信をもって投げてきた。スピードはさしてないし、カーブもドロンとしていたのに、こわさ知らずというのだろう。堂々だるものだった」
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高島昭夫

2016-12-04 12:51:12 | 日記
1964年

神奈川大野球部・高島昭夫三塁手(20)=1㍍81、80㌔、右投右打、法科三年、岐阜東高出=の東映入りが十五日決まった。同選手はすでに中退届けを提出しており近日中に東映から発表される。また東映は、ノンプロ日立製作所の作道烝(さくどう・すすむ)捕手(20)=新田学園出身、右投右打=の獲得に成功した。同選手は二十五日から後楽園球場で行われる都市対抗野球大会に日鉱日立の補強選手として出場するので、同大会終了後契約する。高島選手は父親孝市氏と同日岐阜から上京・東映・石原代表と話し合って、条件について細かい点まで折り合いがついた。高島は神奈川大の四番を打ち、バッティングに馬力があるうえ、肩、足もよく、プロ向きの選手として、東映では昨年から交渉していた。ことし春のリーグ戦(横浜五大学)の活躍をみて近鉄、西鉄、巨人なども乗り出したが、終始熱心に話を進めた東映が獲得した。作道捕手はこんどの都市対抗茨城県北関東予選で4ホーマーをマーク、力のある打者として注目され、近鉄、東京、西鉄からも誘われていた。

高島選手「東映は前から好きでとくに水原監督の下でプレーしたいと思っていた。一生懸命練習して早く第一線に出られるようになりたい」

東映・石原代表「高島君が入団してくれると聞いてホッとしている。体格もいいし、足も速いらしい。半年ぐらいきたえれば十分第一線で働けると思う」

東映・荒井スカウト「作道は肩がいいし、馬力もあるから、相当伸びると思う。長打力を持っているのが大きな魅力だ。なんとか入団させたい」
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合田栄蔵

2016-12-04 12:38:07 | 日記
1966年

毛糸であんだお守りを首にぶらさげている。岩清水八幡と住吉神社でもらったがお礼が二つ。信仰心もなければジンクスもかつがない男が、この夜は違った。「いまは調子がいいんだ。雨にでも降られたらこんどいつ出番が回ってくるかわからない。なんとしても今夜投げなければー」自信もあったのだろうが、泣きだしそうな雨雲をにらみながらお守り袋に手をやり、訴えるような口ぶりだった。三ゲーム半につまった西鉄との差。「マウンドにあがったらゲーム差など忘れてしまった。とにかく勝たなければと思った」という気持ちがプロ入り初完封に結びついた。「ぼくのピッチングと西鉄がもり返してきたということとはなにも関係がない。ただ大事な時期に投げさせてもらったことがうれしい。ベンチの期待を裏切らないように一生懸命投げる。それだけですよ」芽の出なかった五年間の下積みで合田はマウンドに立つ感激を一層大切にしているのかもしれない。男ばかりの四人兄弟の末っ子。二番目の兄、光利さん(32)が市立尼崎高で投手をしていた血筋もあるが「素質より努力がここまで引き上げた」と見る人が多い。近鉄の土井、高木は「あまりいいできではなかった」といいながら、同じような合田評をした。「外角に決まるスライダー、これで泳がされ、つぎにぼんやりしたカーブにやられた。外角を中心に得意のカーブを有効に使っていたようだ」これで通算近鉄には6勝1敗。合田は「近鉄さんとは顔を合わす回数が多かったから・・・」と逃げる。野口コーチは「剛速球でバッタバッタと三振をとるだけがピッチャーやない。相手打者によって組み立てた配球のリズムを持っている。長つづきする投手に成長したといえるな」という。あと東京に勝てば全球団から勝ち星をかせぐことになる。残り二十二試合がすべて優勝に結びつくチーム事情の中で合田の右腕は「たよりになる」と見るのは戸倉勝城氏。そんな称賛の声を受けて合田はとまどっている。始めてナインのバスを待たせ拍手で迎えられ、プロ入り六年生もペコペコ頭をさげどおしだった。
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渋谷誠司

2016-12-04 12:07:22 | 日記
1966年

気はやさしくて力持ち、大きなからだに似ずキモッ玉が小さい。渋谷はそんな男だ。だから好調のときはびっくりするような速球を投げながらも、四球で自滅する。この夜も最終回にあやうくそうなるところだった。「もう胸がドキドキしちゃってね。走者を出したらいかん、いかんと思って、腕がちぢんじゃった。ストライクをとるのがやっとだったね」九回一死一、二塁でONを料理できたのは、もうやけっぱちの気持ちだった。「王のときは打たれてもともとと思い、ど真ん中に直球を投げた。中飛も真ん中の直球。つまっていたからはいるとは思わなかったね」終わってみればそういえるものの、マウンドにいたときの渋谷は血の気がひいていた。一球一球にスタンドがわく。産経ファンのはずの三塁側まで渋谷をやじる。まさに四面楚歌の渋谷。マウンドからなんども泣きだしそうな顔でベンチを見た。長島を迎えたとき飯田監督、中原コーチは岡本捕手を呼んだ。村田はブルペンで仕上がっている。渋谷は「代えられるとは思わなかった」というが、飯田監督は「長島を出したらかえよう」と岡本に耳打ちしている。「シブは気が弱いから、あまりしっかりしっかりというと、かえって堅くなると思ってね」という飯田監督のこまかい心づかいだった。緊張からとき放されて、流れ出る汗、赤みをおびてくる顔に、自然とひとなつっこい笑いがこみあげてくる。「きょうは自分でもおどろくほどコントロールがよかった。前半はスピードもあったし、カーブが思うところへきまった。王の2三振?タイミングをはずそうとは考えたけど、むしろ王の方のタイミングが狂っていたようだ」試合前には、飯田監督におこられた。練習で一塁手をやっていた渋谷は、佐藤の送球を右側ヒタイに受けた。三日前から先発をいい渡されていた渋谷は、何度もグローブをたたきつけてくやしがった。これでせっかくの先発がフイになったら、と思ったのだろう。ロッカーで新井トレーナーにだいじょうぶといわれてホッとした飯田監督は「いつも投手は内野を守ってはいけないといってあるのに、不注意だ」とおこったわけだ。先発OKとわかり渋谷は氷のうでオデコを冷やしながらにが笑い。「エッ?頭にボールがぶつかってコントロールがよくなった?ひどいことをいう」ひやかす飯田監督も渋谷も、もう試合前のことを笑い話にするほどしあわせいっぱいな顔だった。

渋谷のピッチングは、完ぺきだった。なによりよかった球はストレート。押えがきいてのびがあり、コントロールも絶妙。このストレートを中心にグイグイ押した。しかも最後まで球威は落ちなかった。打者を追い込んでからの勝負球に、こののびのある速球を多く使ったのは、成功の原因だ。王を二度三振に打ちとったのも、いずれもカーブで第一ストライクをとり、あとはこの速球で決めた。さすがに渋谷も九回には疲れを見せ、一死後柴田の安打、土井の四球で、つぎは王、長島と一打逆転のピンチに立ったが、王にはストレート、長島にはシュートで勝負、みごと完封勝ちをなしとげた。この回のトップ柳田に対し0-3から三振にとることができたのはみごと。球の押えがきく日はコントロールがいいもので、四球はわずかに二個。この絶妙のコントロールが好投のもうひとつの原因でもあった。 別当薫
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安部和春

2016-12-04 11:39:11 | 日記
1966年

若生、久野と力のある投手がめきめき売り出してきたうえに、この日の安部の完封勝利。「何年ぶりじゃい。どえらいことをやりおって。この分なら来年はみなさんが心配してくださる第三の投手にこと欠かんで」藤本総監督のうれしそうな声の横で安部の言葉もはずんでいた。西鉄時代の三十九年八月三日、東京相手に完封して以来だから、その間まる二年のブランクがあったというのに「まあ試合に出してくれさえすればやることはやりますよ」クスクス笑いが起こる報道陣の輪の中で安部はゆうゆうと胸を張った。七月、北海道遠征から帰ってきた直後、杉下監督にファーム行きを命じられたうっぷん晴らしもその言葉の中に含まれていただろう。そんな強気な性格。この日のピッチングにもそれが現れていた。「西鉄時代は左右のゆさぶりばかりだったが、きょうはほとんおスピード一本やり。だからスライダーをスッと外角へ落とせばそれでOKやった」この日まで安部の対広島戦の防御率は11・25というおそろしい成績。六月の広島七回戦では山本一に死球をぶっつけたことから、おこった広島ナインに一人で立ち向かっていき、大さわぎになって竹元外審暴行事件を引き起こした立て役者。カーッと燃えたそのあと広島球場独特の広島びいきのムードに巻き込まれて乱打されたことがあった。渡辺コーチから「人一倍気の強い性格なのだから、それをプラスの方に持っていかなきゃ」というアドバイスにも「自分でどういうふうにやればプラスになるのかわからなかった」という。そんな安部の迷いを藤本総監督が笑って吹きとばした。「ウロウロと考えるな。あせらんでのんびりやればええやないか」「リキまずいくことやね。もういまのピッチングの感じを忘れることはない。これからバリバリかせがしてもらうよ」という安部。白石勝巳氏も「これぐらいの点差ならもっときばらなきゃいけないはずなんだが、自信をつかんだのか、ゆうゆうと投げていた。いままでは自滅のかっこうだったからね。あれだけの落差のある球を持っているんだから、自信さえつかめばこわい投手だ」という。来期の阪神の第三の投手争いに藤本総監督はきっと目を細めることだろう。
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バンサイド

2016-12-04 10:53:36 | 日記
1964年

バンサイドは円山球場へ着いたときびっくりしたそうだ。タイガースのファームにいたとき、よく投げたウエストバージニア州のチャールストン球場そっくりだったからだ。バッキーをつかまえてさかんにそのころの話をした。「チャールストンはぼくにとっていい思い出ばかり残っている。よく勝てたし、不思議にいいピッチングができる球場だった」自分の国をはなれていると、ちょっとでも似たものにぶつかるとなつかしさをおぼえるものらしい。円山球場がすっかり気にいったバンサイドは、五回までノーヒットのピッチングをやった。大きなカーブに巨人は魔術にかかったよう。ゲームが終わると、おぼえたての日本語がとび出した。「ドウモ、ドウモ」ナインのひとりひとりに頭をさげた。だが、うれしいのかどうかさっぱりわからない表情。ちょっと笑ったのは3ランを打った並木とカメラにおさまったときだけだ。このときは並木をベーブ・ルースとおだて、腕を握って差しあげるポーズまでとった。しかしそれでおしまい。「速球とカーブ、スライダーがうまく決まった。巨人はいいチームだ。勝てたのは、ここがチャールストンに似ていることで、気が楽になったこと、ぼくがラッキーだったからだろう。王と長島?いい打者だ。ナンバー・ワンの選手だ。とくに長島はイチバンです」がっちり押さえ込んだはずのON砲をほめる。杉下コーチはこんなバンサイドをこういった。「勝ったときはいつも静かだ。そのかわり打たれたときはすごいよ。たいへんなくやしがり屋だ。大リーガーとしての誇りをもっている男だね。この間なんか、中日のマーシャルがセーフティ・バントをしたら、大声をあげておこった。クリーン・アップトリオを打っていながらバントなんて、恥をしれってね」
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森川卓郎

2016-12-04 10:23:58 | 日記
1964年

九回巨人の攻撃中、ダッグアウトのうしろで小きざみにからだをふるわせて落ちつかない。プロ入り初勝利がきまると奇声をあげてリリーフした竜にとびついていった。「ていねいにコーナーをねらったのがよかった。カーブとストレートをおもにどきどき落ちる球をほうりました。巨人は外角球を引っかけていた」先発は試合開始十五分前にいい渡されたそうだ。「長島さんには一度だけど真ん中にほうったけど見送ってくれましたよ。池沢さんにはヤジり倒されましたがね」とニヤリと口もとをゆるめた。池沢とは神奈川大の合宿で一年間同室だった。「ともかく心臓の強い男だったが、こんなによくなるとは・・・」と池沢は笑い顔。白石監督も「投手陣が底をついているとき急遽しのぎで出したのが森川だった」という。「いよいよ巨人キラーだね」といわれて「巨人キラーっていい言葉ですね」酔ったようにいった。1㍍73、67㌔、左投左打、二十二歳。

王選手「大羽はスピードはないようにみえてけっこう速い球を投げてきた。コントロールもすごくよかった。クネクネしたピッチングにひっかかった感じだ。森川の球種はカーブ、シュート、直球だけ。しかし慎重に低めをついてきた。七回まで零点に押えられたんだから、調子はよかったんでしょう。スピードはあまりなかった」
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七森由康

2016-12-04 10:08:05 | 日記
1964年

七森由康(ななもり・よしやす)といっても、この名をおぼえているファンは少ない。大阪西商から巨人入りして三年。公式戦の経験はあとにも先にも対阪神戦(五月二十六日)での三イニング・リリーフがあるだけ。それも敗戦処理のような登板だ。その後ブルペンでのピッチングがよかったとはいえ、三連戦を左右する大事な第一戦の先発には広島ナインも、多くの巨人ファンもびっくりした。底をついた巨人投手陣の窮余の策ともとれた。だが川上監督は七森起用の手のうちをこういった。「高橋、宮田が故障で渡辺はファームで練習中。残る健在な持ちゴマ、藤田は前日、城之内は中一日、伊藤が中二日しか休んでいない。北川、中村のベテランをしめくくりに予定したら、だれを先発させたらいいかね。逆にこういうときこそ新人台頭のチャンスだと思います」速球と切れのいいカーブで「四回もてば上でき」(川上監督)の七森が、六回まで投げつづけたのはできすぎだったろうか。「先発を聞いたのは球場にきてから。大洋戦のときも予備知識はあった。広島打線をどう料理したらいいか余裕がないので自分のピッチングをするのに懸命だった。三回まではスピードがあった。疲れたわけではないが、四回ごろからアゴがあがってしまった。親指の関節がはずれ、それからカーブのとき球が親指にかからずスローカーブになった。それにユニホームのズボンがピッタリ足についたので投げにくかったですよ」この間ドキドキ、ビクビクしていたという七森だが、マウンドでのしぐさは堂に入ったもの。一回一死一、三塁で興津を遊ゴロ併殺にとる前にボールをもてあそんで胸を張った。死球を出してはまずいと思っても、ストライクをとりにいくそぶりすら見せなかった。「直球もカーブもコントロールがよくない。かまえたミットをねらってもうまくいかない。しかしお客さんが多いから張り合いがあった。その前で逃げ腰になったら、もう投げる前から負けですよ。たとえはったりでもいいと思った」キャンプで買った七万五千円の古刀を毎晩ねる前に抜いてながめたり、切手を集めたり。二十歳とは思えないような趣味の持ち主。今シーズン、イースタン・リーグでの成績は4試合に登板して一勝。二十六イニング、十五安打、11四球、22三振、自責点4、防御率は1・38。左投左打、1㍍79、75㌔。 森捕手「七森は五回ごろから相当へばっていた。ストライクとボールがはっきりしていた」
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